2014年読切

臆病な二人

 薄暗い室内。彼はベッドに腰掛け私を抱き上げる。長く骨ばった指先が自らのシャツのボタンを外し、私は露わになった首筋に触れる。目を閉じると伝う脈拍と私の鼓動が共鳴する。
 閨での男女の秘め事もこんな風にはじまるのだろうか。考えて、そんなことを思うようになった自分を恥じた。彼とは男女の仲などではない。捕食する者とされる者だ。
 絶滅危惧種。それは私たち吸血鬼にも当てはまる。一族は長い時の中で純血を守れず、今生きているほとんどが人間との混血だ。
 純血と混血のもっとも大きな違いはその寿命。純血であれば千年、長くなれば二千年を生きる者もいるが、混血は人間の寿命とほぼ同等。その代わり、日光を浴びることが出来ないとか、にんにく、十字架に弱いということはない。
 吸血鬼の食事は人間の血。映画などでは血を吸われた者は吸血鬼になるというが、それは嘘だ。血を吸われたぐらいで吸血鬼になるなら、ねずみ講みたいに倍々に吸血鬼化し、人類はとっくに滅亡しているだろうし、吸血鬼も食べるものがなくなり餓死している。
 とはいえ、ちょっと頂くだけですからとすんなり人の血が手に入るわけではない。吸血鬼だとバレると人は恐れおののき、退治しようとしてくる。そこで考えられたのが、孤児を引き取り養育する代わりに血を提供させるという仕組みだ。莫大な資金で、慈善事業という大義名分の元、身体が安定してくる十五歳から二十二歳までの八年間、血という対価を支払ってもらう。
 彼――四乃森蒼紫も、そんな子どもの一人として引き取られてきて、他の人間と同様に大学を卒業し自立して去っていくはずだった。でも、今年で二十六になるというのに、彼はまだここに残っている。
 すべては、私のため、いや、私のせいだ。
 吸血鬼として生を受けたというのに、私は血を吸うのが苦手だった。
 吸血鬼と人の遺伝子なら吸血鬼が優位のはずが、ごく希に人の遺伝子が強くなることがある。私はその”稀”に当てはまってしまったのだ。そのため人の血を美味しいと思えず生臭く感じるし、うまく牙を使えず、失敗し流血させすぎてしまうから、私に飲まれるのをみんなが嫌がった。それが悲しくて余計に飲みたくなくなる。そうであるのにお腹は空く。空腹が限界になれば血を求める。どれほど不味くとも、血を食らうしか私の空腹は満たせない。嫌だと思っていたのに、血を飲み生きながらえる自分が幼いながら浅ましく思えた。嫌なら飲まずに死を選べばいい。でも、死ぬのは怖い。空腹に耐えられなくなる。不味くてもいいから、食べたいと――そうなる自分が大嫌いだった。
 そんな私の前に彼が現れた。
 両親を失い、他に頼れる身よりもなく、引きとられてきた。通常は幼いうちに来て、ここでの奇異な生活に免疫をつけていくのだが、彼はすでに捕食の対象となりえる十五歳だった。
 ひとりぽっちになり、引き取られた家は吸血鬼の一族で、血を差し出すように言われ、自分の運命を嘆いたり逃げ出してもよさそうなものだが、彼はすべてを受け入れた。他に道はなかったといえ、今にして思えばあまりにも物分かりが良すぎる。その物分かりの良さは、彼の絶望と比例していたのではないだろうか。どうなってもいいと、すべてを諦めていたのではないか。
 けれど、当時の五歳だった私には彼の心を慮ることなど出来ず、それよりも、彼は私が血を吸うことを嫌がらずにいてくれ、そのことに大きな感動を覚えた。
 以来、彼は私専属になり、今も続いている。本来ならとっくに解放され自由の身になっているはずの彼を縛り続けている。
 私はゆっくりと彼の首筋を撫でながら、顔を埋め、いつものように食らいつく。じわりとめり込んでいく鋭い歯の感覚に身体が震える。室内を暗くするのは、それを少しでも見なくていいように。私のための配慮だ。
「……っ」
 かすれた呻きが耳に届く。早く終わるよう出来るだけ素早く、でも、早すぎても負担をかけるので、微妙なさじ加減に気を配りながら必要最低限の量を頂き、鋭く延びた糸切り歯を彼の首筋から離した。
「もういいのか」
 抱き上げられた膝から降りる前に、それを妨害するよう腰を抱かれ、静かな声で問われる。彼の端正な顔から感情は読みとれないのでどういう意図で聞いてくるのかわからなかった。
「近頃、あまり飲んでいないだろう。どこか調子が悪いのか」
「そうじゃないよ」
「なら、なんだ」
「別に。ちょっとダイエットしようと思って」
「この細い身体のどこに、そんな必要がある」
 彼は私の腰を抱く力を強めた。反応して身体がこわばる。誤魔化すように、彼の胸元を押し返して、そのたくましい腕から解放を求めれば、案外簡単に抜け出せた。
「俺の血は飽きたか」
 どうしてそんなことを言うのだろう。ズルい、と思う。
 私が飽きたといえば、あなたはどうするの? ここから出ていくの? それを待っているの?
