運命の人シリーズ
蒼紫ver
人は忘却の生き物と言ったのは誰であったか。何もかもを覚えていては生きてはいけない。時が流れるように、記憶も流れていき、悲しみも喜びも遠のいていく――そうであるはずだし、そうであるべきだ。しかし。
目覚めると首筋に嫌な汗が流れている。
重い体を無理矢理起こし胸元に手を置く。深呼吸すれば次第に動悸が静まっていく。
寝覚めはいつも最悪だ。夢見が悪い。いや、”あれ”は夢と呼ぶには生々しいものだった。
血の臭い――それも指先を少し切ったとかいう程度のものではなく、ざっくりと骨身を切り裂き噴出する他人の血。それは鼻が曲がりそうなほどの異臭がする。
俺は血を浴び続ける。体に飛び散るどす黒い赤とたまらぬ臭みで気が遠のいても構わずに”剣”を振るい続ける。そして人を、殺め続ける。
あれは夢ではない。俺の”魂”の記憶である。こびりついて消えない魂の。
俺は前世で人を殺した。一人、二人ではない。今であれば殺人鬼である。しかし、あの時代は許されていた。――いや、人を殺して許されるはずなどありはしない。ただ、立場として暗黙されていたのだ。けして許されるはずなどなかった。
己の犯した罪の、奪った命の感触を引きずって風呂場に向かいシャワーを浴びる。頭から熱湯を浴びれば生命が吹き返したように思える。つい先程まであった血生臭さい感覚が消え去っていく。
過去の己の罪の戒めを受ける人生。だが、俺を苦悩させる罪は、殺戮の記憶ではない。
この生涯には”彼女”がいない――それが俺の後悔してもしきれぬ罪だ。
『蒼紫さま』
朗らかな声で俺を呼ぶ。明るく元気で、そして華やかな空気を纏い俺の傍に駆け寄ってくる。
一時期は修羅へと落ち、何もかもを恨み、同胞を手にかけ、己の命さえ捨てようとした俺が、光の元へともう一度帰えれた理由。
だが、俺は彼女を裏切った。
他の女との祝言を決めた。
俺は彼女と夫婦にはなれない。彼女を女性として見ることはできない。しかし、俺が独り身でいれば彼女はずっと俺を待ち続けるだろう。そんなとき、見合い話が持ち込まれた。俺はそれを受けたのだ。
今にして思えば、そんなことで婚儀を決めて相手の女子にも失礼である。彼女のために他の女を娶るなど。だが、当時の俺にはそれが正しいことに思えた。
祝言を間近に控えて、彼女は東京へ遊びに行きたいと言い出した。
「蒼紫さまの祝言までにはちゃんと帰ってくるから、ね、いいでしょ」
そう言う彼女に誰も、俺も反対はできなかった。彼女には時間が必要だった。俺への気持ちを整理する時間が。旅立つ日、彼女は俺に言った。
「ごめんね、蒼紫さま。本当は真っ先に”おめでとう”って言わなきゃいけないのに、まだ言えない。でも、東京から戻ってきたらちゃんと言うから。ちゃんと蒼紫さまの幸せを願えるようになって帰ってくるから。待っててね」
しかし、彼女が帰ってくることはなかった。
彼女が乗っていた船が事故に遭い、海の底へ沈んだ。遺体もあがらず――。
知らせを受けても俺は信じられなかった。
彼女が死んだ。もうこの世にはいない。そんなことが信じられるはずなかった。
だが、どれほど嘆こうが、どれほど悲しもうが、現実の残酷さは覆らなかった。
もう彼女はこの世にいない。
俺の世界は真っ暗に染まった。かつて絶望に突き落とされた闇とは全く別の。俺が落ち込んでも彼女は喜ばないだろう。俺の幸せを願ってくれた彼女の気持ちに報いるためにも懸命に生きるべきなのだろう。そう思うが、思考とは裏腹に俺の世界は塗りつぶされたまま――そして、俺はある寺を訪れた。まことしやかに伝えられている噂を頼りに探し出した。そこでは一度だけ死者に会わせくれるという。かの三代将軍家光公はここで亡き家康公に会わせてもらったと隠密御庭番衆の書にも記されていた。現実主義の徹底された御庭番衆にそのような話が伝えられているなど不可思議だ。知った当時は笑っていたが――人とはわからぬものだ。俺はその真偽のわからぬものを頼りした。
住職は俺の顔を見ると訳知り顔で静かに頷いた。
「向こうのお方も伝えたいことがあるようです」
そう言うと、俺は奥座敷に通した。小さな室内でしばらく待たされていれば、ふっと空気が揺らめいた。ひやりとして、冷たい気配に息を飲む。その一瞬後、最初からそこにいたかのように彼女の姿があった。
俺に向かい丁寧に頭を下げる。
「操――」
名を呼ぶと胸が熱い。じわりと目頭も熱くなる。呼びかけに彼女は静かに微笑んだ。
「蒼紫さま。ごめんね。帰れなくてごめんね。ちゃんと帰って”おめでとう”って言うって約束したのに、守れなくてごめんね」
