2013年読切
悪いのは誰?
呼び止められたとき、告白だとは露ほども考えつかなかったので、場所を移そうと言われても、ここではダメなんですか? と言ってしまった。南館三階と四階を繋ぐ踊り場でのことだった。
「ダメってわけじゃないんだけど」
ぼそぼそと呟く様子が私の知る印象とは違う。
彼は一つ上の学年で、去年の秋に引退するまでバスケ部の副キャプテンを務めていた。友だちの付き添いで何度か試合を見に行ったが、優しそうな風貌に似合わずオフェンスに定評があり、彼の放つスリーポイントシュートは美しい弧を描き心地よくゴールネットに吸い込まれていった。
あれほどバシバシとゴールを決める彼が今はまごつき、切り出しにくそうにうつむき加減になり深く呼吸した。空気が瞬く間に緊張を帯び、そのときになって、まさか、と思った。
「君が好きです。僕とつき合ってほしい」
彼はうつむくのをやめて、私を見つめていた。覚悟をさせてしまったのは私だが、私の方には何の覚悟もできていなくて、嘘でしょ、と言いそうになった。真剣な告白を相手にしてもらえない辛さはよく知っている。喉元へ手をおいてこらえた。
「返事はすぐにじゃなくていいから」彼はぎこちないながらも笑顔を浮かべた。「でも、できれば早くもらえると嬉しい、かな。それもいい返事」
続いた言葉に私も笑う。
彼はそれ以上は何も言わず階段を駆け下りていった。
告白されたのだとじわじわと押し寄せてくる波が心を浸していく。それは冬の凍てついた大地の中で、やがて来るはずの春を予感させる木の芽のような明るさをもたらしてくれた。私も捨てたものではない。好いてくれる人がいるということに私は飢え過ぎていた。
四階へ続く階段を見上げると小窓から夕日が射し込み、埃を照らし粉雪のようにたゆたっている。一段上ろうと踏み出すと声が聞こえた。
「なんだ。本当に浮気するつもりか」
振り返ると白衣を着た背の高い男性が立っている。この学校の化学教師、四乃森蒼紫だ。
階段を上りきると化学準備室がある。数学・化学・物理・生物の教師用職員室は北館の二階で、売店も近いので他の先生はそちらにいる。従って化学準備室は四乃森先生の城だった。
四乃森先生は二十六歳と若く、容姿もいいので、お近づきになりたいと春先は女子生徒がこぞっておしかけるが、愛想がない上に、意味もなく来るなと冷たく言い放つうちに、次第と誰も近寄らなくなる、というのが彼が赴任してきてからのこの学校の恒例だ。
「浮気っていうのはつき合っている相手に言う言葉でしょ。先生が言ったんじゃないですか」
四乃森先生と私は教師と生徒になるずっと前からの知り合いだった。幼なじみと言いたいが、十歳離れているから厳密には私の子守りをしてくれていたというのが正確だろう。両親が共働きで不在がちの私の傍にはいつも彼がいてくれた。
この学校を受験したのも彼がいるからだ。私の頭ではかなり厳しかったが死にもの狂いで勉強し、どうにか合格できたときはみんなして「奇跡だ」と騒ぎ立てた。
彼と同じ校舎で過ごせる。教師と生徒ではあったが、同じ場所で学生生活を送れる。本当に、本当に、嬉しかった。一緒に登下校したり、教室でふざけ合ったり、周囲にもしかして二人は付き合っているのではないかと噂されたり、同年代であれば出来るであろうことを十歳という年齢差に阻まれ、それが憎らしいと泣いたこともあったけれど、全て水に流そうと思ったくらい。
「少し違うな」
彼は私の隣まで歩いてきて言った。
「違わないでしょ」
つい二週間前、私は彼に告げた。浮気してやると。好きだと言い続けてきたが全く相手にしてもらえないことにいい加減寂しさが限界に達していた。彼は僅かに考え込んだので何か期待できるかもと密やかに思った。
