2012年読切
狂気と光
心中事件が起きたと騒ぎになった。
話しでは見るからに"怪しい"二人だったという。女は色の白い身なりのすっきりとした娘で、所作の優雅さは教育を受けたてきた者とわかる。どこかの良家の令嬢だろう。一方男は痩せ気味でひょろりと背が高く、"将来有望"には見えなかった。不釣り合いな男女。駆け落ちでもしてきたかと噂されていた。
それはさほどに珍しい話ではない。とはいえ溢れた話しでもないが。明治の世になったといえ身分はまだ存在する。禁忌の恋に落ちた二人の逃避行。だがその結末はたいてい悲惨なものとなる。年若い二人が何のつてもなく逃げたとて、暮らしていけようはずがない。"追手"に見つかり連れ戻されるか、心中か。
この二人は死を選んだ。
それも、"無理心中"だという。男が女を刺殺し、己は首を括った。
「いやぁ〜な予感はしてたんですよ。男が女を見る目が尋常ではなかったものですからねぇ。思い詰めたような。だってねぇ、娘さんのこと部屋から一歩も出さないように命じていたようで。ええ、ええ、手水や風呂に行く時には男が着いてくるぐらいで、妙だなぁと思いました。それでも娘さんは男の振る舞いを厭う様子はないようで、従順でございましたけれど。これはちょっとマズいことになるのではないかと、そのような気がしておりました。それが……」
旅館の仲居が仰々しく語る。
惨劇は月の消えた晩に起きた。しかし、隣の部屋に泊まっていた者の証言では争うような物音は一切なかったという。実際、娘の遺体からも抵抗した後は全く見受けられなかった。
「しっかし、わからねぇなぁ。いくら思いあまったって惚れた女を手にかけるなんて」
「まったくだ。女もとんでもねぇ男に惚れられたもんだな」
皆、口々に言った。
「……疲れたか」
見るからにぐったりとしている姿。聞かずとも分かりきっている。それでも聞いたのは後ろめたくあったからだが。
「少し。でも平気」
いつもならば"大丈夫"と言うのに、少し疲れていると返される。つまりは相当疲れているという意味だと解する。無理をさせている自覚はあった。
俺は横になる操のはだけた着物を整えてやる。それから風邪を引いてしまわぬように掛け布団を――と思ったがまだ火照りのある体が落ち着くまでこのままの方が良いかと判断する。
操はされるがまま大人しい。
すべきことを終えて、俺もまたその横に寝そべる。操は仰向けの姿勢から俺の方へ体を倒した。細い指先でそっと俺の頬に。
操から触れてくることはあまりない。俺が操に触れる手に自分の手を重ねてじっと見つめてくるのがお決まりだが、今日は少しばかり様子が違う。否、違うのは俺の方で、操はそれを気にしているのだろう。
「もしかして、知っている人だったの?」
言葉少なだが、誰のことを言われているかはわかる。あの心中した二人。事件を知ってから俺の心を巣食っているものを操は感じている。
「知らぬ者だ」
面識はない。それは本当だ。ただ男の――女を殺害した男の心情を俺はわかる気がした。あの男は追手から逃れられぬと感じて、或いは先の見えぬ現実に絶望して、娘を手にかけたわけではないだろう。娘を思うあまりに、どうにもならなくなった。"部屋から一歩も出るな"と命じて、そうさせているだけでは足りなくなった。されば殺すより他になくなった。
俺はわかると思った。わかると思った自分にぞっとした。
いつか己もこの手にかけるのではないか。少しひねれば折れてしまいそうな細い首。捻り上げればあっけなく。さほど力を要せずとも俺にはそれが可能だろう。
想像して、恐ろしくて仕方なかった。
そうであるのに、未来永劫二度と誰にも奪われることのない事実に酔う心が。
「娘が、哀れに感じてな」
そうだ。哀れだ。勝手な思いで命を奪われる。俺のような男に惚れられて。
「でも、抵抗した痕はなかったって」
しかし、操は変わらず俺の頬に触れながら告げた。
それからしばらく、見つめ合っていたが、
「いいよ。私。蒼紫さまがそうしたいなら、私はいいよ。全部あげるよ。でも、その代わり、蒼紫さまは死んだらダメだよ。私がいなくなってもちゃんと生きていてね。それで、誰か別の人を今度こそ"間違わずに"愛してね。幸せになってね」
何もかも、俺の内にある全てを見透かしたような。
「……俺に他の女を愛せなど、随分酷いことを言うのだな」
「そう? ……うん、そうかも。でも蒼紫さまが"殺すほど愛した女"は私だけにしてね」
「馬鹿を言うな」
「違うの?」
操は笑う。声を出して。笑うような内容ではなかろうと思うが、それでも愉快そうに笑った。俺はそれを見て泣きたい気持ちになった。操は本当に俺に殺されてもよいと――その本気さゆえの楽観であるとわかるから。
その思いが、俺の心の闇を真っ直ぐに照らしていくように感じられ、
「違う。お前は"殺すほど愛した女"などではない。"殺したくなるほど愛している女"だ。勝手に過去の女になるな」
焦がれるあまり激情が押し寄せて、耐えきれず解放を求める弱さが顔を覗かせようとも。永劫の安堵という幻の誘惑に飲み込まれそうになろうとも。過去になどはせぬ。命ある限り、愛していく。
「泣くな」
「……うん」
この想いから逃げたりはすまい。
月明かりが降り注ぐ。今宵は満月。狂気の終幕に静かな光が満ちる。
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