前途洋々シリーズ

前途洋々

 十五の春だった。
 両親が交通事故に遭いこの世を去った。たった一人残され、当たり前と思っていた世界はたやすく壊れた。自分一人で生きているような、もうすっかり大人のような、そんな気で過ごしていたが俺は何も知らなかったのだ。何一つわかっていなかった。自分がいかに守られていたか。いかに子どもだったか。
 何もかもを失った。
 あっけなく無慈悲にそれまであった日常が奪われた。
 十五の春。桜の花びらがみぎたなく散る。泣くことも出来ず握りしめた両手が震えていた。



◇◆◇



 正直、大したことではないと思った。だが操の方ではまったく違うらしい。
「私ばっかり蒼紫さまのこと好きだもん。蒼紫さまは私のこと好きじゃないもん。もういい!」
 手にしていた見合い写真を叩きつけた。フローリングの床がバンっと響く。それからテーブルに置いてある鞄をひったくると玄関へ走っていく。ほどなく扉が乱暴に閉まる音がした。外界の冷たい空気がわずかだが俺の立っている場所まで届く。
 いくら感情的になったとはいえ、物に八つ当たることはないだろう。
 操が立っていた位置まで進み、投げ捨てた写真を拾うとため息が一つ出た。
 見合いをすることになった。
 店のお得意様からの申し出で土下座までされたと聞く。そうまでされて無下にできず話を持ってきたと。
「どうじゃ。お前もいい年だし、いつまでも独り身でいるわけにはいかんじゃろ。一度会ってみんか。気にいらんかったらその時、断ればよいし」
 そんな言い方をされたが俺が婚儀することを望んでいる。年が明ければ三十一になる。結婚するには頃合いだ。
 祖父には育ててもらった恩がある。両親を失った俺を引き取ってくれた。それまで親の生い立ちについて知ることはなかったが、二人は駆け落ちして結ばれたそうだ。母は老舗料亭・葵屋の一人娘で祖父の決めた男と見合いをし、婿養子を取ることが決まっていた。ところが父と恋に落ちた。祖父は大激怒し、思いつめた二人は若かったこともあり駆け落ちする。逃げ延びた先でほそぼそと暮らしながら俺が生まれた。けして裕福とはいえないがそれなりの生活を送る。しかし、人々を裏切った代償だったのか、あっさりとこの世を去った。
 葬儀の夜。どうやって訃報を知ったのか祖父が駆け付けた。棺の前で声を殺して泣いていたのを覚えている。俺はその姿を黙って見つめた。一度も会ったことのなかった祖父だ。親しみも何も感じない。だが祖父は俺を引き取ってくれた。半分は大事な一人娘の、そしてもう半分は娘を奪った男の、血が流れる俺を引き取り育ててくれた。その祖父の頼みなら、聞かないわけにいかない。
 見合いする――決められた場所で決められた相手と会う。それほど大したことではないと感じられた。
 しかし、操は気にくわないらしい。
 俺はもう一度大きなため息を吐いた。





