2012年読切

素直になれなくて、

第一話

「長旅は疲れたじゃろ。ゆっくり休んでくだされ」
 緋村剣心の京都来訪を出迎えて翁は言った。
 気遣ってくれているとはわかるが今回の旅の目的は巴の墓参りとは違う。"一大事"に駆け付けたのだ。まず状況の詳細を聞きたいと気持ちが焦る。
「拙者は疲れてなどござらん故に、お気づかいは無用でござるよ」
 やんわりとした笑顔で告げれば翁は「うむ」と少し考えて奥の間へ剣心を案内した。向き合って座っていれば増髪が茶を運んでくれる。それが終わると入れ替わりのように部屋に入ってくる人物――蒼紫である。視線が合うと軽い会釈を返される。
「それで、操殿は見つかったでござるか」
 いささか不躾ではあったが切り出した。
 操がいなくなった。そちらに行っていないか。
 東京の緋村一家の元へ手紙が届いたのは五日前だ。
 緋村剣心という男は機転が効く。もし操が緋村家を訪れていたならば、それも無断で出て来たと知れば何らかの連絡はしていたろう。それがないということは緋村家にはいないということであった。葵屋の面々もそれぐらいの推測はできたろうが、それでも書いて寄こした。状況は困窮していると伺い知れ、されば薫が「力になってあげて」と背を押し京都まで出向いてきたのである。
 翁は長い髭を弄ぶように触りながら、
「情けないことに何もわからんのじゃ」
 元とはいえ隠密御庭番衆。情報収集力は並ではない。しかしそれを持ってしても何の痕跡も見いだせないらしい。
「あやつも御庭番衆であったのじゃな」
 まだまだ実力不足であると、もっと修行に励まねば一人前の御庭番にはなれんと、冗談半分に煽っていたが、いつのまにやら"追手"に知られぬように隠れる術を身につけ、翁や蒼紫でさえ探し出せぬようになっていた。それをかような形で突き付けられるとは皮肉だった。
「しかし、操殿はなにゆえ葵屋を出たのでござるか」
 剣心は蒼紫を見た。無口な性格とは心得ていたが、部屋に入って来てから石像のように動かず黙ったままだ。異様な雰囲気を曝している。
「それがのぅ、ようわからんのじゃ。あれほど喜んでおったのに――心変わりが起きたとしか」
 翁の言葉に蒼紫は目を閉じた。表情は変わらずにいたが剣心は見ていられぬ気になって視線を翁に戻す。
 操がいなくなったとの手紙が届いた日より更に十日前。操から薫宛てに手紙が届いた。
 蒼紫さまと夫婦になることになった。祝言は夏に挙げる。薫さんにも是非来てほしい。
 太陽を思わせる溌剌とした操の笑みが浮かんでくる知らせであった。
 やっと四乃森さんも腹を決めたのね。随分かかったわねぇと薫は小言めいたことを口にしつつも嬉しげだった。姉妹のように仲良くしている操の長い長い恋がようやく実ったのだ。まだ剣路が小さいのでここしばらくは手紙のやりとりのみで会えていない。ちょっと無理をしても祝言には行きたい。操ちゃんも巴さんのお墓参りを兼ねられるようにお盆の近くに祝言を挙げるって書いてくれてるわ。これはもう何が何でも行かなきゃね。いいでしょ?――問いかけの形はとっていたが、もう行くと決めてしまっている。薫の様子に剣心は止めることも出来ず頷いた。
 しかし、操はいなくなった。
 "私は葵屋を出ます。お世話になりました。皆さまの息災をお祈りしております。"
 短い書き置きを一つ残して。
 わずかの期間に操の心に何が起きたのか。誰にも告げずに姿をくらましたのだ。




第二話

 町並みを朱に染めて沈みゆく太陽の方角へ向かい高荷恵は歩みを進めていた。
 通ってきた道は段々と夜の帳が降りていく。まるで闇を引き連れて歩いているようだ。こんな時、過去のことが思い出され恵の心は憂えた。生きるために仕方なかったと言い訳しても、医者である身で阿片作りの片棒を担いだ事実はいつまでも心根深くから消えない。嘆いたところで時間は戻らないなら未来を見つめこの手で救える命を救う。罪滅ぼしというのもおこがましいがそうやって生きることを選んだ。それでも時折こうして記憶を巡らせて悔いる。
「よぅ、ねぇちゃん。一人かい。俺と遊ばねぇか」
 気塞ぎになりながら先を進めば物陰から男が現れる。
 弱り目に祟り目とでもいうか、気持ちの落ち込みはよくない出来事を呼びこんでしまうのか。明治の世になってもこういう輩は後を絶たない。
「悪いけど、あなたでは力不足だわ」
 強気な台詞が口を出るが内心はどう逃れようか考えている。通りには人はまばらでありすれ違う人は皆関わりたくないと距離を置いている。助けを求められそうな人はいない。
 この道をしばらく進み左に折れて少し行けば泊っている宿がある。そこへ駆けこめばどうにかなるだろう。相手は幸いにも一人だが手にした荷が重く逃げきれるか際どいところだが方法は他にない。
 それにしたってどうして度々このような輩に目をつけられるのか。
 美人は損ね――人前では強がってみせるが本音では自分の何かがよくないものを呼ぶのかもしれない。やはり闇を引き連れているから悪しき者を呼びよせるのだろうかと憂鬱さを増させる。
「気の強い女は嫌いじゃないぜ」
 男の手が伸びてくる。走り去るなら今だ――けれど、
「うげぇ」
 ヒキカエルを踏みつぶしたような呻き声とともに男が後ろへ倒れた。
 同時にストンと恵の前に着地したのは小柄な娘。
「大の男が、女を力でどうにかしようなんて呆れるわ。情けない」
 倒れて伸びている男は気を失っていてピクリとも動かないので言葉は届いていないだろう。それでも言わずにはいられなかったのか怒り心頭の声が飛ぶ。
 恵は呆気にとられていた。
 助けてくれたのが少女と言っても差し障りないような幼さの残る娘だったことに――というよりもその娘に見覚えがある気がしたからだ。恵に背を向けた状態だが立ち居振る舞いからどう考えても知った娘である。しかし、ここは"長崎"でありいるはずない。他人の空似だろうか。身動き出来ずにじっと見つめていると娘が振り返る。
「大丈夫ですか――え」
 姿は逆光になっていて恵から娘の顔の識別はしづらかったが、「恵さん。どうしてここに」と自分を知る台詞を述べたことで確信する。
「操ちゃんこそどうして」
 それは間違いなく、巻町操であった。

 とび蹴りをくらわした男が目覚めるて厄介なことになるのは面倒だと、とりあえず恵の泊まる宿に向かって歩くが操はそわそわと落ち着きがない。会津にいるはずの恵と京都にいるはずの操が長崎で再会する。人の縁とは面白い――恵は感心するが操の方はどうもそうではないらしい。助けた相手が恵と知ると分かりやすく動揺している。人懐っこい性格の操が久方ぶりに会った恵に他人行儀な態度をとるなど何かあるとわかる。
「せっかくだからお茶でもしましょうよ。それとも急いでる? 御頭さんが心配するかしら?」
 カマをかけてみれば"御頭さん"という言葉に操の顔色が青くなる。蒼紫のことを盲目的に慕っていたはずがかような反応を示すとはただ事ではない。
「……あの、私と会ったことは誰にも言わないください」
 これまた突飛なことを言う。
「悪いけど事情がわからない以上、約束は出来ないわ」
 操はぐっと下唇を噛んだ。
 なんだか苛めているような気持ちになる。
「仕方ないわねぇ。助けてもらった恩もあるし聞いてあげるから話してみなさいよ。事と次第によっては味方してあげるわよ」
 恵の申し出に操は躊躇っている様子であったがそれでも最後は頷いた。

「お腹すいたわねぇ。先に夕飯を食べに行きましょうか」
 宿に戻り手に持っていた医療器具の入った鞄を置くと恵は言った。
 長崎を訪れているのは蘭学の勉強のためだ。医療は日々進化している。鎖国をとりやめた利点の一つは医療技術の飛躍的な発展だ。今回、有名な蘭法医が来日するということで講義を聞くために長崎に医療従事者が集まっている。恵もそのうちの一人で、知人の医師に誘われて決めたのだ。ところが――出発の日になってその医師が熱を出して倒れた。医者の不養生とはよくいったものだ。されば恵も行くのをやめようかと考えたが、最先端の技術を学べる機会はそれほど多くはない。これが国と為、会津に暮らす人の為になると後押しされ一人でやってきた。
 しかし、女の医師というのはやはり珍しく――おまけに美人で有能とくれば――目立つ。知人の医師が共にいてくれれば幾分和らいだかもしれぬが、嫉妬や欲望が混ざり合った嫌な視線が講義中も送られ恵を襲う。女だてらに医術など――そのようなこと言われ慣れているが、こうも連日続けば流石に疲弊する。そこへ先程のような素行の悪そうな男に絡まれてはどっと疲れが出るというもの。せめて美味しいものを食べて空腹を満たせば少しはましになると考えたが。
「あの、私やっぱり帰ります」 
 操は思いつめた顔で言った。
「帰るってどこへ? 京都? そうじゃないなら話を聞くまで帰せないわよ」
 尋ね返せば操はうっと言葉を詰まらせる。
「……そうです。京都に帰ります」
「あのねぇ、そんな下手な嘘を誰が信じるっていうの。いいわよ。行きたければ行っても。ただし私は葵屋の人たちに『操ちゃんは長崎にいます』って手紙を書くわ」
「それは困る!」
「どうして困るの? 何があったの?」
 質問に操は黙る。
「……逃げてたって何もいいことないわよ。いつもビクビクして生きなくちゃならない。それがどれほど辛いことか、あなたわかってる?」
 日の当らない場所を次から次へと流れて行く。見つからないかと心は落ち着かず、生きているのが辛く一層死んでしまえば楽になるのではと考えた過去が恵にはあった。そのような生活を操に――否、どんな者にもして欲しくはない。
 恵の言葉に操の瞳が揺れる。
「あなたを思ってくれている人を心配させて逃げるなんて、そんなことして誰も幸せにはなれないじゃない」
「でも――でも、私がいたら蒼紫さまが無理をするから、だからこうするしか」
 操の目には涙が浮かんでいる。生半可な気持ちではなく切羽詰まった思いで行動を起こしたと知れて、少しばかり厳しい物言いをしてしまったかと思った。しかし、"私がいたら蒼紫さまが無理をする"というのはどういう意味なのか。やはりこれはじっくり話を聞く必要がある。
 恵はもう一度話すように促す。
 本音では誰かに聞いてもらいたかったのか。わずかながらも感情を出したことで操は頑なさを緩ませて、ゆっくりとであるが事の顛末を話し始めた。