 そうであるなら、私はきっと飽きたというべきなのだ。彼を自由にしてあげられる。でも私は、
「ダイエットしてるんだってば! 私だって年頃の娘なんだから、いろいろあるんだよ。変な勘ぐりやめてよ」
 早口に告げれば、彼は一つため息をついて部屋を出ていった。
 残された私はベッドに横になり猫のように身体を丸めた。口の中に広がる飲み慣れた彼の血の味に胸が苦しくなる。
 私は嘘をついている。
 本当はもう、彼の血ではなくても飲める。子どもの頃こそ、うまく血を吸うことも、その味も、苦手としていたけれど、生きるために必要なものに自然と順応していった。おそらく、飲もうとすればうまく出来る。その事実を私は誰にも言わずにいる。そうでもしないと、彼との関わりを失ってしまうから。そんなのは嫌だ。
「好き」
 小さなつぶやきは、薄暗い室内に漂って消えていった。


 終わりはあっけないものだった。
 十月に入った最初の土曜日、彼が交通事故に遭った。
 私はその日、朝から妙に身体が怠く、六時を過ぎたあたりから、頭がぼーっとして、ベッドに横になっていた。カーテンを開けた窓の外は真っ暗だった。今夜は新月だ。闇夜が不気味に広がっている。
 身体の不調はどんどん強まっているのに眠りに落ちることが出来ず、だらだらと寝返りを繰り返しているうちに傍にあるデジタル時計が九時を表示した。
 変だな。私は思った。
 彼が、こない。
 就職してから、彼は屋敷を出ていき、私の食事のためだけに訪れる。だいたい八時が目安で、それより遅くなるときは必ず連絡が入るのに、今夜は音沙汰がない。
 のっそりとベッドから起き上がる。眩暈がした。血が足りていないからだろう。
 空腹が満ちてきている。私から人の理性を奪い、吸血鬼の性が蠢きだす。舌先に伸びた糸切り歯が当たる。
 軽く顔を振り、立ち上がる。
 扉の傍に立つと、ノックが響いた。開けると立っていた執事はあまりに早い反応に驚いたのか、一瞬目を見開いたがすぐに冷静な顔になり、早口に告げた。
「大学病院から電話が入りました。蒼紫さんが事故に遭ったそうです。命に別状はないとのことですが、今宵はこちらにはこられないでしょう」
 淡々と、感情の読み取れない無機質な台詞だった。
 心臓がドクリと大きく震え、足のつま先から体温が失われ、体中に痺れが走る。ぐらりと身体が崩れ、そのまま意識は途絶えた。
 次に目が覚めると、デジタル時計はまだ九時を表示していたが、開けていたはずのカーテンは閉ざされていたし、そこから漏れてくる光に、夜ではなく朝なのだと理解する。
 ダイニングへ向かうと、両親がいて、私を見るなり心配そうな顔をした。
「真っ青よ。食事をしていないせいね」
「これまでこういうことが起きなかったことの方が奇跡だ。お前も、好き嫌い言っていないで、他の人間の血を飲めるように努力をしなければいけないよ」
 彼のことではなく、私の身体の心配を告げられる。
 真っ先に子どもの身を案じるのは親として当然のことなのかもしれないけれど、そして私はそれに感謝するべきなのだろうけれど、苦々しさが広がった。
「別に、一日食べないぐらい何ともないよ。それよりも、出かけてくるから」
 とにかく、彼の顔を見たい。命に別状はないと聞かされたけれど、彼には他に身寄りがいない。心細くしているかもしれない。昨晩、すぐに駆けつけられなかったことを悔いながら私は病院へ向かった。
 病室につくと、朗らかな笑い声が聞こえてきた。初めは、同室の他の患者さんのものだと思ったのだけれど、入るとそこは二人部屋で、一つは空だった。窓際のベッドの傍には蒼紫さんと同じ年ぐらいの男性が一人と、女医さんがいて、彼らが取り囲むベッドには蒼紫さんが見えた。
 病院の独特な辛気臭さをかき消すほど、和やかに、楽しげな空気に、私の心配はまったくの杞憂だったと立ち尽くしてしまう。
「それにしても、高荷さんから電話があったときは驚いたよ。お前が交通事故に遭うなんてなぁ」
「私だって、救急車で搬送されてきたのが四乃森くんだとわかったときは驚いたわよ。うっかりなんてしそうにないのにねぇ」
 二人にからかわれて、蒼紫さんは無言でばつが悪そうにしていた。
 その人たちは誰なのか。私の知らない人と話す蒼紫さんも知らない人に見えて、自然と後ずさってしまう。ここから去りたい――その前に女医さんが私の存在に気づき、あら? と声を出し、つられるように蒼紫さんともう一人の男性が私を見た。
「操。」
 蒼紫さんの顔が強張った。
 困っている。その様子に足元から震えがくる。私はどうしてここにいるのだろうか。事故に遭ったと知り心配した。お見舞いに来たけれど、蒼紫さんは元気そうだし、私を見ると迷惑そうにしているし、それなのに私はどうしてここにいるのだろうか。 
 何を言えばいいのか。何と言えばいいのか。黙って去るのが一番ではないのか。結論を出したのに女医さんが、
「あなた、大丈夫? 顔色が悪いわよ」
 と言って私の手をぐいぐい引っ張って蒼紫さんの隣のベッドに座らせた。
「少し、横になった方がいいわ」
 寝かされたベッドは弾力がなく固い。私は抵抗もせず、されるがままにそこへ寝ころんだ。
 私の登場でしり切れてしまった会話が再開される。楽しげな話し声がひどい騒音のように感じられ、シーツから漂う病院特有の匂いと合わさり気分を悪くさせる。静かにしてよ、と叫びたくなるのを堪える。願いが届いたのか、ほどなく女医さんは医局へ戻り、男性もまた来るからと帰ってしまった。
 二人きりになり起き上がるタイミングを考えていると、傍にズシリとした重みがかかる。目を開けると私のベッドに蒼紫さんが移動してきて腰掛けていた。見たところ両腕に怪我はなかったし、歩けるなら両足にも怪我はないのだろう。それに起きているから内臓の損傷もないだろうし、頭を強く打っていなければ大丈夫なのかも、と声に出して確認する前にひとしきり頭の中で思う。
「すまなかったな」
 謝罪の言葉が降ってくる。
 私はまだ怠さが残る身体を無理に動かしてベッドに座った。
 蒼紫さんは青い服(病院の検査着だろう)のボタンを外しはじめる。ドクッ、ドクッ、と私の鼓動は早まっている。彼が何に謝罪したのか、そして今、何をしようとしているのか、見ればわかる。
「ここしばらくまともに飲んでいない上に、一日絶食となれば、堪えるだろう」
 そう言い、彼はいつものように私を抱き上げようとした。
「そのために私がここへ来たって思っているの?」
「それ以外に、理由があるのか。俺の価値はそれぐらいだろう」
 蒼紫さんは口の端を持ち上げて皮肉ったような笑みを浮かべた。
――ああ、
 ああ、この人は、私が心配して来たとは少しも思わないのだ。
 ただ、空腹を満たすために、自分のためだけに、やって来たのだと思うのだ。
 事実、これまで私はそうしてきた。本来であればとっくに解放されている彼を繋ぎとめているのだから、そう思われるのは当然だった。文句は言えない。
「さぁ、おいで」 
 私を抱き上げる腕の慣れた温もりが、彼が我が家へやって来てから一度も欠かすことなく夜毎に私を抱き上げてくれた手の暖かさが、ナイフのように鋭く感じられた。彼が払い続けてきた犠牲を、まざまざと思い出す。
「いらない。」
 じくじくと痛む心を押し殺して、私は告げた。
 たぶん、限界だったし、これがいいきっかけなのだろう。