 巻町操。葵屋の板前である巻町太一と仲居・洋子の一人娘だ。俺とは十違う。
 出会ったのは葵屋に身を寄せてほどなくだった。
 祖父は料亭の他に不動産をいくつか所有している。店の裏にあるマンションもその一つだ。そこの一部を社宅として提供しており、従業員は同じマンションの上下隣で生活をしている。職場も家も近いなど嫌ではないのかと思うが、俺の考えに反して葵屋の人々は家族のように仲がいい。それが店の雰囲気にも影響しているのがわかる。
 陽気で気のよい人たちは突然やってきた俺のこともすんなりと受け入れてくれた。その中でもとりわけ操の人懐っこさは目を引く。
 操は幼稚園から戻ってくると店と居住部を繋ぐ長い廊下を降りた縁側で一人遊びをする。お気に入りは泥団子作りだ。毎日飽きることなく作り続ける。夕方、日が暮れると、作った団子は元の通り地面にならす。作っては潰し、潰しては作り。何が面白いのか毎日繰り返していた。そして時折、店の人たちが廊下を通る際に声を掛けてやるとくるりと振り返り朗らかな笑みを向ける。静かに黙々と作る姿と明るく陽気な姿がアンバランスに見えた。
「ぼっちゃん。これ、あげます」
 俺が学校から帰ると操は目ざとく駆け寄ってくる。それから作った泥団子を差し出される。そんなものいらないし、それより俺は坊ちゃんではない。店の人たちが俺を「坊ちゃん」「若」と呼ぶので(やめてほしいと抗議したが「坊ちゃんは坊ちゃんでしょう」とわけのわからない理由を述べられやめてはもらえない)操も真似て言っているのだろう。子どもはなんでも大人の真似をする。
 一人で静かにしていたい。操が懐いてくることを鬱陶しいとしか感じられない。だが相手にされないなど微塵も思っておらず、わくわく期待のこもった眼差しで泥団子を渡そうとしてくる。なんのてらいもない純粋な好意を無下にできるほど非情にもなれない。
「……俺の名前は蒼紫だ。坊ちゃんではない」
「あおしー?」
「そうだ」
「あおしー! あおしー!」操はにこにこ俺の名を繰り返した。「あおしー」ではなく「蒼紫」なのだが「坊ちゃん」よりはましだ。細かいことは目を瞑り返事をしてやる。するとへへっと笑い「あおしー、どうぞ」
 泥団子をぐいっと差し出してくる。
「あのね、これね、さいしょにつくったの。だからね、べたべたしないの」
 土に水を含ませて柔らかくして団子を作る。作ってほどなくはドロドロしているが時間が空けば水分が蒸発し手を汚さない。触っても大丈夫という意味だろう。操なりに気遣ってくれているらしい。俺は小さな手から泥団子を受け取る。
「たべてー」せがまれて食べる振りをする。
「はい、どーもー」操は満足し俺から団子を回収する。それはすぐに土にならす。食べ終えた物だから無くなったということだろう。案外芸が細かい。
「毎日、毎日、同じことを繰り返してつまらなくはないか。どうせ潰してしまうなら作らない方がいいだろう。意味がない」
 楽しんで遊んでいる姿に水を差すような問いかけだった。しかし非合理なことを飽くことなく繰り返す姿が不思議で仕方なかった。五つの子に言ってもまともな返事などないと思ったが聞かずにいられない。夕方になれば土くれに戻す。いくら懸命に作っても零に戻る。何も残らない。それなら作らない方がいい。
「いみー?」
 操はやはり問われた内容がわかっていないのか首を傾げていたが、
「あおしー、あしたもたべてくれるでしょー?」にっこり笑って言った。
 俺が食べる振りをするから作る。いや、それは今の話であって俺がいない間も作っていたではないか。だが操なりに精一杯考えた答えを覆すことも出来ず、
「ああ、そうだな」だから俺は約束をした。
 そして翌日。
 帰宅すると廊下に出る。操がいる。
「操。」声かけると操は嬉しげに駆け寄ってきた。
「あおしぃさま!」
 昨日、ようやく「ぼっちゃん」から「あおしー」と呼び方を変えさせたのに今日は「あおしぃさま」になっている。おそらく両親に呼び捨てにしてはいけないと教えられたのだろう。それにしても「さま」はないだろう。せめて「さん」にしてもらいたい。俺は再び呼び方を変えるよう教えた。しかし、今度はいくら教えても「あおしぃさま」と言う。「あおしさん」より「あおしさま」の方が言いやすいらしい。たった一文字しか違わないのに何が違うのかさっぱりわからなかったが操には操のこだわりがあるようで頑固だった。
 俺はもう諦めた。大きくなればそのうち直るだろうと考えた。ところが――三つ子の魂百まで(操は三つではなく五つだったが)。操は小学生になっても、中学生、高校生となっても様付けで呼び続ける。ちょっとばかり舌足らずな、おぼつかない「あおしぃさま」から「あおしさま」「蒼紫さま」としっかりとした口調へ変わっても呼び方は変わらない。だが、慣れとは恐ろしいもので次第に俺も操に「蒼紫さま」と呼ばれることへ抵抗がなくなる。ごく当たり前のように感じるまで至った。
 しかし、初対面の人間が聞くと驚愕する。「何かのプレイですか?」と言われたこともある。(一体何のプレイだというのか。)そういう時はほとほと「最初が肝心」という言葉を身に染みて実感する。だが今更言っても仕方ない。もうきっと"一生"、操は俺を「蒼紫さま」と呼ぶのだろう。
「蒼紫さま、大好き」
 操がそう言うようになったのはいつからだったか。
 俺に懐き「あおしぃさまー」と後を追いかけてきたが、いつしか”好き”になり周囲も呆れる大胆さで俺の顔を見ると告げてくる。ただそれは一人ぽっちでつまらない日々に現れた遊び相手に懐いた気持ちの延長線上だ。色恋とは異にする。男女の好きとは違う。いずれ夢から覚める。本物の恋を知る。幼い気持ちにすぎないと思った。――しかし、操はいつまで経っても俺を好きでいた。その気持ちはどんどん強まっているようにも感じられた。それでも俺は相手にしなかった。お前はまだ子どもだ。まだ早い。そう断り続けた。
「十しか違わないのに」
「十も違えば十分だ」
「”十”違えば”十”分。なにそれ? ダジャレ? オヤジギャグ? いいよ、オヤジギャグくらいなら気にしないよ」
「違う。そんなつまらんことは言わない。俺はオヤジと言われるほど年は食っていない」
「でっしょ〜じゃあいいじゃない」
 まるで埒があかない。気が済むまで放っておくことにした。相手にしなければそのうち諦める。時に委ねるのがいいと考えた。
 やがて俺は大学生になった。同時に一人暮らしを始める。大学にほど近い場所にも祖父が所有するマンションがあり、その一室が空いたのだ。部屋は人が住んでいなければ劣化する。一人暮らしを経験するのもいいだろうと祖父の方からの提案だった。俺は特に反対する理由もなく従った。
 その頃になると、その手の衝動が抑えきれず誘惑されれば求められるまま付き合うこともあった。ただ、どの女とも長続きはしない。最後はいつも、冷たい、つまらない、と罵られ終わることが多かった。多かったというより全部だ。やるためだけに付き合ったんでしょ、とまで言われた。たが、非難されても仕方ない。実情がそうであったので強くは否定しなかった。すると更に憎まれ罵倒された。悪い評判を立てられたこともあった。
 とっかえひっかえ遊ぶつもりでいたわけではないが、結果的にそのような短いサイクルで女と関係を持つ一方、操は相変わらず俺を好きでいつづけた。休みには戻っていたので必ず週に一度は顔を合わせたが、葵屋で暮らしていた頃のようにはいかない。だが、ほんのわずか会うだけになっても操は何も変わらず何も移ろわず、俺を想い慕ってきた。
――俺のしていることを知ったら、操はどう思うだろうか。
 さすがに呆れるか。或いは軽蔑されるか。純粋な少女の潔癖さが俺を嫌悪するかもしれない。長らく見ている夢から一挙に醒めるかもしれない。それは都合がいいのではないか。考えたが――俺は何も言わなかった。褒められない女性遍歴をわざわざ口にして傷つけるような悪趣味は持ち合わせていない。操は素直な性格だ。俺を嫌えば、すぐに周囲はそれを知る。俺のふしだらな生活が公になる。そうなれば葵屋に戻されるかもしれない。それが嫌だった。そんな打算が働いてのことだったのだろうと思う。
 月日は更に流れ、俺は大学を卒業し社会人になった。
 卒業前に祖父から「葵屋を継ぐ気はあるか」と問われた。一人娘を失った祖父にとって葵屋が子のようなものだろう。生涯を捧げて守ってきたもの。それを継ぎ、残していくのが俺の務め。母に望んだはずのことを俺が代わりにするのが恩返しだ。
「継ぐ気がある」――頷けば祖父は破顔し、ならば経営を学ぶためにと祖父の古い知人の会社に入社するよう命じられた。そこで五年、生の経営を学び葵屋に戻るようにと。
 その間、操も高校生になった。そして、俺の暮らすマンションへ遊びにくるようになった。
 初めて訪れたとき、
「彼女もこの部屋にくるの?」室内を見まわしながら「綺麗にしてるね」と告げた後で唐突に言った。
 操は俺に女がいると知っているのか。いや、そんな話はしたことがない。――俺もいい年だ。女の一人や二人ぐらいいてもおかしくないと口にしただけか。しかし、俺を好きだと言う割に、たやすく聞いてくるものだと不思議に思う。普通、好きな男に女がいれば動揺し傷つくのではないか。それとも実感がないのか。女がいる、という意味を正確な質量で感じられないから、たいしたことないと笑っていられるのか。操は純粋で、悪く言えば世間知らずだ。今どきの女子高生にしては珍しいほどすれていない。よくここまで素直に育ったと感心するほど真っ直ぐだ。操なら、そういうことになってもおかしくない気がした。
「この部屋に女は入れない」俺は答えた。
「じゃあ、私が初めてなんだね。私だけ特別?」
「お前は女じゃない。子どもだ」
 もう! と頬を膨らませて怒る。その仕草はどこまでも幼い。
 操は頻繁に俺の元を訪れるようになった。土曜か日曜は必ず(両日来ることもある)、平日も三日と開けず来て帰りを待っている。仕事が早く終わればいいが、遅いこともしばしばある。来るときは電話かメールをしろと言っても、操はまったくとりあわない。会えなければ会えなくていいからと笑う。
「お前が待っているかもしれないと思うと落ち着かない」
「私のこと考える時間が増えていいじゃん。嬉しい。嬉しい」
「馬鹿なことを言うな」
 だが操はいくら諭しても聞き入れず仕方なく俺は合鍵を渡した。部屋に入って待っているようにと。それなら幾分気が休まる。八時過ぎれば家まで送るから、絶対勝手に一人で帰るなとも言った。
「いいの? やった!」操は宝物でも手に入れたように喜んだ。これが狙いだったのかと俺は少し疑った。しかし――操が合鍵を使うことはなかった。これまで通り、俺が帰るまで扉の前で待っている。何故入っていないのだと問えば、家に忘れてきたという。それは嘘だ。操は俺の部屋の鍵をお守りのように持ち歩いている。どうしてそのような嘘をつくのか理解できなかった。
 そんな日々が日常になりつつあったが、時々、操の訪問が止むことがある。それは俺が女と関係した日と重なる。
 社会人になってからは彼女という存在を作ることはなかった。それまでも一応彼女と呼んでいただけで、世間でいうような関わり方ではなかったが、それでも”彼女”であり、年頃の彼氏彼女ならばそういうことをしてもおかしくないとの建前があった。しかし、それもやめた。最初から後腐れないような、向こうも遊びと割り切っている女と、たまにそういう関係を持つ。溜め込むのはよくない。幸いなのかどうなのかはわからないが、誘ってくる相手がいるなら一人でするよりいい。だが、会うのはもっぱらホテルであり、家にそういう名残を持ち込んだことはない。操にわかるはずがない。だが、女を抱いた翌日、或いは翌々日操が俺の元を訪れると何かを感じるのだろう。俗にいう、女の勘というものなのか。そのときは普通ににこにこしているが、以降しばらくは来なくなる。たまたま、偶然かと最初は気にしなかったが確かにこの法則は存在する。ただ、操がそのことで直接何かを言ってくることはなかった。それでも俺は無言で責められているような居心地の悪さを感じた。それはどんどん酷くなり女とホテルに向かうとシャワールームで操の顔がよぎるまでになる。ここで一時の快楽を得れば、当面操が来なくなる。それは願ったり叶ったりではないのか。しかし、俺の心はざわついた。来ない間、操は傷ついて泣いているのかもしれないと思えば性的な欲求などたちまち醒めてしまう。
 丁度その頃、勤めていた職場から葵屋へと戻ることになった。これまでは葵屋のことを伏せていたが、これからはそうもいかない。一人暮らしをやめて戻ってこいと言われなかったのは有難いが、今後は自由気まま、好き勝手遊ぶのは憚られる立場になる。接客業はイメージが命――老舗料亭の後継ぎとしてスキャンダラスな結果に及びそうな行為はしない方が賢明だ。一夜限りの遊びを卒業するにはいいタイミングだろう。元々性欲の強い方ではない。そこまで困ることはないとすべてを清算した。すると、操の訪問が長期に途絶えることはなくなった。
 やはり勘付いていたのか。だが、すべては過去のこと。気にしても時間は戻せないし、どうにもならない。俺は一夜限りの関係を終わらせて、操が滞りなく俺の家を訪ねてくるようになった。その事実だけでよしとした。
 しかし、その一年後。再び操の来訪が途絶えた。
 何があってのことか。前触れもなく忽然と途絶えれば気にかかる。理由もなく来なくなったわけではないだろう。もう俺のことは諦めたのか。それとも体調不慮で寝込んでいるのか。操は健康なのが取り柄だが悪い膿を出すように年に一度高熱を出す。それがやってきたのか。だが、いくらなんでも長すぎる。二週間も床についているなんてことはこれまでなかった。第一、それならば電話かメールはある。苦しい、しんどい。と泣き言メールだ。少し良くなると、退屈だ。に変わる。だから蒼紫さま会いに来てよ、と。風邪で弱っているときぐらい優しくするぐらいの度量は持ち合わせている。操の好物を買って見舞ってやる。すると「風邪引くのも悪くないね」などと言う。それも一切ないのだ。
 連絡してみるか。――頭をよぎるが、それではまるで俺が操の来るのを待っているようではないか。恋に恋する状態が終わりになればいいと願っていたのだ。ここは放っておくべきだ。思い直すが、やはり気になる。祖父に葵屋の月次報告を届ける必要があった。都合がいい。店の方にも顔を出すのでそれとなく操の様子を伺ってみるかと出向いた。
 打ち合わせが終わり、祖父の部屋を出て居住部と店を繋ぐ長い廊下を歩いていればその先に知った姿。散々俺の心を煩わせた本人が待ち構えている。かつて幼子だった頃、俺にそうしていたように駆け寄ってきて抱きついてくる。
「蒼紫さま! 会いたかった!」俺が来ていると教えられてやってきたらしい。
「……そういう割に、会いには来ないのだな」
「だって、勉強あるんだもん。言ったでしょ? 私、あんまり頭よくないし。蒼紫さまのところに行く時間を勉強にあてないと、どこも受かんないから受験が終わるまで蒼紫さま断ち」
「そんな話、聞いていない」
「え? 言ってなかった?」
「ああ」返事をすると何故か操の方がむっとした顔になる。
「じゃあ今言う。これから一年、勉強頑張るから蒼紫さまのところには行かない」
 ぶっきらぼうに言い放つ。どうして俺がそんな態度をとられなければならないのか。怒るなら俺の方ではないのか。
 だいたい、好きな相手に会えずにいれば寂しいとか切ないとかそういう気持ちにはならないのか。たまには息抜きに会いに行く。それで充電するよ。とかそういう可愛い発想はないのか。まったく一年間来ないという。操は妙に意思の強いところがあり、そう俺に言ったのなら守る。きっちり一年は来ない。
「蒼紫さまって冷たい」堪えようとしたが堪えきれず出たという感じで操が言う。そして、じっとりとした眼差しで俺の顔を見つめてくる。先程から一体何が気に食わないのか。
「どういう意味だ」
「だって、私が行かなくなった理由、知らなかったんでしょ。それなのに今日まで連絡もくれないってことは、私が行かなくなっても平気ってことじゃない。……そりゃさぁ、相手にされてないのは知ってるけど、こんなに行かなかったことないじゃん。少しぐらいは気にして連絡くれてもいいのに」
 涙こそ流れていないが泣き顔だった。
 冷たい、薄情――そんな台詞、覚えていないくらい言われてきたが操から告げられると落ち着かなくなる。日頃が陽気なだけに落差が悲しみを強調させている。
 操は大きくため息を吐いた。
「じゃあ、行くよ」言って背を向けて去ろうとする。もういいと落胆しきった寂しげな後ろ姿は哀れさを誘う。焦燥を感じさせた。
「そんなに成績が悪いのか」思わず引きとめてしまう。
「うん。予備校の先生にも見放されそう」操は足を止め振り返り答える。そんな堂々と言葉にすることでもないだろうと思いながら、
「……なら、空いている時間、俺も見てやる」更にそんな提案までしたが、
「えーいいよ。蒼紫さまスパルタだし怖いもん」しかし、操は拒否する。
 以前に幾度か教えたときのことを言っているのだろう。無駄口が多いから厳しくしたのは事実だがすべては操のためだ。
 しかし申し出を断られるとは。俺は操のこういうところが理解できない。俺をあれほど好いていると言いながら、一緒にいられる時間を作ると言っても断る。連絡しなかったことを拗ねて意地を張っているのだろうか。
「それに、家庭教師はもういるし。高倉くんがね、してくれるって」
「高倉が?」
 高倉とは俺の友人だ。知り合ったのは中学の頃になる。
 高倉は貧しい家に生まれ、かなり厳しい暮らしを送っていた。父親が暴力を振るうらしく度々痣を作ってくる。一度それで警察沙汰にもなった。酔って暴れ刃物を振り回す騒動になり、近所の住民が通報したが間に合わず、高倉は母親を庇うために間に入り顔に深い傷を負ってしまう。それを幼稚な連中が馬鹿にする。"そんな親の血を引くなんてろくでもない"と詰る。まったく理不尽ないじめであった。しかし、未熟さとは辛辣なもので、馬鹿にされ続ける様子を見ていると、本当にその人間が嫌なものに見えてくるという心理が存在するらしく、直接いじめる連中だけではなく他のクラスメイトたちも高倉から距離を置いていた。"あんな子と親しくしてはいけない"――父兄の中にまでそう助言する者もいたようだ。結果、特別親しい相手のいない俺と、孤立している高倉がグループ学習のときなど何かあると組むことになり、自然と一緒にいる時間が増えていった。
 話してみると高倉は気のいい男だった。何よりとても義理堅い。いじめられる高倉の力になりたい――そんな気持ちがあったわけでもなく、たまたま関わりを持つようになっただけの俺に対して強い感謝と信頼を寄せてくるようになった。そして俺も、広く浅く当たり障りのない対人関係だったが、高倉には心を許すようになる。それは今日までずっと続いている。きっかけは偶然であり、自分たちの意思などなかったはずが、俺と高倉は馬が合ったということだろう。
 高倉は葵屋にも独り暮らしの部屋にも来たことがある。幾度か操とも会っている。人懐っこい操と人当たりの良い高倉はすぐに親しくなった。年上であるのに操は高倉を"高倉くん"と呼び、高倉は操を”操さん”と言う。しかし、個人的なやりとりをしているとは聞いていない。
「何故そんな話になっている」
「こないだ偶然会ったんだよ。それでね、勉強がわからなくて大変だって言ったら、時間がある時に教えてあげようかって言ってくれたの。高倉くん、家庭教師のアルバイト経験があるらしくて教えるのとっても上手なんだよ。優しいし」
 上手なんだよ、ということはすでに何度か教えてもらっているということだ。
「高倉だって忙しいんだ。迷惑をかけるな」
 言うと操はもっとむくれる。
「だって、高倉くん、教えてくれるっていったもん。今週の土曜日も来てくれるって」
「今週の土曜なら俺も空いている。高倉には断りの電話を入れろ。……いや、いい。電話は俺からしておく」
「そんな勝手な!」
「勝手ではない。お前のことで迷惑をかけるわけにいかない。これは決定だ」
 語調を強め言い切ると、操はむくれたままだがしぶしぶ頷いた。
「でも、電話は私からしておくよ。ちゃんと自分で断る」
「そうか、なら今かけろ」
「今ぁー? なんで? 後でちゃんとかけておくよ」
「なんだ、俺の前ではかけられないのか」
「……そうじゃないけど。蒼紫さま時間いいの? 急いでるんじゃないの?」
 ふてくされた表情に、今度は恨みがましげな眼差しも加わる。祖父のところへ月次報告へ来ても長居はしない。夕食をともにどうかと皆に引きとめられるが用が終わればすぐ帰る。操はいつも名残惜しげに引きとめてくるが応えたことはない。月初は色々片付ける業務が多いのだ。仕事をおろそかにはできない。
「いや、今日は食事をしてから帰る。お前の学力を確かめておきたいしな」
「ホント?」操はまだ不機嫌そうな声であったが表情は嬉しげなものへ変わる。素直と言うか、単純と言うか、現金と言うか。
「それより、電話をしろ」
 俺は再度告げた。操は携帯電話と取りだし掛け始める。
 しばらくコール音が続き繋がる。
「あ、高倉先生? 今、いいですか?」
 何が高倉"先生"なのか。操が俺を様付で呼ぶのを「何かのプレイですか」とからかってきたのは他でもない高倉だった。ならば自分はさしずめ「教師と生徒プレイか」全く冗談ではない。
「違う、違う。質問じゃなくて、あのね、土曜日の件なんだけど、蒼紫さまがね、教えてくれることになったの。……うん、そう、高倉先生に迷惑かけちゃいけないって。……ええー。そんな嬉しいことでもないよ。蒼紫さまは好きだけど、教え方厳しいんだもん。高倉先生の方がいい。……うん、…うん、頑張る。勝手言ってごめんなさい。うん、合格したら連絡します。ありがとう」
 操はよくしゃべる。俺が無口だから代わりに話すわけではなく誰相手でもべらべらとしゃべる。おかげで高倉の声は聞こえなくとも話の内容は筒抜けだ。よく懐いている様子までも。
 それにしても、俺の教え方はそれほど厳しいものなのか。高倉の方がいいなど堂々と言われるといささか不愉快だ。
「かけたよ」電話を切ると操は言った。
「そうか、なら時間が惜しい。さっそく始める」
 勉強道具を取りに行かせて俺の部屋(一人暮らしを始めてからもいつでも使えるよう掃除されている)で開始する。
 見せてきたのは数学だった。操は文系で大学入試には必要ない科目のはずだが、大学入試の前に高校卒業のために必要らしい。物理は赤点確実で追試を受けるので、せめて数学は及第点を取っておきたい。一科目だけならどうにか追試を乗り切れるからと聞かせられる。話が低次元過ぎる。そもそも文系の人間は大方が生物を選択するはずがよりにもよってどうして物理を選んだのか。操の話によると間違って取ったと言うが何をどうしたら間違えるのやら理解に苦しむ。
 ひとまずどの程度わかっているのか探るために問題集から適当な問いを選ぶ。基礎から応用へと素直な筋道で解けるものがいい。どこで躓いているか明瞭になる。
「……蒼紫さま、わかんない」操はすぐに音を上げる。
「俺のことは先生と呼ばないのか」
「え? ……ああ、呼んで欲しいの?」
「そうではないが、高倉のことは先生と呼んでいただろう」先程電話で。どのような流れで呼ぶようになったのか気にかかるところではある。
「うん、そっちの方が気持ちが引き締まるでしょ。先生って響きが嫌な感じで」
 随分楽しげに呼んでいるように見えたが嫌な感じなのか。操の感覚はよくわからない。
「じゃあ、改めまして、四乃森先生。全然わかりませーん」
「名前ではないのか」
「だって蒼紫先生じゃ、幼稚園の先生みたいじゃない?」
「お前は幼稚園児より手がかかるから丁度いいだろう」
「ひっどーい。どうせ私は子どもですよ。ふーんだ」いーっと言いながらくしゃりと顔を潰す。酷い表情だが不思議と不快ではない。ただ幼い仕草だとは思う。操はまだまだ子どもなのだ。
「拗ねるな。勉強するんだろう。真面目にやらないなら教えないぞ」操の右頬を軽くつねり引っ張る。すべすべと手触りのよい滑らかな肌だ。それもまた赤子のようだった。
「いたいー。離してよ! 私はちゃんとやってるじゃない。蒼紫さまが先生と呼べとか、どうして名字なんだとか色々言って邪魔してくるんでしょ」言われると確かにちゃちゃを入れたのは俺のような気もする。何を拘っているのだろうか。
「いいから、解け。もっとねばって考えてみろ」しかし、謝罪はせずにつねっていた手を離し促した。操は「勝手なんだから」とぶつぶつ言いながら取り組みはじめる。その様子から、俺に会いに来る時間を惜しんでまで勉強しなければならない状況なのは本当らしいと納得した。
 それから、操の受験が終わるまで仕事が早く終わる日や休日は葵屋で過ごす。大学時代の生活に戻ったようだった。
 操の頑張り(俺の休息日をすべて費やしたのだからそうであってもらわねば困るが)の賜か、無事に大学に合格できると、再び操の方が俺の部屋を訪れる日々に戻る。これでようやく本当に生活の流れを取り戻せると思った。
 ところが――また問題が起きる。
 それは、操の二十歳の誕生日のこと。
 誕生日は共に過ごす。俺が葵屋へ引き取られてからずっとそうしてきた。一人暮らしを始めても「私の誕生日は必ず戻ってきてね」と催促され、戻らなければ呪われそうで恐ろしく不本意ながら祝いに行く。やがて操が俺の部屋を訪れるようになると、自分からケーキをもって乗り込んできた。流石にそれはどうかと思う。ケーキぐらい買ってやると言えば、操は大きな目をこれでもかと見開いたのを覚えている。その驚きように俺はそこまで甲斐性なしではないし、薄情でもないとむっとしたが、そのように思っている相手をよく諦めもせず好きだと言い続けるものだと感嘆した。
 今年も祝ってくれと押し掛けてくるだろう。運がいいのか悪いのか誕生日は日曜日と重なっている。朝からくるはずだ。どこかへ連れて行ってくれと言われるかもしれない。俺は相当の覚悟をしていた。だが――操はこなかった。昼になっても姿を見せない。
――おかしい。
 何かあったのか。一瞬心配が過るが、それよりもたどり着いたのは別の結論。操は友人が多い。いつも前後に誕生日会を開いてもらっている。今回は休みの日と重なったし、せっかくだから当日にしようと言われ断りきれなかったとか。昼間は友人と過ごし夜に俺の元へ来るつもりではないか。ありえる。おそらくそうなのだろう。夜になればくる。
 身構えていた分、拍子抜けしたが読みたい本があった。俺としてもそちらの方が都合が良い。
 そして夜。七時過ぎ。しかし、操は来ない。
 もう今年は来ないのだろうか。いや、そもそも約束をしていたわけではないから、来なくとも咎めることは出来ない。だが、毎年恒例行事のように俺に祝えと言っていたのだ。来ないなら来ないで今年は行かないと一言あってもよい気もする。
 テーブルに置いてある携帯電話を取った。画面は七時三十一分を表示してある。受信箱と着信履歴を確認するが本日付けのものはない。
 操の番号を表示させる。勢いにまかせてかけてしまえばよかったが、万一にと、連絡が入っていないか確認してしまったことが思考を留めさせる。誕生日に文句をつけるのも無粋だ。明日にした方がいいか。まとまらない考えをまとめようと携帯画面を見つめているとデジタル表示が七時三十三分へと切り替わる。
「ピンポーン」同時にチャイムが鳴る。
 俺の家を訪れる人間は限られている。ドアフォンで相手の確認もせず玄関へ向かい扉を開けると立っていたのは操だ。
 真っ白なダッフルコートに同じく真っ白なマフラーをぐるぐると巻き付けている。「蒼紫さまは黒い服を好んで着るから、私は白を着るの。黒と白で一対みたいでしょ」といつだったかそんなことを言った。そうでなくとも長身の俺と小柄な操は一緒に歩くと妙に目を引く。そこへ黒と白となれば尚更だ。一対というより対照的と言える。しかし、操はそれを一対だと喜ぶので好きにさせている。 
「あ、ごめんなさい」口元を覆うマフラーを手で下げながら謝罪する。こんな時間まで訪れなかったことへの謝罪かと思ったが「何か忙しくしてた? ごめんなさい」
「別に忙しくはしていないが」
 何故そんなことを言うのか不思議だった。
「あ、そうなの。なんだか顔が険しいから、何か重要な任務の途中でチャイムが鳴ったから慌てて出てきたのかと思ったんだけど」
 重要な任務――その表現は間が抜けて聞こえる。忍びかスパイかにでもなった気分だ。
「今日は日曜日だ。のんびりしていた」
 操が来るかと思っていた。そしたらのんびりは出来ないだろうと考えていた。だが来なかったからのんびりしていた。全部を言葉にするならそうなるが、手短に告げた。
「そっか。じゃ、いいんだけど」
 操はほっと息をつく。
 先程まで文句の一言を言うか言うまいか悩んでいたが、本人を目の前にするとどうでもよくなった。
 扉の外から冷たい風が吹き込む。
「入れ」とりあえず促す。
「その前に、話があるの」操は言った。
「話なら中で聞く」どう考えても順番は先に中に入ることだろう。玄関で立ち話など落ち着かない。
「ここでいいの。ここがいいの」しかし、操は言い切る。操はときどき理解できないことをする。操なりに理屈があるのだろうが、俺には不可解にしか思えない。だが、ここで押し問答をするのはそれこそ時間の無駄だ。俺は黙った。話を聞くための沈黙だ。操は俺の顔を見る。眼力というものが存在するが操のそれは強い。
「あのね、今日、私、誕生日なの。」
 知っている。毎年、あれほどアピールされれば否応なく覚えてしまう。かれこれそれが十五年続いているのだ。
「今日でね、二十歳になったの。」
 それが話しておきたいことではないだろう。先がある。操の表情が告げている。本題はこれからだ。
「二十歳ってね。もう大人だよ。もう子どもじゃないよ。もうね、私はきっちり二十歳だからね。私、七時三十三分に生まれたんだけど、それも過ぎたから、きっちり大人だよ。まだ生まれてないとか細かいこと言って逃げられないようにね、待ってたんだから」
 確かに七時三十三分は過ぎている。三十三分になったと同時にチャイムが鳴ったのだ。携帯の表示が切り替わる瞬間を見ていたから間違いない。操は部屋の前で待ちかまえていたらしい。
「私、二十歳になったんだよ。」
 操はそればかりを繰り返す。本当に言いたいことを言い淀んでいる。
「お前が二十歳になったのはわかった。それで、それがどうかしたのか」
 何度も繰り返すので俺は先を促す。いや、操が言い出そうとしていることは薄々わかっている。聞かされて俺は困ることになるだろう。そうであるのに聞きたいと思う。 
「だから、あの、その……」操は大きく深呼吸する。緊張を緩和させるためにしているのだろうが、吐き出すほど操の周囲は緊張の色が濃くなる。息を吐き切る頃には張りつめすぎて見ている俺も息苦しい。
「蒼紫さまのことが好きです。私を蒼紫さまの恋人にしてください。」
 もう一度大きく息を吸い込み、そして一息に言った。言い終えると操の唇はわずかに震えていた。寒さと緊張は極限を迎えている。それでもまっすぐ俺の目を見て告げる。その眼差しは真剣だった。
「いっつもまだ子どもだってまともにとりあってくれないけど、今日はちゃんと答えて。私を恋人にしてくれないなら、もうここへはこない。蒼紫さまのことは今日限りきっぱり諦める」
 操は右のポケットに手を突っ込む。取り出したのは鍵だ。俺の部屋の合鍵。
「私、二十歳になったよ。大人になった。子どもだからってはぐらかさないで答えて。ダメならダメって、子どもだからじゃなくて、私のことを好きになれないって言って。そしたら諦める。もう追いかけたりしない。恨んだりしないから、はっきり言って欲しい。そうじゃないと私、いつまでも先に進めないよ。おしまいは、大人としてちゃんと振られたい。ずっとこれまで蒼紫さまを好きでいたことを少しでも認めてくれるなら、蒼紫さまがけじめをつけて。お願いします」
 操は持っていた合鍵をぐっと俺の前に差し出してきた。渡しはしたが一度も使われなかった合鍵だ。しかし、それは操の物だ。操が付けた四つ葉のクローバーのキーフォルダーがそう主張している。
 これを受け取り「お前の気持ちには答えられない」と言えば操は俺を諦める。言葉に嘘偽りはないだろう。操が俺を見る目の真剣さは本物だ。恐怖を感じ辛そうにも見えるが、操はけして俺から目線を逸らさない。わずかも逸らすことはない。操はどんな結果でも――それが望まぬ結末でも納得すると覚悟している。いや、口振りから到底うまくいくなど思っていない。操はここに振られにやってきた。けじめをつけたい。こういうときの操は本気だ。本気で腹を決めている。
「蒼紫さま」操が口を開くと振動が伝い持っているキーフォルダーが揺れる。幸運の象徴とされるクローバーが頼りなく揺れている。
 二十歳になったからといってすぐに大人になるわけではない。大人ならこのような振る舞いはしない。もっと自分が傷つかないような方法をとるのではないだろうか。こんなむき出しの告白はしない。それともこれは性格の問題か。
「”やっぱり”答えてくれない?」
 五分は黙り込んでいただろう。じっと待っていた操も流石にしびれを切らし言う。五分は長い。俺も長く感じたのだから待っている操はもっと長く感じたはずだ。
 操は笑った。諦めきった寂しげな――俺に見せたことのない表情で笑う。それを見て俺はひやりとした。行ってしまう。操が、行ってしまう。
「部屋に入れ」気づけば告げていた。
 その日から、俺と操の関係は変わった。だが、実質の変化はない。俺の方には。ただ、操が――それまでけして使わなかった合鍵を使うようになった。それから、台所に立ち料理を作るようになった。父親仕込みの腕前を披露してくれる。それが操にとっての恋人への振る舞いであるらしかった。 