 四乃森蒼紫との婚儀が決まった。
 操にとって何よりも嬉しいことであり、この世の幸せを一人占めしたような心持ちだった。
 祝言は夏に行う予定だ。操の希望である。盆の頃に挙げれば懇意にしている緋村一家も墓参りを兼ねて京都に来られるだろうとの考えだ。すぐさま手紙で知らせればまたすぐに薫からも二つ返事をもらった。
 祭りを指折り数えて待つように、祝言の日を毎日楽しみにしながら準備に追われた。
 ところが――話が決まって八日目のこと。
 操は翁に頼まれた使いの帰りに一人の女に声を掛けられる。
 化粧はしておらず素顔だったが振る舞いから芸妓であることがわかった。されどそのような知り合いに覚えはない。何の用だろうと不可思議に思っていると芸妓はじろじろと不躾な眼差しを操に送る。
「あんたさんが、葵屋の娘さんなんやて。なるほど。翁さんが頼みこんで嫁にもらってほしいと頭下げたんわかりますわ」
 言い放たれた言葉は悪意が込められている。ただ、何故そのような感情を向けられるのかはわからないし、言われている内容も理解できない。
「どういうことですか?」
「あら、やはりご存じありませんでした? 若旦那さんと祝言を挙げることになりはりましたやろ。あれは翁さんが『年老いた儂の最後の願いを叶えて欲しい』と若旦那さんに頭を下げはったからなんよ。それで若旦那さんはよう断らんと、店を継ぐことと引き換えに婚儀を決めはったんです」
「――嘘だ」
「嘘? なんでうちが嘘なんていいますのん。あんたさんかておかしい思いませんでした? だって……こんなん言うて気悪されたら嫌やけど、あんたさんみたいな子どもっぽいお人を若旦那さんが好くと思われますか? 若旦那さんはうちらみたいな女らしゅう女子が好きですのや。そやけど、翁さんには世話なっとりますしねぇ、断ることができませんでしたのやろ。そやけどなぁ、祝言が挙げるだけが男女の関わりやありませんし、ほんまに好いた女とは外で所帯もつことも出来ますからねぇ。それも男の甲斐性ですし」
「……蒼紫さまはそんなことしない!」
「あらまぁ、ほんまにお子さまやねぇ。若旦那さんのことなんも知りはらへんようやわ。このことも知らんかったみたいやし、ほんまのことは教えてもらわれへんのやねぇ。可哀相やわぁ。うちも言わんとった方がよかったかしら? そやけど、何も知らんで浮かれてる姿はそれはそれで痛々しいですやろ? そやからお伝えしときたくて」
 芸妓は言いたいことだけ言うとさっさと去って行った。
 残された操は呆然と立ち尽くす。
 そんなの嘘だ。じいやに頼まれたから私との婚儀を決めたなんてそんなの――だが、告げられた言葉が操の心を貫いて消えてくれない。 
 そして考えれば考えるほど奇妙なことに気付く。
 婚儀の件を翁から聞かされた。夫婦になろうと蒼紫からは一言もない。嬉しさに浮かれていたが、当人から何も言われないなどおかしくはないか。それはつまり芸妓の言うように頼まれて仕方なく操を娶ることにしたが望んだものではないので言いたくないと。
――ほんとうのことは教えてもらえない。
 その言葉もまた操を嬲る。
『お前はまだまだ半人前だ』
 度々言われてきたが操は「私はもう立派な娘よ!」とはね退けてきた。しかし未だに重要な話し合いには入れてはもらえない。今回もまた、操の知らぬところで全てが決められたのかと。
――だけど、そんな風にして夫婦になったってちっとも嬉しくないよ!
 何も知らず喜んで浮かれていたことが急激に恥ずかしくなる。その姿は周囲の人々の目にいかように映ったろうか。芸妓の言うように"痛々しく"見ていたろうか。
――恥ずかしい。
 されば矢も楯もたまらず、もうここにはいられないと操は葵屋を出ることを決めた。


 
「操ちゃんの気持ちはよくわかったわ」
 話を聞き終えて恵は言った。
――だけど、少し早まった真似をしたわね。
 心の中で呟く。
 芸妓の行動は奇妙だ。
 医者もそうだが、芸妓にも守秘義務があるはず。話が本当であったにせよ、翁や蒼紫が芸妓にそのような重大な秘密を打ち明けるとは考えにくく、知る機会があるとすればお座敷で話しているところを聞いたのだろう。されば己の仕事場で見聞きしたことは他言せぬとの決まりを破って操に言いに来たことになる。不作法な芸妓と言える。そのような女の言うことを真に受けず裏付けをとるべきだ。行動を起こすのはそれからでも遅くない。しかし、操は飛び出してきた。芸妓の口八丁にまんまと乗せられた格好だ。それこそがまさに"子ども"だと言えるが。
 恵は傍に座る操を見る。胸中を吐露したことで少し気が楽になったのか、表情から固さは消えていおりぼんやりとしている。
「ねぇ、操ちゃん。それで、あなたこれからどうするの?」
「どうって……」
「このまま転々としていくわけにもいかないでしょ。あなたさえよければ私のところに来る? あなた手先器用そうだから会津の診療所の手伝いをしてよ」
「ほんとに?」
「ええ、でも一度京都に戻ってからね。あなたを預かることを葵屋のみなさんに了解を得てからじゃないと」
「でも、」
「大丈夫よ。とりあえずまだ後二週間はここでの研修があるから、それまでに気持ちを整理なさい。葵屋には私から手紙を出すから。いいわね?」
 半ば強引に言えば、他に当てのない操はうなずくしかない。
 そして恵は一通の手紙を書いて送った。





第三話

 拝啓 

 木々が色づき眩い季節となりましたが、皆さまにおかれましてはご心労のことと思います。
 その原因となっておられるご息女ですが、滞在先の長崎で偶然にもお会いし共に過ごしております。
 ご息女の話によりますと、とある芸妓にこの度の縁談の"真相"――旦那様の「最後の頼みに嫁にもらってくれ」との申し出を、若旦那様が店を譲り受ける代わりに仕方なく了承し、本気で好いた女とは外で所帯を持つとの考えでいらっしゃると知らされ、傷心し一人旅に出たとの話でございました。
 ご息女曰く、もうそちらには戻りたくはないと申されておりますので、共に会津に帰り診療所の手伝いをしていただく心持ちでおります。
 会津に戻る前に一度そちらへご挨拶に伺いますが取り急ぎ手紙にてご報告まで。

                              敬具
                                高荷恵


「翁! これはどういうことですか」
 葵屋のうちでも温厚と知られる増髪が珍しく大きな声を張り上げていた。
 剣心が京都へ来た翌日のこと一通の手紙が葵屋に届く。
 差出人は高荷恵。
 珍しいことだと開いてみると操が長崎にいると書かれてある。そして、葵屋を飛び出した真相も――。
「どうもこうも儂とて何のことじゃかさっぱりわからんわい」
 手紙に寄れば、蒼紫と操の婚儀は翁が頼みこんで成立したものであり、蒼紫には他に好いた女がいてその女は妾にして操とは形だけの夫婦になる――操は思っているらしいと。
 何をどうしたらそのような話しになるのか。
「この"とある芸妓"とは誰のことでござろうか」
 剣心は届いた手紙を手にして自らの目でもう一度読み疑問を口にした。その芸妓が操に"吹き込んだ"のだ。
「……翁、婚儀が決まってから呉服屋の隠居と前祝いだとか言ってお座敷に遊びに行ってましたよね」
 思い出したように近江女が述べた。
 芸妓を呼んでのお座敷遊びなんてどれほど掛かるのかといつもならば引きとめるが、この時ばかりは大目に見ようと女衆は目を瞑った。何せ実の孫娘のように思っている操と、これまた実の息子のように思っている蒼紫の婚儀が決まったのだ。浮かれても仕方ないと感じられた。
 ベロンベロンに酔っ払って帰って来た姿にこれでは祝言当日はどんなことになるやらと笑っていたのだが。
「……そういえばあの時――」



