2012年読切
秋の夜長
「寂しい。」
操はぽつりとつぶやいた。
ここのところ蒼紫がかまってくれない。紅葉の時期で京都を訪れる者が増えている。旅館や料亭は繁盛期だ。八歳から葵屋で暮らす操も承知しているし、それに伴い若旦那の蒼紫の仕事も増えるのは理解できる。ただ、仕事量が増えると一緒に過ごせる時間は減る。一日の長さは決まっているので仕方ないことだが、かまってもらえないのは寂しい。仕事の邪魔にならないようにと我慢しているが、寂しくてたまらなかった。
左様な気持ちを気の利く男であれば敏感に察知して慰めに優しい言葉の一つでもかけてやるだろう。だが蒼紫は人の心の機微に、とりわけ女心には疎く、職務に邁進してしまえば周りは見えぬ生真面目さで、気づいてくれる様子はない。
さて、どうするか。
操も女子である。自分の些細な変化に気づいて声をかけてほしい――という気持ちはある。だが蒼紫の性格を考えればそれは無謀というもの。それに操自身も素直な性分だ。遠回しな期待をかけるよりは、とその夜、蒼紫の部屋を訪れた。
入ると机に向かっている。帳簿付けか、客人への手紙か。
遠慮がちに傍まで近寄り腰を下ろす。
「少しだけいい?」
「……後でな」
顔を向けてくれることもなく短い一言。
「一分だけでいいから」しかし、操は引き下がらなかった。
蒼紫はやっと操に顔を向ける。これまでも仕事中に声をかけてきたことがあるが「忙しい」と返せば退散する。それが今日は執拗だ。何事かと不審してだが。
「どうした」
操は問いかけには答えず膝歩きで近寄るとぎゅっと首元に抱きついた。
「操?」
やはり操は答えない。ただぎゅうぎゅと強く抱きついて離れず蒼紫は困惑しつつもされるがままにしていた。
操は風呂上りなのだろう。石鹸の清潔な匂いが香る。
そういえばここのところ操とゆっくりと過ごす時間を持たなかった。いつからだろうか。表の舞台に立っての若旦那業は未だに慣れず、忙しくなると意識が集中してしまう。いつから自分はくつろぎの時をとらなくなっていたか蒼紫は思い出せなかった。
一緒の屋敷で暮らし、朝夜の食事を共にとる。毎日顔を見ている。忙殺される日々を過ごす蒼紫にとってはそれで十分であったが、対して幾分余裕のある操は空いた時間にどうしても好きな相手を思ってしまう。
――寂しい思いをさせていたのだな。
ようやくわかり、蒼紫は操の背を抱きしめ返そうとしたが。
「一分経ったね」ぱっと操が体を離す。
ふっと消える温もり。
「じゃあ、私、行くね。お仕事頑張ってね」
宣言通り、操は部屋を去ろうと立ち上がるが――その身がふらりと崩れる。広い胸にもう一度抱きこまれていた。
「まだ経っていない」続いて蒼紫の声がする。
胸元に抱かれ上目づかいに見れば柔らかな視線が降り注ぐ。
蒼紫は操の額に唇をつけた。
「一分経ったら、教える」愛想のない声音だが照れである。
操は嬉しげに微笑んで身を委ねた。
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