◇◆◇


 操が俺の部屋を飛び出してから一週間が経過した。その間、一度も連絡はなかったし、俺からもしていない。時間が経てば感情も落ち着く。三日もすれば機嫌も直り何食わぬ顔でやってくると考えていたが予想は外れた。
 さて、どうするか。もう少し待ってみるか。それとも連絡を入れるか。
 いつまでも引っ張る内容ではない。携帯電話にかけてみた。日曜日の夜七時過ぎ――普段なら俺の家にいる時間、自宅でふてくされているはずだ。
 呼び出し音が七回鳴ると留守番電話に切り替わる。
 故意に出ないのだろうか。
 怒りが治まっていないにしても無視するというのはいかがなものかと思う。そういう態度をとるなら好きにすればいい。
 携帯をテーブルに投げ出して台所へ向かう。冷蔵庫を空けるとガランとしている。操が台所に立つようになってから食事のことは任せてある。毎週日曜日、考えてきた一週間分の献立の買い出しにいく。しかし、先週は来るなり見合い写真を見つけて飛び出していった。この一週間、俺は外食ですませている。料理が出来ないわけではない。自炊しても構わなかったが、操が来たときに勝手に買い込んでいると怒り出すかと思って空けたままであった。
 唯一買い足したミネラルウォーターを取り出しコップに注いでいるとテーブルに置いた携帯がゴツゴツと振動している。並々と注いだコップを持ち上げ飲み干してから向かう。
 携帯を取り上げると画面にはメール受信の表示。開くと操からだった。

 件名
 本文 外にいるから電話出られない。
    何か用ですか?

 いつもなら顔文字を駆使して長々と送りつけてくるのに随分と簡素な内容だ。いや、それよりも七時を過ぎているというのに外にいる。それも電話に出られない状況というのは何なのか。俺はもう一度かけた。すると今度は留守番電話に変わる前にブチっと切れた。

 件名 Re:
 本文 電話出来ないって言ってるじゃん。何?

 すぐさま、メールが来る。
 不機嫌そうだ。文面から伝わってくる。

 件名 Re:Re:
 本文 こんな時間まで家にも帰らず何をしている。今どこにいる。

 送り返す。
 五分。それから経過するが返信がこない。メールも返せない状況になったのか、無視しているのか。

 件名 
 本文 何をしている。連絡をしろ。

 送りつけると、しばしして今度は電話が鳴る。着信は操からだ。受話器あげるのボタンを押すと喧噪が耳に飛び込んでくる。騒がしい場所にいるらしい。
「もしもし」操の声がするが聞き取りにくい。
「……どこにいるんだ」
「飲み会だよ。コンパ。何? 何か用事?」飲み会――のんきに飲み会、それもコンパに出ている。「お手洗いに行くって席外してきたんだから、用があるなら早く言って」
「何を考えてるんだ」
「何って?」
「こんな時間まで家に帰らず、何を考えている」
「……こんな時間って、まだ七時過ぎじゃない。何をそんなに怒ってるの?」
「怒ってなどいない。呆れているんだ」
 それだけ言って電話を切った。
 プープープーと冷たい機械音が聞こえてくる。
 あれから落ち込んでいるのかと思っていたが、落ち込むどころかコンパに出ている。コンパとは親睦会のことだが使われ方としては男女が恋人を作るための会という意味合いだろう。俺が見合いをすることを非難しておきながら、自分はコンパに出席とは、どう考えても俺に対する嫌がらせ或いは当てつけなのだろう。そんな真似をするとは呆れ果てる。そこまで愚かな行動に出るとは。
――ならば、好きにすればいい。
 携帯をソファへ放り投げて寝室に向かう。クローゼットからコートとそれから鞄に入れてある財布を取り出す。操が来たら、今日は外へ食べに行くつもりでいたが、その本人は今頃どこぞの店で楽しく過ごしている。夕飯も食べずにいたことが間抜けに感じられる。
 部屋を出てエレベーターで一階に降りる。エントランスを出て隣の公園を突っ切り十メートル程度進み右へ折れてすぐにコンビニがある。 
 蛍光灯の明るい店内。入り口の傍にあるオレンジ色の買い物カゴを手にして冷蔵コーナーに進む。五段あるうち、三段目までは総菜が密閉袋に詰められ並んでいる。四段目にはハムやスモークタン、チーズ。一番下には卵ともやし、フルーツ類がある。ざっと見渡し、ハムと鮭の切り身と卵ともやしをカゴに入れる。それから、インスタントコーナーに行きカレーやカップ麺の並びにあるレトルトの白米を買った。
 家に戻りテーブルに買い物袋を乗せる。ドサリと野暮ったい音がして雪崩のように袋からもやしが滑り落ちる。手にとって袋を開けようとするが、舌打ちが出た。
 苛立っている。
 頭で考えた結論に心が満足していない。
 無視しておきたかったが、俺はソファに歩み寄り放り投げた携帯電話を手に取った。液晶画面に光が戻る。コンテンツの一覧表示のみで、真新しい情報はない。操への電話を乱暴に切り上げた。自分でした行動だが後味の悪さがある。操もまたそうではないかと思ったがあちらから反応はない。
 もう一度、今度は携帯を持って家を出た。気乗りしないが、行かないのも気持ちが悪い。どちらの選択も選びたくはないが、足は勝手に動く。