「若旦那さんもようやっと覚悟しましたんやなぁ」
「いやいや全くの腑抜けで覚悟なんぞ決めれんかった」
「そしたらどないして婚儀する運びになりましたん?」
「なーに儂の芝居じゃよ。『儂も老い先短い身じゃから、早うに操の花嫁姿が見たい。最後の頼みと思うて叶えてくれぬか』とな。あやつの気持ちは知っておったからのぅ。こういえば断らんだろうと考えてのことじゃったが、思いのほかうまくいったわ。儂にかかればこんなもんじゃ」




 浮かれていたこともあり気心の知れた相手という油断もありそのような話をしてしまったが。
「あの時おった芸妓が聞いていて操に告げたのかのぅ」
「告げたのかのぅ、じゃないですよ! どうしてそんなことを……!」
「悪かった。じゃが芸妓というのは座敷で見聞きしたことは他言せんもんなんじゃ。それ故にこのようなことになろうとは思わなんだ」 
「思わなんだって、実際、操ちゃんは葵屋を出てしまったじゃないですか!」
 増髪と近江女に代わる代わる責められて翁は身を縮ませる。
「しかし、何故その芸妓は決まりを破ってまで操殿に話したのでござろうなぁ」
 それも幾分脚色している様子である。
 今の翁の口調からは、過去の出来事を思い二の足を踏む蒼紫に体裁を整えてやるための芝居を打ったと聞ける。本音で思っていることをしがらみから行動に移せない。それを最もな理由を付けて計らってやることは矜持を重んじる武士の間ではよくあることだった。ただ後々に話のネタにするなど愚かな行為で誉められたものではなかったが。
 しかし、恵の手紙の内容からは翁が無理に頼み込み婚儀を取りつけたと読める。話に食い違いがある。
「その芸妓の名はわかるでござるか?」
 本人に直接確認するのがよいと尋ねれば、
「小鈴とまめ菊と言うたかのぅ」
「――まめ菊」
 反応したのは蒼紫だった。
「なんじゃ、お前も知っておるのか。……もしやお前その女と――」
「その芸妓に"旦那"になってくれぬかと幾度か言われたが断った」
 翁の嫌疑を皆まで聞く前に蒼紫が続けた。
 翁の代役として寄り合いに顔を出すようになり酒の席にも付き合わされた。お座敷遊びなど興味はないが仕事の一環と思えば断り切れずだんまりを決め込んで堪える。されど美丈夫の災難とでもいうべきか、愛想のない姿も様になり、ましては京都でそれなりに名の知れた葵屋の若旦那とわかれば自分を贔屓にしてくれと売り込んでくる者もいる。元より色恋に興味などなく、ましてや強欲な女は無粋であると感じ袖にしてきたが。まめ菊という女はかなり執拗だったので名を覚えている。見かねた米屋の旦那がまめ菊を座敷には呼ばぬようにと配慮してくれたぐらいである。
 それが――京都に数いる芸妓のうちよりにもよって滅多にお座敷遊びなどせぬ翁の座敷へまめ菊が呼ばれ、あまつ蒼紫の婚儀の経緯を知った。
「振られた腹いせに操をまんまと騙したということか」
 翁がなんとも言えぬ顔をして告げる。
 蒼紫は黙った。
「巡り合わせとは恐ろしいものでござるからなぁ」
 剣心の呟きはやけに重く聞こえた。

 船旅は慣れない。
 長崎の地に降り立った剣心は少しばかり船酔い気味で足元が覚束なかった。
 恵の手紙により操の居場所が知れ葵屋の面々は安堵の息をついた。後は恵が京都へ連れ帰ってくれるのを待つばかり――のはずが蒼紫は旅支度を始めた。迎えに行く気らしいと知れば止める者はいない。誰かが迎えに行くのがよいが、誰かとは誰でもとは違う。この場合、蒼紫でなければ操は納得しないだろう。他の者では余計に臍を曲げる可能性が高い。それ故蒼紫の振る舞いは願ったり叶ったりで止めよう者がいるはずないが。
「すまんが緋村君もついて行ってはもらえまいか。あやつ一人ではどうものぅ」
 翁が告げた。蒼紫だけでは心配が尽きぬというのはわからないではない。他のことならいざ知らず、"色恋"方面で経験値が多いようには思えぬ蒼紫を一人で行かせるのも難儀である。結果、頼まれると嫌とは言えぬ性分と乗り掛かった船であると。出番がないならそれに越したことはないが補えることがあるかもしれないと。剣心は長崎まで共にすることにしたのだ。
 しかし――最短の道は船であると乗り込んだのはよいが、海の上はすることもなく退屈である。元より無口な蒼紫は考えたいことがあるのかより一層話さないし、話しかけられる雰囲気でもなく、されば剣心は退屈しのぎに"でっき"に出て寄せては返す波を見つめた。それが良くなかった。見つめているうちに酔ったのである。
「先に宿を探すか」
「……かたじけない」
「いや、その方が都合が良い」  
 手紙には長崎にいると書かれていたが、長崎のどこかまでは記されていない。見知らぬ土地で人探しは大変な労力である。聞き込みをするにしても何処かに拠点を置いて情報が集まってくるよう手配するのが効率的との考えだろう。
 剣心は頷いて、ひとまず二人は宿を探す。





第四話

「おかえりなさい」
 講堂を出ると待ちかまえていた操が駆けてくる。ご主人を待つ子犬のようで――身の軽やかさは小猫という方がしっくりくるが――恵は思わず微笑んだ。
 再会してから操は恵の宿に泊まっている。
 京都を出てから野宿していると聞かされた時は驚いた。いくらなんでも危険すぎると叱ったが、
「だってお金も馬鹿にならないし、それに私一人じゃ泊めてくれないかもって……騒ぎを起こしたら居場所がばれちゃうじゃない?」
 操なりに考えてのことのようだが無茶をする。呆れ果てながら「あなたは女の子なんだから、野宿なんて二度としちゃだめよ。いい? もっと自分の体を大事にしなさい」
 強い口調で念を押せば「はーい」と聞き分けのよい返事があった。本当にわかっているのか怪しいが、口調とは違い態度はしゅんとなっていたのでそれ以上は怒ることも出来ず同室に泊まらせている。
 会津に戻るまでの二週間。操には恵のような研修があるわけではない。日中暇である。自分の未来の心配事から一応は解放され町中をぶらつく余裕を持てたが散策も一人ではつまらない。することもないし、また良くない輩に襲われては大変だと恵の往路を送り迎えしている。そんな大袈裟な。どこぞの姫君じゃなんだから、と断る恵を挺して強引に買って出たことだった。
「ただいま」
 町中で言うことでもない気がしたが言葉にすると心の内に新緑が芽吹くような綻びを感じた。
 帰りを待ってくれる人がいる。恵にとってそれは随分と久しぶりだった。会津での暮らしでも人々は親切にしてはくれるが家に帰ると一人きり。だからこうして迎えられると操の人懐っこさが恵の心に染み込み春のひだまりに包まれたような優しい気持ちにさせる――そして実のところそれは初めての経験ではなかった。
 恵が東京で暮らしていた頃、ほとんど毎日のように診療所を訪れた"あの男"に感じた気持ちとよく似ている。否、"あの男"は人懐っこいだけではなく口が悪く、喧嘩好きで、恵を苛立たせることも度々だった。どちらかといえばそちらの方が多いくらいだった。
「あんた、いい加減にしないと本当に怒るわよ」
「もう怒ってんじゃねぇか」
「五月蠅い!」
 そんな言い合いが日常茶飯事だった。しとやかな恵を唯一凶暴化させる男として有名で、『"あの男"が来てるときは診てもらうのはやめたほうがいい』と不名誉な噂まで流れた。
「営業妨害だわ」恵が嘆くと
「だーから、その分は俺がこうして怪我の治療にやってきてんじゃねぇか」
「単に喧嘩好きなだけでしょ。というか、あんた治療費支払ったことないじゃない。全部ツケ。踏み倒すんじゃないわよ」
 しかし恵は会津へ帰り"あの男"はどこか遠くの土地で相変わらずの暮らしをしているらしい。互いに別々の道を進むことになった。
「恵さん。どうしたの? 早く行こうよ」
「……あら、いやだ。私ったらぼーっとしちゃって」
「疲れてるんだよ、きっと。今日は早く寝た方がいいよ」
 操は恵から鞄を取ると慣れた足取りで宿へ歩きはじめる。「いいわよ。鞄ぐらい自分で持つから」と言っても、
「いいから、いいから。これからお世話になるんだもの。出来ることはなんでもします」
 溌剌として返される。操はどうも本気で会津までついてくるつもりらしい。恵も冗談やいい加減な気持ちで言ったわけではなかったが、京都に戻れば葵屋の者が総出で説得するだろう。第一、蒼紫が許すはずないと考えていたが。
――これは結構説得に時間がかかるかもねぇ。
 おそらく一連の出来事は操の思いこみによる誤解だろう。だが操にも矜持があるし意地もある。葵屋を出ると覚悟してきた手前、早々簡単に「ごめんなさい」とはならないかもしれない。
――どうなるのかしらね。
「恵さん。早く!」
 前を行く操が急かしてくる。
 その元気さにこの子は事の重大さを理解してるのかしら? と疑問に思いながら後に続いた。


