羨望

 人は生まれる環境を選べない。
 俺は幸か不幸か有名な一族に生まれた。何でも与えられ、何でも手に入った。だから人から羨ましがられることはあれ、人を羨んだことはなかった。あの兄妹に会うまで。
 巻町兄妹が引き取られてきた日のことをよく覚えている。
 祖父の命の恩人の孫。不慮の事故で両親を失ったので後継人になったと告げられた。そうですか――俺は興味なく答えた。実際、興味などなかった。親の庇護を受けねばならない年齢で両親を失ったことは哀れに思えど関係がない。一緒の敷地に暮らす赤の他人。俺の生活に深く関わることはないと思った。
「ほら、操も、ちゃんとご挨拶しなさい」
 そうは言っても挨拶ぐらいはしておくべきだ。彼らが屋敷に着いて顔見せをする。
 兄・陽平は俺の一つ下。人の良さそうな温和な表情が印象的だ。そして妹。こちらは十違う。まだ幼子だ。兄に促されて、両手を前で重ねて頭を下げる。ペコリと音が出そうだ。深々と頭を下げゆっくり戻す。大きな目が俺を見上げてくる。真っ直ぐな、澄んだ目をしている。
 俺は声をかけようとする。言いたいことがあったわけではない。ただ、何か声をかけたいと――それは不思議な感覚だった。ところが、俺が話しかける前に陽平の足にぐっとしがみついて顔を隠してしまう。両親を失った悲しみでいっぱいなのだろう。右足に抱きついて顔を押しつけている。陽平は少し困ったように頭を撫でながら、それでも離れないので
「ほら、操。おいで」そういって抱き上げる。すると今度は小さな腕で首元にぎゅっと抱きついた。甘える仕草だとわかる。俺はただそれを見つめた。
 操の陽平への態度は日に日に強まっていくように感じられた。赤子には母追いする時期があると聞くが、操の陽平を追いかける姿はそれに近い。朝、操は幼稚園、陽平は中学とバラバラの場所へ向かう。操はぐずる。陽平と離れたくないとわんわんと泣く。
「操。そんなに泣かなくても帰ってきたらまた会えるから。ね?」
 陽平は人が良さそうだという印象通り、自分だって両親を失って心細さがあるだろうに、怒ることも呆れることもなく毎日そう宥め操を送りだす。帰宅すると、操が待ちかまえている。陽平の姿を見つけると飛びついていく。
 あんなに追いかけ回されては大変だと思う気持ち半分。それから残り半分で俺は羨ましいと思ったのだ。あれほど無心に、一心に、ひたすらに求められる。俺とてこれまでちやほやされ追われる立場にあったが、それはすべて四乃森家の名があってのこと。俺個人へのものではない。だが陽平は違う。家柄ではなく、何をしているからとか、何かをもっているからとかではなく、兄・陽平という存在を追い求める小さな姿。俺はそれを生まれて初めて羨ましいと感じた。
 どうしたら俺にも懐くようになるだろうか。
「操。」俺は操に近寄った。「俺の部屋に来い」
 陽平はこれまで通っていた公立中学へ徒歩で向かう(車で送迎すると言っても目立つし徒歩で十分と断ったそうだが)。俺は私学へ自家用車で送迎えされている。帰りは俺の方が早い。すると、寂しげに門の傍にうずくまりじっと動かない操が目に入る。俺は車を停めさせて声をかけるが操は顔を左右にふる。
「いかない。ここで、おにいちゃん、まってるの。」おぼつかない口調で、俺に背を向けて言う。
「しかし、操。幼稚園から戻ってずっとここにいるのだろう。もう風も冷たくなってくる。熱でも出したら大変だろう」
「いいの。おにいちゃん、まつの。」
 しかし操は頑なだ。頑固な性分らしい。
 それでも俺は毎日声をかける。
「操。美味しいお菓子がある」
「操。アニメの映画を観よう」
 あの手この手で誘ってみたが、まったく見向きもしない。やがて操は本当に風邪を引いてしまった。寒い中を何時間も動かずにいれば当然の結果だ。すると温厚な陽平も流石に怒った。もう外で待つなと。そうじゃないと口は効かないと半ば脅した。操は泣きながら約束した。
