挙式後
扉が閉まるとカシャっと鍵のかかる音がした。人のいない部屋はひんやりとし温まるまでに時間がかかるものだが、入っても寒々しさを感じることはなかった。扉と壁は同じクリーム色をしていて、それと違和感なく溶け合うはしばみ色の絨毯は柔らかく、慣れないハイヒールで四苦八苦してきた私の足を丁寧に包んでくれている。視線を上げると白とも灰色ともとれる燕尾服を着た蒼紫さまの背中が見えた。日頃、黒や紺系統ばかりを着ているので新鮮だが、とても似合っていて本物の王子様みたいだ。
結婚式を挙げて、披露宴を終えて、家に帰るものとばかり思っていたが、ホテルに部屋をとってあると言われ、ここへ来た。会場から部屋へ来るためだけに着替えた淡い桃色のカクテルドレスは蒼紫さまが用意してくれていたものらしい。ウエディングドレスや、お色直しのカラードレスよりもカジュアルで動きやすいが、それにしても、ふわふわとして随分と可愛く感じた。色もそうだけどデザインが甘い。蒼紫さまはこういうドレスがいいのだろうか。シンプルでスタイリッシュなものが好みなのだとばかり思っていたから、式でのドレスはすべてそういうものにしたのにな、と思った。
「操。」
立ち止まった私を振り返り、蒼紫さまが言った。その向こうにバルコニーに繋がる大きな窓があり夜空が広がっているのが見えた。
空の下には何十億人という人々が生活しているというのに、この部屋に蒼紫さまと二人きりでいることが不思議に思える。今日、この人の妻になったのだと唱えれば急に胸が苦しくなった。
瞬きもうまく出来ずに見つめれば、蒼紫さまは少し困った顔をして遠慮深げな笑みを浮かべた。
結婚することが決まって以降、蒼紫さまは優しかった。これまでも優しかったが、その優しさのうちに、私の知らない蒼紫さまが見え隠れした。それは男性の匂いだ。私をきちんと恋愛対象として見てくれているから生じる差異なのだと思う。思うけれど、飲み込めずにいた。これまでずっとつづがなく続いてきた関係で、一度も感じたことのない情熱を突然見せられても躊躇いの方が強い。彼はこの熱をこれまでどこに隠し持っていたのかと恐ろしく思えた。
「そんなに緊張しなくてもいい。おいで」
すっと差し出される右手に強い磁石でもついているように吸い寄せられ、一歩、二歩と足が動く。考える間も、息を吐く間もなく、傍に寄るとぐっと力強い腕が私の身体を包み込んだ。
嫌ではない、と思ったが、それきり頭は真っ白になった。視界には彼の顎から唇、鼻、と順序よく見えて最後に目が合う。私の知っている蒼紫さまと、知らない蒼紫さまが半分半分に存在する眼差しに自ずと身体が強ばった。
「急いているのはわかっている。だが、もう俺も待てない」
そう告げる声もまた切羽詰まっているように届いた。
待てないと言われても、答えが思いつかず、冷や汗が背中を流れる。
彼は私の身体を開放し、右手を取ると傍にあるソファに座らせ、背を向けて歩いていく。何処へ行くのかと目で追うことも出来ずに俯いて絨毯の柔らかい感触を踏む。相変わらずふわふわとして雲の上を歩いている心地ちだ。だから、やはりこれは夢なのかもしれないと思った。
「操。」
いつの間にか戻ってきた蒼紫さまの手にはグラスがあり渡される。受け取ると指先が冷たくなった。水が半分くらい入れられている。私は口をつけた。ゴクっと大きく喉が鳴ったのを敏感に聞き取ったのか、蒼紫さまはもう一度「そんなに緊張しなくていい」と告げた。私は左手で頬に触れた。熱を帯びて熱く、恥ずかしかった。
蒼紫は私の傍に立ってジャケットとベスト脱ぎ、アスコットタイと袖のカフスボタンを右、左と器用にはずすと、テーブルは挟んで向かいのソファに腰を降ろした。
