2011年読切
記憶鮮明
御庭番衆は耳がいい。夜、静まった空間となれば、かすかな物音でも聞こえてくる。
――泣き声。
丑三つ時。連日続いた任務がようやく終わりを迎え、疲れた心身を休めようと早めに床についたせいか、半端な時間に目が覚めた。否、起こされたのか。耳に届くそれに。
どうやら幼子が泣いているらしい。
隠密御庭番衆の屋敷に幼子の泣き声とは奇妙である。この屋敷には選び抜かれた隠密しかいないはずであったが。
――そういえば、御頭が孫娘を引きとっていたな。
数日前、告げられたことを蒼紫は思い出す。
おそらくこの泣き声はその幼子であろう。
声のする場所を探れば、中庭だ。周囲を伺えど他に人の気配はない。それとも御頭がついているのか。御頭ならば気配を消すことなど容易い。このような時間、幼子が一人きりというのは妙だ。御頭が傍にいると考えるのが妥当だろう。そう結論付けて、自分には関係がないとばかりに再び目を閉じる。
だが、半刻ほど経過しても、その声は止まなかった。
――御頭は傍におられぬのか。
今宵は、屋敷にいるはずだ。それとも急な任務で出向くことになったのだろうか。そうであったら誰かに幼子のことを頼んでいくだろう。それが――何かよくないことが起きているのか。流石におかしいと感じ部屋を出て声がする方へ向かった。
足音を立てずに暗闇を進む。
角を曲がり、しばし行くと庭が見える。途端に視界が開く。
月の光がさんざめくように降り注ぎ、夜が青く輝いていた。満月が昇っている。闇に慣れた目には、一際まばゆく感じられ、目を細める。
むやみに明るい、その中央に、うずくまっている小さな姿。
両手で目を押さえ、泣き伏せている。
『月になど、帰りたくない』
言って涙する姫君の物語を、遥か昔に読んだ記憶が蘇る。蒼紫の視界に映るのは、年の頃、三つか、四つの幼子であったが、帝さえも魅せられた美しい姫君の伽話が浮かぶ。そのような自分を普段の蒼紫ならば滑稽に思うはずが、この時ばかりは違った。目が覚めたと思っていたが、実はまだ夢を見ているのか。幻想的な光景に魅せられた。
目覚めて、蒼紫は珍しく笑った。懐かしい夢を見たからである。
操と初めて会った時のこと――それを夢に見るのは久しい。
蒼紫の過去は、血の匂いを伴う。柔らかなものはほぼない。操との思い出だけが唯一、懐かしめる優しいものである。それ故、過度の緊張状態が続くと、慰めなのか、操のことを夢に見ることがあった。
だがそれも、葵屋に戻ってからはない。以前とは比べ物にならぬほど平穏で凡庸な日々の中で、研ぎ澄まされた神経を緩める必要もなくなり、過去の夢もすっかり見なくなっていた。それが――。
今ほどの時期であったから、秋風の匂いに誘われ思い出してしまったのか。
そうであろうと得心し、蒼紫はひとたび笑った。かように気分のいい目覚めならば、毎日でも願いたいとひそやかに思い微笑した。
話は、それで終わるはずだった。
蒼紫一人の胸の中で。
ところが。
「私と蒼紫さまが出会たときのこと、覚えてます?」
女学校から帰ると、真っ直ぐ蒼紫の部屋に向かい、その日の報告をする。操の日課だ。と、いっても、平和な日常である。内容にたいして変化はない。それでも欠かさず話しに行く。
蒼紫もまた、それを黙って聞く。静かな空間を好むが、操のおしゃべりを疎んじたことはない。操が返事を求めないからだろう。気が済むまで一人で話して去っていく。本人、それで満足らしい。聞いておればよいだけなら、苦痛ではなかった。何より、操の軽やかな声は心地よい。悪くない時間と思っていた。
しかし――この様子を面白がる人物がいる。翁だ。「逐一動向を報告させるとは、案外嫉妬深い男じゃな」と蒼紫をからかう。何をどうしたらそのような発想になるのか。俺が望んでさせているわけでもあるまいに。と蒼紫は思うが、反論すれば更に執拗になるとばかりに、肯定も否定もせずにいる。その読みは正しく、翁はからかいがいがない男だと述べた。
本日も女学校から戻ると、操は蒼紫の元を訪れ、いつもの報告が始まる。と、思いきや、大きな目でじっと蒼紫を見て言ったのだ。真剣な顔つきだった。
「唐突だな」
と、返せば、
「そうですか? だって気になるじゃないですか」
まるで第三者の噂話をするような物言いだと蒼紫は感じた。出会いは操の物心がつくかつかないかの頃。覚えていないのは無理ないし、さすればこのようになるのか。
それにしても、何故、出会いなど聞きたがるのか。今朝の夢のことがある。あのような夢を見た後で、このような質問をされるとは。
