嘘も方便

 寝返りを打つと足の先にひんやりとした感触がした。なんだろうと不思議に思いながら、まだ目を開けるのは惜しいような気がして、足先だけでそれをなぞった。布団は着ているから……これはシーツだろう。寝相が悪くてシーツが乱れてしまったのかも、とそこまで考えると、置かれている状況を思い出して跳ね上がるように起きた。
 やはり私が足で触れていたのはシーツだった。それからぐるりと部屋を見渡す。大きなベッドが二つ並んでいるが片方は少しも乱れていない。私たちは昨夜結婚式を挙げて、それから一緒のベッドで眠ったのだ。
 カッカッと体中が熱くなり胸の辺りがむずむずして自分の身体を抱きしめるように両腕を組んだ。指先に手触りのいい生地が触れて、あれ、こんな服持っていたかなと視線を下げば、それは私のものではなく彼のシャツだった。
「風邪を引いたら大変だから」そう囁かれた記憶がうっすらとある。
 何もかも――結婚式も披露宴も、そして愛し合うという行為のすべてが終わると私はふにゃりとタコのような軟体動物になった。緊張しすぎていた何もかもがすんだ反動たるやすさまじくて、とにかく脳は睡眠を求めた。何も考えたくないし考えられなくて、眠ってしまいたかった。そんな私の耳元でたしかに私の身体を気遣う声がした。でも、私は気怠さに返事をすることができず、そのまま記憶が途絶えたのだけれど。あのあとで、彼が私に着せてくれたのだろう。
 結婚早々に失態!? と思うと青ざめてしまう。
 そういえば、彼はどこにいるのだろう。寝室には気配はない。
 急に心細くなってベッドを降り、扉へ向かった。
 近づくと、彼の声が聞こえてきた。
 誰かと話している。お客さんだろうか。でも、こんなところへ来る人というのが想像できない。話では休みをとっていて、今日の夜の便で新婚旅行へ出発することになっている。それまではホテルでゆっくりすると言っていた。
 おそるおそる扉から顔を出し様子を伺う。彼は携帯で電話をしているだけで来客ではなかった。私に気づくと、えっ、と一瞬だけ焦ったような顔になったので、邪魔をしたのかと私は混乱し寝室へ戻ろうかと思ったが、その前に、おいで、という風に彼が手招きした。
 呼ばれているのだから行かなくちゃ、と思うのに、身体は思うように動かずに、ただじっと彼の顔を見つめた。
「切るぞ。出発前にこちらからかけるから、もうかけてくるなよ」と彼にしては珍しく辛辣ともいえるような口調で告げて電話を切り、それから私の方へ歩いてきた。
 機嫌が、よくない? と自然と身体が強張ってしまう。ぎゅっと身構えていたら、ふらりと甘い匂いがした。それから先程とは違ってとても優しい声で、すまない、と言われた。
 何に対する謝罪なのかよくわからずに、ゆっくりと彼の顔を見上げると、大きな手が私の頬に触れた。それだけで私の心臓は一挙に脈を速めて苦しくなった。
「怒っているか」
 黙っているとまた彼はわからないことを言った。
「怒ってないよ。どうして謝るの?」
「目が覚めたときに傍にいてやらなかったから、拗ねているのではないのか」
 続いた言葉に私は少し驚いた。
 小さい頃、私は一人で眠ることを嫌がり兄と一緒に眠った。目覚めて兄の姿が隣にないと大声で泣き喚いた。それは事実だったし、そのことは蒼紫さまも知っていた。でも、だからって、
「そんなことで拗ねたりしないよ」
 私はもう小さな子どもでないのだから、目が覚めて一人だったからと泣いたりしない。それなのに蒼紫さまは私を一体何だと思っているのだろう。本当にそんなに幼いと考えているのなら、昨日のアレはなんだったのか――と怒りなのか情けなさなのか悲しみなのかが押し寄せてきたけれど、それが口を出ることはなかった。その前にもっと強く抱きしめられたから。
「そうか。拗ねてないのか」
「……拗ねてないよ」
「拗ねている方がよかった」
 すると、またしてもわけのわからないことを言う。
 私は身じろぎしてもう一度彼の顔を見上げた。その顔には疑問符がたくさん浮かんでいたのだろう。私が問うよりも先に、
「初めての朝なのだから傍にいてしかるべきだろう。そうであるのに電話がかかってきて邪魔された。……お前たち兄妹は少し仲が良すぎるのではないか」
「電話の相手、お兄ちゃんだったの?」
 彼は明らかに不愉快な顔になった。
「なんて?」
「無体な真似はしなかったかと……いらぬ心配だ。そのせいで俺は楽しみを奪われた。おまけにお前は俺がいなくても怒りもしないし」
 正直、私は驚いていた。彼の方が拗ねている。そんな姿をこれまで一度もみたことがなかったので、四乃森蒼紫という同姓同名の別人なのではないかと疑うほど違和感を覚えた。ただ、その姿を見ても嫌な気持ちにはならなかったし、呆れたりもしなかった。
「怒ってないけど、蒼紫さまの姿がなくて探したよ」
 言ってぎゅっと抱き着けば、彼はひょいっと軽々私を抱えた。
「寂しかったか」
「うん、とても」
 本当はいろいろ思い出して寂しいとか恋しいと感じる余裕もないほど恥ずかしさでいっぱいで、すぐに彼の顔を見なかったことで落ち着きを取り戻したというのはあるのだけれど、そんなこと正直に言える雰囲気でもなくうなづけば、満足げに微笑まれたので、私の判断は間違いではなかったと思う。



2013/7/2