 宿の近くに中華店がある。"ちゃんぽん"なる蕎麦を食べさせてくれることで有名だ。恵も長崎を発つ前に一度は行ってみようと考えていたが、近くにあるからいつでも寄れると未だに訪れていない。今日はそこに行ってみましょうよ、ということで話がつき、宿に戻り荷物をおくと店へ向かった。
 "ちゃんぽん"は留学してくる清国人のために作られたものと聞いていた。当然店には清国人が大勢いて暖簾をぐぐると異国の言葉が溢れているのかと思ったが意外にも日本人で混雑している。目的の変化というのはよくあることだが清国人のためのものが旅先の名物として日本人が来るようになったのだろう。
「いらっしゃいませ」
 流暢な日本語だったが店員は清国人の留学生だった。鮮やかな青に白の花をあしらった――着物とは違う観たことのない服を着ている。話によると民族衣装だと教えてくれる。綺麗ですねと言えば嬉しげに微笑まれた。
 目当ての"ちゃんぽん"を頼む。
 店内ではそれを注文する客が多いのだろう。湯気をあげる器に「あれがそうよね」と操が小声で囁く。その表情は待ちきれないと喜びが零れている。これほど楽しみされると一緒にいる方も気持ちがいい。
「初めてのものってドキドキするよね」
「そうね」
「やっぱり、恵さんもそう? 私ね、したことないことするのって大好き。知らないことを知るのって楽しいもの。でもはしゃぎすぎるから子どもだって笑われちゃうの。だから堪えようって思うんだけど上手くいかない」
 操は少しだけ悲しげに告げる。
 言うように京都に在中していた頃、操が子ども扱いされている姿を見かけたことはある。だが、それはけして悪い意味ばかりではない。ただ当人が気にしていることを言われてしまうとどうしても悪く解釈してしまうことがある。
「それが操ちゃんのいいところじゃない。みんなだって口では色々言うけど、それを駄目だっていってるわけじゃないでしょ? それに救われている人だっていると思うし」 
 その天真爛漫さに安堵する者がいる。
 自分には出来ないことをする姿を微笑ましく思う。
 四乃森蒼紫もその一人だろうと恵は考える。
「そう、かな」
 操は恵の言葉が意外だったのか、戸惑いながらも「でも、ありがとう」と笑った。
「おまたせしました」店員が品物を運んでくる。
「うわ、おいしそう」元気を取り戻した操が声を上げる。
 器には白っぽいスープに野菜、肉、魚介類と海のもの山のものが詰め込まれていて、一番上には錦糸卵の黄色が鮮やかだ。日本の蕎麦とはまるで違う豪華絢爛に映る。
「元気でそう!」
「さぁ、早くいただきましょ」
 恵の言葉に二人は頂きますと両手を合わせて食べ始めようとした時だった。
「申し訳ございませんが、混雑してまいりましたので相席をお願いしてもよろしいですか」
 店員が近づいてきて願い出てくる。
 夕食時ということで恵たちが訪れた時から混み合っていた。他の席でも似たような状況で断るわけにはいかない。女の二人連れということで変なちょっかいを掛けてこない相手であることを願いながら承諾したが――しかし、叶って欲しい願いほど叶わないのが常なのか。世の中は皮肉に溢れているもので、恵の思いは裏切られる。否、"変な"ちょっかいを出してくる相手ではなかったし恵にとっては別段問題はない人物ではあるけれど、
「恵殿、操殿。これは奇遇でござるなぁ」
 人を和ませる笑顔を浮かべる男とその後ろで無愛想に突っ立っている男は紛れもなく緋村剣心と四乃森蒼紫だった。





第五話

 操の詳細が掴めぬと大騒動になっていた京都を発ち長崎に着いてからは状況がガラリと変わった。トントン拍子に事が進むというがまさにそれである。
 情報を集める拠点とすべき宿を探すがどこも満室状態。渡航する者が多い長崎港の近辺では宿屋も多いはずが取れない。何が起きているのかと尋ねれば、中央公会堂で蘭学の講義が開かれており医療従事者が方々から集まってきているためだという。宿場はその者たちで溢れているのだ。
 宿をとれぬのは難儀であったが話は二人の目的に近づく有意義な情報だった。
 会津にいるはずの恵が何故長崎にいるのか。送られてきた手紙には書かれていなかったが恵は女医である。講義を受けにきたと考えるのが自然だろう。さればその中央公会堂とやらで待ち伏せしていれば会えるはず。
 長崎まで来て目当ての人物を見つけられなかったとなれば笑い話にもならないが、長崎にいる以外の手掛かりはなかったのだ。探しだせない可能性もあった。それほど見知らぬ土地での人探しは難しいものである。しかし、ほとんど労することなく早々当たりをつけられたのは、不安要素がありながら、京都で待っていれば確実に戻ってくるとわかりながら、長崎行きを決めた蒼紫の想いがなした奇跡かもしれぬ、と剣心は考える。冷静で合理的な男には似つかわしくない振る舞いに天が味方したか――と思ってしまうほどに事が進む。
 六軒目に着いた宿でようやく一室のみだが空き部屋を見つけ身繕ってもらい、後は講義が終わる頃に公会堂に向かへばよいという手筈になった。
 しかし、やはり何事も最後まですいすい進むというのはないらしい。ぬかりのないよう聞いていた講義終了時間より随分と前に宿を出たというのに、公会堂までのさほど遠くはない道中でひったくり現場に遭遇する。どうも剣心も蒼紫もそういう出来事に遭う性質らしい。そしてそれを見て見ぬふりも出来ぬ性分だ。犯人を捕まえる手助けをする。だがこれが意外に手間取った。何せ初めての土地である。いかに凄腕の二人でも土地勘がまるで働かない地では抜け道を重々知ったる者を追い詰めるのは一苦労する。思いのほか時間を食い、公会堂に到着した時には目当ての人物は去った後だった。されど残っていた者に恵がここに来ているかと尋ねてみれば「いる」と返される。結構な数の人間がいるはずだが、女というのは珍しくまして美人とくれば目立つらしい。間違いなく聴講していると知る。ここまでくればほぼ見つけたも同然。明日には確実に会える。
 これ以上下手に探し回るより朝を待つことにして、では食事でもして帰るかと。そういえば宿の近くに一軒店がある。長崎名物の蕎麦を食べさせる店だという。物見遊山で来たわけではないが、一番近い店がそこであるし、ならばと入ったのだが混雑した店内で相席となった。すると、その席に先に座っていた客が、
「恵殿、操殿。これは奇遇でござるなぁ」
 案内された席に座るのは紛れもなく恵と操だ。
 驚愕するが、二人を探していた剣心たちよりもここにいるとは思ってもいない恵たちの方が驚きは強いようで物も言えず呆気にとられている。
「どうかされましたか?」
 声がする。剣心はまだしも蒼紫のような長身の男に通路に立たれては邪魔である。お盆に片づけた器を乗せた店員の声にひとまず席についた。

 恵と操は四人掛けの席に向かいあって座っており、空席はどちらかの隣であったが蒼紫はごく当たり前に操の隣に腰かけた。剣心はそれを受けて恵の隣に座る。すぐに店員が注文を取りに来て、やはり二人も名物の"ちゃんぽん"を頼む。その間、茫然としていた恵と操だったが、
「伸びぬうちに食べた方がよいのではござらんか」
 促されて我に返り「どうして剣さんがここへ?」とようやく疑問を口にする。
「二人を探しに昼過ぎにこちらへついたでござるが、まさかこれほど早く会えるとは思わなかった」
 それから剣心はこれまでの経緯を簡潔に二人に話して聞かせる。
 操がいなくなったと知らせを受け京都へ来たこと。
 恵から操と一緒にいると文をもらったこと。
 ただ、操の誤解について解くことはしなかった。蒼紫の口から告げるべきだと考えたからであったが。
「剣さんにまで知らせが行くなんて随分な騒ぎになっているのね」
 恵は剣心から操へ視線を移した。剣心たちが現れてから一言も発せず俯いていたが、眼差しを受けてチラリと顔を上げる。
「黙って出て来たことは悪いと思ってるけど、」
 口籠る。歯切れの悪さは操らしくはなかった。
「悪いと思っているならするな」
 咎めたのは蒼紫だ。やはりそれまで黙っていたが言葉を発した。剣心が京都へ着いてから操の安否を気にして憔悴しているように見えたが今は怒りを滲ませている。操が真偽を確認していれば大事に至らず笑い話になったことを姿をくらまされたのだ。無事な姿を見たら次に憤りが込み上げてくるのはわからないではないし、普段冷静な蒼紫が感情を露わにするなどそれだけ心を配っていたとわかるが。しかし、第一声がこれでは操に伝わるのは怒気のみだ。
「私は間違ったことはしていない! 蒼紫さまだってその方がよかったでしょ」案の定、操は眉間に皺を寄せ顔を歪ませて告げた。勢いに任せた物言いに、蒼紫はゆっくりと隣に座る操を一瞥した。冷ややかさには怒りが含まれている。
「何がよいのだ」
「私がいなければ好きな人と夫婦になれるじゃない」
 さればすぐに「そんな女はいない」と告げてやればよいのだが、蒼紫の方も柳眉を寄せた。思いこんでいる人間に話をしても聞く耳を持たないと考えてか、操が己を疑っていることへの不快さなのか、思ったことをすぐに口にする性質ではないと知ってはいてもここで物言わぬのは返って誤解を招くだけだ。
「お待たせしました」
 そこへ注文した品が届く。
「まぁ、まぁ、二人とも。そう喧嘩腰にならずとも。お互い"誤解"があるようでござるからゆっくり話すとよい」
 その前に腹ごしらえをするでござるよ。と続ければ、
「そうね。お腹がすいてると苛々して話も上手く進まないし、せっかくの名物なんだし美味しく頂きましょう」
 とりなすように恵も告げる。
 操は不愉快そうであったが、混雑した店内でこれ以上する話でもないと察してか無言で箸を手にして"ちゃんぽん"を食べ始める。蒼紫はしばらく操を見つめていたが、やがて溜息を吐いて自分も食し始めた。