「勘違いしないで。もう蒼紫さんの血はいらないの。それを言いに来ただけだよ。昨夜、あんまりにもお腹が空いたから別の人の血を飲んでみたの。そしたら、普通に飲めた。子どもだったから飲めなかっただけなんだってわかった。大人になったら、好みも変わるんだね。だから、もう蒼紫さんはいらないの。それを言おうと思って、これまでお世話になったし、入院しているって聞いてびっくりしたから、様子伺いを兼ねてきただけだよ」
 つらつらと出てくるのは、想像した終わりとはまったく違った。いつか、彼を解放する日が来たら、告白しようと決めていたのに。ずっと好きだったこと。それから、ありがとうと言うつもりだったのに。それが、こんな高飛車な物言いで、偉そうな態度で――私は何をしているのだろう。 
 冷や汗がわき出てくる。思う通りに行かない。何もかも、何一つ。
 私はまともに顔を見ることも出来ずに、伸ばされた腕を押し返す。蒼紫さんは怒ることもなく、そうか、と短く頷いた。


 病室で会ったのを最後に、蒼紫さんは屋敷に姿を見せなくなった。私からいらないと告げたのに、何処かで来てくれるのではないかと期待していたから、落ち込みは強かった。
 落ち込むだけならまだいい。ひょっとしてまだ入院しているのかもしれない、明日になれば来てくれるかも、と諦めの悪いことを考えた。けれど、一週間経過しても彼が姿を見せることはなかった。
「操。本当にご飯ちゃんと食べてるの? どんどんやつれてるよ」
 学校帰り、スタバに入ってキャラメルマキアートを飲む私に、友人の神谷薫が言った。
「食べてるよ」
「……そうよね。今日だってお昼普通に食べていたものね」
 答えると、薫は、うーん、と少し考えてからそう続けた。
 私の素性は隠してある。日常生活はほぼ普通の人間と変わらないので特別に問題は起きていない(黙っていることは嘘ではないと、自分に言い聞かせる術は幼い頃に覚えた。そうでないと、友人に嘘をついているような罪悪感に押しつぶされてしまうから)。食事も、人間と同じような物を食べているし(食べることはできるけれど、栄養にはならない)、うまく人の生活をしていると思う。
「でも、調子は良くないでしょ。今日だって体育の授業見学していたじゃない。どっか悪いの?」
「どこも悪くないよ」
「……そんなに元気ないのに?」
「元気、ないことはないよ」
「嘘ばっかり」
 私は両手で紙コップを包み込み、ふぅっと息を吹きかける。生クリームがそよそよ揺れる。
「実は、失恋したんだよ」
 薫は、ええっ!? と大きな声を出して驚き
「好きな人なんていたの? 初耳なんだけど。どうして教えてくれなかったのよ」
 友だちなのに水くさいと頬を膨らませた。私はそれを見て、申し訳ないような気になったけれど、
「無謀な相手だったから。最初からうまくいきっこないのわかってたし。だから、誰にも言うつもりなかった。ひっそりと人知れず葬るつもりだったの」
 そうだ。誰にも知られずに終わるつもりだった。それなのに、何を口走っているのだろうか。すべて終わって、あとは忘れるだけだというのに。もう苦しかった日々は終わったというのに。
「ずっと、苦しんでいたんだね。いいよ。話して。そしたらきっと楽になるし。一人でため込んで辛かったんでしょ」
 私の心情を代弁するように告げた。その顔からすでに怒りは消えていた。とても真剣で、真面目な顔をして、私の痛みに寄り添おうとしてくれている。
 そうなのだろうか。話せば楽になるのだろうか。
 唾液を飲み込む。喉がイガイガしてそれを吐き出すように私は彼のことをいくつかの改変を加えて話した。ぽつりぽつりと、慎重に、じっくりと、彼と過ごした時間を言葉に代えていくという作業は、ときどき激しい痛みを伴い、ときどき呼吸ができないほど切なくて、途中、込み上げてくる涙を抑えきれず二度中断した。その間、薫は黙って待ってくれた。
「……ねぇ、それって失恋したって言うの?」ところが、薫は話を聞き終えると眉を寄せて言った。その反応に私も眉を顰めた。「だって、別に告白してないじゃない? 気持ちも伝えずに、諦めてるだけじゃない?」
「告白なんて出来ないよ。私は彼に迷惑ばっかりかけてるんだよ。それで告白なんて、無神経すぎるもん」
「迷惑って……それは直接その人に言われたわけじゃないんでしょ?」
「直接は言われてないけど、わかるよ」だって、血を吸うんだよ。と言いそうになり飲み込んだ。「ざっくり話しただけだから、わかってもらえないかもしれないけど、彼は私を迷惑だと思ってるの」
 繰り返すと語調が強くなったけれど、反して真っ直ぐに私を見つめる薫を見つめ返すことが出来ずに視線を逸らしてしまう。視界の片隅で薫はテーブルに両肘をついて、ストローを加えてアイスカフェモカを飲んでいる。
「まぁ、さ、操がそれでいいなら、私はそれ以上何も言えないけれど、後悔だけはしないようにね」
「後悔……」
「そうだよ。結果はともかく、告白したか、してないかはかなり違うでしょ。ひょっとしてあのとき言っていればって思うようになるかもしれないじゃん」 
「それは――」「ないって言い切れる?」
 問い返されて即座に否定出来なかった。この一週間、彼がもう一度来てくれるのではないかと期待していたことが脳裏に浮かんだから。僅かの未確認な空白に期待を込めてしまうことは経験済みだ。
「きちんと一つずつの恋を終わらせないと、次には進めないよ」
「……そんな風に言われると、もう心がそわそわしているんだけど」
 あんな別れをしてしまったことは引っかかっていた。じくじくした痛みが尾を引いているのも、言いたいことをきちんと伝えず、中途半端になってしまったからかもしれない。それならば面と向かって好きと言ってしまえばよかった。
「なら、メールでも送ってみればいいじゃん。怪我、大丈夫? って」
「そんな気安いメール送ったことないな……」
 スマホを取り出してメールボックスを開く。一応、彼用のフォルダを作ってはいたけれど、交わされるのは、今日は少し遅れる、とか、屋敷へ来ることの業務連絡だった。絵文字の一つもない素っ気ないメールに、私も、わかりました、と短く返す。そんなやりとりでも、一つ残らず保護していた。――というか、振られたなら綺麗さっぱりこれも消すべきだった。アドレスどころかメールまで残らず保存したままで、忘れる、忘れる、と唱えていたことに気付いて愕然となる。私は少しも彼から離れようとはしていないのだ。
「……送ってみようかな」
 どこまでも諦めが悪い自分を、いっそとことん貫いてみようか。退院したのか確認するくらい、大丈夫な気がする。それともまた彼の血を欲していると誤解されるだろうか。
 メッセージ画面を出して、もう退院はしましたか? とだけ打って画面とにらみ合う。
「どうしよう。やっぱりやめようかな」
 薫を見た。情けないけれど、後押しがほしい。それを的確に察してくれたのか、それとも本当にそう思っていたのか。
「やらずの後悔より、やって後悔の方がスッキリはするよ。そもそも、振られてるなら、これ以上は悪くなりようもないんだし」
 まったくその通りだ。
 私は一呼吸置いて、送信ボタンを押した。指先が少し震える。飛行機が手前から奥へ飛んでいく画像が消えてしまうのを見つめていると、チャララランと後ろから着信音が聞こえた。偶然にしてもタイミングがいいなぁと思わず苦笑いが漏れる。振り返ってみるとその席に座る人もこちらを見ていて目が合った。
「え?」
 意味が、わからない。
 私は姿勢を戻した。薫がさっきと同じようにテーブルに両肘をついてのんびりとストローをくわえている。
「どうしたの?」
 不思議そうな顔で問いかけてくる。
――見間違い? 
