2012年読切

月の夜。

 夜が深まり月が美しい。
 京都は葵屋。縁側に座り空を仰ぐ姿は傍目には風流に見えるだろうが反して当人の心は落ち着きを欠いていた。
 世は江戸から明治へと移ったが、新しい時代が来ても人の心までもがまっさらになるわけではない。身体に染みついた感覚は肌に残っている。京都の地の匂いが過去の日々を思い起こさせる。
 緋村剣心は眠れずに、気を静めるように夜を見つめていたが。
「緋村?」小声ではあったが溌剌とした声はこの店の娘――巻町操だ。
「操殿」剣心は人好きのする笑みを浮かべた。
 操は剣心の隣に腰を降ろした。
「明日が満月なんだよ」
 眠れないの? と――見つかったのが自分の妻ならば心配するだろうが操は剣心の憂慮に触れない。気付いていないわけではないだろうが、それを気にするのは自分の役割ではないと考えているのだろう。剣心には気を許せる相手がしかと存在するのだから、余計な真似はしないと。
「でも、ほとんど満月みたいに見えるよね」
「そうでござるなぁ」
 二人で仰ぎ見る。
 しばし、そうして無言でいたがふいと風が出てきて頬を撫でる。それをきっかけのように、
「……緋村はさ、どうして神谷道場に――薫さんのところに留まろうと思ったの?」
 聞かれた内容に剣心は操へ視線を移す。操は相変わらず空を見つめたままだった。先程の風に乗って雲が流れて輝く月を隠してしまったらしく「あ〜見えなくなっちゃった」と付け足した。
 一方、剣心の意識は問われた内容に向かった。
 何故。そのようなこと考えたことはなかったが、言われてみると不可思議な気がした。京都を去り、流浪人として各地を転々とし、その期間十年である。己はもう二度と誰かと共に過ごすことなどないと思っていたが――幾度目かに訪れた東京で"人切り抜刀斎"を語る者が闇打ちをしている事件に遭遇した。抜刀斎の名に未練などなかったがそれでも悪行をほおっておけぬと動いた。奴らの目的は神谷道場。その一人娘である神谷薫とおのずと関わりを持った。されど、全てに片が付けば終わりだ。また流れる。それがいつものこと――己の正体がバレれば快く思われぬから姿をくらます。しかし、薫は自分を厭わなかった。だから、神谷道場にしばし留まることにした。
 否、これまでも"厭われなかった"ことならあったのではないか。
 人助けをしても正体を知られれば恐れおののき去って行く者もいたが、過去に何がろうと関係ない。助けてくれた事実に変わりない。そう言ってくれた人もいた。流れていた十年、親しみを込めて留まることを促してくれた者も大勢いた。だが、そのどれにも応えなかった。それが、何故、あの時だけは、神谷薫という娘に言われた時だけは、さればしばらく厄介になろうと思ったのか。
 改めて思えば奇妙なことである。
「さぁ、どうしてでござろうか」
 剣心は素直な感情を告げた。それで操が納得するとは思わなかった。はぐらかさないで教えてよ、と言われるだろうと予想をした。しかし、そう言うより答えようもなかったのだが。
「そうだよねぇ」意外にも操は頷いた。「理由なんてわっかんないよね」
 理由を知りたいと聞きながら、理由がわからないことを最もだと思っている様子が矛盾して見える。
 操は続ける。
「私が蒼紫さまを好きなことを、それは本当の好きじゃないって言う人がいるんだよ。刷り込みっていうの? 幼い私の世話をして大事にしてくれたから、感謝の気持ちを錯覚して好きって思い込んでるだけとか。最初はそんなことない! って言い返してたんだけど、あんまりにも言われるからじっくり考えてみたの。確かに、私の世話をしてくれて、大切にしてくれたっていうのはあると思う。でも、それなら他にもいるんだよね。その中で、蒼紫さまだけを好きになった。けど、その理由がどうしても説明できなくて――緋村はどうだったのかなぁって思ってさ。緋村だって薫さんと出会う前に親切にしてくれた人がいてたはずでしょ? でもずっと流浪人をしてた。それが薫さんのところにだけは留まった。何か理由があるのかなぁって、一度聞いてみたかったの」
「左様でござったか」
「うん。……でも、緋村の話を聞いて、私は確信したの! 好きって気持ちを持つのに説明なんてつくわけない。同じ風にされても、何故かその人にされたときだけは反応をしちゃう。もうね、理由とか、理屈とかないの。勝手に反応しちゃうの。それこそが本当なんだよ。だからさ、その気持ちから逃げないでちゃんと向き合うべきなんだよ。どうしてとか、なんでとか、そんなこと考えないで幸せにならなくちゃ。そのために出会ったんだからさ、きっと――……あ、晴れたよ! また月が出てきた!」
 操はさっと空に向けて指をさし剣心を見る。何の迷いも淀みもない満面の笑みを浮かべた幸せそうな表情につられて笑う。
「やっぱり月って綺麗だよね。お月見したいなぁ」
 言いながら操はまた空へ視線を戻し、剣心も同じように仰ぎ見る。
「左様でござるなぁ」
――明日の満月は薫とともに見ようか。
 今頃はぐっすりと夢の中にいる妻のことを思う。健全で規則正しい生活を送ってきた薫は夜がそれほど得意ではない。うつらうつらとするかもしれない。それでも剣心からの誘いを断ることはないだろう。嬉しげにうなずいてくれるはずだ。
 視線の先は明るい。どこか寂しく映っていた月が眩さを増したように感じられた。