2013年読切
恋とも知らず
昼休みに屋上へ上がると先客がいた。フェンスの近くでゴロリと横になり寝息を立てる男子生徒と、中央に陣取り弁当を広げている四人組の女生徒だ。俺と緋村は階段の近くの適当な場所に腰を下ろした。
座ると緋村はさっそく巾着袋を開いて弁当を取り出した。黄色の生地に橙の水玉模様が入ったそれは男子高校生が持つには可愛すぎるが、これは緋村の彼女が作ってきたものだ。愛情たっぷりの手作り弁当に朝からそわそわと落ち着かず授業にも身が入っていない様子だった。写メールに撮って待ち受けにしようとまで言っていたが、それだと色気より食い気に見えるぞ、と俺は笑った。
ところが、弁当の蓋を開けた途端動きが止まる。
俺もそれに視線を向けるが……全般的に黒い。
「一つ食べるか?」
持っていたパンを手に取って差し出してみる。
「……いや、大丈夫」
あれほど軽やかだった声がどんよりしていたものの食べる気はあるらしい。
俺はそれ以上何も言わず、サンドウィッチの袋を破り、ハムサンドを取り出し口に入れた。二度、三度と咀嚼するが味気がない。
女子グループの騒がしい声がしたのでつい視線を向ければ、そのうちの一人と露骨に目が合ったので気まずくて空を仰いだ。カラっとした青空は十月だというのに夏の名残が未だにあった。
「で、話ってなんだよ」
緋村を見ると、箸で器用に黒い物体(おそらくハンバーグ)をつまんで覚悟を決めたように口に頬張ると、ほとんど丸飲みした。見かけはいまいちだが味は美味い、といかなかったようだ。
「俺は、高荷のことが好きなんだろうか」
愛情弁当との格闘の隙間に挟み込むと、緋村はごふっとむせ返した。
「それほどまずいのならもうやめておいた方がいいのではないか」
と助言すると、
「頭いいけどバカって本当にいるんだな」
彼女の手作り弁当を捨てるわけにもいかないとの怒りかと理解はするも、心配して言っているのに随分な言い草だ。日頃温厚な人間の毒というのは割増しでキツく聞こえる。
「だが、無理をして食べて体を壊したら元も子もないだろう」
それでも愛情よりも健康だと俺は繰り返した。
「違う。薫の弁当のことじゃなくて、お前の話だ。お前の将来が心配になるよ」
言われて、手にしていたサンドウィッチを置き、紙パックの野菜ジュースにストローをさして飲んだ。冷たいものが喉を通っていくと、一呼吸できる。
「そこまで心配されるほどでもないと思うが」
だが、たしかに、このままではまずいとは思っている。
中間考査で四位になった。入学以来一位であったのが三つも順位を落としたことを俺よりも周囲の人間が驚き心配し、高荷恵と別れたことが原因ではないかと邪推された。
高荷恵とは中学からの腐れ縁で、一応俺の元カノというものだが、好き合って付き合っていたわけではない。
あれは、一学期も半ばに差し掛かった頃のこと。振った男に付きまとわれて困っているので、しばらくでいいから彼氏のふりをしてほしいと頼まれた。面倒なことを言ってくるものだと断ろうと思ったが、
「恋人ができたってわかったら、あなたにも告白してくる子がいなくなるし、お互いにメリットがあるじゃない」
と言われ心が揺らいだ。
これまで告白されることがままあった。学生のうちは学業に専念するべきだと断るが、袖にするというのは案外気を使う。傷つけたくはなくとも、付き合えないと言えば結果として傷つけてしまう。だが、恋人がいればそのようなこともなくなる。結局俺は引き受けた。
俺と高荷が付き合っていることはあっというまに噂になった。高荷はこの辺では評判の美人で、いわゆる有名税というものだろう。おかげで俺に告白してくる者もいなくなった。これで勉学に集中できる。このまま大学受験まで平穏に終わらせたいと願っていた。
ところが、夏休みが終わると高荷が急に別れてほしいと言いだした。他に好きな男が出来たらしい。元々芝居であるから了承した。また告白されるようになるかもしれないと思えば多少憂鬱ではあったが仕方ない。
高荷と別れたという噂がまた広まると、心配していた通りすぐに俺に告白してくる者がいた。失恋の傷につけいるというやつだろう。それには俺も失恋の傷が癒えるまで誰とも付き合う気はないと断り続けた。そういう経緯もあり俺の成績が下がったのは失恋のショックということになってしまったのだが。