 私は薫の質問に答える余裕を持てず、噴き出す汗と早まる鼓動に眩暈を覚えながら、もう一度背後を振り返った。確かめたくないけれど、確かめなければいけない。
 先程目が合ったその人は、まだこちらを見ていた。
「なんで……」
 それは紛れもなく蒼紫さんだった。
 これまで一度だって、こんな風に偶然バッタリ出くわすなんてことなかったのに、よりによって、どうして今、それが起きてしまうのだろう。
「いつからいたの?」
 問いかけに、蒼紫さんは無言だ。
「全部聞いていたの?」
 私は何も言わない態度に苛立ちを感じ、質問を重ねた。
「……すまない」
 蒼紫さんは言った。
――その謝罪はどういう意味で言っているの? 
 ぶつけてしまいたい質問はあったが言えない。謝罪の言葉はこれまでも幾度か聞いてきたけれど、その表情はこれまで見たことのない、辛そうな苦しそうな痛々しそうなものに感じられた。そんな顔から発せられる言葉がいいものであるはずがない。聞きたくない。――怖い。
「最悪。」
 押し寄せてくる痛みの波を無視して、自分を奮い立たせるために不機嫌に告げた。怒りで固めた防波堤はやがて決壊し、涙に飲みこまれるだろう。けれど、一時でもしのげれば十分だ。この人の前で泣きたくない。気丈さが何処から湧いてくるのかわからないけれど。
 隣に置いてある鞄を手にして立ち上がる。それから、何が起きたのか置いてけぼりの薫に一言だけ「ごめん。帰る」と告げて私は逃げ出そうとした。勢いよく立ち上がったところまではうまくいった。一歩踏み出せばグラリと視界が揺れる。この一週間、私はあまり食事をとっていない。彼以外の人の血を飲むのは不慣れで、身体に馴染みきらずにいた。次第に慣れるだろうと両親からも言われていたし、私もそう思っていたし、それまで無理は出来ないけれど、無茶さえしなければ困らない。そうして過ごしてきたのに、頭に血が上り、勢いの任せて動こうとしたせいで、強い立ちくらみが起きていた。世界が揺れる。気持ちが悪い。早くここを出たいのに、足元がふらついて、平衡感覚が失われる。
「あぶない!」
 叫ぶ声は薫のものだ。危機を知らせる悲鳴を最後に私は気を失った。


◇◆◇


 ありえないことが起きる。それが人生なのだろうか。  
 抱きなれた身体も意識のない状態では勝手が違う。細い首と両手足は脱力しだらしなく伸び、歩くとぶらぶらと揺れる。振動で起こしてしまわないよう慎重にベッドに寝かせる。日頃、自分が使っている場所に彼女が横になっている。俺の心はざわついた。
 彼女――巻町操と出会ったのは十年前の冬。俺は両親を失ったばかりだった。
 二人は自殺だ。
 二学期の終業式が終わり急いで帰れば、父と母がそろって出迎えてくれた。にこやかに笑みまで浮かべている。
 妙だな、と思った。
 その頃、家はかなり逼迫していた。知人に騙され連帯保証人となり多額の借金を背負わされ、連日連夜ガラの悪い取り立て屋が押しかけてきて嫌がらせを受ける。精神的に疲れ果てていた。
 どうして笑っているのか、何故笑えるのか。
 妙に思いながら違和感を口にすることはなかった。俺は子どもだった。たとえ仮初の、取り繕っているにすぎないとわかる、ちぐはぐな静けさでも、久しぶりの平穏を自ら壊すことなど出来なかった。
 持って帰ってきた成績表を見せると二人は満足そうな顔をして、
「お前は俺に似て賢いな」
 父が言えば、
「あら、私に似たのよ」
 と母が笑う。
 にこにこと異様に楽しげな二人に、口内がぬるりと唾液で溢れ無理やり飲み込んだ。
 夕食はカレーだった。たっぷりの黒胡椒を入れた牛すじカレーが我が家の定番だ。料理が不得手でレパートリーの少ない母には重宝するメニュー。一日目と二日目はカレーライス、三日目にカレーうどんにして食べる。一度作れば三日も使える。月に二度は作っていた。
 母の味、食べなれた味が、そのときはいつもと違っている気がした。調味料を間違えたのか。そそっかしい母は、砂糖と塩を間違えることも多い。
「母さん。何か入れ間違えてないか?」
 俺は言った。黙って食べてやるのが男だ、と父は言うが間違いは指摘するべきだ。そうすればやり直せる。
「……何かいつもと違うものが入って…………」
 舌がじりじりして、うまく回らない。急激に瞼が重くなり目を開けていられなくなった。意識が遠ざかる中、二人の無表情な顔が見えた。はりぼての笑顔が消えた虚無な目をしていた。
 目が覚めたとき、すべては終わっていた。
 借金苦の末の一家心中。カレーに睡眠薬を混ぜて眠っているところ絞殺し、自分たちも命を絶つ。両親の書いたシナリオ。だがそれは書き換えられる。俺だけ助かった。異変に気付いた隣人が通報し、病院に担ぎ込まれ、丸二日昏睡状態に陥ったが一命を取り留めた。
 両親の死と、首に残る生々しい鬱血の痕。
 何も考えつかなかった。考えないでいたかった。少しでも思考を始めれば壊れてしまう。――いや、もう壊れてしまっていたのだろう。ただ理解せずにいたかったのだ。知らぬが仏。わからないままでいれば何も起きていないのと同じだ。
 呼吸だけを繰り返した。目に映るすべてを拒否した。
 そうであるのに救いの手が差し伸べられる。何故事件が起きる前ではないのか。欲しいときには与えられず、いらなくなれば与えられる。無意味な手は、巻町家という大金持ちのものだ。彼らは俺を養子にしてくれるという。その家はこれまで幾人も養子をとっていて施設へ定期的に視察にくる。先日の訪問の際、職員が俺の事情を話したらしい。親に殺されかけた他に身寄りのない可哀想な少年を放っておけないと同情されたのだ。これからは幸せになれる。施設を出るとき職員の一人に言われた。
 その家は普通の家ではなかった。吸血鬼の一族で、養育する代わりに血を差し出せと迫られる。これが幸せか。俺は笑った。他にどうしようもなく、もうどうでもよかった。言われるまま差し出した。抵抗するのも面倒だった。
 漫然と暮らす、何もない日々。
 そんな中で、操に出会った。
 操は庭にいて、寒い中、薄着で座り込んでいた。
 ぐぅーっと鳴る。ぐぅぐぅとみっともなく鳴り響く。操の腹の音だ。腹を叩いたり、引っ込めたりしているが、音は一向に鳴り止まない。止まらないことがだんだんと悲しくなったのかぽろぽろと泣く。
