バレンタインから始まる物語シリーズ
初デート
――side 操――
水族館は駅を降りて十分ほど歩いた場所にある。完成当初は艶やかな赤と青のタイルに圧倒されたが、年月の移ろいのせいでところどころ剥げて劣化している。
私は建物に背を向けて、駅の方角を見ていた。まだ、待ち合わせ相手の姿はない。家を出るときは晴れていた空がうっすら曇ってきていて雨が降りそうな匂いがしていた。
早く来てほしいという思いと、恥ずかしいから来ないでほしいという思いが交差する。矛盾する気持ちがどちらも正しい顔をして私の心をひしめき合っている。
今日は、蒼紫さんと食事だ。
今年のバレンタインデイ、初めてチョコレートを渡した。あの日、兄から蒼紫さんの気持ちも私にあるのだと聞かされて、とても興奮し、そんなの信じられないと思いながらも、嬉しい話に飛びついてしまい勢いのままにチョコを渡したのだ。
そのお礼にと食事に誘われている。
ただ、私たちは恋人同士ではないのでこれはデートではない。あくまでもチョコのお礼だ。私はあのとき好きだと告白できなかったし、蒼紫さんからもお礼の言葉以外何も聞けなかった。その後、メールが届き、甘い物は苦手なはずなのに食べてくれたらしいことはわかったけれど、やはり好意の有無を告げられることはなかった。
きっとバレンタインデイにわざわざ渡しに行ったのだから気持ちは伝わっているだろうし、それを受け取ってくれたということは、おそらく兄の言うことは正しかったのだろうと思うけれど、最悪の場合、私が彼を好きだということは伝わってしまっていて、彼が私に好意があるというのがでたらめだったというのもありえる。
でも、思い込みではない場合は、両想いである。両想いでありながら、きちんと言葉にして確かめ合っていないという微妙な状態ということになる。その事実を横目でチラチラやりすごしながら涼しい顔をして会うというのはとんでもなく恥ずかしいことだった。
いろいろな状況を頭の中で思い浮かべると、苦しさと恐ろしさでじっとしていられず「着きました」とメールを送ろうとスマホを取り出せば、タイミングよく震えだした。着信表示に「蒼紫さん」と出ている。
「うぇ」っと変な声が出て、慌てて咳払いをして、何食わぬ顔を装って(電話だから顔なんて見えないのに!)受話器あげるのボタンを押した。
「もしもし?」
「操か。今どこだ」
「水族館の前だよ」
「……そうか。実は出掛けにちょっとトラブルがあって遅れている。すまないが、先に入っていてくれるか」
チケットは購入している、発券機で整理番号と俺の携帯番号を入力すれば出てくる、整理番号はすぐにメールで送る、ついたら連絡する、と淡々と告げられたが、その間、私は一言も発せなかった。蒼紫さんは気づいていないのか、気づいていてもそれどころではなかったのか、用件を言い終えると電話が切れた。
プープープーと機械音が鼓膜に伝ってきてもしばらく動けずにいると、森のくまさんのメロディが聞こえる。メッセージが届いた。スマホを耳から離し、メールボックスを開く。「Fw:インターネットチケット購入完了のお知らせ」という件名で一通、読むと「四乃森蒼紫様 このたびはご購入頂きまして誠にありがとうございます」から始まり購入番号が記載されていた。
水族館へ行きたいとは私が言ったことだった。
お礼に食事でもどうか、とメールがあったのが先週の木曜日。それから三日前に電話がかかってきた。バレンタインデイ以降、メールのやりとりはしていたが、電話がきたのは初めてだった。
「どこか行きたいところはあるか」
蒼紫さんははそう聞いてきた。
私は迷いなく「水族館」と答えた。それは長年の夢だった。もし、好きな人と出かけるならどこに行きたい? ――友だちといつかできるであろう恋人との想像をする。映画、動物園、図書館でお勉強、スポーツ観戦、いろんな話が飛び交う中で、私の答えはいつも一つだった。そして、好きな人として浮かぶ顔も唯一人。私は蒼紫さんと出かけるなら、水族館へ行きたいと思っていた。
