2012年読切

言葉なくとも

「なんや、帰りますん?」
 寄り合いは終わったが、流れで呑みに行く話が出る。下戸の俺は暇するつもりで帰り支度をしていた。そこへ呉服屋の若旦那から声がかかる。
 何事にも適齢期というものがある。婚儀もその一つであり、同じ年頃に妻を娶り、同じ頃に子どもが生まれ、同じ頃に親から子へ代替わりする。結果、今現在寄り合いに出ている者はみな似たり寄ったりの年齢だ。幼い頃から一緒に育ってきたせいか商売敵、競合相手、という面よりも仲間意識の方が強い。一つ、二つ上の世代とは異なり、明治を迎えてしばらくの平穏な時世も手伝って、平和惚けしているとも言える。苦労して店を築いたわけではない分、野心がないのだろう。代わりにおおらかで気のよい連中だった。突然、葵屋の若旦那へ納まった俺に対しても友好的だ。
「せっかくやし、行きましょうや。四乃森さんが一緒やと芸妓の”さーびす”がようなりますし。たまには羽目外しも大事ですよ」
 引き留めにあう。俺のような無愛想な男が一緒に行けば場の空気を悪くするだけだと思うが、人の良い男はにこにことして告げる。なんと断ろうか思案していれば、
「あかん、あかん。この人は行かんよ。可愛い人が帰りを待ってますもんなぁ」
 俺が口を開く前に代わりに答えたのは米問屋の若旦那だ。葵屋の米はここから仕入れている。
「可愛い人? 真面目そうな人やと思ってましたのに、そないな人がいますんかいな。ひゃー隅に置けませんな」
 されば、呉服屋が驚く。何かを誤解されているのはわかるが。
「ちゃうちゃう。これちゃうからな」またしても俺が話す前に米問屋が小指を立てながら答えた。「女は女でも嫁さんのことや、四乃森さんとこは"らぶらぶ"ですからねぇ。出掛けるときはいっつもお見送りやで。それも嫁さん、姿が見えんなるまでずっと手振ってるねん。それがまたなんともいわれへん、まるで今生の別れでもするんかいなってな寂しげな顔でな。ちょっと寄り合い行くだけやで? それが、わずかでも離れてるんが寂しゅうて仕方ない様子でなぁ。あんな顔されたら、俺やったらもうどこも行かんとずっと一緒におるな」
 否、操とはまだ祝言を挙げてはいない。厳密に言うならば妻ではなく許嫁だ。
「ほぉ、惚れられてるんや。俺なんて、お見送りなんてされたことないで。なんやったら、こっちが見送りしてるぐらいやのになぁ。四乃森さんは果報者やなぁ。そら、お座敷遊びなんぞしとる場合やないな。はよ帰って嫁さん可愛がる方がええわ。えらい無粋なことしましたなぁ」
 俺が一言も発しないうちに、呉服屋と米問屋とで話がつき、最後は「ほら、早く帰ったりなはれ」とひやかされた。

 店に戻ると忙しさも一息つく頃合いで、部屋に戻り着替え終わると操が茶を持って入ってきた。
「おかえりなさい。疲れたでしょう」
 嬉しげな顔をして傍に座り盆に乗せた湯飲みと茶菓子を机に移す。甘い物は疲れによい。人と接するのが苦手な俺への労いだ。
「今日は早く終わったんだね」
「ああ、他の者は呑みに行っているようだが」
「……蒼紫さまは行かなくてよかったの?」
 仲間はずれにでもされているのかと心配げな表情だ。そんな幼子ではないのだからと思うが。
「行った方が良かったか。俺が酒の席に出るのは好まぬのではなかったか」
 言えばぷくっと膨れる。
 操の焼き餅には手を焼く。葵屋に身を寄せてから店の仕事を手伝い始めると、客の前にも顔を出すようになる。俺なりに礼儀を持って接すると、それだけで操は悋気を起こす。仕事であるとわかっていても、女性客に親切に振る舞う姿が気にくわない。俺の気持ちが傾くのではないかと不安がる。全くの杞憂であると繰り返すが、理屈ではないらしい。婚約してからは多少治まったが、お座敷遊びに赴くことには今も抵抗がある。
 行けば行ったで心配するし、行かなければ行かないで心配する。いずれにしても心配するのだから困る。
「米問屋の若旦那に早く帰って妻を可愛がってやれと言われてな」
 続ければ操はふくれっつらのままで俺を見る。操の拗ねた顔を実のところそれほど嫌いではなかった。幼い所作だが操のそれは妙な色香が混ざり撫でまわしたい衝動を起こさせる。
「お前が見送る様子を見ていたそうだ。その顔があまりの寂しげだったから、早く帰ってやれとひやかされた」
 みるみると操の顔が赤らんでいく。照れる顔も可愛らしく映る。
 一方で米問屋の発言を反芻させれば徐々に沸き上がってくる感情がある。
「蒼紫さま、あの、」操は何かを告げようとするが、
「次から見送りはするな」我慢ならずそれを遮るように重ねた。
 普通に言ったつもりが思いのほか辛辣に響き場の空気が一瞬で緊張する。操はふくれていたことも照れていたことも忘れて泣き出す手前の頼りない表情になっていた。
「……――ごめんなさい、蒼紫さま。ひやかされて恥ずかしかったよね。そんなつもりじゃなかったのに、ごめんね、怒らないで」
 懇願は、しかし全くの見当違いだ。ひやかされて不快だったのは事実だが、恥ずかしかったからではない。
「そういう意味で言ったのではない」
 操は瞬きもせず俺を凝視している。怒りを解こうと必死さが伝い、辛辣になってしまったことを後悔する。悲しませるつもりはかったのだが。
「操。そうではないのだ」
 本当のことを言うべきなのだろうが、己の抱いていた感情を改めて考えれば言いづらい。俺も大概大人げないと認めざるを得ない内容を、どう話せばよいか。呆れられるのではないかと思えば尚更口が重くなる。
「操。」俺はもう一度を呼んだ。それから正面に座る操の方へにじり寄る。膝頭が触れ合う距離まで詰めると、顔を寄せる。操は相変わらず俺を見つめていた。その眼差しに吸い寄せられるように顔を寄せコツンと額を合わせた。操の体温を感じる。俺は目を閉じると勢いに任せて、
「お前の寂しげな様子を見て、あんな顔されたら自分ならどこにも出掛けないと言われた――そこまで深い意味はないとわかっても不愉快になった。俺は狭量な男だ。お前の寂しげな顔を誰にも見せたくはない。僅かでも余所の男がお前を慰めてやりたい、守ってやりたいと、そう感じるような顔を無防備にさらすな」
 言い終えるといたたまれなさに襲われる。俺は何を言っているのか。操の悋気には参ると言いながら、俺の方がよほど酷い。
 羞恥から目を開けられずにいると、操の両手が俺の首に触れる。
 俺から合わせた額を一旦離し、次は操の方からすり寄るよう再び合わせてくると、
「蒼紫さま、大好き」呼吸するような自然さで呟かれる。
 それは俺の心の奥へ真っ直ぐ降りてくる。感じていた焦燥も、苛立ちも、不安も、蠢いていた何もかもが静まり、残ったのは暖かな安堵感と、途方もない満足感だ。
「操。」愛している――言葉にすればとりこぼしてしまうだろう。到底伝えきれるものではない。それでも触れた額の熱を通して少しでも届くことをひたすら乞う。