バレンタインから始まる物語シリーズ
ホワイトデイ前の攻防
十六歳の女の子が喜びそうなお店。
インターネットの検索画面に打ち込めば結果が表示されるが、出てきた内容は、十六歳の女の子で喜ぶ店、だった。
世も末だな、と一人ごちながら、盛大なため息が自ずと漏れると、後ろを通り過ぎようとしていた人物が足を止めた。
「あら、珍しい。ため息なんてついて。そんなに大変なの?」
顔をそちらに向けながら、マウスでアンダーバーにあるエクセル表をクリックした。検索画面を見られたくなかった。
目が合うと駒形由美はにっこりと笑った。
大学時代はミスキャンパスにも選ばれたという容姿は美しい。モデルや女優としても十分にやっていけるだろうと思われるし、実際にそちらの業界で働いていたこともあるらしい。女性社員のあこがれの的、男性社員にとっては高嶺の花だと、去年の九月にこの会社へ出向が決まり出社した初日、騒がしい関西弁の男に教えられた。
「そやけど、手は出したらあかんで。あんた、おっとこまえやけど、自惚れてたらえらい目に遭うから先に忠告しといたるわ。駒形さんはなうちの社長と恋仲やからな」
そう釘まで刺された。社長と恋人であることよりも、恋仲という響きが古臭く聞こえて、この男は何才なのかとそちらの方に興味を持った。
「あなた、そういう趣味だったの」
駒形由美は茶化すように言った。
このままやり過ごせないかと黙っていると、さっと俺の右手に自分のそれを重ねて、アンダーバーからインターネットをクリックする。隠した画面が前面にあがる。
「私、目はいいのよ」
明らかに不利な状況だ。
「ふーん。なるほどねぇ。うちの女子社員がいくら頑張っても相手にしてもらえないはずね」
「何か妙な誤解をされているようですが、私は法に触れる真似はしてません。近々、知り合いの子と会う予定があるもので適当な店を探していただけです」
嘘はなかったが、駒形由美のニヤニヤ笑いは戻らない。
「真面目なあなたが、昼休みとはいえ、職場のネットで調べてるんだから、よっぽど喜ばせたい相手なのね」
完全に面白がっている。
このような場合、どうするべきか、策がない。
「そんなに怖い顔しなくても、言いふらしたりしないわよ。人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られてなんとやらって言うじゃない。こう見えても、私、口は堅いのよ」
そう言い残して愉快気に去って行った。
俺はほっとしたが、駒形由美の言うように職場でも時間があれば考えてしまっている。ひどく恥ずかしいような気持ちがした。少なからず、俺は浮かれているのだろう。だろう、というのはこのような状態になったことがなかったので、おそらくこれが浮かれているということだと推測したからだが。
いい年をして、みっともない。
脳裏に過るが、いくら詰ったところで感情は早々簡単に流れていかない。それどころか、日に日に強まっているようにも感じられた。おそらく今週いっぱいはこの状態だ。今週の金曜日――巻町操と会うまで。
操のことは生まれたときから知っている。
家が隣であり、操の兄と同じ年ということで家族ぐるみで親しかった。
俺が小学校四年のとき、操は生まれた。十も離れた妹の存在は巻町には大変うれしいものであるらしく、操が生まれる前からやたらめったら話を聞かされていた。まるで自分の子どもであるかのような興奮ぶりを俺はどこかさめざめと見ていたのだ。
「今日さ、退院してくるんだ。蒼紫も見にこいよ」
出産後、母親と操が戻ってくる日、巻町は朝からそわそわして、放課後が待ちきれないようだった。
誘われたが、それほど乗り気ではなく、だが、他にすることもなかったので巻町家を訪れた。
インターフォンを鳴らすと、出てきたのは巻町ではなくおばさんだ。巻町は操の傍に張り付いているらしい。俺はおばさんに家に迎え入れられて、ベビーベッドがある部屋に通された。
「おう、きたか」
俺を振り向きもせず声だけで巻町が言った。
傍に近寄り、同じように覗き込む。
真っ白なベビー服に身を包んだ赤ん坊がいる。万歳をしながら手を動かしているが特に意味はないのだろう。
巻町は操の手のひらをくすぐる。すると、それに反応して指先をにぎにぎと動かす。
「可愛いだろう」