黙ったままでいれば
「運命の人との出会いは鮮明に覚えているらしいんですよ」
女学校の同級生たちは、卒業とともに祝言を上げる者も多い。かくいう操もその一人だ。決まったのはつい最近であるが。それで、嫁ぎ先の決まった娘同士が、相手がどういう人であるかという話をはじめた。皆がどのような相手に嫁ぐのか。操も興味を持ち聞いていた。すると、そのうちの一人が「運命の人とは出会った時のことを鮮明に覚えているんですって」と言い、自分と将来の取り交わしをした相手との出会いを詳細に話しだしたとか。それに触発されたのか、他の娘たちも負けじと口にしはじめる。だが、操は言えなかった。蒼紫と出会った日のことをまるで覚えていない。幼かったのだから仕方ないが、なんとなく悲しくなり、自分が覚えていなくても、蒼紫が覚えているかもしれない。そうであるなら、自分たちは運命の相手といえるのではないか。と考え今に至る。
事情を知り、蒼紫は唐突な問いの謎を理解したが、
「それを聞いて、どうしたいのだ」
望んだ答えではなく、問い返されて、操はきょとんとした。
「どうしたいって?」
「覚えていないと言えば、運命の相手ではないということになる。さすれば、俺との縁談をとりやめて、運命の相手とやらを探すのか」
「そんなわけないじゃないですか! 私は蒼紫さまと夫婦になるんです!!」
すかさず返ってくる言葉。現実主義が徹底された御庭番衆である。その中で育った操も同様だ。そこまで「運命」という神秘的な力に魅せられているわけではない。運命でなかったとしても、そのようなものかなぐり捨てて、蒼紫の傍にいる気合いはある。ただ、年頃の娘が恋心に抱く夢というものもあるわけで……。
だが、蒼紫は操の返事にうなずくと、
「ならば、聞く必要はないだろう」
とにべもない。無駄話を好まない蒼紫らしい答えではあったが、かように一刀両断されれば寂しくなるというもの。操はわかりやすくふてくされた。
「蒼紫さまも、覚えてないんですね」
だから、言えないんでしょう。と詰め寄ってみる。
「覚えていないなど一言も言っていない」
「じゃあ、覚えているんですか?」
それなら教えてください。と尚も詰め寄る。
しかし、蒼紫の口から発せられたのは、やはり操の望んだものではなく、
「言っても意味はない。俺がここでお前との出会いを話したとして、それが真実かどうか、お前には確認しようがない。嘘か真か。判断できぬ話など意味はないだろう」
言われた意味をすんなりと理解できなかったのか操は眉間に皺を寄せた。それから、二拍ほどのちに
「蒼紫さまは嘘なんてつかないでしょう?」
唇を尖らせながら言った。
「何故そう思う?」
「何故って……嘘をつく理由がないじゃないですか」
――理由か。
操が運命の相手でなければならぬとこだわるのならば、万一覚えてなかったとしても嘘を言っただろう。と蒼紫は考える。他ならぬ操が、それで満足し、自分の傍に留められるならば、嘘の一つや二つ吐くだろうと。その程度の臨機は持ち合わせているつもりである。将来を約束して以降、蒼紫から迷いは消えた。同時に、人並みの独占欲と呼べる感情が生まれた。今更手放す気はない。それくらい、操のことを思っている。
だが、当の本人は考えもつかないらしい。口ぶりからも、蒼紫はいかな場合でも嘘を言うはずがないと信じて疑わないのが見て取れた。それは信頼とも言えるが、蒼紫の操に対する感情があまり伝わっていないとも解釈できる。未だ、操は蒼紫の気持ちを正確にはわかっていないのだろう。蒼紫自身、あからさまな態度や甘言を述べないので、それで分かれというのも酷といえば酷だが。故に、かようなとき、気持ちの相違が浮き彫りになる。けれど、
「そうだな」
蒼紫もまた自分の本音を口にはせず、俺は嘘など言わぬ、という意味合いを返す。すると操は「そうでしょ」とうなずいて、
「それで、私たちの出会いはどんなだったんですか?」
繰り返す問い。期待にわくわくさせる瞳。
話してやれば気が済むのだろう――とはわかる。だが、幼い操を一目見て、御伽噺の姫君のように見えたなど、どの口が言えるものかとも思う。
「機会があればな」
結果、話す気はないと返せば、
「やっぱり覚えていないんですね!」
怒る声。
「覚えていないなど言っていない」
またその言葉を口にすれば、
「なら教えて下さい」
蒼紫の考えなど露ほども理解しない操にせっつかれたが、お得意のだんまりを決め込むことにした。
Copyright(c) asana All rights reserved.