2014年読切

うちへ帰ろう

 薄午後七時過ぎ、着信がきた。ディスプレイには「緋村さん」の名前が表示されている。私は慌てて受話器あげるのボタンを押した。
「もしもし?」
「操ちゃん? こんばんは。」
 騒々しい場所にいるらしく、声の隙間からざわめきが漏れてくる。
「えっと、こんばんは。」
 私は戸惑いを隠せなかった。緋村さんから電話がくるなど初めてだったから、ということもあるけれど、彼が電話をかけてくる理由に心当たりがあったからだ。
「急で申し訳ないんだけれど、これから出てこれる? 迎えに行くから」
「え?」
「実は四乃森が倒れたんだ」
「ええ!?」
 四乃森蒼紫――それは私が長年好きでいた人物の名前だった。
「ああ、心配しなくていいよ。事故や病気ではないから……とにかく迎えに行くから用意しておいて。家はたしか春木町だったね」
 事故や病気ではなく倒れるとはどういうことだろう。私を心配させないように言っているだけだろうかとも疑ったが、そんな嘘をつくのは変だし、緋村さんの陽気な声も私をだましているようには思えない。それでも心配だ。私は緋村さんに尋ねられるままに家の住所を教えた。
 それから十分して再び携帯が鳴った。下まで来たから降りてくるようにと。言われたとおりに向かうと、マンションの前の通りに一台のタクシーが見えた。近寄ると緋村さんが乗っている。扉が開いて、私も乗り込んだ。
「すみません、さっきの場所まで戻ってもらえますか」
 緋村さんが告げると車は緩やかに走り出した。
 私は横に座る緋村さんを見る。何がどうなっているのか知りたかった。
「久しぶりだね」
「あ、お久しぶりです」
 緋村さんはとても落ち着いていて、のんきに挨拶される。そんなことより蒼紫さんはどうなってるんですか!? と興奮気味に聞きたいのが本音だけれど、緋村さんのほんのりとした笑顔を前にして言えなかった。そもそも、あまり親しくはないので馴れ馴れしくできない。
 車は大きな通りをUターンした。たしかここはUターン禁止のはずだ。それでも多くの車がUターンする。ときどきパトカーに見つかり捕まっているのを見たことがある。今日はパトカーはいなかったようだ。緋村さんの向こうに夜の景色が流れ去っていくのが見える。
「薫と、仲良くしてくれてるみたいで、ありがとう」
 どのように話を切り出そうか迷っていると言われた。
「いいえ……私も薫さんと親しくなれてうれしいですから」
 薫さんというのは緋村さんの恋人だ。私より一つ年上になる。
 彼らとは蒼紫さんを通して知り合った。蒼紫さんと緋村さんが大学時代からの友人で、緋村さんと薫さんが付き合い始めると紹介され、三人で食事に行くようになり、最後に私が加わったのだ。
 私の参加は蒼紫さんにとっては予定外、迷惑だったかもしれないと今にして思う。
 きっかけは去年の初詣の帰りに偶然鉢合わせたことだった。
 毎年初詣は蒼紫さんを誘う。二人でこの近辺では一番大きな神社へお参りに行く。ようやく参拝を終えた帰り道、人でにぎわう中、「四乃森」と声がして立ち止まる。
 にこやかに声をかけてくる二人がいて、蒼紫さんが挨拶をする。蒼紫さんは体格がいいので、私はその陰に隠れるようになっていたけれど、緋村さんが気付いて、そちらは? という風に伺いながら私にも挨拶してくれた。蒼紫さんが私を振り返る。それから彼らに幼馴染だと紹介した。事実だったけれど、私がかっがりしたのは言うまでもない。
 その後、彼ら三人の食事会に私も呼ばれるようになった。最初はびっくりしたけれど、少し嬉しくも感じる。だってまるでダブルデートみたいだったから。もっとも蒼紫さんからは年の離れた男二人だけより、年の近い私がいたほうが薫さんも楽しいだろうからという説明をされたけれど。蒼紫さんが私のことを全然恋愛対象と見てくれないことは知っていたが、本当にことごとく夢を打ち砕いてくれることを言うなぁと悲しくなった。
 車の速度が遅くなる。しばらくすると完全に停止した。降りると繁華街だった。
「こっち」と後から降りてきた緋村さんが歩き出す。私は半歩後ろをついていく。
「いったい、何があったんですか」
 ようやく聞けた。
「うん。ヤケ酒飲んでぶっ倒れて、お店で横になってる。迷惑な奴だよね」
 緋村さんは少しだけ振り返るとまた前を見て、笑いながら言った。
 蒼紫さんは下戸だ。それなのにどうして呑んだりしたのか。
「ヤケって、何かあったんですか?」
 仕事で大きなミスでもしたのだろうか。
「それは操ちゃんが一番知ってるんじゃない?」
 返ってきた答えは違った。
「私が?」
「そう。君に振られたから」
 さらりと告げられるがとんでもない内容だった。
「なんですか、それ。私振ったりなんてしてません。振られたのは私の方だし!」
 力いっぱい大きな声で言ってから、はたっとなって口元を覆った。どうして大声で振られたことを言わなければならないのか。
 緋村さんは立ち止まった。私も立ち止まる。後ろからきたホロ酔い加減のおじさんが、私たちを邪魔そうに横目で見ながら追い越して行った。
「私が振られたんですよ」
 私は口元から手を下して言った。