言ってしまった興奮を冷ましたのは電話越しから伝わってくる彼の戸惑っている気配だった。あれ? と不思議に思いそれから、行きたいところはあるのか、は、食べに行きたいところはあるのか、という意味だったのではないかと気付いて冷や汗が噴き出した。訂正しなくてはいけない。恥ずかしい。と焦っていれば
「じゃあ、少し遅いが七時半に、水族館の前で待ち合わせでいいか。職場からそれほど遠くないから間に合うと思う」
先に蒼紫さんが約束してくれた。嬉しさと安堵から私はへたり込んだ。
夢見たことが現実になる。私は浮かれて、今日など朝から落ち着かず、扉の角で小指を打ったり、歯ブラシで喉をついたり、小さなハプニングを起こし続けた。楽しみと緊張が混ざり合いながらその時を待っていた。
ところが、それが突然叶わなくなってしまった。彼は私に一人で入るように告げた。
きっと私への配慮なのだろうけれど。待ちぼうけさせないようにと気遣いなのだろうけれど。でも、
(一人で入っても意味ないもん。)
いつのまにか降り始めていた雨がコンクリートを濡らしていく様子を眺めながらチクチクと胸が痛んだ。
握りしめていたスマホのライトが消える。真っ暗になった画面にうっすらと私の顔の輪郭が映る。明るい元で見たら、きっと酷い顔をしているだろうと思った。
◇◆◇
――side
蒼紫――
三月十四日は仏滅だった。そんなものに日頃はこだわる性質ではないのだが、ホワイトデイ当日に誘うのはなんとなく気が引け、ちょうどその日が仏滅だったのでこれは縁起が悪いと翌十五日、操を食事に誘った。
了承を得てから、どのような店に行けばいいかリサーチしてはみたが思いつかず、結局、下手に考えるより操に行きたいところがあるか聞いた方が間違いないと電話したのが三日前だ。
コール音がやみ、操の声が聞こえる。機械を介すると、見知らぬ者のように思えた。
どこか行きたいところがあるか――尋ねれば、すぐさま水族館がいいと返事くる。そういうところがいいのかと感心しながらも、水族館に行った後、食事となれば少し時間が遅くなるし、高校生を連れ回すのはいかがなものか、と躊躇いが生じた。
傍にあるカレンダーに目をやる。
三月は土日がすべて埋まっている。資格試験のための集中講座を申し込んでおり朝から夕方まで忙しない。会える時間も平日とたいして変わらない。今月唯一の祝日である春分の日にすればよいがそれがまた仏滅だった。十四日の仏滅は無理で、二十日は良いというのは己の中で辻褄が合ず、四月にすればゆっくりと時間はとれるが、これはお礼なのだから、ホワイトデイから離れすぎるのは好ましくないだろう。やはり十五日が妥当であると、決行することにして電話を切った。
水族館の近くの料理屋を調べると、割とさまざまな店があり、これならば大丈夫だろうと準備を整えた。本日も仕事は滞りなく進み、定時の六時半、遅くとも七時にはあがれる手はずだった。それが――。
六時を回った頃、「きゃー」と”男の”野太い声が響く。
騒ぎを聞いて集まってくる人々を遠巻きに見ていれば、パソコンが故障したようだった。それもネットワークの大元になっているパソコンで、これが立ち上がらないとデータが見られない。だが、バックアップを取っているはずだし、そこまで大きな問題にはならないだろうと思われた。
「ダメよ。バックアップは六時からでしょ! 今日作ったデータはまだ保存されてない」
来週月曜の朝一で使う資料として作成していたもので、昨日に仕上がってはいたが、急遽変更が出て作り直しを余儀なくされた。その企画に直接の関わりはないが、受け持っていた案件が無事に完了し、比較的手が空いていたので修正作業には携わっていた。事情は承知している。
修理会社に電話をすれば三十分ほどで見に来てくれるということであったが、万一の場合に備え、昨日のバックアップデータから該当書類を出して再度修正し直すというので俺も加わる。そんなことは当然であったが、問題は操だ。修正作業にはどれほど早くとも二時間はかかるだろうし、先に修理が終わったとしても、到着して作業までの流れを考えれば、楽観しても一時間はかかる。時間に間に合わせるのは到底無理な算段だった。連絡をいれなければならない。幸いというべきか、場所は水族館だ。先に入ってもらえば退屈はしないだろうとその旨を電話し告げた。
