シンデレラになりたくて

 シンデレラはこころやさしい魔法使いのおばあさんに舞踏会へ連れて行ってもらい、王子様に見初められ幸せになる。
 幼い頃は大好きな物語だった。私もいつかシンデレラのようになれる日を思い描いた。だけど、大人になるとそれは夢物語であると理解する。
 私はシンデレラのような美女でもなければ、清らかで美しい心も持っていない。ごく普通の平凡などこにでもいる女の子なのだ。身の丈を知らなくちゃ。いつまでも夢を見ていては笑われる。そんなことわかってる。わかっている、のに――それでもまだ諦めきれずにいる。ほとほと未練がましくて嫌になる。





「本当に腹立つのよ。年上だと思って、私のこと子ども扱いするんだから!」
 薫はかわいい顔を真っ赤にして怒っている。その顔もやはりかわいい。同じ年の私から見てもかわいいなぁと思うのだから、きっと年上の男の人にしたらかわいくて仕方ないだろう。薫を苛めて怒らせたくなる気持ちがわかる。ただ、それをそのまま言えばきっと薫の怒りはますます激しくなるから、私は寸で言葉を飲み込み、
「喧嘩するほど仲がいいっていうし。なんだかんだ言いながら薫と緋村さんはラブラブだからねぇ。怒りながらも嬉しそうだし。羨ましい」
 茶化すように言えば、今度は別の意味で顔を赤らめて、
「ちょ、いやだ。そんなことないよ。私は本気で怒ってるんだから!」
「はいはい」
「もう! そうじゃないんだってば」
 慌てふためき否定する姿に私は声をあげて笑った。
 高校からの同級生である神谷薫。出会ってすぐ意気投合し親しくなった。それからずっと仲良くしている。
 薫には親の決めた許嫁がいた。許嫁なんて今時あるの!? と聞かされたときは驚いたけれど、私の入学した女学院はいわゆるお金持ちのお嬢様のための花嫁修業学校みたいなところで、クラスの三分の一くらいの子に決められた婚約者が存在した。自由恋愛のできない世界が現実にあるのだ。薫もそのうちの一人。神谷活心流という日本でも有数の剣道の流派の一人娘で、家督を継ぐため婿養子をとることが決められていた。それももちろん剣道の腕前が立派でなければならない。そして白羽の矢がたったのが緋村剣心さんという私たちより一回り年上の男性だった。
 十六の誕生日会でいきなり引き会わされ、薫は怒り狂った。自分の生まれた環境を受け入れてはいたし、ただ好きなだけでは結婚できない身の上だと頭ではわかっていた。それでもいざ目の前に勝手に決められた婚約者を連れてこられるとそれまで感じていた言いようのない気持ちが爆発したのだろう。私も、その誕生日会に呼んでもらっていたから、そのときの薫の憤りを目の当たりにした。その場から逃げ出す薫を追いかけようと踏み出した。それを制したのは他でもない緋村さんだった。
「僕が行くから」人の良さそうな笑顔。優しそう。そして、何より若い。一回り年上には全然思えなかった。
 緋村さんは薫の消えた方向へ流れるような身のこなしで走っていく。その後ろ姿を見たとき、私は不思議と、この二人はうまくいくだろうと思った。後付けの結果論なのではなく予感がしたのだ。そしてその通り紆余曲折の末、二人は結ばれた。親同士の決めた政略結婚ではなく、晴れて本物の恋人同士になったのだ。 
「まぁ、私にも悪いところはあったんだけどね……」
 薫はひとしきり怒りを吐き出せば気持ちが落ち着いたのか、今度は少ししょげたように言う。冷静になれば自分の非も素直に認める。こういうところもかわいいと思う。
 テーブルに置いてあるアイスティーのストローを回す。カランと氷の音がする。もうすっかり冬だけど、薫は冷たい飲み物を飲んでいる。年がら年中、冷たい飲み物を好む。
「……で、操ちゃんの方はどうなの?」
「え? 私?」唐突に振られて声がどもる。
「そう。あの人と、何か進展あった?」
 あの人――。
「あるわけないよ」
「えーなんでよ。そんなことわからないじゃない」
「わかるよ。全然相手になんてされてないもの。いい加減諦めなくちゃいけないって思ってるんだから、進展なんてあるはずない」
 私が言い切ると、それでも薫は何か返してこようとした。それを無理矢理ねじ伏せるよう話を変える。これ以上続ければ、今度こそ諦めると決めた気持ちがまた揺れてしまいそうで恐ろしかったから。

 駅を出て長い坂を上がる。等間隔に植えられている木々はすっかりと冬支度を終えて寒々しい。春から夏にかけては生き生きとした美しさをたたえるけれど、秋から冬には冷え冷えとした印象になる。自然の成り行きだからどうにもならないけど、今の時期、一人きりで歩いていると寂しい気持ちになる。
 坂を上がりきると見えてくる大きな門。表札など出ていない。出さなくとも誰のお屋敷か、みんなが知っている。ここは四乃森家の本宅だ。
 四乃森家――戦前から続く由緒正しいお家柄で日本有数の財閥の一つ。戦後、解体にあったけれど、その後も企業グループとして不動産から建設業、飲食まで手広く事業を展開している。
 立派な門の傍にある小さな扉を持っている鍵で開ける。私はこの屋敷の敷地で暮らしている。
 両親はすでに他界している。私が五歳のとき交通事故に遭い九歳年の離れた兄と二人きり残された。路頭に迷う私たちの保護者となってくれたのは顔も見たことがない遠縁のおじさん。「もう心配ないよ」と葬儀の途中でやってきてにこにこしながら近寄ってきたけれど目はいやらしい色を帯びていた。両親の事故は一方的な相手の過失で、多額の生命保険がおり、それを目当てにしていることは幼いながらもわかったし、私がわかるくらいだから聡明な兄はよく理解していただろう。それでも他に行く宛のない私たちは、不安を抱えておじさんのところへ行くしかなかった。
「お二人の親権はこちらが引き受けます」
 そこへ颯爽と現れたのが四乃森家の使いの人だった。話によると、私の祖父が戦争中に四乃森家の先代の命を助けたことがあり、何か困ったことがあればいつでも助けになると約束をしたとか。そんな昔の約束を今になって果たそうとするとは――私たちは驚きながら、だけどまさに天からの救いに思えた。
