バレンタインから始まる物語シリーズ

バレンタインデイの憂鬱

 駅前にあるデパートの七階は夏場はお中元、冬はお歳暮売り場になる特設会場がある。季節によって景色を変えるそこは現在煌びやかなチョコレートが並んでいる。バレンタインデイに向けて一粒三百円する高級チョコから、ワンコインで買えるお手軽チョコまでがずらりと。
「うぅー決めかねる。どうしよう。やっぱり手作りにしようかなぁ」
 売り場をぐるぐると三周見ても決めかねて薫は言った。
「せっかく来たんだから買った方がいいんじゃない?」
「うーん、そうかなぁ」
「そうだよ。だって、薫の手作りならいつでもあげられるけど、バレンタインデイ用のチョコはバレンタインデイしか売ってないんだから」
 言いながら随分無茶苦茶な理屈だと思った。それでも私は言わねばならなかった。薫の恋人・緋村さんのために。
 薫はかなり料理下手だ。食べられるはずの食材で食べられないものを作る。他のことは器用にこなすのに料理だけはどうしても上達しない。だけども緋村さんはおいしいと言って食べてしまう。愛のなせる業なのだろうけれど――ただ、その後、腹痛を起こす。不幸な事態を引き起こすのに薫は自分の手料理をふるまい続ける。愛情たっぷりの料理を食べてほしいと言う。私はその事実にすごいなと心底感動した。愛される女は強いのだ。これを食べてくれるだろうかという不安を持たない。それが二人の愛のやり取りでもあり信頼とも呼べるものなのだろう。だから、黙認するべきかもしれない。けれどやはり体を壊すのはいただけない。知っている私としてはいろいろ気を揉む。
「そうだよね。せっかく操ちゃんにも付き合ってもらってるわけだし、買っちゃおう」
 薫は二度うなずくともう一度人ごみの中に飛び込んでいく。私はほっとして後を追うがすれ違う人と肩がぶつかった。すみません、と謝罪を口にした瞬間に甘く香る。チョコレートの甘さではなく香水だ。反射的に振り返り目で追う。後ろ姿しか見えなかったけれど、髪が短い女性が颯爽と人ごみに消える。格好いい大人の女性に感じられた。あのような女性にチョコをもらったら男の人は嬉しいだろう。きっと甘い物が苦手でも喜ぶだろう。そんな気がした。
 香水の匂いがチョコの匂いに押し戻される。脳の栄養は糖分だけと聞くが香だけでも十分効果があると示すように惚けていた頭脳が働きを取り戻す。止んでいた周囲の声も耳に届きだす。
 あれ可愛い。これ目を引くね。ちょっと値段が高いけど奮発しようかなぁ。ええもう売り切れちゃったんですか。
 あっちこっちから聞こえてくる声はどれも真剣で、そして嬉しそうだ。好きな人への贈り物を懸命に選ぶ。きっと楽しいに違いない。バレンタインデイは恋する女の子のためのイベントだ。 
 だけど、私はバレンタインデイを楽しんだことは一度もない。
『甘いものは嫌いだ』
 一言が私をとどめさせていた。
 知っている。彼は甘いものが苦手だ。
 彼、四乃森蒼紫さんは隣に住むお兄さんで私とは十違う。それだけ離れているけれど私たちは幼馴染だ。厳密には私には兄がいて、兄と蒼紫さんが同じ年だから親しかった。そのおまけで私のことも可愛がってくれていた。
 蒼紫さんは恵まれた容姿をしていて、勉強も運動もそつなくこなした。ただ少しばかり陰気な印象があって目立つ存在ではなかった。ところが成長期に入り身長がグングン伸び始めると状況は変わった。陰気な雰囲気は静かで大人っぽいと見られるようになり注目を浴び始めた。中学二年の頃にはちょっとしたファンクラブまで出来るほどで、バレンタインディには大量のチョコレートを持って帰ってきた。