第六話

「大丈夫かしらねぇ」恵は右頬に手を置いた。心配ごとがあるときの癖だ。
 あれから気まずい雰囲気のまま食事が進んだ。操は不愉快さを食べることで解消しようと脇目も振らず蕎麦をすすり続けたが、対照的に蒼紫は二口ほど食べたところで箸を置く。その様子に操は眉間の皺を深めて当てつけるように箸を進めつゆまで飲みきった。痩せの大食いというが普段はそれほど食べる性質ではない。無理をしているのは一目瞭然でついには胃痛を起こしだす。恵は宿に胃薬があるからそれを飲み寝れば良くなると慰めた。
 中華店を出ると外はすかりと夜だった。話を出来るような店は閉まっていたし、操の体調のこともあり恵たちの泊まる宿に向かう。ついて薬を飲ませてしばらく横になるよう告げると、後は自分が面倒をみると蒼紫が言った。要は二人になりたいということである。反対する強固な理由もなく二人は席を外し散歩に出た。
「蒼紫に任せておけば大丈夫でござろう」
 剣心は蒼紫を信頼している様子だったが恵はいまいち気がかりだった。"あの"御頭さんが女子の機嫌をとれるのかしら――と素直な疑問だ。人にはいろいろな側面があるし、恵の知る蒼紫とは違う操にだけは見せる顔があるのかもしれないが想像できないし、したくもない。何か恐ろしいことのような気がした。
「海の近くは磯の香りがするでござるな」
 港の傍までくると剣心が言った。
 薄暗い道を歩くのは頼りないものだが夏の匂いがする空気が肌を撫でて寂しさは感じず、雲のない空には眩い満月が浮かんでいて心地よい。
「妙に懐かしい気にさせる」 剣心は立ち止まり大きく息を吸い込む。
「剣さんの出身は海の近くでしたっけ?」
「どうであったか」否定も肯定もなく静かな笑みを浮かべた。過酷な生涯を歩んできた人に迂闊な問いかけだったかと恵は申し訳ない気になったが、「ただ、懐かしいと感じるのでそうなのかもしれぬなぁ」
 二人が立つ場所から一隻の大きな船が停泊しているのが見える。他にも漁業専用の船が十数隻泊っていた。先に進めば数が増えるだろう。
「今は幸せですか」ふいと恵が口にする。
 夜の静けさが日中の明るさでは言いにくいことを柔らかく包みこんでくれる。
 剣心は真っ直ぐに海を見つめたまま物言わぬがそれが幸せの証と恵は得心する。
 そして、一つの記憶を思い出す――。



 薫の出産に立ち会うために東京へ来ていた。
 臨月を迎えて、もういつ生まれてもよいという状態で神谷道場はせわしない。
 陣痛が訪れるまで、恵は以前いた診療所で手伝いをすることにして、その帰り道に剣心と会う。声をかけると「今帰りでござるか」と返されたが一瞬の間があった。自分の心の内を悟らせるような人物ではなかったので僅かな差異でも意味深く感じる。もうすぐ子が生まれるのだ。あたふたと浮足立っているのなら気にしなかっただろうが、憂いているように感じられ気になる。
「どうかしましたか」連れだって神谷道場までの道すがら尋ねた。それで応えてくれるとは思わなかったが剣心は刀に手を置いて微苦笑をもらした。近頃は出歩くとき降ろして行くことも増えたと聞いていたが今日は差している。剣心が歩いてきた道は林に通じる。振るっていたのかもしれない。
「拙者が父親になるとは」そこで言葉を止める。先に続く言葉は何だろうかと恵は考える。思わなかった――というような感慨深いものではないように感じられる。それならばもう少し柔らかな雰囲気になるだろう。
「幸せですか」これ以上踏みこんでいいものか迷ったがもう一声かけた。
「恐ろしいと思う」すかさず返されたが誤魔化しのない言葉だ。
 そのようなことを返されるとは思わず驚くが、剣心が何に躊躇いを感じているのかわかる気がした。
 雪代縁の一件で神谷薫という存在がいかに大きなものであったか。流浪人をやめ、神谷道場に根をはり、まもなく子が生まれる。ごくありふれた一組の夫婦がなす営みを辿る。薫への気持ちがより深く強く溢れると過去の記憶が蘇る。巴が生きていた頃、巴と歩みたかった道を別の女性となす。心変わりという裏切りのような気が。
「西洋の言葉に――」恵はしばらく前に読んだ書物の一節を浮かべた。「一度人を愛した人はまた誰かを愛するというのがあるんです」
 人には二種類の人間がいる。人を愛せる人間と、人を愛せない人間。一度でも誰かを愛せた人はまた誰かを愛する。ただ一人だけしか愛せないと言うことはない――その言葉に触れたとき恵の心にあった淀みが洗われた気がした。
 恵はかつて剣心を好きでいた。叶わぬものとわかりながら傾く心を止められず、しかし予想通り悲しい結末を迎えた。恋なんてするものじゃないわね、と捻くれたことも考えたが次第に胸の痛みは和らぎ始める。恵の傍に賑やかな男がいたから、しょげていればからかわれると意地になり平気な振りをした。そうしていると本当に平気になっていき、やがて剣心と薫の睦まじい姿を見ても笑っていられるようになった。
「薫さんを愛せているということは、巴さんを愛していたということじゃないんですか」
 剣心は恵の顔を見た。何も言えずにいる様子に恵は微笑む。
「生涯に一人の人しか愛せないということはないですよ。それは心変わりとは違う」
 強い口調で言ったのは、剣心にというより自身に言い聞かせるためでもある。剣心がそうであるなら、恵もまたそうできるような気がして。
「それに一人しか愛せないというなら、私はもう一生誰も愛せません。酷い話だと思いませんか」
 続けた言葉に剣心は僅かな戸惑いを浮かべる。恵の気持ちは薄々気付いていたが応えられぬ思いに知らぬふりをした。それが最良であるとも思ったが狡い方法だともわかっていた。
「そんな顔しないでくださいよ。困らせるために言ったわけじゃないんですから。ただ、剣さんが幸せになってくれないと私も幸せになれないってことを肝に銘じてくださいね」
「……――それは責任重大でござるな」そういう剣心の顔は晴れやかに見えた。



 風が吹いてきて恵の長い髪を揺らす。
「恵殿はどうでござるか」海を見つめたままで剣心が言った。聞き返されるとは思っていなかったので恵は多少驚いた。「仲良くしているでござるか」
「仲良くなんて……"あいつ"が今どうしているかなんて知りませんよ。たまに手紙が届きますけど、所在地は書いていないから一方的なものですし」 
 恵は咄嗟に応えた。最後に会ったのは随分前だ。怪我も完治していないのに主治医の許可なく遠くへ行ってしまった。戻ってきたらまた診てくれよ。頼むぜ――と軽口を叩いて去ったきり。もう忘れようと決心するころ、そうはさせまいとするように手紙が届く。どういうつもりでこのようなものを送るのか。単なるご機嫌伺いなのか。とても短く愛想のない気まぐれな一通に恵の心は揺らされた。思い出すと弄ばれているようでムカムカしてきたが、
「おろ、拙者は会津の人々と睦まじくしているかと聞いたつもりでござったが」剣心は楽しげに恵を見ていた。
「……――剣さん、謀りましたね」たちまちに恵の頬は赤く染まるが幸いに夜にまぎれて目立ちはしない。
「"そちらとも"仲良くしているでござるな」
 恵は諦めた。今更取り繕っても無意味であると、
「ですから、一方的に手紙が届くだけですよ。仲良くしようもないじゃないですか」
 ぽろりと本音を返せば、
「されど拙者のところに文が来たことはないでござるよ」
 剣心は笑って「この先は大陸に続いているでござるな」と続けた。
 
 夜も更けてきたのでぼちぼち戻るかと歩く。
 研修はあとどれほどの期間あるのか。薫も会いたいだろうし帰りに東京へ寄っていかないか。話は蒼紫と操のことではなく世間話になっていた。なんだかんだと言いながらもあの二人は似合いだ。話し合えば元の鞘に納まると楽観する気持ちが強かったからだが。
 宿屋に近づくと騒ぐ声がする。
 聞き覚えのある声に剣心と恵は顔を見合わせた。足を速めて進めば、
「いやだ! 降ろしてよ。降ろしてってば!!」
 恵の泊まる宿の入口に人垣が出来ていて女子の怒声がした。酔っぱらいにでも絡まれているのか――しかしそれは知った声であり、仮に酔っぱらいに絡まれても自力でどうにかするだろう。或いは同伴者が一蹴するはずだ。さればこの騒ぎは何か。
 恵と剣心は人をかきわけて騒ぎの中心に出ると、
「ちょっと、何してるんですか!」
 恵は驚いた。恵だけではなく剣心も。そこには蒼紫の肩に担がれて暴れている操の姿があった。