彼女が真っ先に口にしたのはそのようなことだった。
「蒼紫さまが他の人と夫婦になるって聞いて、私、すごく悲しくて辛くて、ちゃんとお祝いもできなくて、ごめんね。私、自分のことばっかりで。でもね、ちゃんと言うつもりだったの。東京に行って、気持ちを整理して、ちゃんと心から蒼紫さまの門出を祝うつもりでいたのに――話を聞いて『どうして?』って、婚儀がなくなればいいって、そんなことを思っちゃった罰があったったのかな。蒼紫さまのこと好きっていいながら、幸せを願えなかったから、天罰だったのかも。船が沈んでいくって、もうきっと助からないてわかって、私、すごく後悔したのよ。おめでとうって言えなかったこと。幸せになってって言えずにいたことが唯一の心残りだった」
ああ、やはり、俺の考えは間違いではなかった。彼女は俺の幸せを願う。彼女の死を悲しむことは望まない。その思いは正しかった。死にゆく間際でさえ、彼女は俺の幸せを祈ってくれていた。
「だから、今日、こうして言えてよかった。これで私も後悔ないよ。蒼紫さま。大好きだったよ。すごく大好きだった。元気でね。幸せになってね。絶対、絶対、幸せになって暮らしてね。ありがとう。さようなら」
彼女は笑った。笑いながら、俺に別れを告げた。晴れ晴れとした笑顔で――。
しかし、俺はもう幸せになどなれないだろう。いくら願われても。それが彼女の望みであっても。なれるはずがない。こんな風に失って、俺はようやく気づいた。俺の幸せがどこにあったのか。
「もう一度、会うことはできないのですか」
俺は住職に懇願した。
「残念ですが、この縁はここまでです。縁とは不思議なもので繋がり続けるものもあれば、そうでないものもございます。あの方は、ずっとあなたを思ってこられました。あの方もあなたも記憶にはないでしょうが、お二人の縁は深い。あの方は前世も、前々世もただあなたを思い慕ってこられたのです。されど、あなたは一度もあの方の気持ちに応えることはなかった。ならば、今生が最後と。それで無理なら綺麗に諦めると。そう決めて今回生まれてこられた縁でございました。結果、やはりこの縁は結ばれることはございませんでした。ですが、あの方は満足なさっているのです。三度の生涯、ただあなたを思い、愛し、貫いたことを満足されております。しかし、もうこの縁を続ける気持ちはない」
もう二度と、俺と関わる気はない。これが最後の縁であった。
それでも俺は引き下がらなかった。どうにかならないものなのか。俺は寺に居座り続けた。されば、住職は言った。
「あなたから縁を繋ぐ方法がなくはないです。しかし絶対とは言えない。それにあなたにとって辛く長い道になります。ここで、これから誠心誠意修行をし、命を全うした後、その気持ちに嘘偽りがないと認められたら、来世でこの記憶を思って生まれ変わることができる。しかし、人は忘却の生き物。まっさらな人生を前の記憶を持って生きるというのは想像するよりずっと過酷で辛いものです。それに、仮に記憶を持って生まれたとしても、思う人に会えるかどうかわからない。相手はあなたとの縁を終わらせている。もうあなたのことを思う人生をやめて、新しい縁の中で新しい生き方を求める方です。会えたとしても今生のような態度はけしてとられないでしょう。あなたが今と同じものをその方に望んで、もう一度と願ってのことなら失望する結果に終わるかもしれません」
それでも構わないと答え――俺は葵屋に戻ることなく、決まっていた祝言もあげることはなく、生涯を修行に費やした。ただ、彼女にもう一度会えるならそれでいいと思った。
俺の思いは天に通じた。
見事に記憶を持って生まれた。
しかし、肝心の、彼女には未だに会えないままでいた。
――会いたい。
ただ、その思いだけが積もっていく。やがて俺の体を埋もれさせて息もできなくなるのだろう。
会いたい。会いたい。
だが、願いは叶わない。ならば 彼女への思いに埋もれて窒息してしまいたい。大切が何かもわからず、手放せると思った愚かな俺には似合いだろう。――近頃では諦めに似たそんな自嘲がこぼれ落ちるようになっていた。
重暗いニュースが続いているとは思えないほど町は賑やかだ。
クリスマス前の金曜日、俺は同僚に無理矢理連れられて飲み会に出席させられている。本来くるはずだった男が来られなくなった。なんでも話が彼女にバレたそうだ。
彼女がいるのに飲み会に出る。そういう話はままある。人数合わせで仕方なく――それをよしと認める者もいれば、そうではない者もいる。それは女性の度量もあるだろうが、男の方の日頃の行い信頼関係にもよるのだろう。本日出席予定だった男はどうもその辺は信じてはもらえないらしく、浮気する気だと大喧嘩になったとか。それで俺が代役を引き受けさせられたのだからたまったものではない。
