2011年読切
人身御供
処は葵屋。
大人たちに混ざって男児が一人。しばらく大人しくしていたものの、退屈は我慢の限度を超え、ついに店内を駆け回り始めた。「こら、やめなさい」と母親らしき女が注意するが、聞きわけない。それどころか、運ばれてきたばかりの徳利を持ちあげて駆け出す。さすれば大人が追いかけてくるとのいたずらである。
案の定、「待ちなさい」と迫ってくる。それを面白いとばかりに更に走るが。子どもの体には並々と酒の入った徳利は重く、走れば中身がこぼれ落ちる。それに自らの足を取られ引っ繰り返る。陶器を持ったままこければ、割れてどこを怪我するか。下手をすれば大怪我である。後ろを追っていた女は「きゃぁ」と悲鳴をあげた。しかし。
男児が怪我を負うことはなかった。その前に、現れた男に抱きとめられからである。それは、滅多なことでは店に顔を出さないが、役者も顔負けな色男で、もし見れたならツキがあると、ひそやかに縁起物扱いされている葵屋の若旦那であった。
「す、す、すみません」
女は縮みあがって言った。
噂通り身震いするほどの男前であるから――ではなく、まるで今にも人を殺しかねないような雰囲気に恐怖したのだ。女はぞっとして幾度も幾度も頭を下げた。否、一般人、それも店の客相手に、愛想を振りまくことはなくともそのような態度を蒼紫がとるなど考えられない。確かに無愛想な男ではあるが、心根は優しいし、陰気ではあるが剣呑ではない。蒼紫を知る者なら誰でも不可思議に思うだろう。だが、男児を抱き上げる蒼紫は間違いなく殺気立っていた。
原因は、男児の持っていた徳利である。こける寸で受けとめ、男児に怪我はなかったが、代わりに徳利に入った酒を頭からかぶる羽目になった。肩のあたりまで濡れそぼっている。何も知らぬ者ならば、そのことに激怒しているのかと疑っても仕方がないが。蒼紫は下戸である。つまり酒を浴びて、酔っ払っているのだ。結果、普段は見事に押さえこんでいる感情が解き放たれての不躾なのだが――。
「蒼紫さまが酔っ払っちゃったのはわかったけど、どうして私が呼び戻されるの?」
あと一刻もすれば授業が終了するというのに、店で一番足の速い白尉が操を迎えに来たのだ。とにかく早く帰って来てほしいと言われ、何事かと思えば、蒼紫が酔っ払っていると。そのようなことを聞かされれば、心配するし、早く戻って介抱したいとも思うが、しかし学校にまで呼びに(それも間もなく終わるのに)くるのは大袈裟な気がする。葵屋は料亭だ。酔っぱらいの介抱なら手慣れているはず。それが。人手が足りず、蒼紫の面倒まで見られぬのか。否、それならばそもそも白尉が持ち場を離れる余裕もないはずだ。何故自分を呼びにくるのか。操は皆目理解できなかった。説明を求めるも「とにかく早く店に」と急かされるばかり。
とりあえず店に帰れば事情が分かるかと思い従ったが、店に帰れば帰ったで、今度は待ちかまえていたお増とお近に「とにかく蒼紫さまの部屋に」と急かされる。いつもならば、帰宅してすぐ動きやすい甚平に着がえるので「その前にちょっと着がえてくるよ」と言えば、「そんなのいいから!」と声をそろえて阻まれる。
「何? どういうこと? ちっともわかんないよー」
「百聞は一見にしかずよ!」
「きっと、私たちが言っても信じないから、自分の目で見て」
しかし、その言葉もまた要領を得ない。ただ、のんきな操の背をぐいぐい押しながら「もう操ちゃんだけが頼りなんだから」と言う。流石にこれはおかしいと、余程のことがあったのかと、操はことの重大さをいよいよ認識しはじめたが。
そうしていると、蒼紫の部屋の前に辿りつく。だが。
「そうか。それほど可愛いか」
部屋からは翁の愉快そうな声が聞こえる。それはどう考えても深刻さはなく。操はますます混乱し、チラリと後ろの二人を振り返るが、「入って」と促される。ここまできたら、仕方ない。そうした方が早いと覚悟を決め「入るよー」と声をかけようとすれば、
「ああ、そうだ。操は可愛い」
――へ?