しかし、である。周囲にそう言われ続けると、本当に俺は失恋のショックで勉強が身につかなくなったのかと思い始める。最初は好きではなかったが、芝居でも付き合っているうちに知らぬ間に好きになっていたなんてことがあるのかもしれない。俺はひょっとして本当に高荷に惚れてしまっていたのではないか。何せ、生まれてから人を好きになったことがなく、自分では判断しかねていた。
「俺の将来の心配をしてくれるというなら、質問に答えてくれ。俺は高荷を好きなのだろうか」
他にこんな話を出来る相手もいないので、もう一度真剣に尋ねた。
すると、緋村はわざとらしく大きなため息を吐いた。
「……お前は勉強のしすぎだな。わかった、気晴らしに今日の放課後空けておけ。勉強会をしよう」
「勉強のしすぎといいながら、勉強会とは矛盾していると思わないか」
「思わないよ。勉強会といっても、俺らは家庭教師役。薫がテストの結果がよくなかったから教えてほしいって言われてるんだ」
緋村の彼女は一つ下で、近くの女子高に通っている。
「俺は邪魔なのではないか」
「そういう気はまわるのに、自分の気持ちには鈍いのな」緋村は情けないような笑顔になって、「薫だけじゃないから。操ちゃんも来るし。一人で二人を見るより、一人ずつの方がいいだろう」
操ちゃん――緋村の彼女の友人だ。たしか、フルネームは巻町操と言ったはずだ。
「そういえば、近頃見かけないな」
一時期は朝の通学電車で乗り合わせ、緋村と緋村の彼女と巻町操と俺の四人で話をしていた。巻町操は明るく、表情がくるくると回り、よく話す活発な少女だが、まだ中学生の雰囲気が抜け切れておらず幼く感じた。物怖じせず初対面のときから屈託なく話しかけてくるので、無下にも出来ず相槌を打つと、四乃森さんってもっと冷たい人なのかと思ったけどそんなことないね、と笑った顔が印象的だった。
それが、同じ電車に乗り合わせなくなった。
緋村の彼女と喧嘩でもしたのかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
「ああ、一本後の電車に乗るようになったから。……まぁ、そんなわけだから、放課後空けておけよ」
緋村は言った。一体どんなわけなのか、さっぱりわからなかったが、要するに邪魔者の相手をしろということなのだろう。まったく、俺の悩みはどうなったのかと思ったが、友人として協力はしてやるかと思い直した。
*
緋村が隣でため息を吐いたのが耳へ届く。今日はため息ばかりをつかれている。だが、呆れかえっている姿に、俺は状況がよく飲み込めなかった。
ファミレスの四人掛けテーブルで、隣同士で座っている。前に人がいるならば不自然ではないが、空席なので、何故男同士隣り合って座っているのか、現状だけを見れば違和感があるなと、どうでもよいことが頭をよぎった。
つい先ほどまで、俺の前には巻町操と緋村の彼女がいた。昼休みに緋村から告げられた通り、勉強会に参加していた。
着くと、すでに巻町操らが席についていて、久々に見ると、俺の記憶より痩せているように思えた。そのせいで幼さがひそまり年相応に見えるが、顔を合わせていない間に何かあったのかと思うと胸が騒いだ。
巻町操は俺の顔を見ると、目をぱちくりさせて、それから隣の緋村の彼女を肘で突いた。明らかに動揺しているので、何故そのような態度なのかざわざわと落ち着かない気になった。
緋村が彼女の前に座るので、空いている巻町操の前の椅子をひき座る。
緋村から巻町を見るように言われて返事をするが、巻町のほうはきょろきょろと緋村と彼女の顔を交互に見つめていた。
「大丈夫だよ。四乃森は賢いし、頼りになるから。ただし、近頃ちょっと成績落としたけど」
こともあろうに緋村は俺の成績不振を口にする。そのようなこと言わなくてもいいのではないかとむっとしたが、巻町操が困ったようにではあるが笑顔をつくり頷いたので黙った。
巻町操が出したのは数学だ。高校一年の数学ならば問題なく教えられるだろう。
俺は巻町操が問題を解いていくのを見つめた。見つめながら、ここについてから、巻町操の様子がどうもぎこちないことを考えていた。よくしゃべり、明るく、活発なはずであるのに今日は一言も話しかけてはこない。
一体何故? と考えながら、そもそもどうして緋村はこの勉強会に俺を呼んだのか、着いた時の巻町操の反応、それらを思い返せば、俺の中で一連のことが綺麗に整合した。