 去年の私の誕生日だった。
 一人暮らしの蒼紫さんの部屋に押しかけていって「お祝いして!」と無理やりお祝いしてもらった。ケーキをかってもらい、家でDVDを見ながら、くつろいでいると、
「いつまで続くだろうな」
 唐突に、そして独白のように蒼紫さんが言った。
 私がすかさず、どういう意味? と尋ねるといつも冷静な蒼紫さんとは思えない慌てたような顔をして、
「いや、なんでもない」と返される。
「なんでもないわけないじゃん!」
 私は声を荒げた。蒼紫さんが何を言いたいかわかってしまったからだ。
 幼い頃――物心つくかつかない頃から、私は蒼紫さんを一心に好きでいた。けれど、蒼紫さんは私の気持ちを少しも信じてくれていない。子どもが恋に恋しているだけで、いつか本当に好きな人が出来たら蒼紫さんへの気持ちが恋ではないと気づく日が来ると考えている。
 もう随分前、私が中学生の頃に面と向かって言われたことがある。当初は自分の気持ちを否定されたことが悔しくて寂しかったけれど、でも、私は負けたくないと思った。いつか、絶対、私の気持ちを認めさせてやるのだと息巻いた。あれから、五年。私は成人した。大人になった。もう認めてくれてもいいのではないかと思っていた。長い時間をかけて証明してきたのだから。それなのに。
「そうだね。来年はきっと他に本当に好きな人が出来てるから、蒼紫さんと過ごすのは今年で最後だと思う」
 ヤケになっていた。傷つけてやりたかった。そうでもしないとおさまらなかった。でも、蒼紫さんはただ静かに、そうか、と言っただけだった。