 それから法的な手続きがなされ(難しいことはよくわからないけど、四乃森家の威光は政府関係にも融通がきくらしい)兄と私は二人で四乃森家に引き取られた。
 あれから、十五年。
 兄は大学卒業後、四乃森家のグループ会社に就職し、後継者である一人息子の蒼紫さまの片腕として秘書を務めている。忠義を尽くす。それが兄なりの恩返しなのだろう。
 そして、私は――のんきな学生だ。高校からエスカレーターで大学へ進学したけれど、さっきも言った通りお嬢様ばかりが通う学校だ。卒業しても就職せずどこかへ嫁ぐというのが通常コース。住む世界が違う。私は来年になれば本格的な就活が待っている。のんびりとした雰囲気に浸っていると麻痺してしまうけど、私はお嬢様ではないのだ。
 どうしてこの学校に進学してしまったのだろう。
 今更いっても始まらないけれど、中学まではごく普通の公立に通っていた。四乃森家のことは伏して、どこにでもいる中学生だった。授業参観や、懇談にはお願いして四乃森家のお手伝いさんをしている洋子さんに来てもらった。だから、当然高校も普通の公立に行き、大学受験をするのだろうと思っていたのだ。ところが、受験期になると兄が突然言った。
「聖蘭女学院を受けなさい」
「……聖蘭女学院って……あの超お嬢様学校? ないないないない。私のキャラじゃないし。第一、あそこを受けるためには家柄も必要でしょ。私じゃ無理だよ」
「そのことなら心配いらない。問題があるなら学力の方だ。今の成績ではギリギリだ。これから学校から戻ったらみっちり勉強をみるから、合格圏内まで頑張りなさい」
 穏和で優しい兄にしては珍しく随分と強引な物言いだった。私はそれをいぶかしく思いながらも、
「今、頑張れば大学までエスカレーターで上がれる。高校、大学と二度の苦労をすることを思えば、今、一度頑張る方がいいだろう。それもあとわずか頑張ればいいだけだ」
 その言葉に、勉強が嫌いだった私は、そうかぁと納得してしまったのだ。
 兄はどうして聖蘭女学院を受けるよう薦めたのだろう。ひょっとして、会社で何か言われたりするのだろうか。家柄がないから、せめて妹の私に名門女学院に進学してほしかったとか。そういうことがあるのかもしれない。
 四乃森家の敷地は広い。門をくぐってもしばらくは並木道が続く。点々とライトで照らされているけど六時を過ぎると暗い。私有地だから見知らぬ人はいないとわかっているけど、静かすぎる道は少し怖い。
 本邸の傍に建てられた従業員用の家(それも随分立派なんだけど)に兄と私のそれぞれの部屋がある。引き取られたとき、四乃森家の御当主は本邸で暮らすように言ってくださったけれど、兄がそれを拒否したのだ。引き取ってもらっただけで十分であると、それで従業員用の屋敷に住むことになった。
 携帯電話を取り出し、画面で時刻を確認する。午後六時四十七分。門限は七時だからギリギリ間に合うだろう。
 それにしても十九の娘に門限七時はないんじゃない? と思う。兄は本当に過保護で困る。
 薄暗さと門限のこともあって自然と早足になる。
 すると、突如背後から光を浴びせられる。同時にブブッと合図を送るようなクラクション。振り返ると見るからに高そうな車が傍で止まった。運転席の窓が開く。兄の顔が見える。
「乗りなさい」短く告げられてすぐに窓が閉められた。
 どうやら兄たちも帰宅したらしい。近頃、帰りが遅くなることが多かったのに、今日は珍しく早い。
 私は待たせては悪いと小走りに反対側に回り込む。
 それにしてもこういう場合、私はどこに座るべきなのだろう。助手席? 後部座席? 後部座席には四乃森家の次期当主・蒼紫さまが乗っているはずで、その人と同じ席に乗るのは失礼にあたるのだろう。もっと幼ければ子どものすることで済むけれど、もうそういうわけにいかない。礼儀が必要な年になった。やはり助手席に乗る方が正しい選択だと感じられた。
 反対側に辿りつく。だけど私の考えに反して後部座席の扉が開く。高級車だから、車の開閉はボタン一つで自由自在だ。兄が開けたのだろう。つまり、私に後部座席に乗れということだ。
――いいのかな、
 迷いはあったけれど、反発する理由もなく指示された後部座席に乗り込む。
「お邪魔しまーす」おそるおそる中に座る人に向けというと、兄の方が「操。家じゃないんだから」と言う。声で笑っているとわかる。そうか、とは思うけどほかに何と言えばいいかわからない。
 私はそのまま訂正もせず完全に身体を乗せる。パタリと扉が閉まる。
 隣を見る。笑う兄とは対照的に蒼紫さまはにこりともしておらず無言でこちらを見ている。私は改めて頭を下げて、出来るだけ端っこに座る。
 車がゆっくり走り出す。
 静かな車内が妙に気まずく感じられ、私は窓の外を見ていた。
「門限ギリギリだな」走り出してほどなく、微妙な空気を割って少し咎めるように兄が言う。
「えー全然余裕でしょ。まだ七時十分前だもん。帰ってきてるじゃない」
「どこが余裕だ。敷地に入っても帰ったことにはならない。七時には部屋にいなさい」
「そんなぁ……」そもそも七時の門限というのが厳しすぎる。今時、小学生だって塾や習い事で七時を過ぎる。「それなら、もう少し門限を遅めてよ」
「七時で充分だ」ぴしゃりと言い切られる。私はむっとする。
「充分じゃないよ。七時なんて、私、もう子どもじゃないんだからね」
「自分で子どもじゃないなんて言うのが子どもの証拠だ。だいたい、学校が終わりまっすぐ帰れば七時なんて早いくらいだろう」
「まっすぐ帰らないもん。いろいろつき合いがあるんだよ」
「そんなつき合いは断ればいい」
「それじゃ、友だちができないよ。私が孤立してもお兄ちゃんは平気なの? 酷いよ」
「だから、譲歩して七時としているんだろう?」
「そうだけど……でもやっぱり七時は早いよ」
 私は繰り返した。だけど兄は黙る。それは肯定ではなく否定の沈黙だ。もうこの話はこれでおしまい。そういう意味だ。小さな頃から一緒にいるからわかる。
 チラリと横に座る蒼紫さまを盗み見る。足を組んで肘をつき窓の外を見ている。私と兄の会話などまったく興味がなさそうだ。