 だけど蒼紫さんは甘い物が嫌いで口にしない。せっかく女の子が頑張ってくれたんだから一口ぐらい食べなさいとお母さんに言われて、しぶしぶ食べていたけれど(母親の言うことはちゃんと聞いたりする)、わずかに齧るだけで残りは全部私にくれた。
 幼かった私は、そのチョコレートがどういう意味合いなのかもよくわかっておらず、大の甘党であったこともあり喜んで食べた。以来、毎年、蒼紫さんはチョコを私に横流ししてくれる。だけど、次第にそれが辛くなった。
「蒼紫さんを思って懸命になって買うなり作るなりしたものでしょ。全然無関係の私が食べるのは後ろめたい」
 五年前、ようやくそれを告げることが出来た。
 すると、彼は言ったのだ。
「俺は甘いものは好まないと日頃から言っている。そうであるのに渡してくるのだから相手も食べてもらえるとは思っていないだろう。このまま捨てるより、誰かに食べられた方がよほどいい」
 淡々と告げられた内容を覆す言葉が思いつかなかった。
 頂いたからと有難がって食べなければならないという決まりはない。嫌いな物なら食べない。まっとうな言い分だ。もしそれでも食べるというのなら、そこには好意が存在する。薫と緋村さんのような。
――蒼紫さんにチョコを贈っても食べてもらえない。
 それがわかってなお、贈る勇気はない。
 私が好きな人にチョコを渡す日は永遠にこないのだ。
「あ、ねぇ操ちゃん、これいいと思わない?」
 薫が立ち止まる。指差したショーケースには七粒中一粒だけ真っ赤なハート形のチョコが入ったものだ。
「うん、いいね。好きって気持ちが伝わりそう」
「だよねぇ」
 嬉しげに微笑んで薫はそのチョコを購入した。
 薫は緋村さんへの本命チョコレートを買い終わると、次は父親と道場(薫の家は神谷活心流という剣道道場をしている)の門下生への義理チョコを購入すると、再び特設会場を回り始めた。私も同じようについて歩いていると、ふと目に飛び込んできたチョコレートの前で足を止める。惑星を模したもので、水星、金星、地球、火星、木星、土星、海王星が並んでいる。宇宙の静けさを表現しているのだろう、真っ黒な包装紙の感じだとか、シンプルでキリリとした鋭さが印象的だ。
「格好いいね。男の人向きって感じがする」
 私に気づいて薫も立ち止まり声をかけてきた。
「ほら、ポップにも書いてあるよ」
 薫が指さす先には店員さんの手書きで「ビターチョコレートを使用していますので、甘い物が苦手な男性にもご好評いただいております」とある。最後にビックリマークが二つも付いていた。


 
 買ってしまった。
 マンションのエントランスをくぐり、ホールでエレベーターを待っていると右手に持った紙袋がずしりと重くなった気がする。
 惑星のチョコを気づけば買っていた。
 エレベーターの階数表示が下がるのを観ていると気持ちもどんどん下降してくる。
 社会人になってから蒼紫さんは家を出た。ここからでも通えるところに就職したけれど、一人暮らしを始めた。自立したのだからと出て行き、チョコを渡す以前に会うことさえままならないのだ。
 盛大なため息が自ずと漏れた。何をしているのだろうか。こんなもの買って。無駄遣いだ。
「操。」
――なんで?