 傍に行くとはっとしたように顔をあげた。黒目がちの大きな目が印象的だった。 
「腹が減っているのか」
 俺は尋ねた。
「……みさおが血を吸うと、みんな痛がるの。だから、みさおはもうご飯食べないの。それで死んじゃうの。そしたらみんなに嫌がられない。」
 それは事実だった。血を提供するのは当番制で、ローテーションを組む。俺はまだ操に提供をしたことはなかったが、操に当たる人間は浮かない顔をする。明らかに嫌そうな態度は本人にも伝わっているらしい。
 ぐぅっとまた腹が鳴る。余程空腹なのだろう。
「もうご飯は食べないの。血を吸うとき、みんなものすごく痛がるし、嫌がられているのを知っているの。メーワクかけて、嫌われているのをちゃんと知っているの。だから、みさおは、もうご飯は食べない。それで死ぬの。」
 操は繰り返した。それは、ひもじさに打ち勝とうとする叫びのように思えた。
「本当に死ぬのか。そんなに死にたいのか。」
 止めるわけでも、慰めるわけでもなく、そんな質問を口にするなど随分と酷いと思う。だが、俺は尋ねたかったのだ。それはずっと両親へぶつけたかったものだった。――自ら命を絶った二人に、本当に死にたかったのか、生きる道があれば生きていたのか、それとも疲れ果てて生きることが出来なかったのか。
「だってぇ、だってぇ、みさおは死ぬしかないもん! お腹すいてもご飯食べれないんだもん!」
 操の思いつめた表情が強張り、次に崩れて、声を上げて泣き出した。
「なら、俺の血を吸うか」
 操は俺の申し出にぶんぶんと顔を振った。
 俺は操を抱き上げた。
「お前は死んだりしない。腹が減ったなら俺の血を飲ましてやるから。だから、泣くな」
 そして、本当に操に血を吸わせてやった。すごく痛いよ、と言ってきたが、平気だからと、とその髪を撫でながら、首筋を出した。操が恐る恐る歯を立てる。めり込んでいく鋭い犬歯に思わず身体がこわばると、操は敏感に察知して途中でやめようとしたがぎゅっと身体を抱きしめて、そのままでいい、と言った。
 飲み終えて首筋から顔を上げる。
「……痛かったでしょう?」
「それほどでもない」
「うそだ! みんな痛いっていうもん」
「みんなはどうかしらんが、俺は平気だ。だから、もう死ぬなど言うな。腹が減れば好きなときに飲めばいい」
「……みさおは、生きててもいい?」
「当たり前だ」
 告げると、操はまた泣いた。
 人のことなど顧みる余裕など何処にもなかったはずが、誰かのために何かをしようなど思える状況ではなかったはずが、どうして血を与えようとしたのか。そのために生き残ったから。そう思うこともある。そうであるような気がした。そうであるなら、少しだけ生きることを許されると思った。――俺はずっと罪悪感を抱き続けていたのだ。自分一人だけ生き残ってしまったことに。
 それから俺は操の専属となり、操に血を与える続けた。目的が出来ると生きることへの苦痛が少しだけ和らいだ気がした。しかし、それでも眠れない夜はある。一人でベッドに腰掛けてぼんやりと窓を眺めるていると、魔が差すというのか、闇夜に引きずられ、身を投げ出したい衝動に襲われる。ふらふらと立ち上がり窓辺へと近寄っていく。
 ここから身を投げ出せば終わる。あと一歩の境界線を、だがいつも越えることはなかった。背後の、扉の向こうに誰かがいるような気がして、呼び止められているような気がして、振り返る。こんな夜更けに人が訪ねてくるはずがないが、それでも気になり、一度気になると心を巣くっていた魔は退散し、我に返る。俺は扉に近寄った。開くとそこには操がいた。泣きそうな顔で俺を見上げてくる。
――何故、ここに。
 不思議に思いながら、震え出しそうな小さな身体を抱き上げる。ずしりとした重みと子どもの体温が伝わってくる。俺はその身を抱いたままベッドへ横になる。温かい。伝う温もりに瞼が重くなり、俺は眠りに落ちた。
 そんなことが度々あった。俺が眠れずにいると、まるでそれを知っているかのように操は俺のところへやってきた。
――俺は一人ではないのか。
 やがて俺は思い始めた。家族を失い、たった一人で世界に放り出されたが、操は俺を見つけ手をさしのべてくれた。
 操のために生き残ったのかもしれないとの思いは、操のおかげで生かされているのだという確信に変わった。
 夜、部屋を訪れ、慣れた動作で彼女を抱き上げる。慣れた動作で彼女が俺の首筋に顔をうずめる。しばらくの沈黙のあと、ゆっくりと離れていく。回数を重ねるうち随分上手く飲むようになったが、それでも時折流血する。溢れる血を彼女の舌が触れる。
「ごめんね。痛かった?」
 小さな声で泣きそうに言いながら吸い付くように舐める。
 繰り返される夜毎の行為に甘い眩暈いがする。
 幼女から童女、少女、そして娘へと成長していくすべてを掌握する。操のすべては俺の血で出来ている。甘美で官能的な感覚に浸された。誰にもけして触れさせない。俺だけのものであると、強い執着がじわりじわりと心に溢れ出した。求められる快感に身体中が痺れる。その瞬間の幸福に打ち震えた。
 いつまでも、俺の腕の中にいて、いつまでもこの関係が続けばいい。
 だが、それは叶わぬ望みであった。
 吸血鬼は若い人間の血を好む。巻町家の一族に血を提供するのは十五から二十二までの人間だ。俺は今年で二十六になる。それを証明するように、操は俺の血をあまり飲まなくなっていった。
 大人へと成長していく彼女の傍で、遠くないうちに、俺はいらなくなるだろう、とさびしい予感は強まっていく。
 操が他の血を望むのに無理やり繋ぎ止めることなどできない。諦めるよりほかにない。繰り返し、幾度も、己に言い聞かせた。考えるほど手足が冷えて血の巡りが鈍る。頭が怠く重たく集中力が落ちる。 
 そして、恐れていたことが現実になった。
 諦めなければ。もう。彼女のことは。会わずにいれば慣れる。人は環境に順応する。
 俺は慎重に生活を送った。僅かでも気を緩めるとバランスを保てない。何も心に入れず、時をやりすごそうとした。
 空虚。虚無。がらんどう。
 何もなく、たんたんと、時が過ぎる。
 彼女が存在しない俺の人生は何もない。――わかっていたはずが、身を持って実感するのはまったく別であった。 