――私の門限の話なんて興味なくて当然だけど。
 車は緩やかに走行している。残りの道のりは静寂に包まれたまま、やがて本宅が見え始めた。玄関前で静かに車が止まる。車の運転をすると途端に人格が豹変する人がいるそうだけど、兄は普段と同様丁寧な運転をする。でもきっとこの車はハイブリットとかいうもので音がしない仕様だから兄の運転が上手というのとは関係ない。
 扉が開けば蒼紫さまが降りて行く。
「お疲れ様でした」背に向けて兄が告げる。
 私も同じように続ける。すると、兄はくるりと私を振り返り
「操も降りなさい」
「え、いいよ。駐車場まで一緒に行くよ」
 駐車場は屋敷の裏手にある。広い屋敷だから結構な距離がある。特にすることもないのでついて行くと続けるけれど兄は「いいから、降りなさい」と繰り返した。
 なんで? と思いながら、ひょっとしてこれからまた出掛けるのかなぁと考えに至る。もしかしてデートとか。兄もいい年だ。彼女ぐらいいてもおかしくない。
――でも、それならそれで私には話して欲しい。
 まだ彼女だと確定したわけでもないのに、無性に寂しくなる。寂しいのは苦手だ。だから代わりに、帰ってきたらじっくり聞いてやる! と息まきながらひとまず車から降りる。私を降ろすと、兄は車を発進させた。
 車が出てしまうと、蒼紫さまと向かい合うように立っている。すぐに屋敷に入ってしまうかと思ったのに、立ち止まって車を見送っていた。雇い主が従業員を見送るなんて奇妙に感じられる。最も蒼紫さまと兄は普通のそれよりもう少し別の関係も築いているけれど。家族とまではいかずとも、私たちが四乃森家に引き取られて以来、ずっと同じ敷地内に暮らしてきたのだ。
 私は頭を下げる。蒼紫さまは相変わらず無言だ。こういうときは蒼紫さまが屋敷に入るのを待ってから帰るのがいいのだろう。だけど、まったく動こうとしない姿に気まずさから、「では、私はこれで」と切り出してしまう。
「操。」それを呼び止められる。振り返れば無表情の蒼紫さまがいる。私の聞き間違いだろうかと不安になるけれど「食事を」
「え?」
「食事はまだだろう、一緒に」
 それはまったく予期していない言葉だった。

 通されたのは食堂ではなく蒼紫さまの部屋。
 自室というと真っ先に浮かぶのがベッドだ。私の部屋にはベッドと勉強机が大きく面積をとっている。だけど蒼紫さまの部屋はまったく違う。入ると、大きなソファとテレビ(蒼紫さまはテレビをあまり見ないけれど映画好きで、ホームシアター用のプロジェクターが設備されている)があり、少し離れてて四人掛け用のダイニングテーブルが一組置かれている。右半分はずらりと本棚が並び、本でぎっしり埋まっている。書斎は別にあるけれど、読みかけや気に入ったものはこちらに置いてある。くつろぐための空間。屋敷の中にもきちんとしたリビングルームがあるけれど、蒼紫さま個人的な居間といった感じ。寝室はその奥。扉を抜けると繋がっている。蒼紫さまの部屋だけで十分一家族が快適に暮らせる広さがある。正直、私が幼い頃に暮らしていた家より広いかもしれない。贅沢だなぁと思う。
 蒼紫さまは片手に持っていたコートを、扉の近くにあるコート掛けに引っ掛けると中に入っていく。
 私は扉を入ったものの不安になって聞いた。
「……食事するんじゃないんですか?」
 それならば食堂へいくはずだ。もしかして、蒼紫さまは着替えるために自室にきただけで、私は先に食堂へ行かなければいけなかったのかも。蒼紫さまは口数が多くない。食事をすると言ったのだから当然、私は食堂へ行くと考えているのかも。この屋敷に入るのは初めてではないのだ。それぐらいわかるだろうということか。
 思い至って、失敗したと心臓が跳ね上がる。
 でも、それならそれで勘違いしちゃってついてきている私に一言「食堂に行け」ぐらい言ってくれてもいい気がする。――と八つ当たりめいたことを考えていれば、
「敬語はやめなさい」蒼紫さまは部屋の中ほどで振り返り言った。手をネクタイにかけて緩めている。長い指先でぐいぐいっと少しばかり乱暴に引っ張る仕草が目に飛び込んでくる。
 言われた言葉がすぐには理解できなかった。
 敬語をやめなさい――そういう蒼紫さまは命令調ではあったけれど丁寧語だ。当の本人がくだけた話し方ではないのに私にはやめろというのが奇妙に感じられる。
「でも……お兄ちゃんもそうしてますから」蒼紫さまだって丁寧語じゃないですか、とはさすがに言えず別の切り口で返す。
「仕事のときだけだ。二人の時は普通に話す」
 そうなのか。そんな使い分けをしているなんて初めて知った。時と場合によって話し方を変えるなんて、それはそれで大変そうだ。
「着替えてくるから、適当に座っていなさい」
 蒼紫さまはやはり丁寧語で言って、奥の寝室へ消えた。
 ぽつんと一人残されて、手持無沙汰になった私は、とりあえず言われた通り座ることにする。テーブルか、ソファか。扉からより近いソファに決めて傍まで寄り座る。柔らかいのに弾力がある。手で撫でるとなめらかで肌触りもいい。何かの皮だろうけど、何の皮なのか知らない。
――こんなソファ、見たことないな。
 最後に来たのは高校受験で兄と蒼紫さまに代わる代わるで勉強を見てもらったときだから……四年ぶりだ。四年も経てば様変わりしていても当然かもだけど。なんだか見知らぬところへ迷い込んでしまったようで心細い。
 私は頼りなさを払拭したくて、知っているものを見つけようと不躾と思いながら部屋を見渡した。
 あのテーブルはそのままだな。
 窓際に置かれたダイニングテーブル。あのテーブルに座って勉強を見てもらったのだ。
 それにしてもあのときは本当に驚いた。聖蘭女学院を受けることに決まってから、いきなりそれまで行っていた塾をやめさせられて、兄と蒼紫さまが家庭教師をしてくれることになったのだ。聖蘭は特殊な学校だから、普通の進学塾では対応しきれないらしく、そういうことになったらしい。そうであっても、二人ともすでに社会人になっていたし、忙しかったはずなのに、よく私の勉強まで見てくれたなぁと思う。