 振り返ると蒼紫さんがいて、ぎょっとして声もでなかった。考えていた人物を引き寄せるような魔術を知らないうちに身につけてしまったのかと非現実的な考えが頭をかすめた。
「たいそうなため息だな。何かあったのか」
 蒼紫さんは表情が乏しい。代わりに声の調子で感情がわかる。低音で静かに話すから聞き取りにくいけれど今は心配そうだ。
 背後で扉が開く気配を感じる。 
 乗り込みボタンの前に立つと蒼紫さんも乗り込んでくる。私は扉から顔を出して他に人がいないか確認する。誰もいない。夕方の人の出入りの多い時間でもエレベーターで乗り合わせることは案外少ない。
 「閉」を押そうと手を伸ばすより先に扉が閉まり始める。私は息を飲む。
「操。何かあったのか」
 完全に閉まり終えると同じことを蒼紫さんは言った。
 振り返るかどうか迷っているうちにしびれを切らしたのかもう一度名前を呼ばれる。
「何もないよ」
 階数表示はまだ四階だ。十階までしばらくかかる。
「あれほど盛大なため息をついていたのにか」
「ため息ぐらいつくよ。今日は買い物に行って疲れたから」
 紙袋を持つ手に力が入る。余計なことを言った。私はそれを蒼紫さんから見えないように体の前に移す。
「チョコレートか。」
 何故、と思った。
 振り返ればいつもの、無表情の蒼紫さんと目が合う。
「……甘いもの嫌いなのに、よくわかるね」
 隠していたチョコの袋が振り返ったことで蒼紫さんの前に晒されている。それをしげしげと見ている。
「以前に、それと同じ袋の物をもらったことがある」
「そう、だっけ? 惑星のチョコなんてあった?」
 蒼紫さんからもらった物に惑星のチョコなんてなかった。私にすべてのチョコレートをくれているわけではなくて、蒼紫さんが自分で食べたりしている――それが意味する現実に心臓が速まる。 
「中身はお前の方が詳しいだろう。どんな物があったかは覚えていない。ただ、その袋は丈夫でちょっとしたものを入れて持ち歩くのにいいと、母がやけに繰り返していたので覚えている」
 そういえばいつもチョコレートは袋から出されて箱の状態で渡される。袋は蒼紫さんのおばさんが使っている。――だから覚えていただけでそのチョコレートが蒼紫さんにとって特別なものだったわけではない、と思っていいのだろうか。
 エレベーターが制止して扉が開き、新鮮な空気を飛び込んでくるとようやくまともに呼吸出来た。
 聞きたいことはいろいろあったけれど、無言のまま私たちはそれぞれの家に帰った。


 台所に立っていた母の「おかえりなさい」の代わりに「もうすぐ夕飯出来るから」と言う声が聞こえた。「わかった」と短く返して部屋に引きあげる。電気を点けると眩しすぎてチカチカするので一段小さな光に切り替えてからベッドに横になる。手にしていた鞄と紙袋は床に転がした。
 どうして蒼紫さんがいたのだろう。実家があるから不思議がることではないのかもしれないけれど、このタイミングの良さ――悪さに何かしらの意味がある気がしてしまう。それから、紙袋を覚えていたことも。
 よくないことが頭の中にいくつも浮かぶけれど見ないようにぎゅっと目を瞑る。視界が暗転すると嗅覚が頼りになる。おひさまの匂いだ。今朝、出掛けに天気がいいから布団を干して行きなさいと言われてそうしたことを思い出す。夕方、とりこんでくれていたのだろう。ふかふかとしてほのかな優しい匂い。気持ちがいい。嫌なことも丸く柔らかい真綿で包み込まれて溶かしてくれる気がした。
 まどろんだまま眠りに落ちてしまえたら少しは気持ちが晴れると思ったけれど、邪魔するように鞄から音がする。スマホが鳴っている。
 手探りで鞄を引っ張り寄せて取り出す。
 表示には兄の名前がある。
「彼氏ができたのか」
 出るといきなり言われる。
「……お兄ちゃん、誰にかけてるの?」
「とぼけずに答えなさい」
「別にとぼけてないけど」
 強い口調で言われてむっとなった。寝そべった姿勢から起き上がり座ると休んでいた頭も目覚める。
「いきなり電話をかけてきて、彼氏ができたとか聞かれても、意味がわからないし。なんなの?」