ガタガタガタと机が振動する。
静まりかえったフロアではうるさく聞こえ、慌てて手に取り画面を開くとメッセージを一通受信している。
件名:お疲れ様。
本文:遅くなるといけないし、今日は帰ります。お仕事頑張ってね。
操から断りのメールだった。
時間を確認すると七時五十分過ぎ。水族館の最終入館時間を五分過ぎている。駆けつけても入れない。最悪、会えずに一人で帰さねばならないことを考えれば、今のうちに帰ってもらう方がいいだろう。誘っておきながらこのような結果になって気まずさはあったが、すまない、と謝罪を返す。
送信ボタンを押すと、どっと身体から力が抜けて行く。
気がかりが良くも悪くもなくなってしまったので、集中できると、なるべく建設的な考えを思い浮かべながらパソコンに向き合う。
「終わりました」
すると、声が響く。
「本当!? 助かりましたぁ」
前の席で同じく再入力に忙しくしていた企画の担当者である本条が鼻から抜けるような甘ったるい声を出すと席を立ち修理屋に近寄った。
真っ黒な画面から動かなかったディスプレイに鮮やかな色が戻っているのが俺の席からも見える。
「データには問題はないと思いますので、一度確認お願いします」
修理屋の申し出に本条が席に座りマウスを操作する。
俺も自分のパソコンからネットワークをクリックする。窓が開きファイルの一覧が表示された。完全に復旧している。
「あった! 変更できてる! よかったぁ」
俺の役目も終わった。かけていた眼鏡をはずして目頭を押さえた。それから指を組みほぐす。じわっと伸びていくと掌が真っ白くなる。
約束がキャンセルになった直後にデータが復旧するなど、俺と操は縁がないということなのだろうかと考え、ずっしりとした重たいしこりが生まれる。
今からでも終わったと連絡すれば食事は出来るか――思えど、出鼻を挫かれ、緊張がぷつりと切れてしまったのだ。もう一度という感覚が蘇ってこない。今日は諦めた方が無難だと感じられた。
――早く帰って眠ってしまおう。
帰り支度を終え席を立てば本条が傍に近寄ってきて、
「四乃森くんもありがとうね。お陰様で無事にすみました。お礼にこれから飲みに行きましょ」
にっこり微笑む。飲みに行かないか、ではなく、行きましょう、と断定になっている。
「いえ、私は……」
断りを口にするが、俺とは対照的に本条はテンションが高い。安堵して気持ちが高揚しているのはわかるが、俺の話など聞いてはいない。女っぽい柔和な口調とは裏腹に強引に腕を組まれて、行くわよ! と引っ張られる。その力強さは操に会えなくなったことのダメージが尾を引いている俺が覆せるようなものではなく、有無も言わせず連れ出された。
駅近くの路地を一本入った飲食店ビルの地下二階にあるクラブバー。本条は俺の腕を組んだまま(おかげで、ここにくるまでかなり注目を浴びた。何の辱めだろうか)、迷うことなく薄暗い間接照明を抜けて奥の席に辿りつく。そこには悠々と足を組みワイングラスを傾ける女がいた。
「遅かったじゃない。待ちくたびれたわよ」
「ごめん、ごめん、ちょっといろいろあって、大変だったのよ」
テーブルを見るとワインがすでに一本空いている。これを一人で飲んだのだろうか。たいした酒豪だと感心しながらも、本条と駒形由美は二人で飲むほど親しい間柄なのだろうかと不思議だった。
「あなたから誘っておいて遅れるなんて、信じられないわ。この私を待たせるなんて」
台詞は俺を落ち着かなくさせた。まさにその行為をしてきたばかりだった。
社内ではにこにことしていて愛想のよい雰囲気があるが、酔っているのか、或いは本条には気を許しているからか、いささかキツイ口調を、しかし、言われた当人はけろりとして、
「もう、社長の出張に同伴できなかったから可哀相に思って誘ってあげたんでしょ。八つ当たりしないでよ」
本条の言うことが図星だったのか、駒形はグラスを一息に煽いだ。それから、ようやく俺のことが目に入ったのか意外な顔をした。
「社長には負けるけど、目の保養に連れてきちゃった」
本条は言いながら駒形の前の席に座る。腕を組まれた俺も引っ張られる。