 コンコンとノックの音が響く。
 私は過去の記憶から現実に呼び戻される。
「はい」思わず返事をしてしまったけれど勝手な真似をしたかとすぐに後悔がきた。私の声に反応して開かれた扉から入ってきたのは洋子さんだ。よく知る人物の顔を見て心底ほっとし、立ち上がり小走りに傍に行く。
 洋子さんは料理が乗せられたサービスワゴンを押している。
――ここで食べるんだ。
 食堂ではなくこっちについてきて正解だった。よかった。とほっとしながらダイニングテーブルへ向かう洋子さんの後をついていく。
 洋子さんは四乃森家の家事一切を取り仕切る。広い屋敷を一人で掃除するのは大変だから、掃除会社から手伝いに来てもらったり、大きなパーティや重要なお客様の来訪の場合、指示によってプロの料理人を呼び任せることがあるけれど、基本的に洋子さんが作る。得意料理は和食。それもいわゆるおふくろの味というもので、温かく懐かしい気持ちにさせる洋子さんの料理は評判がいい。四乃森家への来客者は外食が多く、料亭や一流レストランのかしこまった料理ばかりを食べているから、かえって洋子さんの料理のような素朴さが好まれたりする。それ目当てに訪れる人だっているぐらいだ。 
「洋子さん、ごめんね。突然こっちで食べることになっちゃった」
 四乃森家の家事の一切には従業員用の食事も含まれる。”食べ物の前では誰しもが平等”というのが四乃森家の考えで、本邸と従業員用の食事とは同じだ。今日は(というかほぼ毎日だけど)家で食べると伝えてある。洋子さんは私の分も用意してくれている。本邸で作った料理を六時頃に従業員用の屋敷に運び、順次みんなが食べていくという流れだから私の分は運び出されている。今現在、当主と奥様(つまり蒼紫さまのご両親)は海外にいるから、本邸の台所に残されている料理は蒼紫さまの分だけのはずだ。私の分をわざわざとりに行ったとしたら手間だったろうと思い謝罪する。でも、
「操ちゃんが気にすることないわよ」洋子は明るい笑顔を向けてくれる。
 それから、テーブルに料理を並べる手伝いをする。
 ほうれん草のおひたし、きんぴらごぼう、手作りコロッケはじゃがいも餡とかぼちゃ餡の二種類、サバの塩焼き、わかめのお味噌汁。
「おいしそう!」私は声をあげた。
「操ちゃんの好物ばかりでしょう?」
「うん!」
「張り切って作ったんだから」
「やった!」嬉しい声が出る。だけど、
――どうして私の好物ばっかり?
 好き嫌いはないけど、特に好物としているものがいくつかある。洋子さんは月に一度はそれを作ってくれたりするけど、こんなにも私の好きな物ばかりということは記憶にない。どうして私の好きな物ばかりなのか。蒼紫さまの好きな物ならわかるけど。
「じゃあ、操ちゃん。ご飯はこのお釜にはいってるから、あとはお願いね」
「あ、うん。ありがとう」
 どうして私の好物ばかりなのか聞きたかったけれど、洋子さんは足早に去って行くので聞きそびれる。何か他の用事があるのかもしれない。
 洋子さんがいなくなると、着替え終えた蒼紫さまが奥扉から出てくる。
 ダークグレーのプルオーバーとブラウンのピケパンツ。食事してお風呂に入って眠るだけだろうと思うけど、キチンとしている。どこにだって行けそう。私とはえらい違いだ。家に帰ったら兄のお下がりのダボッとしたトレーナーをひっかぶり、下は短パンだ。年頃の娘がそんな格好でうろつくなと注意されるけど楽な姿がくつろげる。
 蒼紫さまは私の姿を一瞥すると、
「脱げ」短いけど衝撃的な一言だ。
「え?」私は空耳かと聞き返す。
「コートだ。いつまで着ている」
「あっ」
 そんなことも忘れていた。私はなんとも情けない気持ちになって自分で自分を慰めるように右手で頭を撫でた。それから、コートのボタンをはずしていく。
――なんだか、微妙。
 空気が。とても微妙だ。
 心の憂鬱は動作に表れる。私はもたもたとボタンをはずす。全部はずし終えたて脱ぐ。それをソファの傍に置いてある鞄の上に置きに行くけれど、
「そこに掛けたらいい」
 蒼紫さまの使っているコート掛けを使えと言われ私は頷いた。先程までと違い、蒼紫さまの口調は丁寧語から普通の話し言葉に変わっている(ぶっきら棒だけど)。スーツのときは丁寧語と決めているのかもしれない。
 扉まで戻り、コートを掛ける。蒼紫さまと私のものが仲良く吊るされている。
 振り返ると蒼紫さまはもう席に座っている。パタパタと私は駆け寄る。
 席には座らずテーブルにあるお手拭で念入りに手を拭いてから、お茶碗を取り上げて、サービスワゴンに乗せられているお釜を開ける。
「蒼紫さま、どれくらい食べる? いっぱい食べる? 少しだけ? 普通ぐらい?」
「ああ」
 分量を言われるわけでもなく、提示した選択肢のどれかを言ってくれるわけでもなく、「ああ」と一言あるだけ。これは最後の”普通ぐらい”に対しての「ああ」なのかなぁ。聞き返すのもなんだか気まずく、わかったふりをして私は普通ぐらいを盛って蒼紫さまの前に置いた。それから自分の分をよそって、蒼紫さまの前に座る。
「いただきます」待っていても蒼紫さまから言わなそうだから自分で言ってみると、蒼紫さまも無言で両手を合わせる。
 お味噌汁のお椀を持ってすする。温かい。身体の芯から温まる。
 コロッケ二つと、サバの塩焼き。どちらも好きだけど量が多い。それならコロッケを一つ残せばいいのだけれど、両方とも餡が違う。家でなら半分ずつ食べて翌日残りを食べるとか、食べ掛けを兄に食べてもらえるけど、そういう振る舞いは行儀のいいことではない。外ではやらないようにと言われている。本宅は家であって家ではない。はしたない真似はしちゃいけない。ここは涙を飲んで、かぼちゃ餡だけ食べよう。
「――お。操。」
「え? 何?」突然、名前を呼ばれる。驚いて顔を向ける。蒼紫さまがじっと私を見ている。
「何とは俺の台詞だ。じっと動かずに何をしている」
「どっち食べようかと思って。コロッケ。じゃがいも餡とかぼちゃ餡があるんだよ。どっちにしようかなぁって考えてたんだよ」
 答えると蒼紫さまは拍子抜けしたような顔をする。