 兄も就職してから一人暮らしをしている。兄の場合は配属先が他県になったのでその必要があったのだけれど。
「お前がチョコを買ったと聞いた。彼氏が出来たのか」
「誰にそんなこと聞いたの!?」
「……蒼紫だよ。エレベーターで会ったんだろう。お前がチョコを買ってたって電話がきた」
「どうしてそれを蒼紫さんがお兄ちゃんに――……」家に戻ってからそれほど時間が経過していない。話が本当なら蒼紫さんは私と別れてすぐに兄に電話したことになる。「…――ああぁ! お兄ちゃん、ひょっとして蒼紫さんに私のこと見張らせてるの!?」
 辿りついた答えに大声が出た。
 兄が過保護なのは知っている。私が小学五年生のときに父が単身赴任になってから尚更自分がしっかりしなければと考えるようになった。あれこれと私のことを気にかけてくれている。遠くで暮らし始めた現在も。
「えっ、いや、その」
 電話の向こうでも明らかに動揺するのがわかった。
 それでこれは間違いないと確信した。すると、これまで見えなかったことが見え始める。 蒼紫さんが実家に戻ってくるときは何かしらのイベントがある日の近くなのだ。七夕だったりクリスマスだったり、そういう恋人たちの行事。私はそういう日に蒼紫さんの姿が見れて嬉しかったし、そういう日を過ごす相手が蒼紫さんにはいないのかなと思えば安心もした。だけどあれは全部、兄が私の同行を探るようにとお願いしてのことだったのか。
「信じられない。過保護すぎるよ。それも人を巻き込むなんて、ありえない!」
 カッとなって電話を切る。
 すぐにまたコールがあるけど私は無視した。それがしばらく続いたけれど出ないとわかると、今度は家の電話にかかってくる。母から「お兄ちゃんから電話よ」と声をかけられても私は拒否した。
「喧嘩でもしたの? 珍しいわね」
 母の呑気な声が聞こえる。私は布団を頭からかぶり身体を丸くした。


 築二十年以上になるマンションは重力の圧が随分とかかり玄関扉を開閉すると大きな音が鳴る。
 朝食を済ませてすぐに部屋に引っこみ、だらしなくベッドに横になっていた。三連休最後の日。明日からまた学校が始まる。勉強は嫌いだけど友だちと話すのは好きだ。それだけのために通っていると言っても過言ではない。だけど近頃は間近に迫ったバレンタインの話しばかりでもやもやするだけだ。行きたいない。早くこんなイベント終わってしまえばいいのに――そのようなことを考えていたら玄関扉の開く音がした。
 母が出かけたのだろう。買い物ならば一緒に行かないかと声をかけてくれるはずだから、ゴミ出しか、回覧板を回しに行ったか。普段ならそのどちらでも私にするように言うのに変だなと思った。
 ドタドタと忙しない足音が聞こえる。母ではない。
「操! 起きてるか」叫ぶように踏み込んでくる。
「……お兄ちゃん!?」
 まっすぐ私のところへ来たようで、コートも鞄も持ったままだ。
 今週末にこっちへ帰ってくるなんて話は聞かされていない。急遽戻ってきた。原因は昨日の電話の件だろう。
「これか、問題のチョコレートは」
 兄は机に置いていた箱をめざとく見つけて手に持った。
「ちょっと、なんなの。勝手に部屋にはいってこ」「で、これは誰に渡すつもりなんだ」
 私の話などまるで聞いていない。問いつめることが正義という風に見える。
 それにしたって、帰ってくるか? その行動力に唖然となる。兄は私のことになると心配しすぎ周りが見えなくなることはあったけれど、それでもここまで切羽詰まったような強引さは見せたことがない。何がここまで兄を駆り立てるのか。いくらなんでも妹を案じるにしては行き過ぎている。
「別に誰にもあげないよ。友達が買うのを見ていたらつい買っちゃったんだよ」
 まくし立てられた理不尽さよりも、兄の感情に飲み込まれて答えると「本当だな」と念を押される。
「本当だよ。疑うなら、そのチョコ持って帰っていいよ。お兄ちゃんにあげるよ」
 食べるのも忍びないしどうせならば兄にもらってもらった方がいい。
「……いや、それはそれでマズい」
「何がマズいの?」