低めの、だがよく響く声は翁のものではない。しかし、知らぬ声ではない。だが、操が知っている人は間違っても言わぬ台詞を述べている。聞き間違いか、空耳であると思われた。しかし。
「幼き頃から可愛かったが」
「今も可愛いか」
「ああ」
「そうか。そうか。ならば、操と夫婦になれるなんぞ、お前は幸せ者じゃな」
「そうだな。俺は果報者だ」
聞こえてくる会話に、操の羞恥は極限に達する。
(なっ、な、な、な、な、な、な――)
「ちょっと、じいや、蒼紫さまに何を言わせてるのよ!」
襖を開けて叫ぶ。翁が蒼紫に無理やり言わせていると――冷静に考えれば、いくら翁が言えと言ったところで蒼紫が言うはずがないのだが。それでも蒼紫自らが発するはずがない台詞であるから、翁が何かしら弱みでも握って言わせているに違いないと操は怒り狂ってそう言った。しかし、真っ赤な顔をして睨みつける操に、
「ようやく帰ったか。遅かったのう。蒼紫が待ちかねておるぞ」
「そんなこと言って、誤魔化されないんだからね! 一体、蒼紫さまにな」「操。」
しかし、全部を言い終える前に、ねじ伏せるような語調。蒼紫である。驚いて見れば、強い眼差しがある。操は金縛りにでもあったように固まる。
「帰ったか」
「あ……はい。ただいま帰りました」
操はますますぎこちなく返す。元々、蒼紫は真っ直ぐに相手を見るが、今日のそれはいつものそれとは違うのだ。強い――というか熱い。まさしく、艶っぽく熱を帯びている。酔っているせいで、このような眼差しになるのだろうか。と、操は考えたが。
「あの、大丈夫? 酔っぱらったって聞いたんですけど」
「酔ってなどおらん」
すかさず否定される。言葉通り、返しはしっかりしていて、酔っているようには見えないけれど。否、いつもと違うのは間違いなく。翁に視線を送れば、首を左右にふる。やはり酔っているらしい。ならばこの場合の「酔ってなどおらん」は相当酔っているということだ。「酔っていない」は本当に素面であるか、或いは自覚できぬほど酔っているか、どちらかの者が言う台詞である。
「……蒼紫さま、横になった方がいいんじゃないですか?」
操は言った。寝て起きれば、酔いが冷める。それぐらい翁たちもわかっているだろうが、何故、そうさせずにいるのか。不思議に思う。もしかして、眠らないと蒼紫が言い張っているのかもしれないが。しかし、
「ああ、そうだな」
意外にも、蒼紫は素直にうなずいた。どうも本人も気分が悪いらしい。ならば早く横になればいいのに、何故そうしないのか。ますます謎が深まる。さすれば、
「だからお前の帰りを待っておった」
真剣な顔つきで蒼紫が言う。
「え? 別に私の帰りを待たなくても……」
どうも会話が噛み合わない。やはり酔っているのだなぁ。と操は実感するが。
「約束したろう」
「約束?」
「なんだ、お前がねだったことなのに忘れたか。俺が屋敷におるときは、一緒に寝ると」
「は?」
何言ってんの? という意味合いを端的に表す言葉であるが、蒼紫に対してそのような発言は流石に。今まで一度たりとも言ったことがなかったが思わずもれる。しかし、予想もしない、出来るはずもないことを言われて、操には自分の発言を省みる余裕はない。その勢いのままに続ける。
「いつ?」
「江戸の屋敷におった頃だ」
「江戸?」
「江戸ではなく、今は東京だが」
江戸の意味がわからないと思ったか、言いなおされる。
「それぐらいわかってるよ! そうじゃなくて、江戸の屋敷にいた頃ってまだ私が子どもだった頃じゃない!?」
「ああ。四つか、五つか。任務に忙しく相手をしてやれずにいたら、眠るときだけでも一緒に寝ると言い出した。聞き分けぬから、約束をした」
蒼紫の話に嘘はなかった。操も覚えている。しかし、一体何年前の話なのか。もう操は小さな子どもではないし、そのような約束を守ってほしいなど思ってはいない。だが、蒼紫は至極当然と、
「思い出したか。約束だ。だからお前が帰ってくるのを待っておった」
そして、さぁ寝るぞ、と操の手を取り引っ張り寄せる。
「ちょ、ちょっと蒼紫さま! そんな約束もういいよ!」
抱きこまれた腕の中でジタバタ暴れて言ってみるが、
「何故?」
と問われる。
「な、何故って、私はもう小さな子どもじゃないんですよ」
「だからどうした」
「だからどうしたって……じいや!」
蒼紫に言っても埒があかぬと、操は翁に助けを求めた。しかし、操の期待とは裏腹に、翁はどこから取り出したかハンカチーフで涙を拭う仕草をしながら、
「お前がいない間、大変じゃったんじゃ。操はおらんのかと、殺気立ったまま店内を探しまわって、営業妨害甚だしく、あまつ、外に出ようとしてな。お前を呼びに行かせるから部屋におれとどうにか留めさせたが。それから永遠とお前の惚気話じゃ。……しかし、よかったのぉ、操。お前は、思う以上に蒼紫に好かれておるようじゃ。夫婦になると決めてからも、これまでと少しも変わらん様子に心配しとったんじゃが、お前が可愛くて仕方ないらしい。これで儂も安心というもの。そんなわけじゃ。後はお前が面倒をみてやれ」
「ってどんなわけよ! 助けてよ!」
「無理じゃ。儂とて命が惜しい。お前を引き離そうとすれば、どんな目に遭わされるか」
くわばらくわばら、と両手をこすり合わせたかと思うと、そそくさと部屋を出て行った。
「じいや! じいやって!」
と大声をあげて、後を追おうとするが、操を抱きこむ蒼紫の腕が緩まるはずもなく、それどころか、
「どこへ行く気だ。お前はここにおればよい」
その声音は、どこか甘く聞こえる。嬉しそうである。嬉しそうというか、嬉しいのだろう。このような蒼紫を見ることは初めてで、酔って正体がわからなくなっているとはいえ、ドキリとする。しかし、そんなのんきな状態でもないと操は己を叱咤して、頭をふる活動させ、考える。そうして思いついたのが、
「わ、わ、わかりました。その前に、着替えてきますから」
「着替え?」
「そう。この格好じゃ眠れないでしょ?」
帰宅して、まず着替えると言ったが、それより蒼紫の元へ行けと促されたことが今になって役に立つとは、と操はなんとも言えぬ気持ちになる。だが一時しのぎであれ、これで解放されるだろうと安堵もする。しかし、
「よい」
「え?」
「今日はもう着替えずともよかろう」
「よ、よくない!!!」
しかしながら、そんな反論は一切聞き入れられなかった。
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