「眉間に皺を寄せているから、てっきり俺は……」
 蒼紫さまは途中で言葉を切る。何が言いたかったのか私は気になったけれど、
「迷わずどちらも食べればいいだろう」その前にもう一度蒼紫さまが言った。
「だって二つも食べれない」
「ならば、残せばいいだろう」
「そんなのもったいないじゃん! 行儀悪いし!」
 簡単に残せばいいなんて、これだからお金持ちは、と何故だか私は息巻いた。私と蒼紫さまは違うのだと突きつけられた気がしたのだ。コロッケ一つを残すか残さないか。それがそこまで大きな問題になるわけでもないけれど。蒼紫さまが家のことを鼻に掛ける傲慢な人間ではないことも知っているけれど。きっと私が心置きなく食べられるように残してもいいと言ってくれているのもわかる。それでも、なんだか無性に腹が立つ。
「……もったいないのはわかるが、別に行儀はいいだろう。俺の前で気取る必要はない」
「そんなわけにはいきません。蒼紫さまはお兄ちゃんの上司だもん」
 どうして私はこんな突っかかってしまうのか。止めないと、呆れられる。もっと楽しくしたい。――でも、考えに反して気持ちはぐつぐつと煮詰まっている。ひどい苛立ちが湧き上がる。やめようと思うのに止められない。一度火がついた感情はどんどん燃え広がっていく。思考と想いはバラバラで、私は何がしたいのかもうわからない。だけど、
「巻町のことは関係ない。俺と操の話だ」蒼紫さまは私のわけのわからない怒りにあくまでも冷静な態度で告げる。「残すのが行儀悪いと思うなら、残りは食べてやる」
 譲歩案のように言う。
 違う。私は本当にどちらのコロッケも食べたいと駄々をこねているわけではない。私はそこまで子どもじゃない。だけどそれをわかってほしいというのも無理は話だと思う。私は”何も”告げてはいないのだ。だから、蒼紫さまが私の態度をそう解釈しても文句は言えない。怒りが今度は情けなさに移り変わる。
「せっかく久しぶりに一緒に食べているのだから、こんなことでふてくされるな」
「……ホントに半分食べてくれる?」私は絞り出すように述べた。
「ああ」
 蒼紫さまが頷くのを見て、じゃがいも餡とかぼちゃ餡のコロッケを両方とも半分に切る。それから片割れを二つ蒼紫さまのお皿へ乗せた。一連の行動が終わったあとになって、自家箸だったことを思い至り「あっ」と思ったけれど、蒼紫さまは特に何も言わず私が乗せたコロッケを箸でつまんで齧る。それを見て私も余計なことは言わないでおこうと、自分のお皿のコロッケをつまんで一口齧る。さくっとした衣の音がやけに鮮明に響いた。

 食事が終わると洋子さんがお茶を持って来てくれる。
 サービスワゴンに食器を片づける手伝いをして、去っていく姿を見送ると室内は再び静寂に包まれた。
 夕食を食べたらすぐ帰るつもりだったのに――テーブルに並んだケーキ。私の好きなモンブランだ。これはピノーのものだろう。モンブラン専門店でスポンジの代わりにマカロンが敷かれ、その上に生クリームがたっぷり乗せられ、それを覆いかぶせるように栗のペーストがこれでもかとかけられている。
 本店はパリで、オリジナルサイズはボリュームがある。日本用にデミサイズというものが用意されている。だけど、目の前に出されたのはオリジナルサイズだ。甘い物は別腹というけれど、流石に食べきれない。
「蒼紫さま、食べないの?」ケーキは私の前にしか置かれていない。蒼紫さまは甘い物は嫌いではないはずだ。「もしかして私が蒼紫さまの分、とっちゃった?」
 ケーキは蒼紫さまのものしか買っていなかったのかも。けれど、そうであったら洋子さんはわざわざ持ってきたりはしないだろう。繰り返すけれど四乃森家は"食べ物の前では誰しも平等"という考えがある。一人分しかないのなら私が帰った後に出すだろう。
「そうではないから、気にせず食べろ。好きだろう」
「でも……じゃあ、これも半分する?」量多いし、と続ければ
「お前は小食だな」
「そんなことないよ」夕食の内容を振り返ってみる。小鉢二品、コロッケ一つ(半分を二つ)、サバの塩焼き、お味噌汁にご飯。定食一人前ぐらいの量はぺろりと食べた。そこにケーキだ。食べ過ぎなぐらいじゃないだろうか。「私の身体ではすっごい食べる方だと思うけど」
 蒼紫さまは身体が大きい。背が高いし、筋肉質だから着やせして見えるけどガッシリした体型だ。いまどきの男の人は"草食系"なんて呼ばれて食事もあまり食べない人が多いってテレビでしていたけれど、蒼紫さまはよく食べる。それと比べられてはたまらない。
「そうか」
「うん、そうだよ」
 そこで会話は途絶える。
 蒼紫さまは無口な性格だと知っているしそれを不快に思ったことはなかったけれど、今日はたまらなく気まずい。原因は私自身の心の方にある。
――どうして、私はここで蒼紫さまと向き合っているのだろう。
 今更の疑問だったけれど、静けさの中で浮かび上がる。
 ずっと前、私がもっと子どもだった頃は、こうして蒼紫さまと一緒に食事をすることがあった。蒼紫さまもまだ学生で、兄と私の三人で食べた。けれど、月日が流れるうちにその時間はどんどん減った。週に一度が月に一度になり、そして、今年に入ってからはまったくなくなった。仕事が忙しくなったから――それも大きな理由だけど、他にもある。蒼紫さまは恋人が出来た。結婚するのだ。きっとその人と会うのに忙しいのだ。
 これまでも幾度かそういう噂があった。だけどそれはあくまで噂であり、蒼紫さまの口から直接そのような言葉を聞かされなかった。だけど、今回は違う。

「蒼紫さまもようやく身を固めるのね」
「肝心のプロポーズはまだみたいだけど」
「まだしてないの? それが一番重要じゃない」
「慎重派だから。まずは外堀から埋めて行く」
「……それは慎重なんじゃなくて臆病というのよ。何をおいてもまず相手の気持ちが肝心でしょ。女心をわかってないわねぇ。振られちゃったらどうするのかしら」
「それはないと思うけど」
「まぁねぇ、蒼紫さまに言われたら断らないでしょうねぇ」

 二ヶ月前。