可愛いというか、それはやめて欲しがっているのではないか、と思うが水を差すのもなと黙っていると、お前もしてみるよ、と告げられる。俺はいい、と断る理由が見当たらず、付き合うことにして、同じように操の手のひらを人指し指で押した。ふゆっと驚くほど柔らかい感触に壊してしまうのではないかと恐ろしくなったが。
「あっ」と声が漏れる。
操が俺の指を握りしめたのだ。握りしめるといっても、それほど強い力ではないが、巻町が操の手のひらをくすぐっていたときは指先を動かすだけだったのに、僅かの間に握るという行為を覚えたのかと思うと不思議な気がした。
「操。賢いなぁ。握れるようになったのかぁ」
巻町は目じりを下げながらうれしげだ。親馬鹿ならぬ兄馬鹿だと思った。
指を離してもらおうと上下に振るが、操の指は離れない。仕方ないので次にゆっくりと抜こうと指を引いてみるが、すると今度は「ふぇ」と泣きそうになる。慌てて戻すと静まる。ただの偶然かともう一度トライするが、やはり俺が指を抜こうとすると泣きそうになる。これはどうしたらよいのか。
結局、その後、三十分ほど離してはもらえなかった。
それからも、俺が訪ねると操は何故か俺の指を握る。他の誰にもしないのに、俺にだけ。そのことに妙な優越感を覚えた。
駒形由美によって前面に出されたネット画面をホームへ戻す。これ以上、他の者に知られるわけにはいかない。今日の履歴も全部消した。だが、俺の悩みがそれで消えてしまったわけではない。
今週の金曜日に操と会って食事する。バレンタインのお返し。
初めて操からチョコをもらった。
操がチョコを購入したことを偶然に知り、ついに恋人が出来たのかと巻町に確認の電話を入れたら、「確かめてみる」と言って切られ、それから何の音沙汰もない。こちらから掛けるかどうか思案しているうちに午前を回り、明日かけようと床についたが眠れない。ようやく夜が明け、巻町に電話するが、ドライバーモードになっていて出ない。何をしているのかとイライラしていたら、チャイムが鳴った。巻町かと(他に俺の家を訪れる人間がいない)思えば、嫌な予感がする。電話ではなくわざわざ会いに来たところに深い意味があるのではないかと胸騒ぎを感じたが、扉を開ければ立っていたのは操だった。
「これ」
躊躇いがちに出されたのは、昨日、エレベーターで見たチョコレートの手提げだ。
「えっと……あのー、蒼紫さん、甘いもの嫌いって言ってるから渡したことなかったけど、その、えっと……お兄ちゃんが、渡してみたらって……」
たしかに、俺は甘いものが嫌いだし、滅多なことでは口にしない。それでも毎年バレンタインにはチョコを贈られた。渡す気がある者は渡してくる。それに、チョコでなくとも代替品ならいくらでもある。俺が甘いものを好まぬからこれまで渡さなかったという言い方をしているが、それは信じられないと思う。ならば、この状況は巻町がよほどのことを言ったのだろう。憐れみで渡されているのかと思えば情けない。俺はそんなつもりで巻町に連絡したわけではない。ならばどんなつもりだったのかと問われると困るが。
「あの、」
じっと動かずにいれば、操の顔色は悪くなっていった。
「ご、ご、ごめんなさい。やっぱり帰ります」
勢いよく告げて、操は廊下を走り去っていく。そうなってしまえば、俺は慌てた。追いかけて腕を捕まえると「うわっ」と悲鳴に似た驚きが漏れるが、構わず振り向かせると操は空いている手で自分の前髪を抑えた。困っているときの操の癖だ。俺は操を困らている。
「逃げることはないだろう」
「でも……迷惑、みたいだし……」
「迷惑なことはない」
「けど、甘いもの嫌いだし」
「甘いものは嫌いだ」
「だったらやっぱり迷惑じゃん」
「迷惑ではない」
繰り返し、強い口調で言えば、操は俯いてコンクリートの廊下であるのに砂利道で小石を蹴るような仕草をしてみせた。掴んでいる腕を離すが、もう逃げることはなかった。
そうでなくとも小柄な操がより小さく感じる。つむじが見える。操のつむじは左渦だ。
「お前こそ、巻町に言われて仕方なく持ってきたのではないのか」
何を言われたのか、直接聞く勇気はなかったが、聞けばいたたまれなくなるだろうことを聞かされたのだろうと思う。
「仕方なくじゃないよ」
それまでの消え入りそうな声が一転して荒々しくなり、俯いていた顔を上げた。頬は赤く、目も充血している。俺はとんでもなく操を追いつめている。
「仕方なくじゃ、ないよ」
操は右に提げていた袋を両手で持ち直し胸の辺りに上げた。