巻町操は俺を好きなのではないか。と。――そう思うと、ざわざわしていた胸騒ぎが強まったが質を変えた。
考えてみれば、巻町操が朝の電車に乗ってこなくなったのは、高荷と付き合うことになってからすぐだった。俺に恋人が出来たことに傷ついて、顔を合わせなくなったのではないか。
この推論は是か非か。
是であるならば、巻町操は俺を好きであると。
巻町が、俺を。
そう思ったら、確かめずにはいられなかった。
だから、俺は聞いたのだ。
「君は、俺が好きなのか」
巻町操は問題を解く手を止めて、ゆるゆるとノートから顔を上げる。その瞳はぎこちなく揺れ動いていた。
「……なんで?」
小さくつぶやかれたが、しっかりと俺の耳に届く。
理由、根拠を尋ねられたので、俺の推論を言葉にした。朝、同じ電車に乗らなくなったのは、俺に恋人が出来たと知ったからではないか。そう考えれば辻褄があうと。
言い終えると巻町操は頬を朱に染めたので図星だと結論付けた。
「ちょっと! 四乃森さん! なんなんですか、どうしてそんなことを聞くの」
緋村の彼女がバンっとテーブルに両手をついて立ち上がると、咎めるように言った。
「どうして……そうであるか確認したかったからだが」
「確認って……あなたね、」と緋村の彼女が続けようとしたが、それを制したのは巻町操だった。真っ赤な顔をしたままで、
「薫ちゃん。いいよ。平気。大丈夫」
緋村の彼女に告げると、こわごわといった感じで、しかしまっすぐ俺を見た。巻町操は黒目がちで、その目で見つめられるとトクトクと心臓が心地よく音を鳴らす。
「そうです。その通りです」
その言葉に、俺は大変満足した。やはり俺の読みは間違いなかったのだと。
巻町操は勉強道具を片付け始めた。
まだ問題を解き終わっていないだろうと思ったが、あまりにも素早かったので、止める暇もなかった。鞄にしまうと立ち上がり、頭を下げ逃げるように去っていく。
俺は驚いた。何がどうしてそんなことになるのか、巻町操を追いかける緋村の彼女の姿が完全に店内から消えてしまっても動けずにいた。
「なんだってあんなこと言ったんだ?」
起きた出来事の一部始終を思い出しても状況が飲み込めずにいると緋村が言う。それは非難めいている。
「何故って、さっきも言ったが、確認したかったからだ」
「確認って……」
「そんなに聞くとまずいことだったのか」
「まずいというか……もうちょっとタイミングとか場所とかあるし、なんというか、……悪気がないだけにたちが悪いな」
緋村は髪を掻きむしり始めたので困惑した。
とりあえず落ち着けと、水の入ったコップを勧める。緋村はそれには口をつけなかった。
「お前さ、それを聞いてどうするわけ? 好きか嫌いか聞いて、その後のこととか少しも考えてないだろう?」
「後のこと?」
俺は緋村に差し出したコップを自分のところへ引き寄せると口をつけた。
巻町操が俺を好きでいる。それは先程確認した。俺が知りたかったことは知れた。それ以上に何かあるのか。
黙っていると、またしても緋村は頭を掻いた。
「相手に告白させておいて、その後は知りませんじゃすまないだろう?」
「告白って……俺は別に告白などさせていない。ただ、俺を好きかどうか聞いただけだろう」
「そういうのを告白させたって言うんだよ!」
緋村が大声を出したので俺は周囲を見渡した。学生のグループが他にもいくつかいて騒々しくしていたからさほど目立たなかったがウェイトレスがこちらを見ていたので俺は咳払いをした。
「で、どうするわけ?」
声を落として、緋村が続けた。
「どうするとは、何が?」
「だから、告白させたんだから、その返答だよ。付き合いたいなら、早いところ手を打たないと、操ちゃん逃げ出しちゃったし、このままじゃThe Endだ。自分で自分の首絞めたんだからな。どうにかしろよ」
後半はほとんど頭に入ってこなかった。付き合う――という言葉を聞かされてから、そればかりがデカいフォントになって頭を占領している。
付き合うとはすなわち恋人同士になるということだろう。緋村と緋村の彼女のように、一緒に登下校したり、休みの日に出かけたり、何気ないメールを送りあったりしなければならない。
緋村に彼女が出来てから毎日聞かされていた話を思い出す。当人にとっては惚気なのだろうがこまめに連絡をしている様子に俺は大変だなという感想しか持たなかった。意味もないのに会ったり電話したりするなど苦痛でしかない。
それを巻町操とする?