席に着くとようやく腕を離してもらえたが、そこそこ図体の大きい俺をここまで引っ張ってきた本条の怪力はかなりもので腕に痺れが走っている。
「……あなた、今日、デートじゃなかったかしら? ピチピチの女子高生と」
駒形がしげしげと俺を見つめているなと感じていたが、躊躇いなくそう告げられて、飲み物も飲んでいないのに噴き出しそうになった。
操とのことは他言しないとの話はどこへ行ったのか。酔っぱらいに言っても無駄だろうが。
「え、何、その話。四乃森くんってば女子高生と付き合ってるの? というか、今日デートだったの!?」
隣で、本条が興味津々と興奮し始める。
本条が職場の女子社員と恋愛話に花を咲かせているところを幾度か見たことがある。男であるが心は乙女という(性同一性障害とは違うらしいが)、これまで出会ったことのないタイプの人間で、俺は正直どう接すればよいかわからなかった。敵意はなさそうであるが、面倒くさそうな匂いがするし、共通の仕事もこれまでなかったので、関わらなくてもよかったのだが――今回の件で、ついに接点を持ったら、たちまちにプライベートなところまで立ちいられている。
「……いえ、別にデートというわけではないですから」
お気になさらずに、と答えるが、
「仕事中までデートプラン考えてたくせに。こんなところにいないで、今からでも彼女のところに行ってあげたら」
駒形がすかさず口を挟んでくる。
仕事中に考えてはいない、昼休みに考えただけだ、と言いたかったがムキになると余計に怪しまれるととどめた。
「仕事を優先するのは当然ですし、相手も納得してますからご心配なく。それに前にも言ったと思いますが、彼女ではなく知り合いの子――」「何言ってるのよ! 納得なんてしてるわけないでしょ!」
努めて冷静に告げようとしたが、本条に遮られた。バッと席を立ち、大声を上げたので何事かと他の客の視線が集中する。流石にそれには駒形も
「ちょっと、迷惑よ。あなたが興奮してどうするのよ」
窘められると、本条は「あら、いやだ。ごめんなさーい」と周囲に愛想笑いを飛ばしながら席に着いた。
一体、俺は何をしているのだろうか。
本来であれば、今頃操といるはずが、何故、こんなことになっているのか――世の中、何が起きるかわからないというが、それを身を持って体験させられている。
あれから、本条と駒形により、俺は操との関係を洗いざらい吐かされた。
最初は抵抗し、だんまりを決め込んでいたが、詰め方が執拗であり、ついに音を上げて話さざるを得なかった。二人は時々楽しげに、時々真剣に、そして興味深げに俺から話を聞きだしていく。
どうしてこんなことになったのか、もう俺は今日という日が呪われているのだと思うことにした。
「いやーん、蒼ちゃんったら、結構純情ボーイなのね。男前だし、もっと遊んでるのかと思っちゃった」
誰が蒼ちゃんなのか……と思ったが訂正を求めるのも面倒と聞き流す。
テーブルには新しいワインが一本追加されていたが、俺は酒は飲まないのでウーロン茶が置かれている。グラスを手に取り氷を揺らす。色合いだけ見ればウイスキーのようにも見える。
「でも、ようやく取りつけたデートなのに、ドタキャンなんて、絶対イメージ悪いわよね。ねぇ、あなた、やっぱり今からでも彼女に会いに行く方がいいんじゃないの?」
駒形は先程言った内容を繰り返した。
「そうねぇ。付き合ってるならまだしも、付き合う前の、微妙な時期でしょう。このままより誠意は伝わるわよね」
本条も同意し、二人の視線が向けられる。
何か、答えねばならないのだろう。
「……しかし、仕事だと納得しているし、もう遅い。こんな時間に行っても、迷惑がられるだろう」
「「何言ってるの!」」
二人の声が同時に重なる。
「納得なんてしているわけないでしょ! 仕事だから仕方ないと思っても、それは納得しているのとは違うわよ」
「そうよ。我儘いったら嫌われるんじゃないかしら、とか思って遠慮して言えない乙女心を少しはわかりなさい! それを汲み取って会いに行く。これぞ大人の包容力じゃないの」
鬼のような剣幕で責め立てられる。
