2012年読切

変わりゆくもの

「あら、御頭さん」
 大方の治療が終わり、今日はもう誰も来ないかと思っていたら扉を叩く音がして入ってきたのは四乃森蒼紫だった。恵はさらりと「御頭さん」と声をかけたが、言った瞬間、妙におかしくなった。
 かつてこの男に手酷い目に遭わされた。もう恨んではいないし、あれは自分にも非がなかったわけではない。ただ、このように気安く「御頭さん」など呼ぶようになるとは誰が想像できたろうか。
「すまないが、診てもらえるか」
「ええ、どうぞ」
 椅子に座らせると、蒼紫は左の袖をまくして診せた。腕の部分がみみず腫れしている。
「乱闘騒ぎを起こしてな」
 何があったのかと尋ねる前に告げられる。ただ、それは蒼紫が起こしたわけではなく、操が原因であったが。少なからず蒼紫と因縁のある恵も、蒼紫が"乱闘騒ぎ"を起こすような真似はしないと――相手をやるのであれば人知れず、やられた当人ですらしばらく気付かぬほど鮮やかに事を終わらせるだろうと理解し察した。
「それで、操ちゃんは?」
「送っている」
 数少ない言葉から推察するに、誰かが性質の悪い輩に絡まれている場面にでも出くわし、見かねて間に割って入り、助けた者を家まで送り届けているということだろう。
「それにしても御頭さんが怪我するなんて、なかなかの手だれったのかしら」
「手を出すなと言われていたのでな」
 自分が片をつけるから蒼紫さまは何もしないでね――あの活発な娘がそう言い放ったのは簡単に想像できた。だが、おそらく相手は数人いてそのうちの一人が操の死角から木刀でも振り降ろそうとしたのだろう。それを蒼紫は庇った。手を出すなと言われた手前、防御一辺倒で守ったと。そういうことだろうか。とまで考えて、この男と話しているといらない頭を使うわね、と面倒になる。それでも黙ったままでいるとそれはそれで気づまりを起こすので、
「心配しているでしょう」
 尋ねれば、
「ここへ来るように再三言われた」
 なるほど。一般人にしてみれば大層な怪我だろうが、生傷の絶えない日々を送っていた蒼紫にしてみれば医者にかからずとも己でどうにか出来る程度の腫れだ。それでも診療所へ来た。操が心配するから、仕方なくやってきたらしい。
「……あなたって案外あの子のいいなりなのね」
 少しばかり呆れて返す。それに対して蒼紫は否定も肯定もしない。されば恵は当てられたような気がした。同時に、恵の知る蒼紫からは想像しがたい振る舞いに、気味が悪いような心持ちになる。
 恋は何よりも人を変えるという。
 己でも知らぬうちに、何もかもを変えてしまう。
 どうやらそれは本当らしい。
 ならば自分は? と恵は思う。
 私はどうだろうかと。何か変わったろうか。
――そんなわけ、ないか。
 そもそも自分のそれは"恋"と言ってよいのか躊躇う想いだ。
 第一出会いからして最悪だった。恵のことを"阿片女"と罵り、友だちの敵だと憎んでいた男。自分の作ったもので人の命が奪われることを医者として、否、人として恵自身が辛く感じていたのに正面切って糾弾され心が張り裂けそうだった。たとえ事実であるにせよ、そんな風に言わなくたっていいじゃないと感じた。だが、その人柄を知っていくうちに、歯に衣着せぬ物言いが心地よくなった。気付けば恵もその男にだけは何の遠慮もなく本音をぶちまけるようになっていた。
 だが、それを恋だとは思わなかった。
 当時、恵は緋村剣心を好きでいたからだ。自分を救いだしてくれた人。一人孤独に生きて来た恵を光の元へ連れ帰ってくれた。好きになるなと言う方が難しい。しかしそれは最初から叶わぬ想いだった。剣心の隣には神谷薫という娘がいた。それでも執拗にしがみついたのは怖かったからなのかもしれない。誰かを好きでいることで一人ではないような気がして――恵にとって剣心を思う気持ちはそういう複雑さが含まれたものでもあった。
 しかし、少しずつ、少しずつ、恵は自分の居場所を作っていった。そして、剣心への思いにもけじめをつけて行った。剣心が幸せであってくれればいい。そう思える場所へ己の気持ちを収めることができた。
 その頃からふつふつと恵の日常を賑やかにする男の存在を意識し始める。
 毎日喧嘩に明け暮れて、傷を作っては診療所に来て、ぐだぐだと憎たらしいことを言う。だがそれに恵は救われていた。本当に馬鹿ね。どうしようもないわね。そう言いながら心が軽くなっていた。