第七話

 蒼紫は部屋を入ってすぐのところに目を閉じ懐手をし胡坐をかいている。操は奥の隅で大泣きしている。剣心と恵はその中間辺りで頭を悩ませていた。
「それで、一体何がどうしてあんなことに?」
「知らない。いきなり京都に戻るって抱えられたんだよ」
 悲しみもさることながら怒りが相当に強い様子でそれを発散させるように強い口調で操が告げた。
「……いきなりってことはないでしょ。何かあったからそういうことになったんでしょ?」
「本当に何もないもん。いきなり私を担いだんだよ」
 操は繰り返すが、やはりどうしても突然担ぎあげるなど不自然だし蒼紫が意味なくそのようなことをするとは思えない。操の言い分に何か言うかと蒼紫を見るがピクリとも動かずにいる。こちらに口を割らすのは難しいと判断し、恵はもう一度操に戻ってから何があったのかを話すように促した。



 恵と剣心が出て行くと部屋に静けさが訪れる。
 操は重苦しい空気が辛く蒼紫に背を向けて眠ったふりをしたが通用するはずがなく、
「明日、京都へ戻る。これ以上迷惑をかけることは許さん。いいな」
「私は帰らないって言ってるでしょ。恵さんと会津で暮らす。その方が蒼紫さまだっていいでしょ」横になったままで答えた。
「どういう意味だ」
「……そのまんまの意味だよ。私がいなければ堂々と好きな人と一緒になれるじゃない。私も無理されるよりそっちの方がずっといい。同情されたくない。蒼紫さまが本当に望んでることをしてくれほうがいい」
 一息にまくしたてれば、背後でため息を吐くのがわかった。
 操は掛け布団をぐっと握りしめる。
「そうか。俺が望んだことをするのがお前の望みなんだな。本当にそれでよいのだな」
 胸がじくりと痛む。蒼紫の言葉は操の言ったことを肯定するものである。すなわち好きな女がいると――それまで心のどこかでは信じたくない気持ちがあったがいよいよ打ちのめされる。だがここで泣くわけにはいかない。操にも意地がある。
「そうだっていってるじゃん」
「二言はないな。あとで取り消すと言っても聞かんぞ」
 蒼紫は念を押す。
 そのように執拗に確認せずともいいではないか。と、操は思う。ただ、これまでの自分の振舞いを考えればそうされても仕方なかった。あれほど追いかけ回していたのだ。土壇場で気が変わるなんてことも考えられる。やっぱり嫌だと駄々をこねられては敵わないと再三に確かめられている。されば操の胸中は揺れる。今ならば、まだ間に合うのかもしれない。蒼紫の傍にいたいと言えば元のようになれる――否、蒼紫に他に好きな女子がいると知って元に戻れるはずがない。
「うん。いい」
 心とは裏腹な言葉を発すれば息をするのも苦しくなるが、
「その人と幸せになれるといいね」続ければ
「ああ、お前が嫌がらないならうまくいく」
 いくらなんでもそんな言い方はないのではないか。本心では自分をそれほど邪魔に思っていたのかと目の前が真っ暗になり布団を握る手を強める。せめて蒼紫が部屋を出るまでは泣くのは耐えたい。そうでなければ自分があまりに哀れな気がして、
「じゃあ、もういいでしょ。もう京都にも戻らないから。向こうに着いたら手紙は書くよ。眠るから出て行って」
 京都に戻れば蒼紫の惚れた女と会わせられるかもしれない。流石にそれは耐えられないとこのまま会津に行くと告げる。それぐらいは許してもらえると思ってのことだが。
「お前には京都に戻り祝言に出てもらう」
 蒼紫の口から告げられたのは残酷な通告だった。
「どうして私が祝言に出なくちゃいけないの!」カッとなって起き上がり蒼紫を見れば無表情で見つめ返される。
「お前が望んだことだろう」操の罵声を受けても静かな声だった。
「私は蒼紫さまの祝言に出たいなんて言った覚えない! 蒼紫さまなんて大っキライ! 出て行って!」