部屋から音がなくなってしまうと、私は俯きながらも、蒼紫さまの様子が気になりチラリとそちらを見る。蒼紫さまは堂々と優雅に足を組みながら私を見ていたので、慌てて目線を逸らした。
泣いてしまいたかった。緊張からか、恥ずかしさからか、喜びからか、不安からか、けして嫌ではないのに素直に良いとは思えない決まりの悪さが心を震わせて泣きたかった。
「緊張しなくていい」
三度目のそれに、私の緊張は増していく。
「そんなに何度も言われたら、余計に緊張するよ」
私がどうにか返事をすると、蒼紫さまは「そうか」と短く頷き、それ以上そのことについては何も言わず「ここにおいで」と続けた。
ここにおいでが蒼紫さまの傍を意味することは理解できるが、今でも十分距離が近いのに更に傍に寄るようにと言われても、私はそれをうまく呑み込めない。結婚が決まってから、蒼紫さまの指先がとてもじれったく私に触れたがっていたことも感じていたし、私もまたそれを嫌だと思ったことはなかったが、それでもいざ、その時が来ると躊躇い、恥ずかしさの方が勝ってしまう。
私はチラリとまた横目で蒼紫さまを見る。その顔が私の心を捕える。もう待てない、とたしかについ数分前に告げられた言葉だった。告げたときの蒼紫さまの表情もその通りに思えたが、今の顔は別の感情が強く映し出されている。私はじっとしていることが出来なくなり立ち上がった。ゆっくりと蒼紫さまに近寄ると組んでいた足をほどいた。前に立つと彼の両手が私の両手を取る。
蒼紫さまの指先が好きだ。ごつごつとしていて柔らかくはないが幼い頃この指で頭を撫でられるのがとても好きだった。長い間、焦がれてきた指が、今は私の手を取り左手にはめた指輪を撫でている。蒼紫さまの薬指にはこれとペアになる指輪がはめられている。
マリッジリングはシンプルな物を選んだ。蒼紫さまの要望だった。結婚式に関して、私の好みを最重要視してくれたが指輪だけは蒼紫さまが希望を口にした。仕事中も付けて差しさわりのない物と、ゴテゴテしすぎないデザインにした。蒼紫さまはずっとつけていてくれるのだと知り、両親のことが頭に浮かんだ。私が五歳の時に事故で他界したので覚えていることは少ないが、残っている写真の父と母の指にはいつだっておそろいのマリッジリングが輝いていた。仲の良い夫婦だったことがうかがえて、私も将来結婚したら二人のようになりたいと思っていた。
「ずっと、羨ましかった」
静寂を破り蒼紫さまが言った。
蒼紫さまの視線が私の首元へ注がれる。形見となった両親のマリッジリングを兄と私とでそれぞれに持っている。大切なお守りのように大事なときには持っていく。今日も、失くさないようにペンダントトップにして首からさげていた。花嫁衣裳につけるものとしては少し違和感があるが、私はどうしてもつけていたかった。蒼紫さまが反対することはなかった。
「巻町と揃いの指輪が、羨ましかった」
蒼紫さまはぎゅっと私の手を握ったかと思うと、あっと声を出す間もなく私を膝の上に抱き上げた。十センチも離れていないところに蒼紫さまの顔があった。傍で見ると惚れ惚れする。こんなに整った顔立ちの人を私は知らない。この人が、私を思ってくれていることが、どうしても現実とは思えなくなった。
「覚えているか。うちに来たばかりの頃、お前は巻町を追いかけまわしていた。寂しかったのだろうな。巻町もそんなお前を可愛がっていた。睦まじい兄妹だと思ったが、あれほど後ろをついて回られたら大変だろうなとも思った。ところが、次第に、巻町が羨ましく思えた。あんなにも懸命に求められるとはどういう気分だろう。俺もされてみたいと思うようになった。俺はお前に声をかけた。お前はなかなか懐いてはくれなかった。だからようやく懐いてくれた時は喜びもひとしおだった」