 腕を組んで考え込み始める兄に尋ねる。兄は私を見つめて、
「ちょっとつき合え」
 真面目な顔だ。
「車を回してくるから五分したら下に降りてきなさい」
 有無を言わせぬ力強さで告げられた。



 車から見える景色は寒々としてもの悲しく移る。ヒーターを入れてくれていたけれど足下は冷えた。
「どこに行くの?」
「僕だっていつも時間があるわけじゃないからな。けりをつけてもらわないと」
「全然意味がわからないよ」
 兄はチラリと私を見て盛大なため息をついた。どうしてそんな態度をとられなければならないのかと納得いかない。
 赤信号でゆるやか停車した。歩行者が横断歩道を渡り始める。母親に手を引かれて小さな女の子が横切っていく姿が見えた。
「お前が四歳のとき、幼稚園でもらったチョコレートを僕にくれたことがあっただろう」
「そんな昔の話、覚えていないよ」
「だがハッキリ覚えている人間もいる。蒼紫は大量のチョコレートをもらって僕は羨ましがった。そしたらお前は『お兄ちゃんは一つももらえないの? 可哀想だから操があげる』と言って幼稚園でもらったチョコを僕にくれた。妹に同情されるなんて情けないなぁと笑って終わる話だった。ところが、それを見ていた蒼紫は不機嫌になって、『バレンタインなんてくだらない。俺は甘い物は嫌いだ。こんなものもらっても迷惑なだけだ』と言い出した。蒼紫はお前を猫っ可愛がりしていたからな。俺にだけチョコを渡したことに嫉妬したんだろうけど、自分もほしいとはいえずそんなひねくれたことを言った。でも、幼いお前は額面通りにその言葉を受け取り『あおしおにいちゃんはチョコきらいなの? おいしいのに。操はチョコ大好き』と告げた。そしたら蒼紫はもらったチョコをお前にやるといった。以降、毎年、もらったチョコを渡し続けている。律儀というかなんというか」
 車は再び走り始める。右に大きくカーブをとった。
 私は何を答えればいいのか、言葉が生まれない。兄の話は大事なところがおぼろけで、何を言いたいのか掴みかねた。
「あれは難儀な男だ。だけど一途だし生真面目だ。真面目すぎるから苦悩も大きい。少なからず、後二年は何もしないつもりだった」
「後二年?」
「十八になるだろう」
 細い路地を器用に抜けていく。私は見知らぬ場所だが兄は何度か来たことがあるのだろう。迷いはないらしくカーナビもつけていない。
「だけど、年月が経過するほどダメだったときの衝撃は強まる。もう僕はいいんじゃないかと思う。だが、それは出来ないと言われた。あいつは逃げ帰った。恐ろしいという気持ちもあるのだろう。情けないけれど、でも僕はその気持ちをとてもよくわかる。十歳も年下の女の子に相手にされるはずないし、言って気味悪がられるかもしれないって考えてしまう。なまじ年を重ねると尚更ね」
 焦げ茶色のマンションの玄関前で堂々と停止するとサイドブレーキを引く。カタンとドアロックが解除される音がした。
「僕だって可愛い妹をこっちから渡すのもなぁという気持ちはあるけど、これまでのことを思えば、もういいんじゃないかなってさ。あとは、お前の気持ちだ。その気があるならそれ持って行っておいで。七〇二号室だ」
 兄の話はうまく飲み込めなかった。
 ショックだった。ざらざらとした障りの悪い嫌な質のものではなかったけれど、手のひらから汗がにじみ、足下が震える。
 確かなことは、まだ何もない。兄の話を疑うわけではないけれど、人づてに聞かされることと本人から聞くことは少し異なる。言葉には必ずその人の主観が含まれる。兄が私を陥れることなどないとそれは信じられるけれど、ニュアンスの違いや、受け止め方の差異はある。
 たぶんそれは、私の中にもあったのだろう。
『甘い物は嫌いだ』――悲しい言葉を拾い上げていたけれど、蒼紫さんがそれを言った背景のことなど考えることもなかった。 
 教えられた通りエレベーターで七〇二号室の前につく。
 インターフォンに指をのばす。
 ピンポーンと鳴る音がかすかに聞こえる。
 紙袋を握る手に力が籠もる。私は呼吸を止めて、じっと扉が開くのを待った。