そういうものだろうか。遅い時間に行っても迷惑がられるだけだと思うが、しかし、力説に俺はただ圧倒される。物事をこれが絶対に正しいなど言いきることは困難であるはずが、二人は僅かの迷いも躊躇いもない。そして、やはり操の元へ向かうべきだと言い始めた。
「ここが、運命の分かれ道よ」
「そうね。男女の仲はタイミングが大事なんだから」
行ってきなさーい。と背中を押され、結果報告をするようにと店を出される始末。何故、プライベートを本条と駒形に決められねばならないのか。だいたい勢いに任せてことをなすのは得意ではないし、こういう男女の機微はもっと慎重にするべきだろう。それこそタイミングが重要であり、今日はどう考えても噛み合ってはいない。今、会いに行くのは得策だとは思えない。
エレベーターで地上へ上がり外に出ると酒臭さから解放されて息をついた。
来る途中は小雨が降っていたがすっかり上がっている。雨の後は空気が澄んでいてネオンサインがまばゆく見えた。空には三日月も浮かんでいる。本当なら、食事を終えて、この空の下、操を送り歩いていたはずである。
俺は手にした鞄を見下ろす。操に渡すはずのお返しが入っている。
よした方がいい、それが俺の判断であったはずなのに、駒形や本条の言うことは一理あるような気もしてくる。いや、それは言い訳で、もっと単純に――会いたい、とその思いがこみ上げてきている。
駅についても迷いは晴れない。自宅と操の家は逆方向である。決められないなら偶然にゆだねるしかない。次に来る電車に乗ることにして、階段を上りプラットホームに出ると電光掲示板を探した。
◇◆◇
――side
操――
エレベーターを降りると、ぐぅぅとお腹が鳴って、なんて憎らしいのだろうと思った。
玄関前までたどり着いて鞄から鍵を取り出す。
母は単身赴任中の父のところへ行っている。どうもノロにやられてしまったらしく、上げ下げ大変で、滅多に泣き言を言わない父が気弱になって電話をかけてきたので、慌てて看病に向かったのだ。木曜には容態が落ち着いたということだったが、せっかくだから週末はそっちで過ごしてよ、と言うと母は私を心配してくれたけど結局は滞在を決めた。夫婦水入らずの時間に積もる話もあるのだろう。
ドアノブを回し入ると真っ暗だ。帰宅したとき誰もいない、ということがほとんどないので不気味に感じながら、振り返り鍵とチェーンロックもかけた。
廊下を進みリビングの電気をつけて、テレビもつける。にぎやかな音が流れ出すとほっとして、するとまたぐぅっとお腹がなった。
肩にかけていた鞄をソファに置いてキッチンに向かう。冷蔵庫を開けるとウインナーとキャべツと卵を見つけたので、野菜炒めでも作ることにして取り出して、その間、パンを一枚トースターにかけた。
フライパンを熱していると、ピピっとガスコンロから警告音が鳴る。最近新しく買い換えたコンロは、火事防止機能というのが働いて勝手に火加減を調節する。カラ炒めしていると目ざとく反応して弱火になるので母がぐちぐち文句を言っていたことを思い出した。洗い物ぐらいしか普段手伝わないからそんなに怒ることかと疑問だったが、なるほど、これはイラっとするなと思った。手動で強火にしてもまたピピっと音がして弱火にされるので、私は諦めて早いけれどウインナーを焼いた。それが終わるとキャベツと卵で野菜炒めを作った。
テーブルに並べて、トースターから食パンを取り出しバターを塗る。
出来上がると、「いただきます」と両手を合わせて、食パンを齧った。
こんな悲しいときでも、お腹がすくなんて憎らしい。もう一度そう思うと今度は笑えてきた。
蒼紫さんと二人で食事に行くと決まってから生きた心地がしなかった。大げさではなく本当に、嬉しいというより緊張して、考えるだけでも目の前がチカチカと赤と黒に点滅するし、肺が風船にでもなったみたいに膨らみ続けて、食事もまともに食べられなくなって、この一週間ですっかりと私は痩せた。
待ちに待った日。朝から地に足のつかない状態で約束の場所に向かった――でも、結局会えずに終わった。
蒼紫さんが仕事の都合で遅れることになった。
水族館の最終入館時刻を過ぎても連絡がこなかったので、私から今日は帰るとメールすると「すまない」と短い返事が来て、家に戻った。