朝起きたら、「おはよう」と巻町操からメールが来ていて、家を出て途中で待ち合わせて学校の最寄駅まで二人で話し、駅を降りたら時間ぎりぎりまで一緒にいて、放課後も待ち合わせをする。時間があれば本屋やカラオケに行ったり、休みの日は映画を見に行ったりする。一日の終わりも巻町操から「おやすみなさい」とメールが入る。一人の人間とそれほど関わり、それが毎日続く。
想像にうんざりするかと思ったが少しの嫌な気もせず、それより喉が渇いて飲み物を欲した。だが、生憎水は飲み干してしまった。俺は右手の甲で頬を拭った。熱い。
「……お前」と緋村のひきつったような声がして、「無言で赤面するとかなしだろう。毒気抜かれるよ。……もう、しょうがいないな。見かけによらず本当に世話が焼けるよ。恩に着ろよ」
と続けた。それからやれやれと携帯電話を取り出し掛け始めた。
しばらくコール音が続くとつながったようで、
「あ、もしもし、薫? ごめん、大丈夫? 今、まだ、操ちゃんと一緒? ……うん、そうか。いや、でもあいつもそんな悪い奴じゃなくて、ちょっと話せないかな。……薫からも頼んで、絶対もうあんなことはさせないから。……反省してる。…うん、大丈夫………………わかった。じゃあ、そっちいくから」
電話を切ると、
「ほら。操ちゃんがこれから会ってくれるって。今度はちゃんと言えよ」
「……言う?」
「そう。今度はお前の気持ちを言う番だ」
「ちょっと待て。話が飛躍しすぎだろう。言うってなんだよ。何故そんなことになるんだ」
「話を飛躍させたのはお前自身だろう。いいか、四乃森。お前に残された道は二つ。一、ちゃんと告白して操ちゃんと付き合う。二、このまま別れて、操ちゃんを振ったことになる。どちらか選べ」
とんでもない二者択一を突きつけられて言葉を失うが、緋村は俺の答えなど聞かずにテーブルを片付け立ち上がり、
「ほら、急げよ。待たせてるんだから」と、出入り口に向かって歩き出した。
*
駅へたどり着くと二人は案内板の傍にいた。巻町操は自転車の乗り入れを防ぐための鉄の仕切に腰掛けてうつむいていて、緋村の彼女はその前に立っていた。
俺たちに先に気づいたのは緋村の彼女で睨みをきかせられた。そんな態度をとられるほど俺が巻町操にとった態度は酷いものなのかと、まだどこか信じられずにいたがぐらりとして、ファミレスから急かされてきて、自分のとるべき行動が掴めずにいた混乱と相まって怖じ気づきそうになった。
残り数メートルとなって距離を遠く感じる。巻町操から俺のところまで動く歩道が現れて、近づこうと踏み出せば、同じ速度で遠ざけるように逆向きに動き出しているように近寄れなかった。
だがそれは俺の心の見せる世界であり、現実の身体は動き、まだ遠いと思っていた距離は確実に埋まっていく。
緋村の彼女は最後にもう一睨みしてきたが無言のままで場所を空けてくれた。
俯いていた巻町操には俺の足下が見えているのだろう、おそるおそると顔を上げ上目遣いに俺を見てきた。その目は赤い。
俺が泣かせてしまったのか、と充血した大きな目にビリリとした刺激が巡った。
その強い痺れが脳細胞の神経をショートさせ一瞬視界が真っ白に染まる。思考と身体機能の連携がうまくとれていない、と冷静に警笛を鳴らす頭の落ち着きは伝達しない。右手がすばやく巻町操の細い腕を引っ張りぐいっと立ち上がらせると、胸の中に抱き寄せた。ぎゅっと抱きしめた身体は見た目の通り華奢で、腰は細く力を入れすぎると折れてしまいそうで、この子を守ってやらねばならない、と強く思った。
「……おい、四乃森!」
驚いたような咎めるような緋村の声も、バラバラになった回路の修復へは繋がらなかった。
「泣かせて悪かった。もう二度と泣かせたりしない。大事にする」
俺の口からこぼれたとは思えない台詞だったが、言ったことに後悔はなかった。
前に広がる道路の信号が青に変わりブゥオと灰色の排気ガスを吐き出して車が発進していく。後ろからひそひそとした話し声と視線が突き刺さり注目を浴びているなと思ったが気にならなかった。
「高荷恵のことは全くの誤解だ。彼女とはつき合っていない。いや、つき合っていたが、それは頼まれて装っていただけの話であって、本当に恋人だったわけじゃない。彼女は振った男に執拗につきまとわれて困っていたので偽装していた」
聞かれてもいないのに弁面がすらすらと出てくる。