「一人欠けたぐらい平気だろう」俺は当然拒否した。
「馬鹿。女の子が一人少ないのはいいけど、男が少ないのはまずいの」
そういうものなのだろうか。よくわからなかったが、どうしてもと拝み倒されて(それでも仕事が終われば俺は黙って帰るつもりだったが捕まった)、結局出席することになった。
飲み会が開始して一時間半。席を立ち、手洗いに向かう。
酒は苦手だ。昔は”下戸”であったが、今生では呑めないわけではない。ただ、あまり好きではないし、顔に出る。ノンアルコールビールばかりを飲んでいたが周囲の酒の匂いだけでもほんのり赤くなっている。情けないが――それが可愛いと前に座る女に言われた。何が可愛いものかと思うが。
大きなため息が一つ。
おそらくはあの女性は俺に気がある。自惚れであればいいが、そうでないなら少々厄介だ。盛り上がり具合から二次会がありそうだが、抜け出すつもりでいた。店を出ればわからないように帰ろうと。しかし、あの女性に引き留めにあうかもしれない。或いは送って欲しいと言われるかもしれない。どうせ帰るならいいだろうとか周囲の人間が後押しでもすれば面倒だ。
悩んでいても仕方ない。出たとこ勝負で、逃げるが勝ち。あまりここで長居するわけにも行かない。手洗い場を出た。すると、扉を開いたところで、ゴンっと変な音がして「うわっ」と驚く声がする。
男性用トイレの先に女性用がある。おそらく奥から歩いてきて突然扉を開いてぶつかったのだろう。申し訳ないことをしたと、
「すみません」
俺は扉の向こうを覗き言った。
案の定、額を押さえた女性――随分小柄であるから女性と言うより少女と言う方しっくりきそうだったけれど――がゆっくりと俺を見上げてきた。
――えっ。
「あ、こちらこそ。すみませんでした」言うとそそくさと急ぎ足で去って行こうとする。俺はその腕を掴んだ。捻り上げるように右手を取れば、「うわっ」とまた驚く声がして振り返る。大きな目が俺を捉えた。
「……な、なんですか」
不安げに揺れる瞳を見てはっとなる。
怯えさせる気などなかったが、突然男に腕を掴まれたら怖くもなる。最近は物騒な事件も多いのだ。
「申し訳ない」謝罪して手を離す。すると、逃げるように後ずさるので慌てて声をかける。「待ってください」
「……何か?」呼びかけに動きはとめてくれたが不安そうな表情は解かれない。それでも俺に聞き返してくる。その声もとても似ていた。俺が会いたくて仕方なくてずっと探している人に、あまりにも似すぎていて――いや、似ているのではなく、本人であると思う。俺のすべてが告げている。根拠はないが確信があった。
ついに会えたのだ――巻町操の生まれ変わりに。
「あの……私、急いでるんですが。友だちが酔っぱらって、お水もらいに…」
話によると今も、お手洗いで嘔吐しているという。その介抱に忙しい。
「手伝いましょう」俺は何の迷いもなく告げた。
「ええ!?」
「一人では大変でしょう。連れて出るにしても、困る。男手はあった方がいい。それとも誰か他に……」
女性二人で来て飲み過ぎるというのはいささか不自然にも思える。誰か他にいるのか、同じようにコンパをしている可能性が高い。コンパに来ているのであれば特定の恋人はいない可能性も高い。募集中である。それは俺にとって都合が良かった。ただ、他の男と楽しく過ごしていると思うだけでも嫌な気がした。いや、今はそんなことを言っている場合ではない。
「でも、あの、」提案に、困ったように口籠っている。
「水をもらってきますから、その子の傍に」
背を押して俺は宣言通り調理場へ水をもらいに行く。
強引でも不自然でもなんでもいい。とにかくこの出会いの繋ぎとめなければならない。
チラリと後ろを振り返ると大人しく女子トイレに入って行く姿が映る。確認してほっとするが、水をもらいに行っている間に、その友人が元気になって外に出てくるかもしれない。急いで調理場へ向かう。
それにしてもまさかこんなところで、こんな風に再会できるなど夢にも思わなかった――これがいわゆる聖夜の奇跡というものなのかと、神様に祈りたい気分になった。
愛している。操。
もうどこにもやらない。今度こそ、この手に掴む――それが俺の生きている意味。
その夜から、長きに渡る俺の思いがようやく本格的に動き始めた。
Copyright(c) asana All rights reserved.