 それから、操が門の傍にうずくまることはなくなった。従業員用の屋敷の中でおとなしく待っているらしい。俺はそちらへは足を踏み入れたことがなかったが、どうしているのか気になって見に行くことにした。
 扉を開け入ると気配を察知したらしい「おにーちゃーん。」と元気な声がして操が駆け寄ってくる。――しかし、入ってきたのが陽平ではなく俺だとわかるとわかりやすく顔を曇らせた。そこまで落胆することはないではないか。
「操。」肩を落として引き返していく操に声をかける。操は一応反応して振り返ってはくれるが、表情は曇ったままだ。
「そんなにあからさまにガッカリしなくともよいだろう。俺が遊んでやる」
「……あおしさまが?」
「ああ、そうだ。おいで」
 俺は手招きする。しかし、操は顔を振って拒絶する。
「何故だ。俺が嫌いか」
「ほかのひとに、ごめいわくかけちゃいけませんって」
 陽平に厳しく言いつけられているらしい。
「迷惑ではない。それに俺は他の人ではない」
 他の人ではないなら何なのか。自分でもわからない。ただ、操に線引きされた。操と陽平、その他と分けられた。俺は部外者と追い出された。その事実が不愉快に感じられたのだ。
「一人でいるのは寂しいだろう?」
「さびしい。」ぐすっと操は泣き顔になる。大きな目が潤むと俺の心臓は軋む。可哀想に思う。可哀想で、そして可愛らしい。寂しいと涙する姿に同情とは違う感情が込みあがってくる。操は可愛らしいのだ。愛くるしい。幼子は可愛いものだというが、子どもを見ても可愛いなど感じたことはなかった。だが、操は可愛い。それは俺が年齢を重ねて子どもを子どもと思えるようになったからか、はたまた操が特別に可愛らしいだけなのか。――それとももっと別の意味があるのか。だが、そんなことはどうでもよかった。さびしい。と涙する操に近寄り目線を合わせるように膝を折る。
「ならば、俺が傍にいてやる」
「でも、」それでもまだ操はためらいを見せる。兄のいいつけを守らねばならないと考えているのだろう。
「大丈夫だ。陽平には俺から話す。寂しいのは嫌だろう?」
「うん。」操は今度はうなずいた。
「ならばこれからは俺が一緒にいてやる」
「ホント?」
「ホントだ。嫌か?」
 操は顔を振る。それはこれまで拒絶の意味だが、今は肯定の意味だ。俺はその頭を二度、三度と撫でる。すると操は撫でられたところを両手で押さえ、照れたような表情を浮かべ「へへっ」と笑った。そんな顔を見せられて――
「操。」俺はたまらなくなって小さな体をぎゅっと抱き寄せた。操も抵抗することなく同じようにぎゅっと抱きついてくる。「さぁ、俺の部屋に行こう。お前の好きなお菓子もあるし、アニメ映画もある」
「でも、……」しかしまだ操は抵抗があるようだ。それでも俺は根気強く頭を撫でてみる。すると、
「アンパンマンある?」伺うような声。
「ある」
「ドラちゃんもある?」
 ドラちゃんというのはおそらくドラえもんのことだろうと推測する。それにしてもまるで友達のように呼ぶものだと少し驚いた。
「ああ、ある」
「じゃあ、いく。」ようやく心を決めてくれる。
 小さな子どもが好きと聞いて取り寄せておいてよかった。俺と一緒にいたいのではなく、アニメのキャラクターを見たいためというのは情けないが効果は覿面だ。やっと承諾を得て俺は操を連れ出した。
 それにしても、これまで誰かを何かを羨ましいなんて感じたことは一度もなかったというのに、陽一だけではなく、アンパンマンとドラえもんも羨ましい。いつか操は俺という人間に懐く日がくるだろうか。いやきっと、そのうち俺が一番いいと言わせてみせる。――妙な闘争心が燃えあがり、操を抱く腕にぐっと力がこめた。