「……そしたら"それでは話が違う"って言って、私を担いで京都に戻るって」
 思い出して悔しさが込み上げ操の止まりかけていた涙が流れる。
 話を聞き終えると恵は呆れたとため息を剣心はなんとも言えぬ笑みを浮かべる。蒼紫の意図することを理解したからである。ただそれが肝心の操にはまったく伝わっていないが。
「大事なことは何も言わずにわかってほしいなんて無茶な話ね。操ちゃんが可哀相だわ」
 責める気持ちはなかったが恵の口からはそれに近い言葉がでる。
 恵にとって所詮は他人事だ。当人の問題に部外者が口を挟むのは余計な世話であると距離を置く。厄介事に巻き込まれた結果痛い目に遭った過去が深く介入することを躊躇させる。普段であれば。しかし、港で会話に上った人物が心に浮かぶと感情が高まっていく。どうしたいのか明瞭な言葉を言わずにいる姿に寂しさと苛立ちを感じながらも期待を捨てきれずにいる恵の心が引っ張り出される。
「卑怯よ」
 卑怯と言われれば蒼紫も黙っていられぬのか目を開けた。眼差しは薄暗く憂えている。
「気持ちを伝えると言うのは難しいことでござるからなぁ」成り行きを見守っていた剣心が言った。「操殿。蒼紫は恵殿の文を読んですぐに京都を発ちこちらへ来たでござるよ。待っておれば京都へ戻ってくるとわかりながら待てずに来たのは操殿が本当に戻ってくるか心配してのこと。その気持ちに嘘はない。そうでござろう」
 蒼紫――と呼びかければ呼吸を吐き出すように重い口を開くが、
「明日、京へ帰る。帰って祝言を挙げる――お前と」
 日頃より口数の少ない男のやっとの告白だった。しかし、それも肝心な言葉は省かれ愛想なく淡々としている。照れもあるのだろうが不機嫌にも感じられ、そのような物言いが操へ届こうはずもなく、
「なにそれ、どうして私が蒼紫さまと祝言を挙げなくちゃいけないのよ」
 案の定、怒りを買うのみ。だが操の様子に蒼紫を取り巻く空気も冷たさを増す。
 そもそもが言葉足らずのすれ違いであるから蒼紫にも責任がある。しかし、芸妓の嘘を鵜呑みにした操の非も否めない。操は裏切られたと思っているが、蒼紫から見れば操こそ自分を裏切ったとこみ上げる怒りもある。それでも怒りに怒りを向ければ状況の収拾はつかなくなる。聡明な蒼紫ならばそれぐらいわかりそうなものだったが、
「お前がそう言ったのだろう」
「……祝言を挙げたいなんて言った覚えない。私は恵さんと一緒に会津へ行くの。そこで暮らす。もう決めたの」
「そんなことは許さん」
「どうしてよ!」
 操は叫ぶ。唇が震えている。
 だが、蒼紫も怯まない。
「お前は俺と京へ戻り祝言をあげる」繰り返される。
「いやよ。私は会津で暮らす」操もまた。
「そんなことはさせん」
「だからどうして? どうして会津で暮らすことを反対するの? どうして私が蒼紫さまと祝言を挙げなきゃならないの? 私のこと好きでもないくせに!」
 ため込んだ不安をぶちまければ蒼紫は黙る。
 二人の押し問答に剣心と恵は顔を見合わせた。
 何故、そこで黙るのか。何をおいても否定するところではないのか。ここで黙るのは操の言葉を肯定することだ。好きではないと。
 これでは操が誤解しても仕方ない。
「……私は蒼紫さまのこと好きだったけど、蒼紫さまが私を好きじゃないのに祝言を挙げても幸せになんてなれないでしょ。私、そんなに愚かじゃないよ。蒼紫さまには幸せになってほしい。ちゃんと好きな人と夫婦になって幸せになってもらいたいって気持ちは嘘じゃない。でも、それを近くで見るのは辛い。だから会津へ行くわ。……いつか、私にもまた誰か好きな人ができて、その人と夫婦になって、もう大丈夫になったら会いに行く。私も私で幸せになるから心配しないで。約束する。それで許してよ」 
 一息で述べると両手で目元を拭う。それから、
「……もういいでしょ。帰ってよ」
 これでおしまい、と続けた。
 操がどれほど蒼紫を好きであったか、二人とそれほど長い時間を過ごしたわけではない恵でもよく承知している。その操が蒼紫を諦めると告げた。おそらく京を出てからずっと考え続けていたのだろう。そうでなければこのようなことが言えるものかと思う。されば、ひょっとすると操は自分と出会わなくともそのうち葵屋へ戻っていたのかもしれない。と恵は思った。蒼紫の幸せと、自分の恋心と、じっくり見つめて、整理がついたら帰るつもりだったのではないか。
 強い娘だとーー恵は感じた。
 蒼紫は黙ったまま動かない。
「どうして言ってあげないんですか。たった一言が、どうしてい言えないんです? このまま素直にならずにいたら本当に終わりますよ」
 恵は再び口を挟んだ。
 先程のような自分の状況を重ねて憤る気持ちからではない。
 恵と操は同じ状態にいる。白黒はっきりしない相手に振り回されている。どうして言ってくれないのか。不安と不満が募り責めていた。しかし、そうではなかった。恵と操は似ているが、同じではない。少なからず操は思いを告げている。恵は違う。相手が言ってくれることを待っていただけだ。自分から告げて色よい返事がこないかもとおそろしくて、何もせず待っていた。
 ひとかけらの勇気が足りなかった。
 女子から思いを伝えるなどはしたないなど思わず、出来たことがあったのだろう。操のように。
 だが、そうして思いを告げているにも関わらず蒼紫は答えない。蒼紫とて操を憎からず思っているのは明白だがそれでも肝心の一言を言わない。それはあまりではないかと――操の気持ちを報いてやりたいと突き動かされてのことだ。
「言わないなら、本当に操ちゃんを会津へ連れて行きますよ。いいんですね」恵が更に揺さぶりをかければ、
「――操がどうしてもそうしたいというのなら、もうよい。それでかまわん」蒼紫はようやく応えるが期待したものとは違った。
 操の表情がぱっと陰る。
「……うん。じゃ、そういうことで。恵さん、よろしくお願いします」
 それでも辛くならないようになるべく陽気な声で述べた。
 恵は眉を寄せて蒼紫を見る。本気なのか。それとも自分が出しゃばりすぎてしまったせいか。色恋は二人でするもの。第三者が口を挟めばややこしくなる。つい操に肩入れして発言したが、それが蒼紫の意固地さを呼び込ませたのかもしれない。そうであれば申し訳なさすぎるが。
「ただし、俺も会津へ行く」
 蒼紫の低い声が響く。
 その言葉に、蒼紫を避けるように顔を背けていた操の視線が動く。
「――どうして蒼紫様まで会津にくるのよ」
 驚きするりと疑問が口をでるが、
「俺がそうしたいからだ」
「じゃあ、店はどうなるの。蒼紫さまがいなくなったら困るじゃない」
「しらん」
「しらんって、そんな無責任なこと言わないでよ!」
「無責任なのはお前だろう。葵屋はお前の家だ。それを放りだして会津へ行くというのは無責任ではないのか」
 操は言葉を詰まらせる。痛いところをつかれたようだが、
「……私の家だけど、蒼紫さまの家でもあるじゃん。お店は蒼紫さまが継ぐことになってるし」
 だから自分が出て行っても問題はないのだとの言い分である。しかし、
「違う。あれは俺の家ではない。お前の家だ。幼きお前を預けた日から、葵屋はお前の家だ。俺の家ではない。俺はただ身を寄せているだけだ。お前が葵屋を出るなら俺も出て会津で暮らす」
「なにそれ。どうしてそんな話になるの? 無茶苦茶じゃない」
「無茶苦茶ではない。お前が望んだことでもある」
「私はそんなこと望んでない!」
 大きな声が出る。
「さっきから、私が望んだことだって言い続けてるけど、私がいつ望んだの? 祝言をあげてほしいとも、会津にきてとも言った覚えないわよ!」
 かみ合わない苛立ちを息巻いて言ったが、操の態度に蒼紫は冷静に、
「そうだろうな。お前が言ったわけではない。これは俺の望みだ」
 操の眉間に皺が寄る。
「俺の望むとおりにしてほしい、それが私の望みだとお前が自分で言ったのだろう。本当によいのかと念を押したがよいと答えた」
 蒼紫が言うように操は「蒼紫さまの望むことをしてほしい。それが私の望みだ」と告げた。だがそれは、蒼紫が本当に好いた相手と夫婦になってくれとの意味合いである。
 操の眉間の皺は深くなる。
「……だから、そうしたらいいじゃない。好いた人と夫婦になってほしい」
「そう言いながら拒むではないか」
「拒んでないよ」
「そうか。ならば明日、京へ帰るのだな」
「なんでそうなるのよ!」
「なんでもなにもない。花嫁が出ない祝言など挙げられぬからだ」
 静かだが凛然とした強さがあった。
 怒りに飲み込まれていた操は言葉の意味を上手に救えない様子だったが蒼紫は続ける。
「俺はお前と祝言を挙げる。それが俺の望みだ。何度も言った。なのにお前は京には戻らず会津で暮らすと言う。俺の望みがお前の望みではなかったのか。話が違う。されど、それほど会津で暮らしたいなら致し方ない。俺も会津で暮らすと折れたが、お前はそれも許さないと言う。わがままも大概にしろ」
 そこまで聞かされてやっと操も噛み合わなかった会話の全貌を理解したが、最後の”わがまま”という言い方に火がつく。
「……――っがままって何よ。私はわがままなんて言ってない。蒼紫さまこそ意味わかんない。どうして私と祝言を挙げるのが望みなんて言うのよ!」
 依然、明瞭な言葉はないのだ。
 何故、操と祝言を挙げるのが望みなのか。その理由が。
 操の瞳からまた涙があふれ出す。どのような涙がよくわからぬ涙だ。
「蒼紫さまは何がしたいの? 何が本当の望みなの? ちゃんと言ってくれないとわかんないよ」
 泣きながら、途切れ途切れに告げられる。
 その姿は見ている者の胸を打つ。
 蒼紫が口数の多い男ではないと誰しもが知ってはいる。操もよくよく承知している。それでも年頃の娘だ。好いた男から優しい言葉の一つ、自分を思ってくれていると明瞭な言葉の一つ欲しいと思う。それも婚儀するとの話まで出ているのだ。一生に一度の出来事を前に決断の理由を言われたいと。可愛い願いであると恵は感じた。しかし――
「本当にわからぬか」
 蒼紫の言葉は剣呑だった。操の涙の訴えに心動かされるどころか不機嫌になったと見える。その冷たい物言いにひやりとしたのか操の涙は止まる。濡れた頬をぐいっと右の手の甲で拭った。
「お前は、それほど愚かな娘だったのか」
 続いたのはもっと辛辣な内容だ。
「……ちょっと、そんな言い方――」思わず恵が口を挟もうとするが皆まで言う前に鋭い眼光が飛んでくる。部外者は口を挟むなと無言の訴えに気圧されて黙る。
 だが、それにしても酷い台詞だ。たった一言をそれほど言えぬものか。どこまでもひねくれている。男は好いた惚れたなど口にしないと信じるのは勝手だが、そのせいで涙を見る女子のことは考えない振舞いに恵の苛立ちは募るが。
「葵屋はお前の家だ。その家に身を寄せることを決め暮らしてきた。その意味がわからんのか。若旦那なったのは店欲しさ、お前と婚儀するのもそのためと、お前はそう信じるのか。俺をそのような厚かましい男と思ったのか」
 蒼紫の言うように操の誤解は蒼紫を金に目がくらんだ男と解釈したということだ。色恋いというものは時に盲目にさせるが、相手が自分を好いているかどうか不安になれば他のものは何も見えなくなり悪い方へ解釈させるが、それは相手を大きく阻害する思い込みであることが多い。
 操はそこで初めて、己の浅はかさに気づいた。
「ちがっ……そんなつもりは、」
「ならば何故何も言わず店を出た。俺ではなく芸妓の言葉を信じたからだろう。お前は俺を裏切って逃げた。お前がいなくなったと知って俺がどんな気持ちになるか考えることなくいなくなった」
 声音から苛立ちや怒りはもう感じなかった。ただ、蒼紫の目から見た事実を告げる。淡々と感情を抑える物言いは、しかし返って操の心を貫くようで見る見る顔色が青ざめていく。
「それでも俺はお前を迎えにきた。なのにお前はまだ”言わねばわからぬ”と言うのか」
 操の目から止まっていた涙があふれ出す。ぽろりぽろりと流れる今度のそれは後悔のためのもの。
 確かに蒼紫は言葉少ない男だが、間違っても金のために婚儀をするようなことはしない。仮に操への思いが恋慕でなかったとしても、大切に思ってくれている。それは疑いようのないもので、蒼紫が己の欲のために操を利用するはずない。少し考えればわかったものを芸妓の話を鵜呑みにし何もかもが嫌になり旅に出た。日頃あれほど蒼紫を好きと豪語し、敬愛していると憚っていたはずが、肝心のところで疑った。恥ずかしくて、情けなくて、申し訳なくて、涙がとまらない。
 部屋は静まりかえっている。操の鼻をすする音だけが不気味に広がって、湿ったとも、乾いたともつかぬ珍妙な空気が流れる。そこへ、
「まぁ、人の心というのは厄介でござるから。喧嘩両成敗でござるな」
 じっと顛末を見守っていた剣心が口を開く。されば不思議なもので場の空気を緩ませた。