「浮気というのは移り気という意味と、配偶者以外の異性と性的な関係をもつという意味だったと記憶しているが、文脈から見て後者の意味合いだろう。しかし、そもそも俺とお前は配偶者ではないから、この言葉は適切ではない」
淡々と告げられて、怒りも悲しみも通り越してあんぐりと口が開いた。
「化学の先生のくせに国語の先生みたいなこと言わないでよ」
彼は笑って
「今日は忙しいんだ。中間試験の設問の期限が来ている。しばらくは出入り禁止だ」
テストの一週間前は職員室への生徒の出入りは禁止になる。不正が起きないようにとの配慮であり、それを彼は家でも行う。彼と私の家が隣同士であることを学校には伏せてあるが(わざわざ言うことではないらしい)、公になった場合あらぬ嫌疑がかけられぬように抜かりなく排除される。それは仕方ないにしても、私の怒りや寂しさをさっくりと無視されて追い出された。
翌日から、私は素直に言いつけを守り彼の傍に近づかなくなった。
それはテストが終わっても続いた。いつもなら解禁になるのを待っていましたと、いそいそ彼の家を訪れるのに、追い出された日から一度も訪れていない。学校でも同様だ。それは気持ちの面では難しかったが行動としてはさほど難しいことではない。
隣に住んでいるとはいえ家を出る時間も戻る時間も違うし、授業を受け持ってもらってもいなし(彼は三年生の担当)、故意にどうにかしようと頑張らずとも普通の生活をしていれば私の日常から彼の存在は消えてしまう。あっけないほど簡単なことだった。
「それで、これは何の真似だ。近頃大人しくしていると思っていたら、俺に嫉妬でもしてほしくてわざわざこの場所で告白されたのか」
見上げると彼の背から夕日が降り注ぎ表情を翳らせていた。元々冷たい印象を与える人だが、より冷たく見える。
私はスカートを摘まんだ。プリーチの間に人差し指を差し入れ親指とで挟みこみ握りしめる。
「そんな真似しない。どうしてそんな酷いこと言うの?」
たった十四日、顔を見ずにいただけで寂しくて辛くて会いたくてたまらなくなった。諦めた方がいいし、そのつもりで我慢していたというのに、心に堅く誓った決意など埃のように吹き飛んだ。私は思考を停止した。考えることをやめれば身体は恥も外聞もなく化学準備室へ向かう。会いたい、その一心で急いでいたところへ呼びとめられた予期せぬ告白だったのに、それを彼はつまらない策略と言った。
「だいたい、そんなことしたって先生が妬くわけないじゃん。わかってるよ、それぐらい」
自分で言っておきながら、惨めな気持ちになった。いざ言葉にすると現実が迫ってきてぺしゃんこにされそうで、スカートを握りしめる手に力がこもる。布越しとはいえ爪が食い込んで痛みが走った。
彼はやれやれと肩を揺らして息を吐き、そのまま階段を上って行く。白衣の裾がひらひらするのが少しぼやけて見えた。
彼の存在の名残も完全に消えてしまうと踊り場の空気が冷え冷えとした。
私は四階へ続く階段を駆け上がる。彼の後を追いかけてどうするつもりか考えはなかった。それでも、このまま引き下がるわけにはいかない。何か、言ってやりたい。彼が傷つくことを。少しでも傷つけることが出来たら、そしたら私は彼にとって石ころよりは価値があると思えるだろう。――これほどまで相手にされていないのに、まだ彼の内へ自分の存在を求めようとしていることに気付き、ひどく呼吸が苦しくなった。
辿りついた化学準備室の扉は開いていた。覗くと彼は窓の傍に立ち背を向けていたが、私の気配に気付いてか振り返った。
無言のままで睨みつけていると、
「入るなら入れ、そんなところで泣かれても困る」
私は一歩、扉をくぐった。部屋に入るとつんとした薬品の匂いがして右手で鼻をつまんだら、堪えていた涙がポロリと頬を伝った。俯くと自分の上履きと、床の木目が見える。ワックスをかけたばかりで艶が出ている。ひょっとして薬品ではなくワックスの匂いだったのかもしれないと思った。