日頃の無口な姿とは違い、饒舌だったし、話す様はどこか遠くを眺めて懐かしがっているようでいて、熱を帯びうっとりと聞こえた。長い前髪の下に見え隠れする眼差しにも熱が宿っている。
「だが、巻町には勝てなかった。兄と兄のような存在はどうしても違う。ああ、俺は巻町にはなれないとひどく落胆した。落胆している自分に驚いた。何故俺はそんなにもこだわるのか。お前が心を許す者の中で一番でなければ嫌だとの思いが何であるのか――その気持ちの正体に気づいたとき、俺は自分がおそろしくなった。相手はまだ子どもだというのに、特別な対象として認識してしまっていることに後ろめたさや罪悪感があった。それでも、この気持ちを消し去ることは出来なかった。消え去らなくてよかったと、言えるようになって嬉しく思う」
あっさり流れていきそうなほど淡々と語られるそれらは、だが、私の耳に残った。
私は蒼紫さまが好きだった。いつからかそう思っていたのかわからない。ただ、好きという言葉を知ったときに、蒼紫さまへの気持ちが言葉になったとほっとしたことを覚えている。でも、蒼紫さまの気持ちは、いまいちよくわからなかった。結婚するというからには私を好きでいてくれていると、事実から確認しようとしても、肝心の言葉がないまま今日まで突き進んできて不安があった。それが今、ようやくの終わりを向えようとしている。そのことに胸がいっぱいだった。
「俺は恵まれていると人から言わてきた。立派な家に生まれ、容姿も能力も人並み以上にあり、それを恵まれていると言われ続けてきたが、俺自身は恵まれていると実感したことはなかった。ありがたいとは思うが、それだけだった。だが、人生の早い時期に、大切な相手を見つけられて、やはり俺は恵まれているのだと初めて思った」
いつだっておしゃべりだと言われていたが、肝心なときに、何一つ言えない。
私はどうしようもなくて、蒼紫さまに抱きついてしまいたかったが、胸が苦しくて動けない。
好きだ、と思って、大好きだと、心の底からそう思い、そしてその相手が手を伸ばせば届く距離にいるというのに、動くこともできずに、どうしていいかもわからず、私はほとほとみじめな気持ちになり、でも湧き上がってくる幸福と呼ぶには強烈すぎる激情に飲み込まれてしまう。
「そんな顔するな」
蒼紫さまは言うと、私の頬に触れた。小さな子どもにするようにほっぺたをつねられる。
どうして、こんなときに、この人は、私を子ども扱いするのだろう。私がまだ怖がっていると思っているのだろうか。それほど困った顔をしているのだろうか。巡りいく思考をたどりながら、私は蒼紫さまを見た。さっきよりもずっと近い距離に端正な顔立ちがある。
「強引に進めてきた。お前の心の準備も考えなかった。本来なら、恋人として時間を過ごしてから、順を追って結婚するべきなのだろうと思う。だが、とても待てなかった。結婚など人が勝手に定めたルールにすぎないと言われても、それでも俺の妻となって傍にいると誓ってほしかった」
安心したかった――蒼紫さまは最後に続けた。結婚が絶対でないと、聡明な蒼紫さまがわからないはずないが、それでも結婚という約束で安心したい。何か、私のと間に確かなものを持ちたい。そう思い詰める気持ちの分だけ、私を思ってくれている。
「知らなかった……蒼紫さまが、私のことそんな風に思っていてくれていたなんて」
「これから、知ってもらうからいい」
心でも身体でもと熱い唇が私のそれに触れた。誓いのキスとして神様の前でしたものとは全然違う、目もくらむほどの甘やかな口づけが、私から羞恥を奪い去っていく。その熱を受け止めたい一身で、しがみつくように蒼紫さまの背に腕を回した。
2013/4/8
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