「本当にいいの?」恵の問いかけに、
「うん」頷いて操は笑う。
 あれから操は「ごめんなさい」と涙ながらに謝り京都へ帰ると告げた。対して蒼紫は「明日の朝迎えにくる」と愛想なく答えて剣心とともに自分たちの宿へ引き上げた。
 そして今、恵と操は並んで敷かれた布団の上に横になりながら話をしている。
「素直にならなきゃ後悔するし」 
 続けた操の発言に恵は幾ばくか驚いた。
 恵としては素直になるのは蒼紫の方だと話し合いの間も、事態が一応の解決を迎えた後も感じている。結局、操は聞きたかった言葉を告げてはもらえず、はぐらからせた格好で京へ戻ることになったのだ。少しばかり甘すぎるのではないかとまで思っていた。それが――操が「素直にならなきゃ」と言うのだ。なんとも不思議なことのような気がした。
「操ちゃんは素直じゃない。何もあなたが謝ることなかったんじゃないの?」
 惚れた弱みで下手に出てしまう。そういうことが世の中にはある。操もまたそうなのだろうかと考える。しかし、恵には愚かなことだと思えて仕方ない。惚れていても己の矜持は守るべきではないのかと。
「うーん。でも私が謝らなかったら蒼紫さまはきっと”もういい”って言ってたと思うのよね。それでいいのかなぁ〜って考えたら、よくない! って思っちゃったんだもん。このまま意地を張って、それで私に何が残るんだろうって思ったら、何もなかった。そりゃさ、蒼紫さまを狡いって感じる気持ちがないわけじゃないよ? 結局、私が聞きたかった言葉は言ってくれなかったし、なんかもう煙に巻かれたって思うの。でもたった一言のために意地を通すほど私は強くないよ」
「そう」恵は短く返すのが精一杯だった。
 恵が操の立場なら折れたりはしなかっただろう。意地を張って、こっちから願い下げよ、ぐらいのことを言っていたかもしれない。しかし、それは操が言うように”強い”からではない。おそらく逆だろうと恵は考える。強いのは意地を通す自分ではなく、一時の矜持などより好きな人を選べる操の方だ。
 そして、恵の脳裏に過ぎる記憶。
 あの日――長い旅になると”わざわざ”告げにきた男。しかし、だからどうしたいのかそれから先のことは何も言わず。それ故に恵は「そう。馬鹿は風邪引かないっていうけど、体には気をつけなさいよ」と憎まれ口を叩いた。言って欲しい言葉を言ってくれないとそっぽを向いた。あの時、変な意地など張らず「私も連れていってよ」と自分から言えていたら――時折心に浮かぶ後悔を辛くなるばかりと奥底へねじ伏せてきたけれど。
 しばらく黙っていたせいか、気づけば隣から健やかな吐息が聞こえている。散々泣いて疲れたのだろう。恵は少しずれた掛け布団を直してやりながら、
「そうね。素直になれなくて後悔するより、ずっといいわ。私みたいに」
 つぶやきは切なさを伴いながら闇夜に溶けて消えていった。





第八話

 恵はほっと息を吐き出す。やはり家が一番だと自宅の玄関前でようやく気が緩んだ。
 それにしても今回の研修旅行は思いも寄らないことが起きた。操の家出騒動に巻き込まれ、同じく巻き込まれた剣心と再会するなど縁の不思議さをうねるしかない。
『生きていれば会える』――その通り、長らく会っていなかった懐かしい面々と過ごし、東京での日々へ戻ったようだった。しかしそれも会津への復路の間に落ち着き、今は長旅と研修の疲れの方が色濃く出ている。
 長崎では食事は外で済ませたが、自宅ではそうもいかない。出掛ける前、日持ちのしないものは整理している。夕食の買い出しにいかねばならない。もう面倒だし今日は食べず寝てしまおうか――考えながら玄関の鍵を開けようとしたが、
「――何これ?」
 扉へ紙が挟まれている。引っ張だすと二つ折りにされている。広げて見れば、

 今日も帰ってないのか
            左

 短く書かれてある。知った文字だ。間違うはずがない。何より「左」と名まで書いてある。誰かの手の込んだいたずらかと一瞬疑うが、あの男のことを誰かに話したことはない。そもそもそのようないたずらをする理由もない。ならば、本人である。
 恵は混乱しながら扉を開けた。すると、他にも挟まれていた紙がバサバサと床へ落ちた。随分と数が多い。

 まだ帰らねぇのか
 どこいってんだ
 居留守じゃねぇだろうな

 拾い上げると、口悪い言葉が綴られている。こんなことを書いて残すのはやはりあの男しかいない。そして、最後に拾い上げた一枚。一番下になっているから、一番最初に挟んだものだろうと推測されるが、

 藤の宿にいる
 
 書き置きの枚数から判断して、おそらく恵が長崎へ出発してすぐここを訪れたのだろう。それにしても、どうしてよりによってこの時期なのか。こうも見事な入れ違いになるとは悲しいというより滑稽だ。
 いや、それよりも――恵は玄関を出る。体は疲れていたし、もう眠ってしまおうと考えていたことも忘れ、足が動く。
 随分と時間が経過している。諦めて去ってしまった可能性も高い。それでも確かめなければと書き置きに記された場所へ向かう。
 宿までそれなりの距離がある。
 恵は走った。体力がある方ではなく、まして旅から戻ったばかりでどこへそのような力を蓄えていたのか懸命に走る。されば、すれ違う人々が「先生。急患ですか」と声をかけられるが答える余裕もないほど一心不乱で先を急ぎ、目的地へたどり着く。
「いらっしゃい」
 入ると、仲居の一人が恵を見つけて声をかけてくる。
「あ、の……ここに、左之助って、男が、泊まって、ない、ですか?」
 呼吸がうまく出来ずたどたどしくなりながら伝えれば、
「ああ、左之助さんですか。昨日まで泊まってましたが、今朝、出ていきましたよ。お知り合いですか?」
 宿を出た――待ちきれなくて旅立ってしまたと。返事を受けて恵はただ笑うしか出来なかった。



 目当ての人物がいないのなら長居をしても仕方ない。恵はとぼとぼと来た道を戻る。
 気落ちした心が体の重たさをより強める。家までの道がやけに遠く、このままでは今日中に帰りつけないのではないかと危うい足どりだ。
 長崎での操と蒼紫の騒動が恵の左之助への態度を考えさせることになった。自分は間違っていない。何も言ってくれない左之助が悪い。男なら白黒はっきり言えばいい。それを肝心な言葉を告げずにいる。中途半端な関係に苛立ちを感じながら、うまくいかなかったことを全て左之助のせいにして誤魔化してきた。だが、恵から思いを伝えても良かったのだと、臆病にならず言っていたら変わっていたものがあっただろうと――しかし、今更だった。そうしたいと思っても相手はどこにいるかもわからない。出来るときに出来ることをしなかった罰なのか。ただ、時折届く不定期な便り待つ以外の繋がりがなかった。
 ところが、恵が留守にしている間、その相手が会いに来ていた。じっと恵が戻るのを待っていた。昨日まで。
 本当にもう笑うしかない。
 最も会いたい人には会えない。それが人生というものなのか。それとも自分とあの男には縁がないということなのか。
――何してんだろう。
 家までたどり着くといよいよ気力が抜けてくる。悲しいのか可笑しいのか、辛いのか切ないのか。とめどなく溢れる感情が掴みきれず表情が崩れるが。
「なんて顔してんだ」
 玄関を開ければすぐそこで座っている男が声を上げる。
「…………――っ」
「鍵もかけずにどこいってたんだよ。女の一人暮らしにしちゃ不用心だな」
「あ、あ、あんたなんで――」
 驚きでまともな声を出せない。
「おう。久しぶりだな。元気してたか」
「久しぶりじゃないわよ! 宿に行ったらあんた今朝発ったって――……」
「ああ、あんまりにも戻ってこねぇから、一度東京の方へ行ってみようかと思ったんだけどよぉ…………なんつーか、ここまで待って諦めるのもなぁって途中で引き返してきたんだよ」
 さらりと口にする。数年ぶりの再会のはずが、まるで昨日別れたぐらいの気安さだ。
 恵は拍子抜けし次に段々と怒りの感情が出てくる。もし会えたら、言いたいことがあった。伝えたい気持ちがあった。その何もかもが吹き飛んで、
「あんたって、ホントにどれだけ人を振り回せば気が済むのよ!」
「なんでぇ、俺が何したってんだよ。相変わらず怒りっぽいな。そんなんじゃ皺が増えるぜ? ……それより腹減ったんだ、なんか食わしてくれよ」
 言いながら自分の家のように中へ入っていく。
「ちょっと、待ちなさいよ。話はまだ終わってない」
 恵の怒声が飛ぶ。
 ようやっとの再会だが、それだけでうまくいくほど甘くはない。長年の関係性というのは空白の期間があっても変わらないものらしい。
「さっきからキャンキャンうるせぇなぁ。せっかく会いに来てやったってのに少しは嬉しがったらどうだ。可愛くねぇ」
 左之助は足を止め振り返る。その顔はふてくされている。されば、先にふっかけてきたのはそっちでしょ。あんたに可愛いなんて思ってもらわなくて結構よ――そう喉元まででかかったが、
「……誰も嬉しくないなんて言ってないわよ」
 怒りながらもほんの少しだけいつもと違う態度をとる。されば左之助は目を見開いた。
 二人の間に奇妙な沈黙が出来る。
 言いたいことは色々ある。だが、軽口以外の会話をほとんどしたことのない二人である。どうしたものかと躊躇いがあったが先に口を開いたのは恵だ。
「出掛けてたから家には何もないのよ。買い物、つき合いなさいよ」
「……おう」
「それから――……おかえりなさい」早口に告げれば、
「ただいま」左之助の力強い声が聞こえた。