 十一時頃だった。眠れずに水でも飲もうと台所へ向かうと、兄と洋子さんがいた。いい匂いがする。夜食を食べているらしい。その香りが私の小腹を刺激する。こんな時間に食べると太るけど私も混ぜてもらおうと一歩踏み入ろうとすると聞こえてきた会話。
 二人がいい加減な噂話などをするはずがない。この話は本当なのだ。
 私は黙ってその場を去った。
 部屋に戻ってベッドにもぐりこみ頭から布団をかぶって身を丸めて目を閉じた。
 蒼紫さまが結婚する。いつかそんな日がくるとは知っていたけれど、目の前が真っ暗になった。
――私は蒼紫さまが好きだったから。
 突然両親を失った悲しみは、時が経過するほどにじわりじわりと膨れ上がる。離れている間に、今度は兄までいなくなるのではないかと、私は兄にべったりとひっついて過ごした。毎日、不安と戦っていた。四乃森家に引き取られてからも兄の後ろを追いかけ回した。そこで出会ったのが蒼紫さまだった。当時から無口で最初とても冷たい印象を受けたのを覚えている。けれど見かけとは違い蒼紫さまは優しかった。
「おいで、操。」私を見ると手招きして呼んでくれる。蒼紫さまの部屋に連れて行ってくれて、ソファに座り私を膝に抱き甘いお菓子をくれる。それから大きなテレビで楽しいアニメを見せてくれる。とてもかわいがってくれた。
 次第に私は蒼紫さまに心を許すようになった。両親の死で真っ暗に染まった世界。兄だけを頼りにしていた。そこへもう一度光を与えてくれたのが蒼紫さまだ。閉ざされた世界が再び開かれた。悲しみに暮れる日々から抜け出した。同時に、蒼紫さまを慕うようになり、やがて親しみは恋心へと移り変わった。
 だけど、それは畏れ多い想いだった。
 自分でもわかっている。蒼紫さまは四乃森家の御子息で、本当ならば会うことのないような雲の上の人だ。家柄だけではない。整った容姿も女性から好まれる。実際、女学院でも私が四乃森家の遠縁(そういうことで入学を許可された)と知り近寄ってくる人がたくさんいた。自分か、或いは姉、親類の年頃の女性をどうにか一度蒼紫さまに会わせてもらえないか。才色兼備の彼女たちは、会えればどうにかなると考えているようだった。もちろん私は断った。お世話になっているのだから、迷惑をかけることは出来ない。だけど半分は嫉妬もあったのだ。彼女たちのような聡明で自信に溢れたる美しい人を会わせて蒼紫さまが好きになったら――それを想像するだけで胸が苦しい。私は拒否し続けた。だけど、そんなことは意味がないことも知っていた。私に出会いを頼んでくる人たちだけがすべてではない。私の預かり知らぬところでもたくさんの出会いがある。やがて、その出会いの中から蒼紫さまは妻となる人を選ぶ。きっと蒼紫さまに見合う美しく聡明な女性だろう。
 そんなことはわかっていた。そして、現実になった。私もいよいよ自分の気持ちにけじめをつけなければいけない。これまで、何度も諦めようとして諦めきれなかったけれど、今度ばかりはもうおしまいだ。だって、蒼紫さまは結婚してしまうのだ。蒼紫さまの傍には別の女性が立つ。いつまでも未練がましい真似は出来ない。せめて結婚式までには気持ちを整理して、真っ白な気持ちでおめでとうを言えるように――。
「操。どうした」
「え?」
「また、眉間に皺が寄っている。今度は何を迷っている」
 私は右手で眉間をもむ。そんなに皺を寄せていたのだろうか。恥ずかしい。
「別に何もないよ」
「そうか」
 フォークを手にしてモンブランを切る。口に運ぶと甘い味が広がる。二口、三口と食べ進める。これを食べてしまえば、部屋に戻れる。早く帰りたい。二人きりは気まずい。心が痛い。
「……ところで操。今月は誕生日だろう」
「うん」
「何かほしいものはあるのか」
「……別に、ないよ」
「せっかくならお前のほしいものを贈ろうと思ったんだが――ないならこちらで考えるが構わないな。店もこちらで予約する。六時に迎えに戻る」
 毎年くり返される会話だった。誕生日はいつも蒼紫さまと兄と三人で過ごす。それが定番だった。今年もまた、予定を開けてくれているらしい。
「その話だけど、今年はいいよ。忙しいんでしょ。わざわざ時間を作ってもらわなくても、そんな祝ってもらうような年齢でもないし」
 モンブランに注いでいた視線をチラリと蒼紫さまに向ける。蒼紫さまは私を見ていた。
「二十歳の誕生日は特別だろう」
 静かな声だが、強く響く。
 そうだ。特別だ。大人になる第一日目。そんな大切な日を一緒に過ごせば忘れられない思い出になるだろう。そして、それはとても悲しいことだった。
「でも忙しいでしょ。いろいろ。だから、いいよ」私はもう一度言った。
「俺のスケジュールの心配をお前がする必要はない。例年通り誕生日を祝う。いいな」
 提案ではなく決定。きっと二ヶ月前の何も知らない私ならもっと素直に喜べた。だけど今は残酷なことに感じられた。
 どうしてこんなに執拗なのか。ひょっとして来年はもう一緒に過ごせないからだろうか。結婚したらこれまでと同じというわけにはいかない。いくら”妹”みたいに過ごしてきたといっても、私は本物の妹ではない。赤の他人だ。妻になる人にとったらそこまで親切にする必要はないと思うかもしれない。もう一緒に祝ってあげられないから、最後だから、どうしても今年は祝っておきたいとかそういうことなのだろうか。
 考えると無性に悲しみがこみ上げてくる。私はフォークを置いて手のひらを膝の上に移動させた。きつく拳を握る。そうでもしないと涙が出そうだった。
「操。」蒼紫さまの声がする。「何が気に入らない。……ここしばらく、俺を避けているだろう」
「そんなことないよ」私はどうにか告げた。避けていた。いや、違う。忘れるための努力だ。
「嘘をつくな。朝も出掛ける時間をずらしているだろう。顔を見ないようにしている。何故だ」
 だけど蒼紫さまは容赦なく追求してくる。許してはくれない。
「俺が嫌いか」そして、それはまるで見当違いの方向へ進む。やるせないような、苦しげな声だった。私はゆっくりと顔を上げる。相変わらず私を見ている蒼紫さまの顔。だけどその表情は声音と同じように苦しげだった。
