2012年読切
紅差し
蒼紫さまはとっても頭がいい。なんでも良く知っているし。だからね、蒼紫さまのすることはきっと間違いないって思うの。思うんだけど――ときどき、どうしても理解できないことをする。それは私がわかんないだけで、何か意味があることなの?
「操。」
低く通る声で名前を呼ばれる。
またか、と思いながら私は逆らうことも出来ず蒼紫さまの方を向いた。正面に端正な顔が。そして、おもむろに取りだされた小さな器。開けると紅が入っている。数日前、知り合いの行商から"もらった"と言っていた真っ赤なそれを薬指で器用にとって私の唇に差す。撫でるように触れる長い指先がこそばゆくて、だけど動くとはみ出してしまうから、じっと耐える。上と下と、両方に、丁寧に紅を引かれる。終わると蒼紫さまは懐紙で赤く染まった自分の指先を拭う。
どんな風になっているんだろう。
真っ赤な紅を差した自分の顔を、私は実は見たことがない。
一番最初に、こうしてもらった時、終わって鏡を見たいと言うと、蒼紫さまは見なくていいって言ったの。意味分かんないでしょ? どうして見ちゃいけないの? そんなに似合ってないのかなぁ。と思うと悲しくなるけど。だけど、ホントに似合ってないなら見て確認して"しょっく"を受けるのも悲しい。蒼紫さまが見なくていいっていうなら、見なくていいかって。もう二度と紅は差すことないんだろうなぁって思ったの。
だけど。
あれから度々、こうして蒼紫さまは私に紅を差すの。
使い終わった懐紙を畳んでくず籠へ捨てると、視線が私に。無表情のまま見つめられる。そうしてしばらくすると、顔が近づいてきて、唇が塞がれる。それはいつもの口づけとは少しばかり違う。触れあって時には私の口内にまで侵入し縦横無尽に動くような。そしたら私は、頭が真っ白になるんだけど。そういうのとは違う。私の唇を食べてしまうの。甘い蜜を吸うみたいに差したばかりの紅を全部持って行ってしまうの。
そんなの意味ないでしょ?
せっかく差した紅が台無しになるのに。すぐにこうしてとっちゃうんなら、差さなきゃいいと思わない?
だからね、私は一度聞いたのよ。これじゃ、紅を差すことないでしょって。もったいないよ。だってそれ高価な物でしょ。とても高いものだって。私、知ってるんだから。もらったなんて嘘。買ったんでしょ。"知り合いの行商さん"が言ってたもの。「あの紅はいかがですか。舶来物の良い品でございましたでしょう。旦那さんは一目見て気にいりはったみたいで、ほんまは他所のご婦人にお売りすることになってましたんやけど、倍額支払うから譲ってほしいと言われましてな。参りましたけど、旦那さんには世話になってますしお譲りしましたんや。まぁ約束通り倍額いただきましたけど。気前のええ方ですなぁ」そう言ってたのよ。そんな高価な物をすぐにとっちゃうのもったいないよ。私に似合ってないなら、無理に使うことないし。似合う人にあげるとか。ああ、でもそれは嫌だなぁ。蒼紫さまが買った紅を他の女の人がするのはちょっと悲しい。……でもそれでもこんな無駄遣いするよりはいいか。うん、やっぱり誰か似合う人にあげてって。
そしたら蒼紫さまは笑うの。
これって笑うところ? 蒼紫さまが笑ってくれるのは嬉しいけど、何かちょっと違うくない?
でも蒼紫さまはとっても楽しそうに笑って、誰にもやらないって言うの。これは私のための物だからって。
それなら、こんな風にすぐにとってしまわないでよって言ったの。でも蒼紫さまはこれでいいって。ちっともよくないよ! って言っても。これでいいんだって繰り返すし。
今日もまた、やっぱり私の唇を食べるような口づけが。
たっぷり時間をかけて与えられたそれが終わり、ゆっくり離れていけば、蒼紫さまの唇が赤く染まっている。それがまた綺麗だったりするから問題なのよ。男の人なのに。だけど蒼紫さまのこんな姿を見れるのは私だけよねって思うとちょっとだけ嬉しかったり。だけど、私よりずっと似合ってるかもしれない。と思うとやっぱり悔しい。だからね、私はわざとふてくされた声で、
「こんなことして楽しい?」
そしたら蒼紫さまは赤い唇のまま見たことないぐらい嬉しそうに、
「ああ。楽しい」
やっぱり蒼紫さまのすることってわかんない。絶対、絶対、変だよ。
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