 さらってしまおう。
 すっと頭に浮かんだのは、夜道を歩いていたときだった。高く上がった煌々とした真白な月が美しく、じっと見つめながら歩道橋を昇り終えると、ふいとそんな言葉が生まれた。
 さらってしまおう。とてもまともな発想ではなかったが焦点がぼやけていた世界が輪郭を取り戻す。成功するかどうかの問題ではなかった。彼女へつながる行動していたい。そうでないと狂ってしまう。
 たまっていた有給を消化し、俺は彼女の動向を探ることにした。
 一週間ぶりに見る彼女は随分やつれているように思えた。
 スターバックスコーヒーに入る後を追う。運よく真後ろの席に座ることが出来た。
「操。本当にご飯ちゃんと食べてるの? どんどんやつれてるよ」
「食べてるよ」
「……そうよね。今日だってお昼普通に食べていたものね。でも、調子は良くないでしょ。今日だって体育の授業見学していたじゃない。どっか悪いの?」
「どこも悪くないよ」
「……そんなに元気ないのに?」
「元気、ないことはないよ」
「嘘ばっかり」
 彼女の声が聞こえる。雑多な店内で彼女の声だけが確実に俺の耳を捕える。
――しっかり食事をとっていないのか。
 他の人間の血が慣れないせいか。やはり俺がいいと、思っているかもしれない。
「実は、失恋したんだよ」
 期待はたちまち脆く崩れ去る。
 思ってもみない台詞だった。操に好きな男がいた。――いや、まったく予想できないことはない。食事をしなくなったのも”ダイエット”だと言っていた。あれは俺の血に飽きたからではなく、本当にダイエットだったのか。好きな男が出来て、痩せようとしていたのか。
 ふっと息が漏れる。鼻で笑う。道化ではないか。これでは、まるで、完全な、独りよがりの。
「無謀な相手だったから。最初からうまくいきっこないのわかってたし。だから、誰にも言うつもりなかった。ひっそりと人知れず葬るつもりだったの」
 無謀? 一体どんな男だというのか。
 悪意があふれ出てしまいそうだった。その男に。操が失恋したという男に。
 だが――、
「えっと……どう話せばいいのか難しいんだけど。その人とはちょっと厄介な関係というか、相手にとっては私は妹みたいというか、いろいろお世話をしてくれていて、もう十年近く一緒にいる人で、ずっと好きだったけど、迷惑ばっかりかけて、いい加減、その人に甘えるのをやめなくちゃって思ってたんだよね。で、先日、その人が交通事故に遭ってさ……私、すっごくびっくりしてお見舞いに行ったんだけど、でも、その人は私の姿を見て、私がちゃんとご飯食べているのかって心配をして、食べてないなら食べなさいって準備し始めて……ああ、この人って私が心配しているって思わないんだってショックというか……それまでも散々面倒みてもらっていたし、そういう関係性が出来上がってるからそんな風に思われても仕方ないんだけど、でも、そのとき、ああ、もうここでやめようって思ったの。もうこの人に面倒を見てもらうのはやめよう。そうでないと、辛いって。それでもう私の面倒は見なくていいって言って帰ってきた。それから一切連絡してない。きっとお守から解放されて喜んでると思うと悲しい寂しい」
 聞き間違いかと思った。操が告げる内容は、どれほど疑ってみても俺のことに聞こえるから。そんなはずがない。彼女が俺を好きでいるはずが、そんなこと起きるはずがない。
 俺が呆然としているうちに背後では話が続いていき、操はその”好きだ”という男にメールを送ると言った。そして、僅かの間のあと、テーブルに置いている”俺の”携帯が鳴った。
 ディスプレイには操の名前がある。
 俺は後ろを振り返ると、どういうわけか操もこちらを振り向いていて目が合う。
「なんで……いつからいたの?」
 信じられないという顔で尋ねられる。
 俺は答えられない。こんな状況は想定外過ぎる。
「全部聞いていたの?」
 泣き出しそうな顔に、すまない、とかろうじてそう告げれば操は立ち上がり「最悪」と捨て台詞を吐いて立ち去ろうとするが――勢いよく立ち上がったがふらふらと身体が揺れて顔からも血の気が引いている。俺は倒れる寸前で彼女を抱き留め、そしてそのまま自宅へ連れてきた。
 眠る彼女の髪に、頬に、首筋に、少し湿った真っ赤な唇に触れる。
「……お前、本当に、」
 そこまで。それ以上の言葉を紡ぐことができない。胸の当たりがもやもやとして、不安定な、落ち着かない、居心地の悪さが邪魔をする。考えたことがない事態に狼狽えている。どうすればいいのか答えは出ない。早く目が覚めてほしいような、まださめてほしくないような、複雑な気持ちで彼女の唇を押さえた。


◇◆◇


 胸騒ぎがして眠れなくなることがあった。不安、焦燥、そういったものがこみ上げ目が醒める。横になっていることが出来ずに部屋を抜け出し、静まり返った屋敷の廊下を抜けて、階段を下り勝手口から外へ出る。小道を進むと雑木林に入り、その先には人間が暮らす宿舎がある。私は真っ直ぐそこへ向かう。
 昼間の、日差しを浴びたキラキラと健康的な匂いのする木々とはまったく別の、不気味な静寂が寒気を誘う。時々脅かすように聞こえる羽音に身体がこわばった。早く、早く、早く。恐ろしさに打ち勝つ呪文のように唱え走り続ける。
 ようやく視界が開けると宿舎が見えた。右手で胸を押さえながら一歩、一歩、進んでいく。向かうのは彼の、蒼紫さんの部屋。扉の前にたどり着き立ち止まる。ノックをしようと拳をあげるが――どうしてここへきたのだろう――息を吐き出す瞬間に冷静さが押し寄せてきて、我に返り立ち尽くす。何をしにきたのかと問いかけてくる。
 ここへ来ることを禁じられているわけではなかったが、用事があっても彼らの方が屋敷へと呼び出されるのが慣例だ。宿舎は彼らが私たちから解放される自由な場所であり、私は招かれざる者だ。それなのに、ふらふらと来てしまった。
 拳を降ろす。指先が冷たく凍り付きそうだった。小さく後ずさるとカチャリとかすかな音がしてノブが回り扉が開く。あっと声が漏れるのを飲み込む。そこには蒼紫さんが立っていた。