 考えれば、当然かもしれない。それまで友好的に過ごしてきた相手に距離をとられたら気にかかる。理由も知らされずそんな真似をされて不愉快になっても仕方ない。
 蒼紫さまは優しい。私にずっと親切にしてくれていた。それなのに私は嫌な思いをさせている。
「俺は何かしたか。お前が嫌がるようなことをしたのか。それならば謝る」
「……蒼紫さまは何も悪くない」
「ならば、何故避ける」
「それは――」握っていた手のひらが熱い。体中の毛穴が開き発汗する。それでも言わなければならないのだろう。蒼紫さまに何ら非はないこと。言わなければ。「……蒼紫さま、結婚するんでしょ。お兄ちゃんと洋子さんが話しているの聞いた。だから、」
 でも、それ以上は言葉が出てこなかった。長い間、心に抱き続けてきた。分不相応と感じながらも捨てられなかった気持ちを告げることは簡単ではない。けれど、
「それと、お前が俺を避けることと、どんな関係がある」
 蒼紫さまは終わらせてはくれない。たぶん、きっと、ちゃんと言わなければ納得してはもらえないだろう。だけど、納得してもらって、その後はどうなるのだろう。私の気持ちを知られて、どうなってしまうのだろう。蒼紫さまは何と言うのだろう。考えると怖い。怖くて、怖くて、仕方ない。それでも私は、
「……――蒼紫さまが、好きなの」喉の奥が熱い。燃えるように熱く痛い。好き。そのたった一言の持つ熱量に飲み込まれる。けれど、一度口元から出ると、押さえ続けてきた感情はあふれ出てくる。これが、最初で最後だ。もう二度と、こんな風に気持ちと伝えることはないだろう。そう思えば、後のことを考える余裕は消え失せた。重荷になっても、迷惑がられても、ただ、自分の思いを伝えたい。
「ずっと、蒼紫さまのことが好きだったの。ずっとずっと好きだった。でも、蒼紫さま結婚しちゃうんでしょ。だから諦めなくちゃいけない。忘れなくちゃいけない。ちゃんとおめでとうって言えるようにならなくちゃ。でも、蒼紫さまの顔を見たらやっぱり好きって思っちゃうんだもん。だから会わないようにしてた。だからね、蒼紫さまは何も悪くないの。嫌な思いをさせてごめんなさい」
 ごめんなさい。ごめんなさい。私は繰り返した。何に対する謝罪なのか。好きになったことへなのか。それとも、避けたことで不愉快な思いをさせたことへなのか。こんな形で告白してしまったことへなのか。よくわからない。ただ、謝る以外には何も思いつかず繰り返す。
 蒼紫さまは黙ったままだ。やがて私は口を閉ざした。怖くて顔を上げられない。
 静寂に包まれた室内はひたすらに居心地が悪い。だけど、私は立ち上がり部屋を出るタイミングを逃していた。このまま逃げ去ってしまいたいけれど、動けない。俯いたまま握りしめている拳を見つめる。汗が冷たく感じられた。すると、ガタッと音がする。蒼紫さまが椅子を引いたのがわかる。無言のまま蒼紫さまの方が立ち去ってくれるのか。慰めの言葉をかけられるのも辛いけれど何も言ってもらえないのも堪える。結局、どんなことが起きても私は辛くなるのだろう。そんなことを考えていると、もう一度ガタッと椅子を引く音が――蒼紫さまは私の隣に座り直した。それから私の視界にぬっと大きな手が伸びてくる。それが握りしめている両手の上に置かれる。
「操。もう一度言ってみろ」
「え?」尋ね返すと、蒼紫さまは大きく息を吐きだした。それからはっきりとした声で、
「もう一回好きと言ってみろ。そしたら、お前の望むことを全部叶えてやる」
――私の望んでいること。
 何を望んでいるのだろう。私は何を願っているのか。自分でもよくわからないのに、蒼紫にはそれがわかっているというのか。ぐるぐると巡る思考。だけど少しも答えは出ない。その間も、蒼紫さまは催促するみたいに長い指先で重ねている私の拳を撫でる。背筋に走る甘い痺れ。ぞくりと身の毛がよだつような。
 私は蒼紫さまの方を見る。先程よりずっと真剣な眼差しがある。
「操。」目が合うともう一度、名を呼ばれる。その声を聞くと魔法にかけられたようなふわふわとした感覚に落ちて、
「蒼紫さま――……すき」私は言葉を紡ぐ。
 告げた瞬間、怖いくらいの強い眼差しが緩み、蒼紫さまは満足気に笑った。
「いい子だ」顔が近くに寄ってくる。そして、柔らかいものが触れる。それはすぐに離れてしまったけれど唇に残った感触が何であるかを理解すると頭がくらくらした。



 どうして、こんなことになってしまうのだろう。
 係の人に時間が来たと言われて、私は不慣れな高いヒールで案内される後をついていく。ヒールも慣れないけど、着ているドレスだって慣れない。純白のウエディングドレス。
 あの夜、蒼紫さまは言った。「私が望むことを全部してくれる」と。そして、私は促されままに告白すると口づけされた。驚き言葉を失っているうちに蒼紫さまは携帯電話を取り出した。かけたのは兄だった。そして電話口に発したのはやはり予期せぬことで、
「巻町か。予定が早まった。式は来年の春ではなく、今年にする。二週間後の操の誕生日に。準備を進めてくれ。……ああ、俺は本気だ」
 何を言われているのかさっぱりわからなかった。
 わからないまま、あれよあれよという間に怒涛の二週間が過ぎた。
 私は、今日、蒼紫さまと結婚する。
 どうして、こんなことになるのだろう。
 だいたい、蒼紫さまと結婚する人は家柄とか血筋とかそういうものが必要なのではないの。私のような一般人、大反対されるはずだ。四乃森家には両親を失い引きとって育ててもらった恩がある。それを仇で返すような真似なんて出来ない。結婚なんてとんでもない。兄だってそう言うだろうと思った。でも、蒼紫さまは私と結婚すると言う。私以外を妻にする気はないと言う。そしてそのことはとっくにご両親にも話して許可もとってあるとまで言う。そんな馬鹿な話はない。そんな簡単に許してもらえるはずない。私は全然信じなかった。ところが、
「ああ、簡単ではなかった。だが根比べは得意だからな。三年ぐらいはかかるかと考えていたが、一年程度で済んだ。元々操のことは娘のように思っていたし、両親も恋愛結婚だったというのも大きいのかもしれない」