すごく、ガッカリした。
素っ気なく味気ないメールに。
ガッカリした。ガッカリしている自分にもガッカリした。
自分の考える通りにならないことにふてくされるなんて、小さな子どもではないのだからと思うけれど、八つ当たりしたい衝動が収まらない。母が家にいなくてよかった。いたら、愚かな過ちをおかしていただろう。
齧りかけの食パンをもっと齧った。ソースの匂いが香ばしい野菜炒めは、口に入れると少し塩コショウがききすぎていて辛い。美味しくない。美味しくないけど、お腹がすいた。だから私は全部平らげた。
テレビではお笑い芸人がコントをしている。見ていてもちっとも笑えなかった。
お腹が膨れると眠くなる。その前にお風呂に入ることにした。
湯船につかると体の筋肉がほぐれるのに伴って心もほぐれていく。だけど、ほぐれていくことが必ずしもいいことではない。ぐっと我慢していたものまで緩まり涙がこぼれそうになる。
何に対する涙なのか、自分でもよくわからない。冷静に、じっくりと、今日の出来事を振り返ってみても、泣くほど辛いことではない。
約束を破られた。仕事ならば仕方ない。父は忙しい人で、休日出勤も多く、遊びに連れて行ってくれると約束しても叶わなかったことが一度や二度ではなくあった。ひどい! と憤る私に母は父が頑張って仕事をしてくれているから私たち家族が暮らしていけるのだと諭した。やがて私はそういうものと感じるようになっていった。だから、仕事が理由ならば仕方ないと、父のことを思えば納得できそうなはずなのに。
嫌だな。と、そればかり頭に浮かびついには声にまで出てしまった。お風呂場は反響効果があり大きく聞こえた。
お風呂からあがると、洗面台で髪を乾かす。
ゴォォォォというドライヤーの音は苦手だが、今は頭の中にあるすべてを吹き飛ばしてくれるような気がしてちょうどよかった。
髪をほどくと腰の辺りまである。乾かすのも大変だ。美容院に行っても髪を洗ってもらうのが申し訳なくて、少し気まずい。今度行ったときは、思い切って切ろうと毎回思う。実行できた試はないけれど。
あらかた乾き、リビングへ戻ると、電話が鳴っていた。
おそらく母からだろう。
受話器を取り右の耳に当てる。まだ耳の奥は濡れているのかごわっとした感覚が気持ち悪かった。
「はい。巻町です」相手が母とわかっても、一応礼儀正しく言う。
「操か。」帰ってきた声は母ではなく男性のものだ。父でも兄でもない。でも、知った声だった。
「なんで?」
「携帯にかけても出なかったからこちらにかけた」
私の言葉を、違う意味で解釈して電話の主――蒼紫さんは言った。
「あ……そういえば鞄に入れたままだった」
帰宅してもカバンに入れたままで、マナーモードを解除するのを忘れていた。
ソファに置き去りにしてある鞄に近寄って中から取り出す。左上の小さなライトが青く点滅している。着信があった知らせだ。
右肩で受話器を挟んで、スマホの画面を解除すると不在着信が三件あった。
「ホントだ。着信がある。ごめんなさい。気づかなかった」
「……そうか」
蒼紫さんはそう言うとふっと息を吐いた。顔が見えない分、聞こえてくる音からの情報が頼りだ。それはどういう吐息なのだろうか。
「えっと、それで……どうしたの? 仕事終わったの?」
「ああ、終わった」
「そっか。お疲れ様」
今日は、会えなくて残念だった。とても楽しみにしていたのに。――そう言いたい気持ちがあるが、言葉にすると責めているみたいに思えて言えない。もっと楽しい話題の方がいい気がした。でも、思いつく話題もなくて、さっき見ていたテレビの話をしようとしたけれど、漠然と見ていただけだからお笑い番組だったこと以外覚えていない。
手にしていたスマホをメイン画面に戻しながら、静かな電話口へ向けて話題を考える。すると、
「今、マンションの下にいるんだ。少し会えないか」
沈黙を破り蒼紫さんが言った。
エレベーターを降りてエントランスを抜けてすぐのところにスーツ姿の蒼紫さんがいた。そんな格好を見るのは初めてだった。それは大人の男の人の姿だ。私の知らない世界。
こちらに背を向けている。近寄って声をかけるとゆっくりとした動作で振り返った。
