2013年読切

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 諸行無常。世の中は移り変わっていく。良くも悪くも。一年前の悩みを僅かも違わず悩み続けていることはないものである。一年前の喜びがその当時の色濃さで心を捉えていないように。
 巻町操は教室の机でうなだれていた。
「うー、しばらく蒼紫さんの家に行きたくないかも」
 かも、というのは決定ではない。本気で行きたくないわけではないことを神谷薫は言葉と、それから現状で操の身に起きていることから把握し、前の席に腰かけて突っ伏す操の頭を人差し指でつついた。反応して顔を上げる。頬が赤い。思い出していたのだろう。
「素直に喜べばいいじゃん」
「だって突然すぎるんだもん!」
 ますます顔を赤らめる様子に薫も、無理ないか、と納得する。
 操には幼い頃から一緒に過ごしてきた幼馴染がいる。四乃森蒼紫という男である。彼は操の初恋の相手でもあった。初恋は実らぬものという。操のそれも実るのはなかなか難しそうだ。蒼紫が十も年上であること。かなりのイケメンで言い寄ってくる女は引く手あまたであること。操のことを大事に思ってくれているようだが、それは妹という存在として、であるということ。ブラコンの極みくらいに思われているのだろうと操も理解していた。それでも蒼紫が社会人になり一人暮らしを始めたとき、会えなくなるのが嫌だと駄々をこねたら、家の合鍵をくれたので、ひょっとしてと一瞬期待したものの、別段関係性は変わらなかった。
 電車で一時間程度の道のりは当時中学生だった操にはそれなりに遠い距離だ。それでも毎週末押しかけ女房のごとく通い早三年になる。その間、蒼紫に恋人の影は見当たらず安堵していたが、かといって操を恋人にしてくるような素振りもなかった。
「たとえば、メールを送って返事がほしいって思うのは、そんなに贅沢な願いではないよね」
 それは二週間前だった。放課後、操は今日のように教室でうなだれながら薫に告げた。
「四乃森さんからメールこないの?」
 操が嘆くことなど蒼紫がらみしかないと、薫は承知している。
「……全くこないことはないけど、用事があるときとか。でも、『おはよう』とか『おやすみなさい』とか送ってもこない。メールで日常会話をするなんてことはない」
「それは、ジェネレーションギャップっていうこともあるんじゃない? うちらはさ、メールでのやりとりが当たり前だけど、向こうは大人だし、あんまりそういうやりとりとかしないみたいだよ。剣心が言ってた」
「緋村さんが?」
 緋村剣心というのは薫の恋人である。剣心は十二年上で、奇遇にも蒼紫と職場の同僚である。二人は随分年の離れた男を好きになった同志といえる。
「うん。最初、あんまり返事くれなくて、寂しいって言ったら、どのタイミングでメールすればいいかわからないし、何を書けばいいか困ってしまうって。そんなのなんでもいいよ、って言ってからはちょこちょこくれるようになったけど、苦手みたい。元々あんまり話好きではないっていうのもあるし、文章だとますます混乱するらしいよ。操も言ってみたら?」
「うーん」
 操は低いうねり声をあげる。
「でもさ、薫と緋村さんは付き合っているけど、私と蒼紫さんは付き合ってるわけじゃないし。あんまり要求は出来ない」
 家の合鍵までもらい、週末に押しかけていくのに、妙なところで遠慮するものだと薫は思った。人には踏み越えられない壁がある。自分から何かをするのは出来るが、相手から反応を求めることはできないのが操の壁であるらしい。
「たぶん、私が望んでるようなことをしてくれる人は世の中にはいると思うんだよ。メールで日常のやりとりをするとか、そんなに難しいことじゃきっとないでしょ。でも、蒼紫さんとじゃそれができなくて、だったら誰か別の人を好きになる努力をして、自分が辛くならない恋をするべきなのかも、ってちょっと考えちゃってさ」
 あーあ、と操は机に顔を伏せた。
 望みを叶えてくれるから好きになるというのは違う気もしたが、操が本当に言いたいのは蒼紫への気持ちへ踏ん切りをつけたい、ということだろう。叶う見込みのない恋を諦めるために、寂しい気持ちをクローズアップして、不毛な恋を捨てようとしているのだと薫は感じた。
 友人の悲しい決意を知った薫の切なさは怒りとして蒼紫に向いた。操の気持ちを知っているのだから、その気がないなら突っぱねてやるのが真の優しさではないだろうか。操には未来がある。ダメなものにずるずるとしがみついているのはもったいない。曖昧にせずきちんと振って終わらせてやるべきだ。とはいえ、実際、操はまだ迷っている状態であるのだから、第三者が口をはさみすぎるのは余計なお世話だ。収まらない気持ちは最終的に剣心に向かった。四乃森さんはひどいわよ、と一方的に責め立て愚痴をこぼした。
