2012年読切
敗北宣言
深夜過ぎ。各部屋から寝息が聞こえる時間帯であるが、一部屋からは場違いな笑い声がする。本人も気を使ってこらえようとしているが、それでも我慢ならないと声をたてて笑う。さすれば、
「操。」
咎めるような低い声。蒼紫は操の首筋に顔をうずめていたが離れた。その表情は心なしか不機嫌そうに見えて操は僅かに申し訳なく思えど、
「だってくすぐったいよ」
サラリと言ってのけた。
今、二人は蒼紫の部屋にいる。
料亭である葵屋の仕事終わりは遅い。そこから夕餉をとり、団欒し、風呂に入れば午前様である。明日のことを考えれば眠るのがよいように思われるが、操は蒼紫の元へ向かう。読書家の蒼紫は起きていて姿勢正しく書物を読みふけっているがその邪魔――いやいや、おやすみの挨拶である。一日の終わりを愛しい人の顔を見て終えたい。そういう乙女心からの行動だったが。
しばらく前であれば「夜の遅い時間に娘が男のところへ来るものではない」と保護者らしい台詞を吐いていた蒼紫であるが(そうはいっても結局は操のおしゃべりに付き合ってくれてはいたが)、今はそのようなことはなく"歓迎"してくれる。しかし、その"歓迎"が操としてはあまり嬉しくない。――否、嬉しくないわけではないが、それよりも照れてしまう。それ故に、"そうなる"前に挨拶だけして部屋に戻ろうとするが。まぁ、逃がしてくれるはずがない。操がどう足掻こうが勝てる相手ではなく全敗中だ。ならばやめればいいものを、勝気な操の闘争心に火がついて「今日こそ絶対逃げてやる!」と逆に挑んでしまう。それもまた蒼紫の術中かもしれぬと、翁あたりは高笑いするだろう。
とにもかくにも、そんなわけで、恋人同士となった二人の攻防戦は続いている。
今日も例外ではなく。
蒼紫の部屋を訪れた操はあっけなく捕まり、現在蒼紫の膝の上に乗せられていた。
それからは蒼紫主導の元、いろいろと。
最初の頃は羞恥から反抗していた操であったが、近頃は口づけを受けることには慣れた。唇も、額も、瞼も、頬も。蒼紫の形のよい唇が触れてくることを心地よいと感じる程度には慣らされてはいた。
本日もそれを大人しく受ける。
無抵抗に身を任せてくる姿はしっとりとしていて、普段の操とはまた違った雰囲気がある。やんちゃな子猫が自分だけに見せる一面は一際愛くるしいのと同じで、操のそれも蒼紫にとってはようやくここまで慣らしたと格別の喜びがある。
そこで、である。随分慣れてきたので、では先に進むかと。蒼紫は考え、もう少し下、ひんやりとした感触が操の首筋に落ちた。すると操はたちまちにいつもの陽気さに戻り笑ったのである。
くずぐったいと、操の反論に蒼紫は憮然としたまま何も言わない。
雰囲気をぶち壊したわけであるから、当然と言えばそうであるが操は納得いかない。
「仕方ないじゃん。首筋に触れられたらくすぐったくなるよ。蒼紫さまだって絶対笑う」
言うと、操は蒼紫の首筋に抱きつく。百聞は一見にしかずということらしいが。
操は幼子のように抱きついてくることはあれど、男女のそれとして蒼紫に何かをしたことはない。口では色々言うが、実情は非常に照れ屋なのだ。それが。予想外のことに蒼紫はいくばくか驚いた。最も、操としては自分の主張が正しいことを証明するのに忙しく、その大胆さにあまり気付いていないらしいけれど。
先程、蒼紫がしていたことを見よう見真似で返してくる。
だが不慣れな者のする行為というのはぎこちない。平たく言えば下手である。そのようにされても何も感じない――とならないのが不思議ところである。巧くなくとも惚れた女であれば話は違ってくる。操のつたない口づけは、しかし強靭なはずの蒼紫の自制心をぐらぐらと揺らした。これまで相手にしてきた屈強な連中の前では少しも崩れることなかった冷静さがあっけなく。
――抱きたい。
ふっと直情的な思いがわきあがる。
ゆっくりと時間をかけて進めている。大事にしたいとも思っている。それが。
自分はどうかしているなと蒼紫から熱っぽい吐息と共に笑みが漏れた。すると、
「ほら! 今笑ったでしょ!」
ぱっと操が動きをとめて見上げてくる。嬉しげに、そらみたことかと――その顔には一切の色欲などなく、どこまでも無垢なままである。これだけ人をその気にさせておきながら、当の本人のにその気の"そ"の字もないなど、
「……お前にはまいった」
蒼紫から敗北宣言が。さすればその正確な意味を理解することなく
「そうでしょ。やっぱり笑っちゃうでしょ」
操は更に嬉しげに笑った。
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