俺は操の顔を見ることが出来ず、その指先を見つめる。小さく震えていたが、次に俺の胸元へ押し付けるようにそれを差し出してくるので、反射的に受け取ってしまう。
カンカンカンカンとけたたましい音が響く。
心臓が高鳴っているのかと思ったが、そうであるなら高鳴りとは不粋な音だとも思い、しかし、よくよく耳をそばだてれば、もっと遠くから聞こえる。しばらく先に踏切がある。開かずの踏切と言われるほど滅多に上がらないのだが、それが動いているらしい。
やがて、電車が通過し終えると、カンカンカンカンと再びの音がして、周囲が静かになるころには張りつめていた空気は緩んだが、どうしてよいかわからない困惑は残っていた。
「……仕方なくじゃないならば、もらっておく」
「うん。……じゃあ、お兄ちゃんが下で待ってるから帰るよ」
ぎくしゃくとしたままで別れた。
千載一遇のチャンスを棒に振って、なんてダメな男なんだ――その後、何の進展もなせず操を帰したことを巻町にコテンパンにどやされてしまったが、俺にも俺の心の準備というものがあるだろう。勢いに任せてことを運ぶのは得意ではないし、勢いに任せて言ってしまえるほど軽い気持ちでもない。激しい波でもビクリともさせず船を港に停泊させる碇が、更には長い月日をかけて悠々と動かせられぬ錆をつけているのだ。動かすにもそれなりの体力がいる。
だが、流石に俺もこのままでいいとは思っておらず、夜、メールを打った。チョコレートは美味しくいただいたと、お礼を送った。操からは食べてくれたのかと驚きの返事がすぐにきた。食べたと返せば、ありがとうとまたくる。贈られた俺に贈った操が礼を述べるのは可笑しな話だが、甘い物が嫌いということで気を遣わせているらしい。操からもらったものは別であると、操はそうは思ってはくれないのかと、好き嫌いを憚りなく述べるのは考えものだと思った。
その後もメールは送り続けている。
三日、ないし、五日に一通程度であったが、独り暮らしを始めてから実家に戻ったときに少し顔を合わせる態度だったことを思えば大した進歩だ。今週末には食事の約束をとりつけた。――ホワイトデイのお返しという名目ではあったが。
しかし、どこへ行けばよいか、それが問題だった。
ここしばらく、ずっと頭を悩ませているが、年若い女の子が好みそうな店というのが思いつかない。巻町にはすでにこのことに関して絶縁されているし、ならば頼みの綱はネットぐらいしかないんだが、それを見られてしまうという不運に遭い、プライベートを職場で思い悩むのは二度としないと思った。
そろそろ昼も終わる。デスクに置いたメガネを手に取った。視力は悪くなかったがスイッチを切り替えるのにいいとデスクワークのときはメガネをかけている。レンズの汚れを拭いながら、まだ五分程度余裕があるのでコーヒーでも淹れてくるかと席を立ちかける。すると、ピコンと右下のボックスが表示された。黄色が知らせるのは社内メールが届いた通知だ。
誰からかと思い開いてみれば、あらぬ誤解をして去って行った駒形由美だった。
件名には「先程の件」とあり、それだけ見れば何かの打ち合わせでもしたのかと見えるが、言うまでもなくあの件だ。他言はしないといっていたのではなかったか。社内メールなどうっかり社内全員に送られていたなどというミスも度々あったりする。
無視することが出来ず開いたら――由美さん直伝、モテるデートプラン――なるものがタイムテーブルとともに書きこまれている。待ち合わせ場所からオススメの店、贈り物の候補までずらずらと書かれている。一目見て大変わかりやすく、この短時間で作ったことを考えれば情報処理能力が高いことはよくわかる。しかし、正直なところ、駒形由美と操は毛並みが違うと感じられる。これをそのまま使っても操が喜ぶかは確証を持てなかった。それとも、女性という生き物はこういうものが好きなのか。何より、これを実行してしまえば悩みはたちまち解消される。からかわれてしまうのは辛いところだが、見られたのが駒形由美でよかったのかもしれない――しかし、ラストにシティホテルが書きこまれているのを読んでクラリとした。
最初のデートでそれはないだろう。
相手は未成年なわけだし、これは完全に遊ばれていると、そのメールはすぐにゴミ箱へ捨て、他の誰にも見られないように更に完全削除した。
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