 あれから、蒼紫さんとは一度も会っていない。毎年行っていた初詣も誘わなかったし、蒼紫さんからも誘ってくれることはなかった。
 思い出すと涙が出そうになり、自然と視線が下がる。
「本当に大事なものを傍に置いて大切にしようと思える人間ばかりではないからなぁ」
 緋村さんが言った。言葉は理解できるが、意味は少しもわからなかった。
「僕よりも操ちゃんの方が四乃森のことをよく知っていると思うけれど、あいつはとても情の厚い、優しい男だけど、とても弱い一面がある。頭が良すぎて考えすぎて臆病になる。幸せだと思った瞬間、その幸せを失うことを考えてしまう。失うことばかりに目を向けて、大事なものを手に入れて失うくらいなら最初から手に入れない方がましだと思う」
 私はゆっくりと顔を上げた。
「そんなの愚かだよ」
「うん。僕もそう思う。けれど、本当に大切だからこそ臆病になる気持ちは理解できる」
 緋村さんの目がいつのまにか真剣なまなざしになっていた。
「蒼紫さんが私を大切にしてくれていたのはわかっています。でも、大切にもいろいろあるじゃないですか。蒼紫さんは私のことを異性として見ることはできない。私はそれが辛い。だから離れるしかない。お互いの大切の意味が違うから仕方ないんです」
「四乃森が操ちゃんを異性として見れないなんて、それ本気で言ってる?」
 緋村さんのまなざしが今度はちょっと驚いたように見開かれた。
「だって、好きだなんて言われたことないもの」
 その驚きに、すかさず反論を返すと、
「言葉に出さなければ伝わらないと言うけれど、言葉に出して伝わるようなことなど大したことではないのかもしれない。本当のことは感じるしかないんじゃないかな」
 緋村さんから返ってくる。
 近くの店から人が出てくる。元々にぎやかな場所ではあったけれど、ガヤガヤとしたざわめきが増し、そちらに視線を向けると六、七人の男女のグループがいて、二次会にカラオケに行こうと盛り上がっていた。私たちは彼らの姿が見えなくなるまで黙ったままでいた。
「さぁ、行こう。あんな図体のでかい男をいつまでも寝かせていたら店に迷惑だから」
 緋村さんは重くなりかけていた空気を拭い去るように、優しげな表情に戻って笑い、止めていた歩みを進め始める。私はまたそのあとをついていく。
 心臓がドクドクと早まっているのがわかる。けれど、それがどういう意味合いなのかよくわからなかった。ただ、何かを知らしめるように大きく脈打っているような気がして、私は胸を押さえた。
 それから三分程度で、お店についた。炉端焼きのお店だ。緋村さんはぐんぐん奥へ入っていく。途中年配の女性(この店の女主人?)のような人とすれ違い、
「すみませんね」
「いいのよ。だけど、あんなにへべれけになるなんて、本当の弱いのねぇ。いつもウーロン茶ばかりで少しは呑めばいいのにと思ってたけど、今後はウーロン茶以外は呑ませられないわね」
 というような会話をしていたので、この店はいきつけらしいことがわかった。
 それにしても、そんなにへべれけになっているのか。蒼紫さんとの付き合いは長いが、いつもピシリとしている印象しかないのでまったく想像できずにいると、一番奥のお座敷にたどり着く。そこには横向きになっているので顔が見えないが、背格好から蒼紫さんだろうという男性が横になっていた。
――本当に酔って寝てる……。
 初めて見る光景に驚いていると、
「おい、四乃森。起きろ。お前の大好きな操ちゃんを連れてきてやったぞ」
 お前の大好きなは余計ではないだろうか。何を言い出すのか。と訴えたかったけれど、その前にガバっと勢いよく蒼紫さんが起き上がったのでチャンスを逃す。
 蒼紫さんは焦点が定まらないのかぼんやりと緋村さん、それから私を眺めている。と、思っていたら目が合い、緋村さんを押しのけるようにして私の右手首を掴み引き寄せられる。ぎゅぅぅぅぅうううううっと懐に抱きしめられて私は息を止めた。状況についていけなすぎて。
「お前なぁ」
 呆れたような緋村さんの声が聞こえる。私は呼吸を取り戻したけれど、身体が熱くて焼け焦げてしまいそうになる。
「そんな力任せにしたら痛いだろう。嫌われても知らないからな」
 非難の仕方が少し違うのではないだろうか、と思ったが蒼紫さんの力が緩み解放された。だけどまだ近い位置に蒼紫さんの顔がある。私の熱はますます上昇する。
「……操。お前は俺を嫌いなのか。もう他に好きな男がいるのか」
 しっとりとした、うるんでいるともとれる眼差しは、私の知る蒼紫さんとは違っていた。見たこともない煽情的な色気が潜んでいるように感じられる。
「みさお……」
 おまけに酔っていて呂律も怪しく、私の名前を呼ぶ声も甘く聞こえる。
「俺が嫌いか」
 繰り返される。
「き、嫌いじゃない、好きです」
 私はその色気に飲み込まれ、声が上ずってしまうが、蒼紫さんは気にすることもなく、そうか、と言うとまたしてもぎゅぅぅぅううううううううううううううううっと抱きしめてくる。
「だから、やめろよ。ここをどこだと思ってるんだ。そういうことは家でしろ」
 またしても緋村さんの呆れたような声がする。そして、やはりその突っ込みはどこかズレているのだけれど、蒼紫さんは、ぱっと私を離し、
「そうだな。こんな公衆の面前ではしたいことも出来ない」
 と言うと私を抱えるようにして立ち上がり歩き出す。その足取りは酔っているとは思えないほど実にしっかりしたもので、少しも揺らぎはなかった。と、感心している場合ではなくて、
「って、ちょっと、どこ行くの!」
 私が言うと、
「うちだ」
「うち?」
「なんだ。ホテルに行くとでも思ったのか。心外だな。俺はそんな野獣ではない」
「な、なに言ってんの!? 誰もそんなこと言ってないでしょ!!」
 蒼紫さんがそんな台詞を聞くなんて夢にも思っておらず、私はさっきまでの身体の熱さとは別に今は羞恥でカッカッとしていた。やっぱりしっかり酔っている。そして、かなり、たちが悪いっぽい。
「おい、四乃森」
 そこへ、後ろから緋村さんが鞄とコートを持ってやってきた。
「ああ、緋村か。すまないな」
 蒼紫さんはそれを受け取ると素早く着込み、鞄から財布を颯爽と出し、万札を緋村さんに握らせると、
「すまないが、急いでいるので支払を頼む」
 言うや否や、再び私を引きずるようにして歩き出した。



 その後、私たちは晴れて恋人同士になったのだけれど、あの夜に何があったかは墓場まで持っていくつもりだ。ただ、蒼紫さんの名誉のために一言そえるならば、たしかに彼は野獣ではなかった。



2014/1/17