「どうしたの?」
「……風呂あがりか」
蒼紫さんは質問には答えてくれず、私を一瞥して言った。
そのときになって、自分の格好にはっとなった。パジャマではないけれど、上下薄ピンク色のボーダ―スウェットにグレイのパーカーを羽織った完全な家着だった。下にいると言われて、待たせてはいけないと気が焦り、慌てて出てきたのだが、もう少しあるだろう。
「い、急いで出てきたから……」
さっきまではもっと可愛い服を着ていたんだよ! と言いたかったけれど、気合入れておしゃれしていましたとアピールするのもそれはそれで恥ずかしい。結局私は何も言えず俯いた。それから、聞かれているのは風呂あがりかどうかなのに、答えになっていない、と気付いた。さっき蒼紫さんも私の質問に答えてくれなかったけれど。お互いがお互いにちぐはぐだ。
蒼紫さんの足元が見える。こげ茶色の革靴だ。
「まだ、乾ききっていないな」
「え?」
顔を上げると、思いもよらず優しげな眼差しとぶつかり、ドキンっと聞こえてしまいそうなほど大きく脈打った。蒼紫さんはさらに手で私の髪に触れた。長く伸びた髪を弄ぶように掌に乗せて、親指の腹で撫でる。そんな風に誰かに触られるのは生まれて初めてだ。ドキン、ドキン、と胸が痛い。いや違う、初めてされたから胸が痛いわけではない。それをしているのが蒼紫さんだからだ。
好きな人に、こんな風にされたら、どうしていいかわからない。どういう意味でしているの? 意味なんてないの? 聞きたくて仕方なくなる。でも聞いて、意味なんてないと返されるのは怖い。でも、聞かなければ都合のいいように解釈してしまいそうになる。やめてほしい。泣きたくなる。苦しくて。
蒼紫さんは無言で、私はまた俯いた。
「えっと、……それでどうしたの?」
頬が熱く、喉がカラカラだった。
私が尋ねると、ようやく髪を離してくれた。ほっとして、それから、残念にも思ってしまう。
「ああ、今日を逃すとしばらく忙しくなるから、渡しておこうと思ってな」
渡されたのは、ピンク色の紙袋だった。真ん中に金色の文字で英語が書かれている。店名だろう。なんだかとても高級店っぽくて、受け取っていいものなのか、迷いながらおそるおそる手に取った。
「お返しだ」
「あ……うん。えっと、ありがとう。」
私は日頃おしゃべりでやかましいと言われているのに、どうしてこういう時にすらすらと言葉が出てこないのだろう。これでは普段のあれはまったく無駄なおしゃべりではないか。と、心の中でなら次々に浮かぶのに、そう返すだけで精いっぱいだった。
「今日は悪かったな」
「いいえ……仕事なら仕方ないし。……というか、これを届けるために?」
一番最初にした質問の回答を得ていたことに気付く。
「ああ。遅くにすまなかったな」
肯定されると、
「そんな……疲れているのに、ありがとう」
蒼紫さんの家から私の家まで結構な距離があるはずなのに、これを届けるためにわざわざ来てくれたのかと思えば、さっきまでの悲しみがじわじわと塗りかえられていく。
「あの、えっと」
何か適切な言葉をと探すが、適切な言葉が何であるのかわからない。私がぎゅっと拳を握った。そうしていないと彼に触れてしまいそうだった。
風が時折流れ込んでくる。春には未だ早く、冷たい。身震いがしてくしゃみが一つ出た。
「風邪を引くな、もう戻った方がいい」
「……うん、じゃあ、蒼紫さんも気をつけて帰ってね」
「ああ。おやすみ」
「おやすみなさい」
そう言って、踵を返しエレベーターに乗り込んだ。振り返ると彼はまだそこに立っていて私を見ていた。紙袋を顔の傍に持ち上げて、ありがとう、と繰り返した。それから、バイバイっと手を振る。エレベーターが動き出しても姿が見えなくなるまで振り続けた。彼は片手を上げて応えてくれた。
家に帰り、部屋に入って、彼からもらった贈り物を開けてみると淡いピンク色のマニキュアと、バラの成分入り日焼けどめクリームだった。私が日頃使っているものとは全然違い、とても甘く、大人の香りがした。
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