2011年読切

汚れなき人

「あおしさま!」
 夜。深い時間。任務を終えて戻れば、場違いなほど明るい声がする。なにゆえ、起きているのか。いや、それよりも。
「来るな」
 飛びついてこようとする小さな姿に告げた言葉は、思いのほか冷たく響き、操はびりっと体を震わせてその場に立ちつくした。泣きだしそうな顔に、後悔は募るが。
「何故、眠っていない」
 操にではなく、操を追いかけてきた般若に向かって問えば、
「……蒼紫さまの帰りを待つとおっしゃられまして」
 ここのところ忙しく、朝早く屋敷を出て、戻るのも遅い。操と顔を合わせる時間はほとんどない。寂しい思いをさせているのは知っていたが、任務は何よりも優先されるべきものである。仕方ないことと思っていたが、操の方はそう簡単に納得できなかったのだろう。それで、俺の帰りを寝ずに待っていたのはわかったが。
「はんにゃくんは、わるくないの」
 操は、先程の一言に傷ついていたが、それでも般若が自分のせいで叱られていると思い、庇う言葉を述べる。怒るのならば自分を怒れと。その顔は、幼いながらも凛とした気高さがある。
 事情はわかったと、般若に頷けば、小さく一礼して去る。
 操と二人きり。
 じっと俺の顔を見つめたまま動かない。両の拳をぎゅっと握りしめている。泣きだしたいのをこらえているのだろう。
「おそくまでおきていて、ごめんなさい」
 夜更かしをしたことを素直に謝る。
 いつもならば、その頭を撫でてやるところだが、つい先ほど、手を染めてきたばかりの身。血の匂いが濃く、このような状況で操に触れることに躊躇いが強く、否、触れてはいけないと。しかし、操はそのようには解釈しておらず。
「あおしさまは、みさおがきらいなの?」
 声は震えている。
「おそくまでおきてる、わるいこだから、きらいになったの?」
 やがて、堪えきれず、大きな目からぽろりぽろりと零れる滴。拭ってやりたいと思えど、真っ直ぐで美しいそれを、やはり己のような血なまぐさい男が触れてはならぬ気もする。相反する感情がまとまらず、命のあるなしを明暗するような瞬時の決断を、任務ならば出来るのに、今は全く。迷いは大きくなるばかりだったが、
「だから、くるなっていったの?」
「……違う。そうではない」
 絞り出すような声は弱々しく、自分のものだとは到底思えなかった。
「俺は、汚れているから。お前まで汚してしまう」
「あおしさま、どこもよごれてないよ」
 操は涙を拭い、俺の姿を上から下へと眺める。俺が言ったのは外見のことではないが、幼い故に理解は出来ないのだろうと思ったが、
「あおしさまは、きれいなの。みさおには、あおしさまはいつだってきれいなの。だから、みさおはよごれたりしないの」
 それは――どこまでわかって言っているのか判断がつかない。操は俺のしていることを知っているのかいないのか。その目には俺はいかような男に映っているのか。だた、まっさらな瞳で「そばによってもいい?」と問われれば、近寄ってくる小さな身の前に、膝を折るしか。
「あおしさま」
 首に抱きつかれると、菓子のようなまろやかな香り。
「いっしょにねてもいい?」
 とねだられれば、もはや俺に否を言えるはずもなかった。