 ただ、それは恋ではないと――ずっと否定してきた。今も、完全に認められずにいる。剣心がダメなら、次と、それはあまりにも節操がない気がして、自分の気持ちに素直になることが出来ずにいた。何より、相手は恵のことを小言の多い嫌味な女ぐらいにしか思っていないだろう。ましてや自分の方が随分と年上だ。どう考えても分が悪い。それならば認めない方がよいと逃げ腰になる。だから今もってこれが"恋"であるとは恵は考えていない。それ故に、自分の身には恋によって変化したものなどないと――。
「――に、高荷」
「え?」
 名を呼ばれてはっとなる。考え事に集中してしまい手元がおろそかになっていた。それを不審して目の前に座る蒼紫にじっと見つめられている。
「あ、ごめんなさ――」「なんでぇ、見つめ合って何してんだ?」
 恵の謝罪をかき消すような大声が戸口から聞こえた。
 恵も蒼紫も同時に振り返れば、陽気な声音に反して不機嫌そうな相良左之助が立っている。 
「そんな姿をイタチ娘にでも見られたら大変なことになるぜ」
 そう言うとズカズカと踏み込んできて蒼紫の後ろにある診療台にドカっと座った。それもまた乱暴な態度に見えた。珍しいことだ。左之助は感情表現が豊かな方だが悪感情はそれほど多くは見せない。
 また怪我でもしたのだろうか。痛みを我慢している故の悪態か。しかし見たところ大きな外傷はない。さすれば腹でも空かせているのか。お腹が空いて機嫌を悪くしているなど子どものようだと恵は思った。
 とかく止めていた蒼紫の腕の治療を終わらせねばと、中断していた包帯を全て巻き終える。
「二、三日で腫れは引くと思いますけど、それでもまだ腫れているようでしたらもう一度来てください」
 言い終えた途端、見計らっていたかのようにもう一人来客が。今度は操である。駆けて来たのだろう息が乱れている。
「蒼紫さま! ……あ、お世話になります」
 真っ先に蒼紫の名を呼ぶ辺りが操らしいが、恵にも丁寧に挨拶をする。
「あんまり無理させちゃダメよ」
「……はい」
 恵の忠告に操はしょげている。蒼紫に怪我を負わせたことがかなり堪えているようだ。しかし、それは恵が初めて見る操の姿だった。いつも明るい娘の落ち込む様子はより哀れに感じるがそれは誰よりも蒼紫が抱く感情のようで、「たいしたことはない」と述べた。操はそれを聞いて蒼紫の傍までツカツカ歩みを進めると、そっと包帯の巻かれた腕に触れる。
「ごめんなさい」
「気に病むことはない。お前に怪我がなくてよかった」
 言うや蒼紫は右手で操の頬に触れると長い指先で撫であげる。それはどうやらごくありふれた行為のようで操は動じる風もなく自然と受ける。すかりと二人の世界を築かれて、見ているこちらが恥ずかしいと恵は咳払いをした。
「これは塗り薬と替えの包帯。朝と夜に塗り替えて」
 恵の言葉に二人の世界から戻ってきた操は顔を赤らめた。そして差し出した塗り薬一式を受け取る。片や蒼紫は平然としたまま「世話になった」と立ち上がり治療費を置いて帰って行った。
「人って変われば変わるものよねぇ」
 思わず漏れた呟き。
 それに対して左之助が何か言うかと視線を送るが無言のまま、ただ眼差しだけを返される。
「何よ? どうせお腹でも空いてるんでしょ。まったくあんただけは変わらないわね」
 いつもと違う雰囲気を感じながら、いつもと同じような憎まれ口を叩いてみるが。
「おめぇ、男を見る目なくねぇか?」
「……突然失礼なこと言ってくれるわね」
「けどそうじゃねぇか。なんだっていつもいつも女がいる男を好きになるかねぇ」
「はぁ? ……ってあんた、私が御頭さんを好きだと本気で疑ってんの?」
「だ、だってよぉ、俺の治療する時は傷口しか見ねぇじゃねぇか。俺がいくらお前を見て――あ、いや、そのなんだ、ああ、もうお前ぇ見てぇな鈍感な女は見たことがねぇぜ。毎日毎日こうして来てるっていうのによぉ。いい加減わかれよ!」
 言うや診療所を飛び出していく。
 残された恵は呆然とする。
――何、今の。
 否、それが何を意味するかはわかるのだが。それでも、
――何、あれ。
 そして込み上げてくるのは笑いである。
 恋は人を変えるという。
 何よりも変えてしまう。
 堅物で陰気と見られていた男は堂々と惚気て見せるし、陽気な娘はしょげるし恥じらうし、真っ直ぐ言いたいことをいう男は奥歯に物が挟まったような遠まわしな言葉を告げる。そして人の言動には敏感だとばかり思っていた自分は――。
「とんだ間抜け女になったものだわ。責任、とってもらわなくちゃ」
 こみ上げる笑いを耐えながら、走り去った男を追いかけた。