 葵屋の裏にあるマンションの前の路上――車を停めて携帯を出した。家を出たときと何ら変化はない。
 アドレスのマ行から巻町を探し出す。操のものではない。巻町家の電話だ。時間は午後九時前。夫妻は店で忙しくしている時間。かけて出るのは操以外にいない。遠回しな方法であったが家に戻っているかわかる。流石にもう帰宅していると思われたが。
 一コール、二コール、三コール。そして四コール目に入る直前、音がとぎれる。
「はい、巻町です」普段より少し高い余所行きの声。俺に話しかけてくるときよりぐっと落ち着いている。
「操か。俺だ」
「……蒼紫さま?」たちまち不審げになる。
「今、マンションの下にいる」降りてくるようにと続ければ操は黙る。沈黙は緊張の表れに感じられた。
 話を断絶させるように電話を切ってそれほど時間が経過していない。操にあのような振る舞いをしたことはない。俺を恐れているのか。怖がらせるつもりはなかったが、実際そうなってしまうと嫌な汗が流れる。
「操。」だが、その後が続かない。さっきは悪かったというのも違う気がした。
「すぐ行くよ」それから少しして、短い一言のあと電話が切れた。
 喉元に右手をあてがう。緊張――それは操のものが移ったのか、俺のものなのかわからない。
 助手席に置いた鞄をとり後部シートへ移動させる。そして、握りしめていた携帯をフロントのカゴに入れる。携帯入れとして操が買ってきた物だ。つき合うようになってから、操は助手席にいろいろ小物を置き始めた。
「ここは私の席だから、いいでしょ」と笑う。笑いながら目の奥は静かだった。そうすることで他の女が乗ったとき「彼女がいる」とアピールする。いわゆる牽制――しかし、そんなもの無意味だと俺は言った。障害がある方が燃えるなんて人間もいる。逆効果だと。
「いいの。それでも”彼女がいる”って示せたら。蒼紫さまには恋人がいるんだってね」
 言いながら操は妙に寂しげだった。俺はそれを不可思議に思った。
 俺との関係を周知しないとは操が望んだことだ。付き合い始めた当初、俺を好きだとあれほど言い続けたのだから、そこらじゅう言いふらして歩いている考えていた。だから、告白を受け入れてから初めて葵屋に戻った日は相当の覚悟をした。しかし、俺の予想に反して操は誰にも言わずにいたのだ。
「もう大人なんだから、いちいち言わないよ。だいたい、別れたとき気まずいじゃない。みんなに気を遣わせるようなことになったら嫌だしさ」
 先々のことを考えて言わない。操にしては驚くほど合理的であり、最もな意見だが――聞かされて俺は冷や水を浴びせられた気になった。その言葉はすなわち、操が、俺との別れを想像したということであったから――。
 あれ以降も、結局操は誰にも言わないままであった。操が言わないなら、俺も言わない。俺たちが恋人同士であることなど誰も知らない。操は相変わらず俺へ一方的に思いを寄せていると思われている。それは操が望んだことだ。だが、自分が相手であるとは告げなくとも、俺に恋人がいることは示したいらしい。それを寂しげに笑って言う姿は奇妙に感じられた。だが、操は時々わからないことをする。俺はそれほど気にしなかった。
 コンコンと窓を叩く音。
 見ると操が来ていた。助手席の扉が開き乗り込んでくる。
「何? 夜の遅い時間に外出するのはいけないんじゃなかったの?」
 最初の一音は白い吐息とともに出た。今夜はやけに冷える。
 操は俺の方をチラリと見たが、助手席のシートに体を預けフロントガラスに顔が向いた。操は常に俺を見てくる。車に乗っているときも、道を歩くときも、俺の顔を見上げてくる。それは昔からの癖だった。人にじろじろ見られるのは嫌なものだが、操のそれを不快に感じたことはない。おそらく慣れだろう。ずっとそうされてきたのだ。だが今は、俺のことを少しも見ない。
「俺と会うのと、コンパとは同じか」
 シートベルトを外し俺の方が操へ身体を傾ける。操はまだ前を見たままだ。いつもとは逆の状態に何故か落ち着かなくなる。じくじくとした些末であるが痛みだとわかる感覚がある。
 操は感情を抑えるためか唇を噛んだ。俺はその姿へ向け言葉を続ける。
「俺には見合いするなと言いながら、自分はコンパか。手前勝手な言動だな」 
 操がようやく俺を見る。顔だけではなく背もたれから離れて身体ごと俺を向く。眼差しには猛々しい感情が宿っていた。
「あの時と今は違う」
「何が違う」
「違うじゃない。私たちは恋人じゃなくなった」
 告げられた言葉に洩れたのは笑いだ。すると、俺の態度が操を刺激したようで、すっと顔色が変わる。怒りが溢れた。その怒りは激情とは違う。凍りつくようなさめざめとした真っ青な怒りだ。
「おかしい?」
「おかしいだろう。別れ話もせず別れたとは。いつ、そんな話になった」
「私がもういいって言ったら、蒼紫さまは引き留めなかったじゃない」
「引き留めなかったらそれで終わりか。お前の考える”付き合う”とは簡単に終わるものなのだな」
 俺は告げた。操は何も言わず俺を見つめていた。いつもとは違う様子が今度は俺を刺激する。
「一度、言ったことはなかったことには出来ない。言葉は考えてから言え。俺がここで『そうか』と言えば終わるぞ。お前はそれで本当にいいのか」
 自分が言っていることがどのような結末を引き寄せるものなのか。わからせるつもりで脅した。
「うん、いいよ。だいたい最初から付き合っていたかもわからない感じだったし。もう、いい。終わりにしよう。きれいさっぱり、これでおしまい」
 ところが、これだけ言っても操は態度を改めない。頑固なところがあるのは知っていたが、可愛げがない。
「付き合っていたかどうかもわからないなど、随分なことを言う」
「そう? でも事実でしょ。蒼紫さまは一度も私を好きだと言ってくれたことない。デートだってそうだよ。私がデーとしたいってお願いして、頼み込んで、それでやっと一緒に出かけてくれる。一回も、蒼紫さまから誘ってくれたことないじゃない。付き合う前と、付き合ってからと、蒼紫さまは少しも変わらなかった。子ども扱いされてた頃と何も。恋人って呼ぶようになっただけ。それで付き合ってるって言える?」
 操の言うことは事実だ。俺の態度は変わらない。だが、それを不満に思っているなら言えばよかった。操は俺に文句をつけることはなかった。
 こういうことはよくある。その場、その場で問題を解決させず蓄積させて、こらえきれなくなったら大噴火するマグマのように、何もかもをいっしょくたにして非難し始める。特に女性に多いと聞く。ため込んでいたものが出てしまえば気持ちもスッキリする。女のヒステリーには下手なことを言わず、エネルギーを放出させるのが賢いとも。
「だけど私は、それでもいいって思ってた。別に蒼紫さまが私のこと好きじゃなくても、傍にいられたらそれでいい。元々、うまくいきっこないってわかってたし、先のない恋だと知ってたもの。それが――本当なら、二十歳の誕生日に告白して終わるはずだったのに思いもよらず恋人になれて夢みたいだった。すごく嬉しかった。ずっと長いこと好きでいたご褒美なんだって思った。だから、全然、よかった。よかったけど、やっぱり寂しかったよ。それに、いつまでもこんなこと続くわけじゃないってちゃんと知ってたし。苦しかった。夢みたいって浮かれながら、早く覚めればいいとも思ってた。蒼紫さまの恋人でいることは、私にはとても贅沢で、そして残酷な夢だったんだよ」
 そこまで言うと、操は右手で鼻をつまみ視線を外しフロントガラスを向いた。涙を堪えているのだとわかる。
「操。」――口出しせず言わせたいだけ言わせるつもりが名を呼んでしまう。いい加減にしないかと言いたい。それを寸でのところで堪える。頑なになっている相手に怒っても余計に意固地になるだけだ。もうこの件でこれ以上長引かせる気はない。苛立ちは飲み込んだ。
「何をそんなに意地になる。見合いをすると言ったのがそれほど嫌だったのか。本当に結婚するわけじゃない。先方にどうしても会ってくれと頭を下げられた。店のお得意様にそこまでされて、顔を潰すわけにいかない。仕方なかった。それぐらいわかるだろう?」
 諭すように言った。子どもではない。自分を大人だと主張するならばわかるだろうと。操は背けていた顔を俺に向けた。射抜くような強い眼差しが返ってくる。
「うん、わかるよ。とてもよくわかる。蒼紫さまのことずっと見てきたもの、いっつもそう。いっつも全部”仕方ない”。蒼紫さまは仕方ないに弱い。私と付き合ったのもそうでしょ。私がずっと好きだ好きだって言い続けたから、仕方ないなぁって付き合う気持ちになった。私、ちゃんと知ってるよ。だから、今度だってそう。仕方なくお見合いして、そしたら今度は仕方なく結婚することになる。そして、その仕方ないに私は勝てない」
 一息に言ったが静かな声だった。先程からずっとそうだ。操は喜怒哀楽が素直に出る。ところが今は感情が見えない。怒りに任せてとか、悲しみが堪えきれずまくし立てたという雰囲気はなく、静かで淡々とした声音。わーわーと騒ぐと少しはしおらしくできないのかと思うこともあったが、見慣れた態度から遠い姿に俺は躊躇いを覚えた。言われた内容も酷いものだ。
「それもまた随分な解釈だ」それでもかろうじて返す。動揺を悟らせるわけにはいかない。いい年をして無様な真似は出来ない。
「でも本当のことだよ。私、頭は悪いけど、蒼紫さまのことはちゃんとわかるよ。蒼紫さまが何を考えているか、わかる。ご隠居の薦める人と結婚して、葵屋を継ぐ。本当なら、蒼紫さまのお母さんがしていたことを、蒼紫さまが代わりにする。それが恩返しで、自分がするべきことだって思ってる。そうでしょ? だから蒼紫さまはこのお見合いを受け入れる」
 操は熱を持たないまま続ける。
 俺は言い返すことも出来ず、真っ直ぐな視線の前に居心地の悪さと心許なさを感じていた。
 操の言うことは半分事実だ。俺は祖父が母に望んだことする。俺を産んでくれた母の罪は、子である俺が返さなければならない。だから葵屋を継ぐと決めた。それが育ててもらった恩にもなると考えてきた。だが結婚のことまでは――祖父は俺に婚儀を進めることはなかったし考えなかった。今回初めて見合いを持ち込まれたのだ。どうするか考えねばならなくなった。だが、会ったからといって必ず結婚するわけではない。先方も実際に会って話してみればイメージではなかったと、俺を気に入らないと言うかもしれない。ひとまず会ってから考えればよいと思った。
「家を継ぐのと、婚儀は別だろう。いくら祖父に言われたところで、俺の意思もある。言われるままに婚儀など」「しないって言えるの?」
 言い終える前に操が言葉を重ねた。
「無理でしょ、そんなこと。蒼紫さまは義理堅い。そんな蒼紫さまに恩のあるご隠居が婚儀を持ってきた。それを断われる? 無理だよ。絶対。他にどうしても一緒になりたい相手でもいれば別だろうけど。でも、蒼紫さまにそんな人はいない。だって蒼紫さまは自分で何かを掴みに行くことはしないもの。自分からは何も欲しがらない。失うのが怖いから、最初から望まない。そうでしょ。断る理由がないならお見合いを受ける。でも、そしたら私とは別れなくちゃいけない。だけど、蒼紫さま私を突き放すことも、それはそれで出来ない。自分から掴みに行くことは出来ないし、何かを拒絶することもできない。でもそれじゃ、困るでしょ。だから私から別れるって言ったの。それなのに蒼紫さまは私が簡単に言ったって笑う。酷い人だと思った。それだけじゃないよ。私が傍にいればお見合いの邪魔になるのに、離れると言えば今度は私に『蒼紫さまの傍にいたい』って言わせようとしてる。きっと耐えられないんだね。蒼紫さまは何かを失うことがとても嫌だから。だから、目先の苦しみを紛らわせるために私を引き止めようとする。でも、それは私を好きなわけじゃない。喪失を恐れる心がそうさしているだけ。そして、そのことに無自覚でいる。本当に残酷だ」
「……馬鹿なことを」
「何が馬鹿なことなの?」
「俺が何も欲しがらない? 失うのが怖いから最初から望まない? 精神科医にでもなったつもりか」
「精神科医じゃなくても、見ていればわかる。蒼紫さまは、手に入れたものを失うことが怖い。奪われることが恐ろしいって考えてる」
「わかった風なことをいうな」
「わかった風なことじゃないよ。わかってることだ」
 操の真っ直ぐな強い眼差しに濁った感情が浮かんだ。傷つき果てた色だ。俺には見せたことのなかった。だが、ずっと操は傷ついてきた。
「『どうせ潰してしまうなら作らない方がいい。意味がない』でしょ?」
「なんだそれは」
「蒼紫さまが言った言葉だよ。覚えてない? 蒼紫さまが葵屋に来てすぐくらい。私が庭で泥団子作りをしてたら、蒼紫さま、私に言ったのよ――『どうせ潰してしまうなら作らない方がいいだろう。意味がない』って。聞いたときは『この人、何言ってるんだろう』って思った。だけど、妙に忘れられなくて時々思い出すの。どうして忘れられないんだろうって考えてたけど、ある日気づいた。それが蒼紫さまの世界なんだって。蒼紫さまは失ってしまうならいらないって思ってる。それは蒼紫さまが失ってしまったからでしょ。奪われてしまったから。家族を。もうあんな悲しい想いはしたくない。奪われるくらいなら最初からいらないって考えてる。そう思ったら妙に納得した。蒼紫さまの態度のすべてが腑に落ちた。ああ、そうか。だったら私は、――私が、そうじゃないものになろうと思った。どこにもいかない、ずっと傍にいる。それを信じてもらえたら、そしたら蒼紫さまの悲しみが少なくなるんじゃないかって。自分の手でもう一度何かを掴もうって思うんじゃないかって。……だけど、結局ダメだ。私じゃダメだった。そんなことできっこなかった」
 操はまた視線を外した。涙は、意地でも見せないつもりらしい。そして、その態度から何かを、俺と話し合おうとか、わかってほしいとか、そういうつもりで話をしているのではないとわかる。ただ、心に秘めていたこと、考えてきたことを告げている。もっと言うならば、話すつもりはなかったこと、話さずにいられればよかったこと、話してしまえば終わってしまうこと――言葉にすれば取り返しがつかなくなると理解しながら、その上で、今、俺に、告げている。
 操が俺を見る。少し前にはあった感情がなくなり澄んだ目で俺を。
「蒼紫さまのことが好きだった。本当に好きだった。もしかしたらこのままずっと一緒にいられるかも、なんて思ったこともあった。ひょっとして、みんなに言いふらして既成事実を作ったらうまくいくんじゃないかって考えたこともある。でも、それじゃ意味ない。私が無理やり押してうまくいったとしても、私が望んだから一緒にいてくれるだけじゃ、きっと私の心は寂しいままだ。今と一緒。私は蒼紫さまに好かれたかった。だけど、蒼紫さまは変わらない。自分からは動かない。私を選んでくれることはない。でも、それでも、私は望みを捨てられなかった。だけど、蒼紫さまはお見合いを決めた。会うだけって言うけど、そんなの嘘。絶対断れなくなる。もし、断るなら会わずに断ってる。だって、相手からのお願いでお見合いするんだもの。相手は蒼紫さまと結婚したいって思ってる人だよ。そんな人と会えば、尚更断りづらくなる。でも断らなかった。それはこのお見合いを受けるって意味なんだよ。それだけじゃない。蒼紫さま『俺が見合いするのがそんなに嫌だったのか?』って言った。そんなの嫌に決まってるじゃない。自分の好きな人が、他の人と会う。そんな場所へ行くって想像しただけでも悲しくなる。それを、嫌だったのか? って。そんな風に言えるのは結局私のことをたいして好きじゃないからでしょ。蒼紫さまは私が他の人と会っても平気だから、自分がそれをしても大丈夫って思えた。そういうことでしょ。あんな風に無造作にお見合い写真を置いとけるのも、私は信じられなかった。隠そうともしないなんて。だから私との関係はここでおしまい。もっと辛くなる前に別れる。蒼紫さまも寂しいからって私を追いかけるのはやめて。そうじゃないと、蒼紫さまが困ることになる。そうでしょ。それが全部だよ」
 そこで操は言葉を切った。気を張ったような強い口調がふわりと緩む。
「私、ホントは今日、少しだけ期待してたの。会いに来てくれたって知って、追いかけてきてくれたのかもって。蒼紫さまが私を好きだって言ってくれるんじゃないかって。でも、そうじゃなかった。私に”別れていいのか”と言っただけ。蒼紫さまの意思じゃなくて私の気持ちを聞いただけ。それで私が嫌だって言えば仕方なく付き合ってくれるんでしょ。先は全然なくてもギリギリまで付き合ってくれる。私が望むから、そして離れていかれるのは寂しいから、そうしてやってもいいって。蒼紫さまがしようとしてるのはそういうことなんだよ。だから、ああ、やっぱり駄目だと思った。蒼紫さまは変わらない」
 落胆した眼差しには裏切られる寂しさが巡る。しかし、それもすぐに鎮まる。人は相手に少しでも期待する気持ちがあれば荒々しい感情が出る。だが、操にはそういう感情は宿っていない。諦めてしまった人間の静けさと、そしてなんともいえない柔らかさがあった。
「でもね、私は後悔してないよ。悲しいばかりじゃなかったから。それまでにあった嬉しいことや楽しいことまでなくなるわけじゃないでしょ。ねぇ、蒼紫さま、奪われるばかりが人生じゃないよ。手にできるものだってあるんだから。それをちゃんと掴んで幸せになって。いつか、蒼紫さまも、失うとかそんなこと考えず、欲しいって掴みに行くものに出会えること祈ってる。……私が言いたいのはそれだけ。じゃあ、」
 バイバイ――操が車を降りて行く。いつもであれば、俺が先に中へ入れと言っても聞かず見送ってくれる。バックミラー越しにいつまでも手を振る操の姿があった。だが今は躊躇うことなく歩いて行く。思えば俺は操の後姿を見たことがなかった。初めて目にする。それは終わりを意味した。
 そして、操は一度も振り返ることなくマンションの中へ消えた。