気付けば彼が傍まで来て開けっぱなしの扉を閉める。横引きの扉は建てつけがよくなくガラガラガラと大きな音を鳴らしながらスライドする。閉め終えても彼は私の傍に立って動かなかった。彼の靴が見える。顔を上げることが出来ず彼の靴と自分の上履きを交互に見つめた。私の履くのは学校指定の真っ白い上履きだ。私は自分が履く靴を自由に選ぶことも出来ない。ここは学校で、学生は学校の規則に縛られる。対して彼は真っ黒な革靴を履いている。
「一体、お前は俺にどうしてほしいんだ」
勇気を振り絞り彼を見上げた。彼は真っ直ぐ私を見降ろしていた。その眼差しは不愉快気に思えた。
「どうって……無視されたくないだけだよ」
「俺がいつお前を無視した」
「してるじゃん。私がいくら好きだって言っても”子どもだ"って相手にしてくれない」
「だからお前は子どもだというのだ」
彼はまた大きなため息を吐いた。
「またそうやってバカにする!」
「バカにされるような言動をするからだろう」
物静かな彼にしては苛立って声を荒げたので私は黙った。
化学準備室の窓は東を向いているせいで薄暗く、寒さが増す気がしてうつろになった。そこへキーンコーンカーンコーンとチャイムが鳴り響いた。それは私たちの間にあった淀んだ重たい空気を揺さぶった。
チャイムが終わりひとたび静けさを取り戻すと口火を切ったのは彼だった。
「俺が、これまでお前の我儘を聞かなかったことがあるか」
我儘という言われ方がカチンときたが言葉狩りをしている場合ではない。私の我儘――それが指し示すものは大方想像がついた。新しいテーマパークや、見たい映画や、夏は海へ、秋は紅葉を見に、私は彼を誘った。人混みが好きではないからとしぶりはしても三度頼めば一緒にいってくれる。理由はわからないが三という数字が彼の基準であるらしかった。
「それは……ない、けど」
「ならば、俺が他の女と会ったりしていたか」
「……私が知っている限りでは、ないと思う」
「それを考慮した上でよく考えろ。俺とお前とどっちが悪い?」
考えるまでもなく、私が悪い、と彼が思っていることはわかった。
それでも私は少しも納得はいかなかった。
「でも、肝心なところになるといっつも逃げるし。それで私が悪いなんておかしい」
彼は私の”告白”に対しては決まって「子ども」呼ばわりしてあしらうか、或いは別の話を持ち出してはぐらかしてしまう。安心するようなことを言ってもらった記憶は一度もない。それで信じられるものかと思う。
「俺とお前は教師と生徒で、おまけにお前は十六歳で、それで俺に何が言える。俺が社会的に抹殺されてもいいと? 職を失って路頭に迷えと? それがお前の望みか?」
「そ、そんなこと思ってないよ」
「なら、もう一度聞く。俺とお前とどっちが悪い」
真っ直ぐ降り注がれる眼差しに耐えきれなくて私の方が先に視線をそらしたら、大きな手が私のおでこをぐいっと後ろへ押した。それはかなり力強くて手が離れても感触が残るほどだった。
「わかったら、もう行け。やるべきことをするまではここへは来るな。いいな」
「やるべきことって?」
「お前が俺に常に言っていることだろう。"その気がないならハッキリ振ってよ。そしたら諦める"って、自分はそう望むのに自分がそれをしていて気が咎めないのか。それとも二股でもかけるつもりか」
「……先生、ホントは妬いてたの?」
「妬かないなど一言も言った覚えはない」
早口に言うと、彼は私を化学準備室から追い出した。だけど、その耳が赤かったことを私は見逃さなかった。
2013/5/13
Copyright(c) asana All rights reserved.