腕の中で「痛い」とのうめきが聞こえたので腕を緩めると、すっぽりと納まっていた巻町操が身じろぎ、そろそろと顔を上げた。
腰に回していた腕を解き、耳たぶまで赤らめてカッカッとしている頬に触れる。しっとりとして柔らかく気持ちが良かった。もっと触れていたいと思うほど心地よいのに、それに反して肺が膨れ上がるように息苦しくなっていく。それは薔薇の花を彷彿とさせた。高貴な薔薇の花はシルクのような滑らかな手触りがするが、茎には鋭い棘があり油断していると傷を負う。
それでも俺は触れることを厭わない。俺を見つめてくる巻町操を見つめかえせば、ざわりと身震いが走った。
「人助けにもなるし、俺に恋人ができれば告白されることもなくなるだろうと思った。俺は誰かとつき合う気はなかったし、だがいくら丁重に断っても断ると相手を傷つける。そういうことがなくなるなら俺にもメリットがあると思った。だが、それは大きな間違いだった。俺に恋人ができたことで、告白はされなくなったが、直接目に見えないところで、俺の好意を寄せてくれる人たちを傷つけていた。預かり知らぬところで悲しまれるなら別に良いと考えたことを浅はかだったと思うし、それから」「ちょ、ちょっと待ってください」
ぺらぺらと動く口を止めたのは巻町操だった。彼女の頬を撫でていた手を彼女によって止められたが、彼女の手が俺の手を握っている。その指先から彼女の熱を感じると足下から震えがくる。
「……つまり、四乃森さんは私に同情してるってこと? 四乃森さんに恋人ができて、告白さえもできずにひっそり失恋して傷ついている私を哀れに思ってるって、そう言いたいの?」
「どうしてそんな話になる?」
「だってそう言ったじゃん!」
なんという無理解なのだと目眩を覚える俺に巻町操は叫ぶように言うと、ふにゃりと泣きそうな顔になったので焦る。つい先ほど、この子を守ってやらねばと思ったばかりが、当人の俺が泣かせてどうするのかとこちらの方が泣きたい気になり、頭をかきむしりたくなったが、それよりも身体は彼女を抱きしめた。もう一度、強く。
「大事にする」
そして、そう続けた。
大事にする。とても、大事にしたい。この子を泣かすような真似はしないし、泣かせてしまうようなことからは守りたい。傍にいて大事にする。
「大事にするから」
俺は繰り返した。巻町操にしたいことを究極的に詰め込むと「大事にしたい」である。それは間違いなかったが、腑に落ちきらない気持ち悪さがごろごろと腹の辺りで転がっていた。
巻町操は腕の中で大人しく、強く抱きしめすぎて窒息しているのかと心配になり腕を解くと、制服越しとはいえピタリと傍にあった体温が離れたことが惜しく思え、代わりにその頭を撫でた。なでなでと撫でつけていると、
「やっぱり、どういうことかわかんない」
巻町操は言ったが、その声は小さく頼りなくポツリとしていた。
「わからないことはないだろう。俺は君を大事にするから、君は大事にされていればいい」
そういっても巻町操は困惑した顔をして、俺を通り越して傍にいる緋村の彼女と緋村に助けを求めるように視線を送った。緋村の彼女はあんぐりと口を開けていて、緋村はポリポリと頭を掻きながら、
「四乃森って頭良いけどバカなんだよ。こんなんでよければ、仲良くしてやって」
と昼休みに俺へ向けて言った台詞を巻町操に言ったあと、
「なぁ、四乃森、俺に聞いてきた質問の答えは、もうわかっただろう? お前が本当に好きなのは誰なのか」
好き――たった二文字の、けして珍しくはない単語だが、緋村から告げられたそれは、これまで聞かされた時には感じなかった煌めきをまとっているように思えた。何故、こんなに興奮と動揺と感激をもたらせるのか。いや、それよりも、どうして俺は知っていたはずのこの言葉にこれまでたどり着けなかったのか。
ふと笑い出したくなったが、しかし、仕方がないとも思う。何せ、俺はこれまで誰のことも好きになったことはなかったし、好きになりたいとも思っていなかった。自分がそうしようと決めて始めるものではなく、気づけば始まり、どうしようもなく膨れ上がっているものだなど、知らなかったのだから。だが、たしかに、緋村のいうように俺にはようやくわかった。
「ああ、そうだな。俺が好きなのは、」
すっと息を吐き出すように彼女の名前を唇に乗せた。
2013/6/16
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