 帰り道のことはあまり覚えていない。帰巣本能というものが働いたのか、気づけば駐車場にいた。
 車を降りると雨が。音もない霧雨だ。駐車場からマンションまで徒歩五分はかかる。俺は歩調を早めることも、走り出すこともせず歩く。雨粒に打たれている感覚はないが髪や指先が濡れていく。肩を払うと水滴がはじかれた。
 どうしてこんなことになったのか。
 見合いをする。決められた場所で、決められた相手と会う。ただ、それだけの話だったはずだ。――いや、そう自分に言い聞かせたが本当は”ただそれだけ”では済まないことを俺もわかっていた。
 操が言うように、見合いをするということはその気があるとみなされても文句は言えない。最初から断る気ならば会うべきではない。相手にも妙な期待を持たせないで済む。しかし、俺は祖父に話を持ち込まれて嫌を言わなかった。会うことにした。会えば、結婚することになる可能性は高い。それでも会うことに。
 母は祖父の決めた婚儀を厭い、父と駆け落ちをした。母が祖父にした仕打ちを、また俺がするわけにいかない。祖父を同じことで二度も悲しませるわけにいかない。それが育ててもらった恩である。俺はそう信じ、正しいことであると思った。だから見合いを。
 ならば、操とは別れる必要がある。いずれはその話をしなければならなかった。その前に操は自ら別れを切り出してくれた。厄介なことにならずにすんでよかった。
 そうであるのに、心は晴れない。俺は操とこんな終わりを迎えたいわけではなかった。
――では、どうしたかったというのか。
 わからない。ただ、操が別れを納得するとは思っていなかった。絶対に引きとめるだろうと考えていた。だから俺は操に会いに行った。操の言い分を聞くため。――ところが、操は俺の予想したこととは真逆を言った。俺とは別れる。そうでなければ俺が困ることになるだろうと別れを受け入れた。俺はそのことに少なからず衝撃を受けた。そんな簡単に別れきれるものなのかと信じられなかった。本音は違うだろうと疑った。真実を言わせようとした。しかし、――酷い人。操は俺に言った。
『目先の苦しみを紛らわせるために私を引き止めようとする。でも、それは私を好きなわけじゃない。喪失を恐れる心がそうさしているだけ』
 操は俺が会いに行ったことをそう受け止めた。
――違う。
 俺はそんな狡い真似はしない。寂しいからと引きとめたわけではない。
『蒼紫さまは失ってしまうことが怖い。それは奪われてしまったからでしょ。家族を。そう考えたら蒼紫さまの態度のすべてが腑に落ちた』
 だが操は更に続けた。聞かされて何と勝手な解釈をするのかと思った。ここまでくると呆れる。俺はうんざりした。だが、言葉はじりじりと俺の内側を揺らしはじめる。それは霧雨が雨粒の痛さを感じさせず、しかし確実に体を濡らし、水気を含ませていくのに似ている。気づけば俺は捕らえられ反論も出来なくなっていた。 
 自宅のあるマンションが見えてくる。その隣の小さな公園の前で足を止めた。入り口の傍、右側に一本だけ桜の木が植えられている。大樹ではなく、開花の時期もうっかりすると見過ごしてしまう。まして、冬の裸木では気にとめることなどないが今日は別だ。
 昔、暮らしていた家の近所には大きな公園があり春には親子三人で花見に行く。幼い頃から続けてきたが、中学生にもなれば両親と出かけるのは妙に気恥ずかしくなる。その年も誘われたが、俺は拒んだ。それでも母は執拗だった。母に甘い父も肩を持ち結局俺は頷いた。来週の日曜日に三人で出かけることで決まった。
 だが、約束は果たされなかった。
 両親が交通事故に遭った。二人とも即死だった。
 あれほど乗り気ではなかった花見の約束が、もう叶わないとなるとたちまち深い意味を持ち始める。
 本来ならば、家族三人で行くはずだった公園へ一人きりで赴いた。桜の花びらを見上げながら、ああ、もう、両親とはここへ来れないのだと思えば心が空っぽになっていく。
 失った。
 奪われた。
 何もかもがなくなった。
 あの感覚を今も言葉にすることは出来ない。ただ、堅く握りしめすぎて震え出す拳に俺は祈った。
 もう二度とこんな気持ちにはなりたくない――。
 何もいらない。
 何も欲しくない。
 どうせまた、奪われるなら。
――ああ、そうだ。確かに俺はそう思った。
 それほど、両親の死が俺にもたらした衝撃はすさまじかった。世界が崩壊したのだ。俺の世界はあのとき壊れた。
 だが、人はいつまでも同じ場所に留まってはいられない。残った者は生き続けなければならない。次第に、両親のことを考える時間は少なくなった。月日は流れ続け、両親と共に暮らした日々と同じだけの時間が経過した。俺は変わった。今度こそ大人になった。
 しかし、そうではなかった。自分では無自覚のまま、この十五年、消えた世界の中で嘆き続けてきた。いつまでもあの場所から動かずに、一歩も動けずにいたのだと。――違う。そんなことあるはずがない。俺はそんなに弱くないし、情緒的でもないし、子どもでもない。操の勝手な解釈だ。
 すべては幻想。――そんな話を読んだことがある。年若い娘にはありがちな思い込み。孤独で哀れな男を自分の愛情で変えてみせる。母性というものがそのような気持ちを芽生えさせる。操もまた夢物語を描いたのだろう。だが俺は、少女趣味な幻想に出てくる男ではない。
 俺のことを理解している? 見ていればわかる? 冗談ではない。十も年下の子どもに何がわかる。ふざけたことを言うな。
 腹が立つ。腹が立って仕方ない。このまま一方的に言われて、黙っていることは出来ない。今すぐ操の家に乗り込み、撤回を求めたい。そう思う反面で体からは力が抜けていく。歩くのもやっとで、ふらふらする。泣きたい。泣き出してしまえたら楽になれる気がして、喚き散らしたい。静けさと激しさが交互に押し寄せてくる。目まぐるしく流れ続けるそれらについて行くことが出来ず、混乱は少しずつ俺を不安定にさせる。 
 わからない。何もかもが。
 俺は、本当は何を感じ、何を思っているのか。何が正しくて、何が真実であるのか。
 桜の木を仰ぎ見る。立ち尽くす姿が自分と重なる。雨は、相変わらず音も鳴らさず降りしきる。霧雨が、ただ静かに、俺を打ち続けた。



 それからの一週間は、砂噛むような時間だった。
 長時間雨に打たれたせいか、翌日の体調は最悪で体は重怠く思考も鈍い。しかし、仕事を休むわけにもいかず出社し業務をこなす。頭が重いはずだが仕事には集中できた。普段よりも没頭した。そして疲れ果てて帰るが夜は眠れない。不調なところへ眠れずにいれば言うまでもなくどんどん具合は悪化していった。それでも仕事はこなした。何かで忙しくしていたかった。余計なことを考えないでいられるように。
 そうやって過ごしていたが、金曜の夜、ついに限界を迎え熱が出た。
 家に帰りつく頃、体はますます熱くなり視界がかすむ。早く横になるのが賢明だ。風邪薬を飲みベッドに入る。あれほど眠れずにいたが、薬には睡眠効果があるのか、目を開けていられないほどの眠気に襲われ俺は意識を手放した。



 ピンポーン。ピンポン、ピンポン、ピンポン。やかましく連打されるインターフォンが頭に響く。俺はゆっくり起きあがり時計を確認した。二時半過ぎ。それが夜中なのか昼なのか一瞬判断つかなかったが、カーテンから漏れてくる光が見えて午後二時だと理解する。昨夜帰宅したのが九時前で、あれからずっと眠っていたとしたら――ざっと十七時間眠り続けた計算だ。人間寝溜めは出来ないと言うが、そうでもないらしい。
 ピンポン。ピンポン。ピンポン。
 のそのそと起きあがっている間もチャイムは執拗に鳴らされ続けている。一度、或いは二度、多くて三度押して出なかったら不在だと判断して帰るのが大方だと思われるが――その行為の主は、俺が家にいるとわかっているとでも言いたげな、さながら借金取りの督促を彷彿とさせる執拗さで押し続ける。
 無視したかったが出るまで帰りそうにないので仕方なく出ることにしてベッドから這いだす。
「はい」インターフォンを押して相手を確認する。
「高倉です」帰ってきたのは野太い男の声だ。この部屋を訪れる人間は決まっている。そのうち一人が来なくなったのだから、誰かは予想できていたが案の定の人物にため息が漏れる。今、この男の相手をしている余裕はない。それでも追い返すわけに行かず、玄関に向かう。扉を開けると開口一番に、
「ひどい顔ですね」と笑われる。
「何の用だ」
「今日会う約束をしていたでしょう」
 言われてはっとなる。完全に忘れていた。
「すまない」俺は謝罪する。高倉は呆れたように、
「時間に几帳面な貴方が約束の場所に来ない。携帯に電話しても出ない。一体何事かと操さんに連絡してみたら『蒼紫さまとは別れた』と言われました。ショックのあまりどうにかなってるのかと思って来たんですよ」
 俺と操のことを高倉だけは知っていた。付き合い始めてから一度、操がいるときに俺の家にやってきたのだ。
「なんだかこれまでと雰囲気が違いますね」
 部屋に上がってほどなくぽつりと言った。そんな素振りは見せていないし、何も変わっていないと思うが高倉曰く何かが違うらしかった。だがそこで言葉を止めた。みなまで言うほど無粋ではないということらしい。それに対して、俺も操も何も言わなかった。否定も肯定もどちらも。だからハッキリと付き合っていると告げたわけではない。
「……お前、まだ操の連絡先持ってたのか」
 高倉の台詞を受けて言った。操が大学受験のとき、高倉が何度か家庭教師をしていたのは知っている。偶然ばったり道で会ってそのような話になったらしい。俺を介することなく二人でやりとりをしていたと知り驚いたが、それ以降は特に二人きりで会ったりしていないはずだ。それでも、あれから三年近く経つというのに操のアドレスを残しているのか。
「ええ、年末年始の挨拶メールぐらいはやりとりしてますから」
「……そんな話、聞いていない」
 言えば、高倉は肩をすくめた。それから、
「とりあえず、早まった真似はしてないみたいでほっとしました」
「操と別れたぐらいでどうにかなったりはしない」
 わざとらしく安堵する高倉に俺は憮然と言った。
「寝込んでいるのに?」
「これは風邪だ。操は関係ない」
 しかし、高倉は全く信じない。
「話は後です。部屋に入れてください。寒すぎて僕まで風邪引きますから」
 半ば強引に上がり込んでくる。それに今度は俺がわざとらしくため息を吐き出した。