 叱られると思ったが見上げた顔に怒りはなかった。言葉を待つが彼の唇が開かれる様子はなく、首が痛くなるばかりで私はうつむいた。すると、頭に手が触れる。かと思うとふわりと身体が浮いた。蒼紫さんの顔が近くにある。抱き上げられているのだとわかると、びっくりしたが、彼は相変わらず無言で、私を抱いたまま部屋に入りベッドへ寝かせられる。足先に触れるシーツは冷たくて眠っていた名残を感じられない。起きていたのだろうか。だから、私の気配を敏感に感じ取ったのか。
 彼は私を寝かせると同じように横になり目を閉じる。ほどなくすると健やかな寝息が聞こえ出す。規則正しい呼吸が子守歌のように届き、心にあった不安を溶かせ眠り呼び覚まし、私もまた、目を閉じて夢の中へ落ちていく。


 波が引くように現実へ意識が浮かぶ。古い記憶がゆらゆらと白くなりはじめると切ない気持ちがしたけれど、よく知った香りが流れ込んでくるのを感じ落ち着きを取り戻す。目が覚めても甘い感覚はしばらく滞在したが二度、三度と呼吸するうちにひんやりとした寒さに身震いがした。
 シーツに顔をこすりつけるようにして身体を起こす。姿勢が悪かったのか右肩が痺れている。ゆっくりとさすりながら視線だけを左右に動かして確認するが見知らぬ場所だった。薄暗い中でも整然としていて一切の無駄のない空間という印象を受けた。
 閉ざされたカーテンの向こうからわずかに橙色の光が細く床を照らしているのが見える。温もりのある柔らかな光が、かえって室内の寒さを強めているように思えて肩をさすった。
 ここがどこなのか、何が起きたのか、少しずつ鮮明になる記憶から答えを導き出すのは簡単だったが、これからどうすればいいのか、という問いに行き着くと思考停止に陥ってしまう。
 とりあえず、ベッドから離れるべきだ。一日の疲れを癒す場所を他人がいつまでも占領していたらいい気はしない。私は掛け布団をはいだ。どれくらい眠っていたのか時計がないのでわからないが、スカートのプリーツとは違う方向に皺が出来ている。アイロンだけではとれないかもしれない。皺をのばす仕草をとっていると、また昔の思い出が呼び覚まされた。
 あれは小学校に通いはじめの頃、正体がばれやしないかといつも緊張を強いられた。帰宅すると張りつめていた糸がぷつんと切れて倒れる。部屋に運ばれ寝かせられるが制服のままだったので起きるとスカートが皺だらけでこんな格好では明日学校に行けないと泣きわめいた。
「どうして着替えさせてくれなかったの!」
 私が訴えると、面倒を見てくれていた蒼紫さんは困った顔をした。当然だ。いくら幼いとはいえ女の子の服を脱がせるわけにはいかない。けれど蒼紫さんは私の難癖に怒ることもなく、
「悪かった、操。泣くな」と慰めてくれた。 
 大きな手で髪を撫でられると私は泣くことを忘れ、しゅんしゅんと鼻をすすり蒼紫さんを見上げた。彼は泣きやんだことに安堵したような顔をしていた。
 困らせてばかりいたな、と申し訳ないやら情けないやらでため息を吐き出して、足を床について立ち上がろうとしたら正面にある扉が開いた。入ってきたのは蒼紫さんだった。
 彼は私が起きていることに気づくと傍にある電気のスイッチを入れた。昼白色の灯りが部屋を照らす。私はまぶしくて一瞬目を閉じた。
「まだ、気分が悪いのか」
 こめかみをさすった。目眩は起きない。
「もう平気。……えっと、助けてくれたんだよね」
 室内に視線を泳がせた。ここが蒼紫さんの部屋であることは聞かずともわかるが、ここへ運ぶのは大変だったのではないだろうか。
「店から近いので、連れ帰って休ませるのがいいと判断した」
 蒼紫さんは私の疑問を見透かしたように言った。店から近いということは私の通う学校からも近いということだ。屋敷を出て一人暮らしを始めた彼がこんな近くに暮らしていたとは思わなかった。
「そっか。ありがとう」
「いや」
「あのスタバにはよく行くの?」
 そうだと知っていたら迂闊に彼の話題を口にしなかったのに、と今更だけれど無防備だったことを呪いたかった。
「初めて行った」
 だが、返ってきたのは否定だった。
「初めてだったの?」 
「ああ、」
 蒼紫さんは口元に手を当てた。何かを言い掛けて言い淀んでいるように見えた。たぶん、思い出しているのだろう。私が薫に話していた内容を。そして困っているのだ。この話題は早々に切り上げるべきだったのに、自分から墓穴を掘った。
 立ち上がりかけていたが足元から力が抜けていく。ふにゃふにゃと力が入らずまた倒れてしまいたいと思ったけれど、倒れ続けるわけにいかない。気を引き締めるようにぐっと袖口を握る。すると、黒糸が一本出ているのに気づいた。私はそれを無造作に引っ張った。ピーッと勢いよく解れてそれを指にくるくると巻き付けて無理に引きちぎった。
「……びっくりしてると思うけど、店で聞いたことは気にしなくていいから。というか、気にしないでくれた方がいいというか。あれはちょっとした誤解というか……」
 吐きそうだ。言葉にすると急に胃がせり上がったような不快さが襲ってきて片手でさすった。偶然といえ告白をしてしまい、その告白をなかったことにしてほしいとお願いすることになるなんて。
 蒼紫さんは無言で歩いてきて私の前を通り過ぎるとカーテンを開けた。西日が広がり室内が明るくなる。人工的な光とは違う柔らかな光に包まれ瞬きを繰り返した。床についた足先が冷たくて一度浮かせ宙をぶらぶらと揺らした。彼は窓から離れて私の前に立つ。顔を見ることが出来ずに彼の足元を見ていた。黒の靴下と、茶色のパンツが見える。蒼紫さんは私の隣に腰掛けた。ベッドのスプリングが軋む音がして、私の緊張は増した。
「あの話は誤解だというのか」
 声が斜め上から聞こえた。蒼紫さんは体格がいいから隣に座っていても私を見下ろす格好になる。
「本当に誤解か」蒼紫さんは続けて言った。せっぱ詰まったように聞こえ、変だなと彼の顔を見上げ、
「本当にって……」飲み込めない言葉をかみ砕くように口内で唱えれば泡のようなパチパチとした感覚にうつろになりかけていた視界がはじかれた。
「操。」
 大きな手が私に触れた。彼の目を見つめ続けることが出来ず逸らしてしまう。
 床を照らす西日がぐんぐんと室内に入り込んできて私の足元まで伸びてきていた。やがて太陽が沈みきり夜が訪れる。私の意志とは関係なく形を変えていく。それは太陽だけに限ったことではないらしい。十数年間の秘め事があっけないほどに僅か一日で明るみに出てしまったのだ。