 蒼紫さまはサラリと言った。
「……ちょっと待って。"一年程度で済んだ"ってどういうこと?」
 その話が本当だとしたら、私が蒼紫さまに告白したときにはすでに許可をとられていたということになる。それでは辻褄が合わない。私の気持ちを知らないはずの蒼紫さまが、どうして私と結婚すると両親に告げ許可までとっているのか。そんな奇妙な話、ありえない。
 私は蒼紫さまに詰め寄った。すると蒼紫さまは静かに笑う。それから、
「操。世の中には知らなくていいことがあるんだ」
 そう言ってけして教えてはくれなかった。
 確かに、世の中には知らなくていいことがたくさんあるのだろう。知らない方が幸せなことが。でもこれは知らなくていいことなのか。私のことが私の知らないところで進められている。そんなことがまかり通っていいのか。
 係の人に案内されたチャペルの入り口前。タキシード姿の兄が待ちかまえている。父の代わりに兄が、私とヴァージンロードを歩いてくれる。
「操。綺麗だ」傍に立つと、感慨深げに告げられる。
「……ありがとう」私はお礼を述べる。「でも、お兄ちゃん。本当にこれでいいのかな」
 不安はまだ消えない。あまりにも何もかもが急激に決まりすぎて少しの実感も持てていない。私は本当にこのまま蒼紫さまと結婚していいのだろうか。今ならまだ取り返しがつくのではないだろうか。兄はこの展開をどう思っているのだろうか。
「蒼紫さまのこと好きなんだろう。何を迷うことがある」
「でも、未だに信じられないよ。どうしえてこんなことになっているのかも、本当はよくわかんない。だいたい、蒼紫さまが私のことを好きなのかもよくわからないんだよ」
「は?」
「は? じゃなくて。私は蒼紫さまに好きだって言ったけど、蒼紫さまからなーんにも言われてない。それなのに結婚することになっちゃったんだよ」
「……あの人、何も言ってないのか?」
「"お前の望みを叶えてやる"とは言われたけど。……だけど私、結婚したいとはまで望んでないし」
「信じられないな……。というか、それでよく結婚する気になったな」
「だって! 蒼紫さま、全然話聞いてくれないし。一人でどんどん進めちゃうし。強引なんだもん」
 反論すると、兄は深いため息をついた。
 それを見ていると私は泣きたい気持ちになる。やっぱりこの結婚は間違いだ。蒼紫さまの気持ちもよくわからないのに結婚なんて。今からでも遅くない。とりやめにするべきだ。だけど、
「まったくあの人は不器用というか、自分の感情を伝えるのが下手というか……わかった。これは僕が言うべきことではないだろうけど、このままじゃ気持ちよく式を挙げられないだろうし、前祝いに教えるよ。あの人は操のことがすごく好きだよ。自覚したのはお前が中学の頃だ。毎年、バレンタインにあの人と俺に手作りチョコをくれるけど、それを塾の先生にも渡したことがあっただろう? あの時、機嫌が悪くなってね。操の前ではなんでもない顔していたから知らないだろうけど、そりゃもう大変でな。でも本人もそれが嫉妬だとはしばらくわからなかったみたいで、ようやく自覚したらしたで今度はすぐにお前を聖蘭女学院に入れると言い出して。あそこは規律が厳しいからな。変な虫がつかないように入学させた。門限の七時だってお前は僕に文句をいうが、決めたのは僕じゃなく蒼紫さまだからな。最初は六時にするとか言い出して、僕はそれではあんまりだと話をして七時まで延ばしてもらったぐらいなんだから。もうこのままじゃ家に軟禁でもしそうな勢いで。それなのになかなか告白しないし。操が二十歳になるのを待ってたみたいだけど。で、ようやく誕生日に告白する気になったかと思えば、いきなり結婚だろう。順番がめちゃくちゃというか。操に好きだと言われて舞い上がっちゃってるんだな」
「そんな、嘘だ。蒼紫さまが私のこと好きだったなんて!」
「どうして僕が嘘をつくんだよ。……というか結婚式当日になってどうしてそんな根本的な話が出来ていないのか理解に苦しむ。だけど今更だ。もうあの人はお前を手離す気はさらさらないだろうし、ここまで来てどうにもならない。それに操だって蒼紫さまのこと好きなのだろう? ならもう余計なことは考えるな。考えるだけ混乱する」
「だけど、」と、続けようとすると目の前の扉が開きはじめる。真っ赤な絨毯と、その先には白いタキシードに身を包んだ蒼紫さまが待っている。
「ほら、時間だ。諦めろ」これから結婚する人間に対して言う台詞としてはまったく似つかわしくないことを述べて、兄は腕を組むようにぐっと出してくる。「早くしろよ。お待ちかねだ」
 こんなわけのわからない気持ちでヴァージンロードを歩くことになるとは誰が予期できただろう。
 だけど、ふと思う。
 かつて、私はシンデレラになりたかたった。幼い頃、夢を見た。魔法使いのやさしいおばあさんに舞踏会に連れて行ってもらい、そこで王子様に見染められる。とても素敵な物語だって思った。
 けれど、王子様は知っていたのだろうか。シンデレラの気持ち。
 十二時の鐘が鳴るとシンデレラは逃げるようにお城を去った。長い階段にガラスの靴の片方だけを残して消えてしまった。王子様はその靴を手掛かりにシンデレラを探す。「この靴にピッタリと合う足の女性と結婚する」とお触れを出し、町中の女性にガラスの靴をはかせる。やっと探し出し二人は結ばれるわけだけど――王子様はシンデレラの気持ちをちゃんとわかっていたの? もしシンデレラが王子様を好きになっていなかったらどうしていたの? シンデレラだってそんな勝手に結婚すると言われても困るだろう。たとえ好きであっても大変驚くだろう。結婚しますなんて先に言われて、どんな覚悟で「私の靴です」と名乗り出ればいいのだろう。王子様はかなり強引な人だったんじゃないだろうか。
 それでもシンデレラは自分の靴だと告げた。とても勇気のいったことではないだろうか。そして、勇気の先には幸せがある。
 それならば、私も。
 兄の腕へ自分の腕を絡ませる。そして、一歩。また一歩。その先に待っているだろう幸せに、蒼紫さまの元へと踏みしめるように歩き出す。