 高倉は食卓のテーブルに持っていた紙袋を置く。それから手袋とコートを脱いで椅子にかけると「昼ご飯まだでしょう」と台所に立った。持参した紙袋から箱を取り出す。餃子と焼売が入っている。それを勝手知ったると棚から皿を出し綺麗に並べレンジにかける。
 今日は駅前に出来た中華店で昼飯を食べる約束をしていた。高倉はグルメで新しい店が出来たらチェックを入れる。彼女がいる時期は彼女と出向いているようだが近頃別れたらしく俺に声がかかった。男同士で真昼間からランチなどむなしくなるが、俺を誘えば操がついてくる。むさくるしさが回避されるという魂胆だったのだろう。
「なかなか美味しかったので、お土産に」
「……食べてきたのか」
 待ち合わせは十二時だった。今は二時だ。そういうことだろう。
「予約していましたから。せっかくだし、操さんと」
「操はきたのか」
「ええ」
 待ち合わせの時間になっても現れない俺にしびれを切らし電話したが出なかった。次に操へ電話したら俺とは別れたと告げられて驚いた。そのまま呼び出し二人でランチを食べた。そのあと高倉はここへ来たが操は来なかった。
 一連の流れを頭の中で思い描くと苦々しく思う。
「のんきなもんだな」
「貴方は別れたショックで寝込んでいるというのにね」
 俺の言葉に高倉は平然と答える。
「さっきも言ったが操と別れたから寝込んでいるわけじゃない」
「ならそんな嫌味を言わないでください」
「嫌味など言っていない」
 チン、とレンジが鳴る。
 高倉は布巾で器用に皿を取り出してリビングまで運んでくる。そしてテーブルに置いた。
「割り箸でいいですか。タレもこのままかけますね」
 言った通り、俺に割り箸を差し出し箱についていたタレの袋を手に取ると切込みから破り上からかけた。
「どうぞ。操さんもさっき食べてた餃子です」
「……お前の方が余程嫌味だ」
 言うと高倉は笑った。
 昨日帰宅して泥のように眠り十七時間何も腹に入れていない。風邪を引いている状態でこんなむつこい物をと思ったが、強烈なニンニクとニラの匂いに負けて一口頬張る。中身は熱すぎず冷たすぎずちょうどよい塩梅に温められていた。
「どうですか。美味しいでしょう」
「ああ」
 一口、二口と食べ進めるが、四つ目を口に運ぶと胃にくる。体調が弱っていた上に、空きっ腹に濃い味のものを入れれば気持ちも悪くなる。俺は立ち上がり冷蔵庫を向かう。ミネラルウォーターのボトルを手にしたところで、そういえば高倉に何も出していなかったことを思い出す。
「何か飲むか。コーヒーと紅茶があるが」
 棚にあるインスタントコーヒーの粉と、隣に並ぶ紅茶の茶葉を見て告げる。俺はコーヒー専門だが、操は苦いと好まず(たっぷりミルクを入れてカフェオレにしなければ飲めない)代わりに紅茶を買ってきた。アールグレーの茶葉だ。
「僕は結構です」高倉は答える。遠慮するような間柄でもないので本当にいらないだろうとは思うが、俺はもう一つコップを出して水を注ぎ高倉の前に置いた。
 座ると箸を取ったが、いざ手を伸ばそうとするとこれ以上食べる気にはならなかった。箸を置いて代わりにグラスを持ち水を一口飲む。ゴクリと喉が鳴る音、グラスをテーブルに戻す音、それから時計が秒を刻む音――些末なものが大きく響く。部屋が静かである証拠だ。
 高倉は饒舌なタイプではないが無口なタイプでもない。つつがなく淀みなく会話が展開される。だが、今日はどういうわけか黙っている。まるで、俺が口火を切るのを待っているようだ。夫婦喧嘩は犬も食わぬ(俺と操は夫婦ではないが)。男女間の機微について言われもしないのに口を挟むのは無粋であるということだろう。俺が同じ立場でもそうすると思うが――しかし、操に会ったとまで言っておきながらそれ以上は何も言わないというのも意地が悪い。
「……――それで、何か言っていたか」
 テーブルの皿には餃子が五つ残っている。俺が食べて開いた場所にタレが流れて溜まっている。ラー油の赤の中央に油の水玉が浮いてある。
「貴方が見合いをすると聞きました。見合いをして、その方と結婚するから別れたと。本当ですか?」
「ああ」
「そうですか」
 高倉はグラスに触れた。持ち上げて、だが飲むことはなくコトリとまたすぐ置く。
「他に何か言っていたか」
「いいえ、それだけです。今日は無口でしたよ。話していると、ふっとした瞬間に貴方の名前を呼びそうになって、その度にはっとして黙り込む。そんなこと繰り返してましたよ。操さんにとって貴方の話をすることは空気みたいなものだったのでしょう。無意識にこぼれそうになる。それを誤魔化してる姿に、見ているこっちが辛くなりました」
 俺はチラリと高倉を見る。息を吐き出しながら小さく笑う姿が目の端に映る。優しげな、それでいて寂しげな表情だった。
「僕は、結構好きだったんですよ。操さんが貴方の話をするの。人の惚気話なんて聞いていてそんなに面白いものじゃないですけど、操さんがする貴方の話だけは例外でした。人ってこんなにも人を好きになれるもんなんだなぁと思いました。でも操さんにとってはそんなこと少しも凄いことではなくて当然みたいに思っていて――だけどあれは一種の才能です。掛け値なしに誰かを好きになるなんて、早々出来ることじゃないですから。みんな、自分のことが可愛い。好かれたり、ちやほやされたい、そういうことを考える。自分が相手を好きだって気持ちよりも、そっちの方に目がいってしまう。狡くなるものです。だけど、操さんは真っ直ぐだった。真っ直ぐ、猪突猛進で貴方に向かって行ってましたよね」
「……それは操が子どもだからだ」
「子ども……そうかもしれませんね。だけど、子どもで居続けることは難しい。生きていれば嫌なことがある。辛いことも、傷つくこともある。心が痛む現実を回避する方法を覚えて大人になって行く。そして、それは大事なことでもある。けれど、時にそれは弊害を生みますから。人を臆病にさせる。臆病さは大事なものを遠ざけさせる」
 高倉の含んだような物言いが、ざわりと俺を嫌な気持ちにさせた。
「何が言いたい」
「本当は操さんのこと、どう思ってたんですか」
 先程までの柔らかな表情から一転、真面目な顔で問われる。遠回しはやめろと言ったのは俺だが単刀直入すぎる。間というものがない。
「見合いするから別れるって言える程度の気持ちで付き合ったんですか。あれだけ貴方を好きでいた操さんを、その程度しか思っていないのに受け入れたんですか――いつでも切り捨てられるって思っていたんですか」
 貴方の言い分が聞きたい――操からの話だけではなく俺からの話も。高倉の考えていることはわかる。人と人の関係にはどちらか一方の話だけでは理解できないことがある。何がどこでどうすれ違い別れに至ったのか。それが誤解であるならば元に戻せないか――高倉は俺と操が別れることに賛成ではないのだ。
「別にそんなこともうどうだっていいだろ。全部終わったことだ」
 だが、俺は言った。
 操のことはもういい。今更どうしようもない。
「投げやりですね」
「投げやりじゃないさ」
「投げやりでしょう。このままじゃ、操さんに自分の気持ちをわかってもらわないままなんですよ。誤解されたままでいいんですか」
「別に誤解なんてされていない」
「されているでしょう。操さんは貴方に”好かれてない”と思ってる。自分がただ好きでいただけだと。それは誤解でしょう」
「それが事実だ」
 操は言った。――俺が操を引き止めたのは失うことが嫌だっただけ。別に好きだからではない。改めて考えてみるとそうかもしれないと思う。操の告白を受け入れたのも、これまで傍にあったものがなくなると怯えたにすぎない。俺は焦った。目の前からいなくなると気づけば引き止めてしまった。ただ寂しいから――それは真実である気がした。
「俺は操の好意を利用していただけだ。それをわかっていながら操は俺と一緒にいた。俺のさもしさを見透かされていたのかと思うとある意味では屈辱だな」
 言葉にすると胸が疼く。ずっと、俺は操にそのように見られていたかと思うと消えてしまいたかった。
「貴方、馬鹿ですか」ところが、高倉は呆れ返ったように言った。「確かに貴方の態度はそう誤解されても仕方ないと思いますよ――……だけど違うでしょう。そうじゃない。貴方はちゃんと操さんを好きでいた。なのに、この期に及んでまだ隠すんですか。それとも本気でそう思ってるんですか。だったら大馬鹿ですよ。いい加減、自覚してください。素直になるべきです」
「お前こそ、何を勘ぐっているか知らんが、俺は充分素直だ」
「そうですか。ならどうして、僕が操さんに連絡してることに腹を立てたんですか?」
「何の話だ」
「とぼけないでください。さっき、玄関で、僕が操さんへ連絡して昼を食べたって言ったら、貴方は真っ先に何を気にしました? 僕が操さんの連絡先を”まだ持ってる”と不機嫌になった。自分の預かり知らぬところで僕と操さんがやりとりしてるかもしれないって嫉妬したんでしょう。不愉快そうな顔して独占欲丸出しで、それで好きじゃないなんてよく言いいますね」
「恋人が別の男と連絡しているのはマナー違反だろう。操もお前もな。だから不快に思った。それだけの話だ」
「マナー違反ですか。では、三年前はどうです。偶然ばったり操さんに会って家庭教師をすることになった。その頃、貴方はかなり多忙だった。操さん、言ってましたよ。平日は残業続きで遅くなるから家に行っても会えないことが多いし、休日も疲れているから顔だけ見てすぐ帰ってくる。本当は勉強でわからないところがあるから教えてもらいたいけど、会いに行くだけでも迷惑がられてるのに、そんなこと言ったらきっと出入り禁止にされる。当分、行くのも控えようかなぁって考えてると。それを見ていると可哀想になって、せめて僕が勉強を見ましょうと提案しました――だけど、それからすぐ家庭教師はお役ごめんになった。貴方がすることになったから」
「ああ、操のことでお前に迷惑はかけられないからな」
「ですが、あの頃はまだ貴方と操さんは恋人同士でもなんでもなかった」
「恋人ではなかったが、操は昔から知る妹みたいなものだからな」
「違う。そうじゃない。操さんは”自分のものだから”他の者に気を許していると知って我慢できなくなった。貴方は操さんを好きでいて、とても大切に思っている。誰にも渡したくないと行動しただけです」
「それはお前の妄想だ」
「違います。貴方は操さんが好きなんですよ。だから時間を作り操さんに付き合った。ただ自分本位な気持ちで好意を利用しているだけならそんな真似はしない。大変な時期にあれこれ言ってこなくなれば助かると思うだけです。そしてまた、自分に余裕ができて寂しくなれば言い寄っていく。でも、貴方はそうじゃなかった。自分以外の男は近づけさせたくなかったんですよ。それがわかって、僕は安堵した。来る者拒まず、去るもの追わず。こと色恋に関しては誰のことも好きにならない寂しくて残酷な人だと思っていましたけど、操さんに対しては違う。貴方が人並みにそういう気持ちを持っていることを喜んだ」
 人から自分がどのように見られているか。それを知る機会はあまりない。しかし、ここのところ連続して聞かせられている。操からも言われたし、高倉からも。そしてそれはどちらも俺を揺さぶる。
「馬鹿らしい」しかし、口から出たのは吐き捨てるような台詞だ。
「……何が馬鹿らしいんですか」
「仮にその話が事実だとして、それがなんだ。俺が操を好きでいたとしてもどうしようもない。俺は見合いをして結婚する。もうこれは決まったことだ」
「ええ”決まったこと”です。貴方が”決めた”ことじゃない。結婚し将来を共にする。そんな重要な決断を貴方は自分では何一つ決めずにいる。誰の人生ですか」
「世の中、自分の意思だけで決められることばかりじゃない。仕方ないだろう」
「仕方ない、ですか。……ええ、そうかもしれません。仕方のないことはたくさんある。どうにもならないことは山ほどあります」高倉の言葉はいつになく重たく響く。”仕方ないこと”を身に染みて知っている。育った環境というどうにもならない理不尽さに誰よりも苦しんできた。その上っ面ではない芯から発する強さが俺を捉える。「ですが、少なくともこれはどうにもならないことではない。思う相手が心にいるのに別の相手と結婚など出来ないと家を出る人間もいる。たとえそれで傷つく人間がいようとも」
 それでも、俺は頷くことは出来ない。
「……そうだ。俺の両親のようにな。そして若くして不慮の事故で死亡し、残された子どもは勝手をして飛び出した家に引き取られた。それなのにまた俺が同じことを繰り返すわけにはいかない。そんな真似が出来るはずがないだろう!」
 ドンっと右手でテーブルを叩いた。威嚇するような行為をとるつもりはなかったのに押さえきれず体が動いた。
 空気がひんやりと凍る。
 高倉は俺の態度に怯むことはなかった。
「ご両親のことはお気の毒に思います。それで貴方がどれほど傷ついたのかは僕の想像も及ばないことです。ですが、あれは事故です。罪の制裁でもなんでもない。不幸な事故だった。そのことで貴方が罪悪感を感じることはないし、自分を犠牲にすることはない。そんなこと、貴方のご両親だって望んでないでしょう。月並みの言い回しですが、親は子どもが幸せならそれが一番だというのは真実だと思います。貴方が本当に大事な物を誤魔化すのはやめてください。無駄だなんて思わずに掴みに行ってください。たとえぶつかることになっても。でないと、結局は誰も幸せになんてなれない――それぐらい本当はわかってるんでしょう」
 それからしばらく高倉は黙って座っていたが、俺が何も言わないでいると、
――あとは自分で考えることですね。
 一言、そう告げて帰って行った。