「……俺が何故あの場にいたかわかるか」
 蒼紫さんは微苦笑を漏らすように言った。
 問いかけのようだけれど独白にも思えた。事実、蒼紫さんは私の言葉を待たずに続ける。
「興味がないと思っていた。お前は俺のことなど少しも興味がないと。だから最後通牒を突きつけられて、諦めなくてはいけないと思った。一度はそうしようとこの一週間努めてきた。でも諦めきれなかった。どうしても。それでお前に会いに行った。さらうつもりで。いや、そんなことが現実に出来るはずはない。お前に嫌がられ抵抗されたら俺は打ちひしがれ逃げ帰るしかなかっただろう。それでもお前に会えたらいいと待ち伏せして、後を追った。だが事態は思ってもみない方向へ進んだ」
 彼の声は美術館のナビゲーションのように明瞭で淡々として、込められているはずの熱は体内に溶けて静かに感情を震わせていく。
「お前に好きな男がいるという話になって、地獄に落とされた。どんな男なのか。知りたいと思い、同時に知りたくないとも思った。手足が震えて叫びたいのを必死に堪えていた。だが、続けられた内容に、今度は別の震えが起きた。俺は悲しみのあまりに現実逃避を起こしているのかと疑った。どう聞いても、その男が自分に思えてならなかったから。そんなはずがない。ありえないと繰り返し言い聞かせながら、膨れ上がる期待を消し去ることができずにいた。お前はその男にメールを送ると言った。それから俺の携帯が鳴った。疑いようもなく俺のことなのだと。だが、それでも不安は消えなかった。お前の目が覚めたらあれは嘘だと言われるのではないかと――そしたら、お前はなかったとにしてほしいと言った。照れ隠しで言っているのだろうと考えることもできる。だが、まったく自信がない」
 彼がこれほど長々と話すところを見るのは初めてだった。私はただあっけに取られていた。
 私が蒼紫さんを好きだったことを信じられないと言うけれど、その言葉をそのまま返したい。蒼紫さんが私を思ってくれていたなんて、そんな素振り微塵も見せられたことはなかった。知らない。聞いてない。
「そんな顔するな」
 私の頬を撫でていた手で今度は軽くつねられる。どんな顔をしているのか。きっと不満そうな顔をしているのだろう。不満というか、
「だって、嘘ばっかり!」
 それが率直な感想だった。
「嘘など言ってない」
「でも、ずっと素っ気なかったじゃない」
「それはお互い様だろう。お前だって俺に興味のない態度だった」
 興味がない。さっきもそう言われた。彼が何をもってそういうのかさっぱり理解でない。たしかに、好きであるということは隠さなければならないと思っていたけれど、興味がない態度など取った覚えはなかった。
「俺が一人暮らしを始めることにしても、引き留めることもなかったし、何処に住んでいるとも訪ねなかったし、遊びに行きたいとも言ったことはないだろう」
 彼は納得行かない私のために丁寧に説明をしてくれる。だがそれは見当はずれもいいところだった。
「だって、それは……本来なら大学卒業したら屋敷を出ていくのが決まりだし、引き留めるなんて我が儘言えないし、それにズケズケとプライベートなことを聞いたら鬱陶しがられると思ったから聞いちゃいけないって思って……ってかそんなこと言うなら、蒼紫さんから教えてくれたらよかったじゃない」
 遊びに来てほしいと少しでも思ってくれていたなら、言ってくれたら私は喜び勇んで訪ねていただろう。間違いなく。 
「興味がないと思われているのに自分からそんなこと言えるはずがないだろう」蒼紫さんはふてくされたように言った。私はその子どもじみた言い方に、これは本当に蒼紫さんなのかと驚いて口をつぐんだ。すると、蒼紫さんも大きく咳払いをする。
「すまない……お前を責めるつもりはなかったんだが……その、つまり俺が一番言いたいことはだな、」
 けれど、蒼紫さんはそれきり黙ってしまった。急に空気が凛と張りつめていくのがわかった。
 目が覚めて怒濤のように知らされた真実に、売り言葉に買い言葉の勢いで切り返してはいたけれど、一度止まって全容を把握してしまうと恥ずかしく、そして情けなくなっていた。それは蒼紫さんも同様なのか、しゅん、としょげているようにも思えた。
 互いに黙ったまま時が過ぎていく。
 どうすればいいのか。どうするも何も、もう一度ここで告白するべきなのはわかっていたけれど、静まり返った空気を打ち破るにはなかなかの勇気がいる。それにいまいち現実と焦点が合わず、どうしても聞かされたことを十分な質量を持って理解できずにいた。
 一方で蒼紫さんは私の頬を触れていた手はいつのまには離れ、自らの顔を乱暴にごしごしとこする。それが終わると、
「操。」
 蒼紫さんが言った。
「食事にするか」
「え?」
「日も暮れるし、食事の時間だろう」
 それまでのすべてを無視したような発言に私は言葉を失った。すごろくの上がり手前で振り出しに戻されたようなガッカリ感はすさまじく、腹立たしくなる。
「何それ。今、そんな話してないじゃない」
「……それはそうだが、俺も混乱しているし、お前だってそうだろう。これ以上この話を続けるのは難しいし、少し時間を置いてから改めて、」
「意気地なし!」
 頭に血が上って私は近くにあった枕を投げつけた。彼が慎重な性格で、迂闊なことを言わないというのは良く知っていたし、私だって勇気が出せずに口籠っていたけれど、それを棚に上げて罵る言葉が出てしまう。
 それから立ち上がって部屋を出ると、ダイニングのソファに私のコートと鞄が見えてそれをひったくるように掴んで玄関に向かう。たっぷり眠ったせいか立ちくらみが起きることもなく靴を履いて扉を開けたら、冷たい風が頬を撫でた。廊下は東向きになっているせいかすでに夕日は消えて空が濃紺に染められていた。
 エレベーターホールへ向かって踏み出す前に、後ろ髪を引かれるようにチラリと振り返ってしまう。けれど、私の期待は木っ端みじんに打ち砕かれる。彼が私を追ってくる姿はなかった。
「意気地なし!」
 私はもう一度大声で叫んで今度こそ本当に部屋を後にした。



2014/1/7