 それが二週間前の話である。そして、今もまた操はあの時と同じくうなだれているが、理由はまったく異なっている。
 先週末、操はいつもの通りに蒼紫の家を訪れて泊まった。
 夜、ソファでテレビを見る操を一人にして、蒼紫は机に向かいパソコンをしたり本を読んだりするのだが、その日は珍しく操の隣に座って一緒にロードショーを観ていた。珍しいこともあるものだという驚きと、傍にいてくれて嬉しいという喜びとが合わさった。
 いよいよクライマックスというところで蒼紫の動く気配がした。終わりまで見ないの? とそちらを見ると唇に柔らかいものがあたる。立ち上がる蒼紫と振り返った操の唇がどういうわけか当たってしまったのがわかり、うわっと後ろにのけぞった。
――どうしよう。
 不慮の事故といえ、これは謝るべきか。だが操にとってはファーストキスだった。いくら長年好きでいた相手だからといえこんな形で奪われてしまうことのは悲しい。好き同士でしたわけではないのだから。ならば、蒼紫から謝ってほしいと思った。どちらが悪いとか悪くないとかいう話ではないのだが、それでも悪かったと慰めてもらえたら事故だったのだから仕方ないと諦めがつく気がした。
「何もそれほどのけぞらなくてもいいだろう。嫌だったのか」
 しかし、蒼紫の口から謝罪を聞くことはなかった。不機嫌な声で言われた内容が操にはピンとこない。
「嫌って、いやって、え?」
 あれは不慮の事故だったのではないのか。状況を飲み込めないでいると、蒼紫の顔が近寄ってきて、今度は間違いようがなく意図と意思をもってとわかるほど強力に唇が重なった。
(え? え? え? えええええええ!?)
 離れていく顔を凝視する。息をするのも忘れていた。
「なんで?」
「恋人なのだからこれぐらいするだろう」
「こいびと?」
 空耳かと繰り返せば、
「俺はそのつもりだったが、お前はどういうつもりだったんだ」
 蒼紫はもっと不機嫌な表情になって凄まれる。
「どういうって、だって今までそんな素振りなかったじゃん!」
「……素振り? 俺は好きでもない女に合鍵を渡したりはしないし、週末に家に泊まらせたりもしない。何もしなかったのはお前がまだ幼かったからだ」
 すらすら述べられる台詞は、確かに言われればその通りである。妹のような存在とはいえ本物の血縁者ではないし、蒼紫とて年頃の男子であるから恋人を作りたいと考えても不思議ではない。ならば厄介な存在は遠のけておきたいはずだ。そうはしなかったのである。
「で、で、で、でも、でも、でも、でも」
「なんだ。嫌だったのか」
 繰り返し問われる。蒼紫は頭がいいが時々抜けているというか、常人の感性とは違うところを見せることがしばしばある。今回も、嫌か嫌でなかったかをとりわけ問題視しているらしい。
「そういうことじゃないでしょ! だって突然すぎるよ!」
「そうか。なら宣言すればいいのか。……するぞ」
 操の混乱を独自の解釈を以て続け、三度目の口づけが交わされた。
 さらにその後、「今夜は一緒に寝るか」とのたまい許容量がとっくに飽和してあわあわしていた操の頭から湯気が立ち上ると、普段は無表情な蒼紫が珍しく楽しげにニヤつくので、からかわれたのだと今度は頬を真っ赤にさせたが、「案ずるな。十八になるまではこれ以上のことはしない。言葉通り一緒に寝るだけだ」とからかったのではなく本気であることを示され、問答無用で抱き枕にされた。
「確かに、間がないよね」
 無理無理無理無理と連呼する操に、薫は同情する。
「そうでしょ! 脈略がなさすぎるよ。どうしちゃったの!? って感じ。何がきっかけであんな風になったのかさっぱりわからなすぎて怖いし」
 うーっとまた低い唸りを轟かせた。
 一方、薫にはその”きっかけ”をなんとなく想像できた。
 剣心に操の心情と蒼紫の態度について愚痴ったことがあったが、あれから剣心が蒼紫に何か言ったのではないか、と。蒼紫は操を好きでいたらしく、操が大人になるのを大事に待っていたらしいが、操には蒼紫の大事が伝わっておらず、それどころか二人の関係を不満に思っていて、他の恋を始めようとしているという考えを知り、慌てたのではないだろうか。
 それにしたって、極端から極端に走る人だなぁ、と薫は少しばかり呆れた。それでも、操の悩みが変化したことは喜ばしい、と思うので、
「でもよかったじゃない? ラブラブになれたんだから」
 とにっこり笑って告げた。   



2013/12/4