 一人きりになった部屋はやけに広くそして冷たく感じられた。
 ガランとした風景。この部屋はこれほど暗いものだっただろうか。まるで見知らぬ場所のように感じられる。大学から十年以上も暮らしている部屋だというのに酷く他人行儀なものに思えて仕方ない。
 何がそうさせているのか――俺はそれを知りたくはなかった。だからこの一週間、帰宅してもリビングに長居することはやめていた。気付いてしまえば、嘘をつけなくなる。そうなれば辛くなる。知らないでいる方がいい。だがそれを許さないとえぐられた気分だった。
 リビングのソファに腰掛け、両肘を背もたれに置いてゆっくりと後ろへ身体を倒し目を閉じる。真っ暗になった視界がやがてぼんやりと白く揺れて浮かび上がってくるのは懐かしい記憶。
『あおしぃさま〜。』
 舌足らずでイントネーションも独特であるから操が俺を呼ぶ声はどこにいてもわかった。大きな声で俺の名を呼び続けるものだからいつも慌てた。店の迷惑になると黙らせようと近寄る。しかし、操の顔を見ると毒気を抜かれてしまい怒れなくなる。
 駆け寄ってくるので抱き上げると小柄な体だがずしりと重い。体温も高くぎゅっと首に抱きつかれると不思議とほっとする。操は俺の傍でころころ笑い、わんわん泣き、きりきり怒り、そして朗らかに喜びにぎやかだった。一人百面相のように忙しい操がいると俺も忙しい。ふさぎ込んでいる暇などなかった。命が俺の手の内ではしゃいでいるように思えて切ない気持ちになった。一人で静かにしていた。そう思っていたはずが、学校から帰れば操と過ごすのが当たり前になり、時が流れ続けた。
 俺を照らしてくれる操の明るさが寂しさの頼りになっていく。最初。始まりは間違いなくそうだった。俺に懐き一心に追いかけてくる好意がくたびれた心を和やかにしてくれた。だが、それだけでは終わらない。操の存在は次第に別の趣を見せるようになる。時が移ろい、幾重も季節が巡り、少しずつ、育まれていくもの。一度は真っ黒に塗られた世界が再び色をつけはじめる。あまりにも自然であったからまばゆいと抵抗することなく、大事だと自覚することもなく、しかし確実に俺の世界を変わっていった。それはもう寂しさを紛らわせるとか、一時の慰めに身を委ねているなどいう刹那的な儚いものではなくて、もっと強靭で鮮やかな。
『蒼紫さま。』
 今もありありと聞こえてくる声。
 何もいらないと誓いながら、気づかぬうちに心が求め確かなものになっていく。抗うことも出来ず、どうしようもなく大切になってしまっていた。
 だが、俺はそれを素直に受け入れることが出来なかった。
 繰り返される日常の当たり前のように与えられる微笑みに応えずにいる自分が、本当は何よりもはがゆくてたまらず、それでもどうしても言えなかった。あの朗らかな笑顔に、言いたかったことは何一つとして告げなかった。怖かったから。失うことが恐ろしかった。もう二度と辛い思いをしたくない。だから俺は自分の心に生じた変化をやりすごそうとした。そうしていても柔らかな温もりは俺の傍にあり続けた。
 ところが、光は再び遠くへ消える。
 臆病風に吹かれているうちに、時間切れだと灯りは吹き消された。
――行くな。
 たった一言が言えないまま、それどころか俺はまだ現実を直視せず、事実から顔を背けた。言い寄ってくるから都合よく扱っていただけと、それが真実であると思い込もうとした。このまま時が過ぎて何もかもが遠くへ流れて行けばいい。取り返しがつかなくなるほど手の届かないものになれば、諦めるしか他にどうしようもなくなれば、背を向けて生きて行くことは出来る。俺はその方法をよく知っている。そうして何もかもを飲み込んでしまえばいいと。だが、本当は。
――操。
 大切だった。何より大事だった。かけがえのない――操は俺の世界だった。
 それを、そんな重要なことを、どうしてこれまで。
 熱い。身体中が熱くて仕方ない。熱は喉を焼く。飢えて干からびたようにカラカラと鳴る。水分を求めてさまよう砂漠の旅人のように欲し、漏れ出る嗚咽が更なる飢えを引き起こす。一方で、目頭の熱さは涙を促す。欲しいところに与えられず、欲しくないところに巡る。そんな皮肉を思いながら、視界を膜のように覆い風景を歪ませる涙によってガラス破片のように細切れに分けられていく世界。それが瞬きをするたびにぼろぼろと崩れ落ちはがれていく。痛みと苦しさと悔しさと、そして、見えてくるのは真実だ。同時に押し寄せてくる己の卑怯さと狡さ。
 結局、俺は逃げてきたのだ。すべてから。
 失った衝撃にばかり目を向けて少しずつ大切なものができていたことを認めず逃げてきた。
 操のことも、それから――葵屋のことも。
 祖父には恩がある。俺を引き取ってくれた。勝手して家を飛び出した母。祖父を裏切った母。その子である俺を憎まず恨まず育ててくれた。その恩を返さなければと、それが俺の役割であると思ってきた。――でもそうではない。本当は恩や義理なんかではない。祖父もまた、俺にとってかけがえのない家族となっていた。葵屋は俺の家だ。それを守りたかった。だから後を継ぐことにした。俺が。この手で。ただ、それだけのことだった。
 操も葵屋も、どちらも大切で――だが俺はそう思う心を、懐いてくるだけと、恩であるからと、そんな言い訳をしてきた。どちらも必要としていたのに、欲しいとも言わず、そのための努力もせず、そくせどちらも手に入れたいと、手に入れられるのではないかと自惚れていた。このままこうしていれば、葵屋を継いで操と結婚することになると。だが、その前に祖父が見合い話をもってきた。操か、葵屋か。どちらかを選ばなければならなくなった。
 俺は慌てた。泡を食った。どうすればいいか。
 だが、俺は考えることをまた先に延ばそうとした。そうしている間に、先に操が結論を出した。俺はそれに呆然として腹を立てふてくされ、ならば好きにすればいいと子どものような態度に出た。操が決めたのだからそうするとまた狡い言い訳で自分を誤魔化そうとした。
 だが、本当は俺は。俺は、
――操に、会いたい。
 もう手遅れかもしれない。愛想を尽かされて今更なのかもしれない。それでも会いたい。ただ、会いたくてたまらない。顔が見たい。傍に行きたい。言わずにいた言葉を伝えたい。このまま、誤解されたままで、何も言わずにいられない。
――操だけは、失えない。失いたくない。
 浮かんだ言葉はストンと心に落ちてくる。パズルのピースがあるべきところへ納まるように、少しの違和感もなく、居心地の悪さもなく、ピタリと。そしてそれは、俺に欠けていたすべてを蘇らせてくれる気がした。願いを抱くこと、それを叶えるために立ち向かうこと、自分の人生を生きること――たとえそれで周囲の人を傷つけたとしても、誰かの期待に添うことができなくとも。それを自分に許したいと思った。本当は他の誰でもなく、俺自身が自分に許してやりたかった。
 目を開ける。握りしめた拳が震える。かつて、この手に誓った願い。今度はそれとは反対の思いを抱くことが滑稽にも思える。それでも願う。強く。強く。


◇◆◇


 商店街の一番端にあるドーナツ屋。五年ほど前に出来た店で手ごねドーナツを売る。グルメ雑誌にも取り上げられたほど評判だ。広くはないがイートインスペースも確保されている。
 操と二人、店内に入り、カウンターで俺はコーヒーを操はミルクティを注文する。ドーナツは食べなくていいのかと尋ねれば「いらない」と素っ気ない返事。それでも俺は購入した。ココナッツミルクのパウダーがまぶされている。操の好物でここへ来ると決まって食べる。トレイを持って席へ進む。テーブルに向かい合って座ると紅茶とドーナツを操の前に置く。
「いらないって言ったのに」
「でも、好きだろう?」
 操はそれには答えなかったが、おてふきの袋を破ると手を拭き始める。
「元気にしてたか」
「うん。」
 頷くとドーナツに手を伸ばす。一口サイズにちぎって頬張り咀嚼する。俺はその姿を見つめていた。
 高倉が訪ねてきた日から三日後、操からメールがきた。五分でいいから時間を作ってもらえないか。そんな内容だった。一体何事かと思ったが、操から会いたいと言われ断る理由はなかった。俺は二つ返事をした。だが、その前に”整理しておかなければならないこと”があり、ようやく今日実現した。
 三週間ぶりに会う。操は少しほっそりしたような気がする。そのせいか、大人びて見える。
「あ、そうだ。忘れないうちに先に渡しておくよ」
 操が言う。それからドーナツの油がついた手を丁寧におしぼりで拭う。終わると財布を取り出した。小銭入れを開けると出したのは鍵だ。俺の部屋の合鍵。
「これ、返しそびれていたから」
 コトリ、とテーブルの上に置かれる。操はスッと俺の方へと押した。
「もう私が持っているわけにはいかないでしょ」
 これが操が俺を呼び出した理由らしい。
 差し出された合鍵には付けられていたはずの四つ葉のクローバーのキーフォルダーが外されている。それを見るとたちまちに息苦しさに襲われる。受け取りたくはない。これは操のための物だ。
「あれから、色々あってな」
 俺は合鍵から操へ視線を向けた。
 操も俺を見ていた。
「今日は例の見合いだった」
 その帰りに会うことにした。真っ先に操に会うと決めていた。
「そう。だから、日曜日なのにスーツなんだね」
 操の眼差しがわずかに揺れる。それは俺の願望ではないと思う。
「話は断わった」
 続けると、今度はもっとわかりやすく大きく揺れた。
「祖父と話をして断ることにした。引き受けた以上、会わずにいるわけにいかなかったから、今日会って直接結婚は出来ないと告げてきた」
「……そんなことして大変だったんじゃないの」
「ああ、大変なことになると思っていた。祖父を落胆させるだろうと――だが、それは全部俺の思い込みだったよ」
 言いながら先日の出来事を思い出す――。



「申し訳ないです。」
 畳に両手をついて頭を下げる。手のひらから汗が滲む。
 葵屋の奥座敷。見合い話を断るために祖父を訪ねていた。
 簡単に許されることではない。それでもこの話を受けられない。自覚した自分の気持ちを偽ることはもう出来なかった。結果がどうなるか予想すると鬱屈とするが己の意思だけは告げたい――だがどのように切り出せばいいのか。世話になった恩人の意に背くと述べるのは過分な緊張と神経をすり減らせる。しかし、黙ったままでいれば祖父から見合いのことを持ち出されるかもしれない。嬉しげな顔を見れば余計言い出しにくくなる。それ故、部屋に入り挨拶もせず切り出した。 
 勢いよく頭を下げたので、祖父の顔は見られない。突然謝られても混乱しているだけだろう。もっと詳細に説明しなければならない。
「両親を失い、身寄りのなくなった私を引き取ってくださったことは心から感謝してます。その恩を仇で返すような真似をしてお詫びのしようもありません――ですが、私はこの婚儀を受けることは出来ません」
 もう一度はっきりと言葉にした。ところが、
「何を言うとるんじゃ」返ってきたのはおどけたような物言いだった。
 怒りを通り越して、或いは受け入れがたいことを聞かされとぼけてのことかと思いながら俺はゆっくりと顔をあげる。
「恩を仇で返すとか大層な。乗り気じゃないなら断ればよいと、端から言っておいたじゃろ」
 しかし、告げる言葉とそれから表情も濁った感情は見あたらない。
「……ですが、それは建前で――事実上これは決定の話ではないのですか」
 それでも注意深く尋ね返す。母に婚儀を薦めたように、俺にも祖父の眼鏡にかなった相手を薦めた。この見合いはそういうことではないのかと。
「お前、そんな風に思とったのか」呆れた、と祖父は続ける。「儂は同じ轍は踏まん。美智子……お前の母親は儂の決めた相手との婚儀を嫌がった。じゃが儂はそれが美智子のためになると信じとったから、どうしても結婚させたかった。儂も若かったんじゃな。結局は美智子は家を出ていった。年若い二人が駆け落ちなど、すぐ泣き帰ってくると高を括っとった。じゃが、そのまま――後悔してもしきれんかった。それとまた同じことをするなど儂はそこまで愚かな人間じゃないつもりじゃ」
「では、何故、私に婚儀を」
「何故も何も、女っ気がないから心配してのことじゃ、それ以外に理由などないわ」
 聞かされて、俺はいよいよ絶句した。
 散々思い悩んだことは何であったのか。これほどあっけなく済むことだったのか。それを俺は勝手に深読みして、祖父の望みであると思った。祖父は娘を失った悲しみを乗り越え、俺の自由と幸せを願ってくれていたというのに俺はそんなこともわからず、祖父の願いを吐き違え大きな誤ちを犯すところだった。
 俺はほとほと子どもであったと笑うしかない。己の幼い思いこみを真実であると信じ切り、疑うこともなかったのだ。なんと愚かだったのか。事なきを得て安堵するより間抜けさにクラクラとした。



「人は話してみなければわからないものとはよく言ったな」
 笑い話にもならないが、と付け足せば
「そっか。ご隠居と仲違いしなかったなら、よかった」
 操は言うとティーカップを持ちあげて口に含んだ。
 俺のことを今もまだ気にかけてくれていることがたまらない気持ちにさせる。同時に、"俺の望み"にかすかな光が見える。
「仲違いはしなかったが、俺に女っけがないことは心配されている」
「そう。」
「ああ」
 俺もカップを手に取る。コーヒーを口に含む。苦味が広がっていくが心は落ち着く。
 今日、操に会いに来たのは見合いの結果を報告するためではない。いや、それもあるがその先を。しかし――正直、これまで自分の気持ちを伝えることなどしてこなかったので、どう話せばいいかわからない。とにかく告げてしまえば良いのか、タイミングを見計らった方が良いのか、そんなこともわからなかった。
 奇妙な沈黙。操はチラリと腕時計を見る。
「……何かこの後、予定でもあるのか」
 操が俺といるとき時間を気にすることはなかった。どちらかといえば俺の方が気にしていた。あまり遅くならないよう家に帰さなければならない。俺が切り出さなければいつまでも操はいたがる。
「うん、六時に待ち合わせしてるから、もう少ししたら行かなきゃ」
「デートか」口にするとズキリと痛みが走る。
「うん。」操はあっさり肯定する。
「近頃デートに明け暮れているらしいな」
 操は俺と別れてから、飲み会に参加しまくっているらしい。ここしばらく操とは連絡をとっていなかったが、気になってそれとなく店の人から情報を得ていた。俺と操が付き合っていたことなど知らず、一方的に操が俺を追いかけたと思われているせいか、操がコンパに出るようになったことを「操ちゃんも、ようやく現実的な恋に目覚めたってところでしょうねぇ。若もなんだかんだいって寂しいんじゃないですか」などとからかわれる。寂しいどころではなく気が気ではなかった。それほど早々好きな相手が出てくるとは思えないが、しかし、失恋の後に大恋愛が待ち受けていたという話もある。人の出会いなど何処でどうなるかわからない。操にはすでにもう次の相手がいるのではないかと。
「明け暮れてるって……まぁ、普通に。飲み会に行って、好意を持ってくれた人とはデートしてみることにしてるだけだよ。これまでずっと蒼紫さまのことばっかりだったからさ、全然他のこと知らないし。もっといろんな人を見て、いろんな人を知るべきだって思ったの。そしたらそのうち私に合う人が出てくるかもしれないじゃない? 今はまだすぐにって気持ちにはなれないけど、その準備期間。だから、とりあえず誘われたら行ってる」
 操は前を向いて進んでいる。俺のように辛いことがあったからと心を閉ざす真似はしない。操の強さだと思う。しかし、俺は素直に喜べない。話し方から、"特定の"相手はいないようでそれだけでも安堵するが――いろんな相手とデートしているとはそれそれで面白い状況ではない。
「ほとんど毎日出かけていると聞いたが、そんなに相手がいるのか」
「……まぁね、私、これでも結構モテるんだよ」 
 へへっと笑って茶化すように告げる。
「そうだろうな。明るいし、気立てもよい。お前を好く男は大勢いるだろう」
 俺は正直に言ったつもりだったが聞いている操の顔が曇る。不愉快そうに眉間に皺を寄せる。
「……私のこと振った相手にそんなこと言われても嫌味にしか聞こえない」
「俺は振ってなどいない、別れたいと言ったのはお前だろう」
「言ったのは私でも、そうさせたのは……ってもういいよ。この話は終わったことでしょ。またそれを蒸し返すの?」
「先に蒸し返したのはお前だろ」
「ああ、そうですね。全部私が悪い。私のせいだよ。用も済んだし帰る」
 言い捨てて操は立ち上がる。俺は慌てた。
「待ってくれ。違う。喧嘩をしたかったわけじゃないんだ。悪かった」
 操は立ち上がったまま俺を見てくる。視線が合う。小柄な操に見上げられることは多いが見下ろされることは滅多とない。あまり見られない角度からの表情は新鮮だったが、のんきに堪能している場合ではない。
「操。まだ終わってない。俺からも話したいことがある。座ってくれ」
 言えば、操は憮然としたままだが席に座ってくれた。
 また、微妙な沈黙。
 操の朗らかな笑顔と、陽気なおしゃべりがないと落ち着かない。だが、それを失わせたのは俺自身だ。
「それでデートだが……好意を持たれたらデートをするのか」
 俺はもう一度、話を戻す。
 操はまだその話を続けるのかと不審げに、
「……そうだね。よっぽど嫌な相手じゃなければ一度はしてみる」
「そうか。」
「うん。そう」
「なら、俺ともしてくれるか」
 言った瞬間、どっと力が抜け緊張していたことを知る。しかし、休まったと思ったらすぐにまた次の緊張がやってくる。デートを申し込んだ。それに対する答えを受けなければならない。一つ安堵したら次の緊張。こんなことを繰り返していればそのうち体はおかしくなるのだろう。動揺する心とは裏腹に冷めた目で自分を見る俺がいる。そいつはやけに辛辣で、やり直して欲しい――と言いたかったのに口を出たのが「デートしてほしい」だったことを情けないと詰ってくる。だが、それを言うのもやっとだった。人を求めることの難しさを生まれて初めて実感する。操はこれをけして愛想の良いとは言えない俺にしてくれていたのかと思えば、自分の態度のそげなさと、操が俺に好かれていないと不満を抱いたのも当然だと思う。
「なんでそんな話になるの?」
 たっぷり(おそらく三分ぐらいはあった)した空白ののち、操のいぶかしむ声がする。
「好意を持たれたらデートすると聞いたからだが」
「……って、そうじゃなくて」
「欲しいと思うものは掴みにいけとも言ったな。そうだろう?」
「確かに、言ったけど」
「だからそうしている。俺ともデートをしてほしい」
「なにそれ。」
 しかし、操はますますしかめっ面になる。そんな顔されると気弱さが顔を出す。だが、ここで怯むわけにはいかない。
「お前に好意がある。俺とデートしてほしい」
 もう一度言った。
 今度は先程より明白に伝えられたと思う。
「い、いつからそんなことになったの?」
 操はしかめっ面ではなくなったが今度は焦ったような、困ったような顔になり聞かれる。
 だから、俺は言った。
「最初から。」
 最初から。葵屋で出会ったときから。――両親を失い絶望しきった俺に光をもたらしてくれたのは誰でもない操だ。操の人懐っこさに、明るさに、朗らかさに、俺を慕ってくる姿に、とても救われていた。
「最初からなんてそんなわけないじゃん!」
「そんなことある。ただ、気づいたのが最近なだけだ」
 そう。俺は気づかなかった。気づかなくてもよかった。操の方が俺に寄り添ってきてくれたから。それを相応と思い怠慢に過ごしてきた。
 だが――振り返ってみれば俺は操が離れていかないよう行動してきた。口では拒否することを言いながら行動は真逆だった。大学生になり、せっかく一人暮らしを始めたというのに必ず週末は葵屋に戻っていたのも操に会うためだった。その証拠に、操が俺の家を訪れる始めると週末に葵屋に帰ることをやめた。一夜の遊びのあと操が来なくなると気づいたときも、葵屋の看板を汚すわけにいかぬとの理由をたてたが、実際のところは操が来なくなるからやめたにすぎない。大学受験のために一年行かないと言われたときなど、勉強を教えてやるとの名目で俺の方から会いに行った。
 そんなことをしながら、よくまぁその気はないなど思えていたものと今となったら呆れる。
 結局俺は、操に会えなくなることは絶対にしなかった。自覚することを避けてきたが行動が物語っている。俺はずっと操を思ってきた。操が俺の人生からいなくなるような選択はしてこなかった。その背後にあった気持ちが何であったか――ようやく"言葉"になった。
「もっと、詳しく知りたいなら、俺とデートすれば教える」
「なにそれ。交換条件?」
「ああ、そうだ。知りたいだろう?」
 操は知りたいと思うはずだ。きっと。
 じっと俺を見てくる。何かを探るような疑うような視線。そんな風に見られるのも初めてのことだった。これまで操が俺に向けてくれていたのは信頼だった。
「それとも、もう俺はデートしてもらえないほど嫌な男になっているのか」
 俺は操の眼差しを真っ直ぐに受けて告げた。そうだ――と言われてもおかしくない振る舞いをしてきたが、ここで引いてはいけないと頼りない胸中を奮い立たせて見つめ返す。
「わかった。……考えとく」
 しばらくするとぶっきら棒ではあったが返事がある。拒絶ではなかった――しかし期待したものでもない。
「考えるだけか。好意を持たれたらデートすると言ったのはお前だろう」
 嫌と言われなかっただけ感謝するべきかもしれないが、それでも俺は更に続けた。悠長に構えてはいられない。そうしている間に、誰か別の男がひょっこり現れるかもしれない。操はもう俺を一途に思って俺だけを見ているわけではないのだ。強気な態度を不遜ととられる可能性もあったがそれでも言った。
「俺とデートしてほしい」
 執拗に言えば操は顔を顰める。俺の真意を掴みかねているらしい。そして、
「……わかったよ。そんなに言うならしてあげてもいいよ。でも今の言い方じゃダメ。好意があるじゃ、どういう好意かわかんないし。もう一回”ちゃんと”好きって言ってくれたら、してあげる」
 確かに好意という言葉は男女としてのそれなのか、人としての気持ちなのか曖昧だ。きちんとした形の告白を求められる。酷く不愉快げな口ぶりでそこを誤魔化すなと。手厳しいが、言われると最もだった。
 俺はたたずまいを直す。正確に思いを伝えたい。しかし、改まると余計緊張が増していく。これまでしてはこなかったことをする。どう口火を切ればいいか躊躇いは強くあった。それでも、操の顔を見ているとこみ上げてくるものがある。
「好きだ。」
 音にしてしまえばそれまであった緊張が嘘のようにすーっと消えてしまう。ああ、俺は、これを言いたかったのだと感じられて無性に泣きたい気持ちになる。悲しみからでも辛さからでもない。嬉し泣きというものは存在するのだ。人は満たされると泣きたくなる。操から色よい返事が聞けたわけでもないのに、何を浮かれているのだと笑われてもいい。俺が操を好きでいる。その気持ちに安堵していた。それを言葉にできたことが途方もなく嬉しかった。
「好きだ。」
 そして、繰り返す。
 これから、何度だって。
「お前が、好きだ。」
 ずっと。操が俺を思ってくれていた年月と同じだけ。そして今も。とても――とても好きでいる。



◇◆◇



 日曜日。葵屋の勝手口の傍に立っていると中から会話が聞こえる。
「操、それはいいから早く支度しなさい。若をお待たせするんじゃありません」
 操の母・洋子さんだ。
「どうしてよ。いつもは手伝ったなら最後までしなさいって言うじゃない。約束の時間にはまだ早いの。勝手に先に来て待ってるんだから、待たせておけばいいじゃん」
 それに憤る操の声。以前であれば言わなかったようなことを言う。
「そんなこと言って、愛想つかされても知らないからね」
 筒抜けのやりとりに苦笑いが浮かぶ。
 あの告白の後、元鞘に戻れるのではないかとひそやかに楽観したがそんなにうまくはいかなかった。せめて合鍵は持っていてほしいと言ったが(付き合うことになる以前から持ってくれていたわけだし)それも拒否される。俺は泣く泣く持ち帰った。
 そして、現在――操の恋人候補の一人としてアプローチ中の立場にいる。俺はそのことを周知させた。これまでのようにこそこそするのではなく、操に俺がいかに真剣な気持ちかを伝えるためにとしたことだが――みな、驚いた。操が俺を追いかけていると思われていたから、いつのまに立場が逆転してしまったのかと興味津々に聞かれた。俺は話しても構わなかったが怒り狂う操に止められる。
「余計なこと言わないでよ!」
「別に隠すことはないだろう」
「べらべら話したら、みんなにいろいろ言われて、付き合わないわけにいかなくなるじゃん!」
「それなら付き合えばいいだろう」
「イヤ。今度はちゃんとじっくりいろんな人を見て、自分に合う人と付き合うって決めてるんだから」
 操を意固地にさせる結果に終わる。だが、それもよくよく考えれば頷ける。操は俺とのことを誰にも言わなかった。周りを巻き込んで味方をしてもらう――操はそうしたいと思いながら実行に移さなかったと言っていたが俺はそれをした。禁じ手を犯してしまったのだと言ってから気付いたが文字通り後の祭りだ。誠実さを示すためだと思ったが真逆の効果になるとは。
 しかし、そうは言うが操は毎週末俺と会ってくれている。他の男とデートしている様子はない。事実上、付き合っているような状態ではあった。
「もう、わかったよ。行くよ。行けばいいんでしょ。夕食前には戻るから。行ってきます」
 操と洋子さんのやりとりは洋子さんに軍配があがったらしい(俺としては両親が後押ししてくれるのはありがたい限りだ)。少しして、操が勝手口から出てくる。 
「操。」俺は名を呼ぶ。
 時間より早く出てきてくれたのはいいが、あまり嬉しくないことも聞かされた。
「夕食も一緒に食べるのではないのか」
「昼食を一緒に食べるんだから、夕食は食べないよ」
 デートで二度も食事はしないものなんだよ――とそれはどこで仕入れた情報なのか告げられる。昼を食べて、映画を見て、その後、家でのんびりして夕食を食べようと思っていたのに、その前に帰ると言われると寂しく感じられた。
「夕食に操の手料理が食べたい」俺は口にした。
「どうして私が手料理を作らなくちゃいけないのよ! 付き合ってるわけでもないのに」すぐさま操の反論がある。
 知っている。手料理を作るのは操にとって恋人への振る舞いだ。
「久々に、お前の手料理が食べたい」だが俺は懲りもせず繰り返す。
 操の目を見る。操もまた俺を見上げてくる。不機嫌そうな顔ではあるが、操が俺を見ている。その事実は嬉しいものであった。
 しばし、そうして黙ったまま見つめ合っていたが、やがて操の方が大きなため息を吐き出す。それから、踵を返す。俺の言ったことが気にくわず帰るのかと一瞬ひやりとしたが、勝手口に顔だけを覗かせると、
「お母さーん、やっぱり今日、遅くなるから夕食はいらない!」大きな声で告げた。