2013年読切
お誕生日、おめでとう。
「蒼紫さま、お誕生日おめでとう」
言われて、蒼紫には珍しく面食らった。
夜、葵屋の暖簾を下ろし、明日の準備も整え終わる頃には午前様になる。その日も例外ではなく、夜が染みるように広がる時刻にようやくの静けさが訪れた。これからしばしの己の時間だ。さて、少し書物でも読むか――と灯りの元へ広げれば操がやってきた。
蒼紫が葵屋へ戻った当初こそ、昼夜を問わず後ろをついて回ってきた操だが、女学校へ通うようになってからは少しばかり距離が出来た。夜更かしすれば授業が身に入らない。あまり悪い成績では蒼紫にも呆れられ、愛想つかされるぞ――と翁の言葉が思いのほか効いているようで真面目に通っている。授業中居眠りなどしないよう店が閉まればすぐに眠る。それ故に、夜、蒼紫の部屋にやってきて、どこで仕入れてきたのやらわからぬ小噺をすることもなくなったのだが。
「西洋ではね、生まれた日を盛大にお祝いするんだって。授業で教えてもらったの。蒼紫さまは睦月の生まれでしょう。だからお祝いしようって思って。でもね、日にちまではわっかんないから、どうしようかなぁって考えて……思い立ったら吉日っていうじゃない? だから、早速」
それで、日付が変わって真っ先に蒼紫のところへ来て祝いの言葉を告げた、ということらしい。
「なるほどな」
「うん。なるほどなの。これからは毎年、お祝いしようね。それでね、私が一番におめでとうって言うの。」
明るく陽気な操は、お祭り行事が好きであると知っている。誰それの婚儀が決まった、誰それに赤子が生まれたと、知らせを受けると率先して祝いに行く。悲報よりも祝い事の方が良いに決まってはいるが、それでもそこまで人の幸福を祝えるものかと蒼紫にはいささか不思議に感じられた。――だが今は、蒼紫の生まれた祝いをすると告げる操の眼差しには、喜びよりも切ない感情が宿っている。
「操。」
蒼紫は、ただ一言、名を呼んだ。
操が何を思っているかよくよく承知している。”毎年祝う”との言葉は約束だ。毎年、祝えるように葵屋にいることを約束してほしいとの思いが込められている。
蒼紫が戻ってから数年の月日が流れたが、これまで操が「ずっとここにいてほしい」と口にしたことはない。態度はその通りであったし、いかように思っているかは筒抜けであったが、素直すぎるほど素直な操が言葉として告げないでいる。否を言われることへの恐怖心か――或いは、自由を。傷が癒え、ひとたび人生を生きる覚悟をしたのち、蒼紫が葵屋を選ばぬ可能性を慮っているのか。おそらくはそちらであろうと蒼紫は解釈していた。
かつて、操を葵屋に預けた事実。操の幸せを願ってのことであったが、幼い操を足手まといと考えた思いがなくもなかった。操はそれを理解している。だからこそ、「ずっと傍に」と望めずにいる。自分の存在が邪魔であるとの躊躇いが最後の言葉を飲み込ませる。何もかもを失い修羅となりかけた蒼紫を献身してきた自分がそれを口にすれば、蒼紫は拒否できないと遠慮させているのだろう。
それがわかりながら、操の憂慮を感じながらも、しかし蒼紫はそれについてこれまで触れたことはない。触れられなかった。取り返しのつかない過ちを犯した自分をもう一度受け入れてくれた葵屋の、操のことを有り難いと思っている。有り難いと思えば思うほど、操を置き去りにしたあの日の決断を覆すことに躊躇いが生まれる。それはあまりにも虫が良すぎる気がして、都合よすぎる気がして、それこそ助けてもらった恩から操を求めているのだと思われるのではないか――妙な矜持が顔を出し逡巡させる。
だから、時間が必要だった。月日が。そして曖昧な関係、曖昧な状態で居続けたのだ。しかし、いささか待たせすぎでもいると近頃になって感じ始めてはいた。いい加減、男にならんか。そうでないならば、操をよその男に嫁がせると翁からも言われたところだ。
「操。」もう一度、名を。だが、その声は強い。
「うん。」操は蒼紫のいつにない雰囲気に息を飲む。
「すまない」
続いた言葉に、一瞬で表情が崩れた。
謝罪は、よくないことの前兆。聞きたくないことを聞かせられると操の身体に緊張が駆け巡るが。
「お前の誕生日は祝ってやらなかったな」
「へ?」
「お前の誕生日は霜月だろう。もう過ぎている。祝ってやれなかったなと思ってな。俺ばかり祝われるのは不平等だろう。すまない」
「……い、いいの、そんなのは全然。別に……気にしないで」
予期した”最悪”の状態ではなかったことに操はわかりやすく安堵しながら続けた。
「そうか」
「そうだよ」
「そうだな。過ぎたことを悔やんでも仕方ない。霜月は今年も巡ってくる。来年も、再来年も。これからは毎年お前の誕生を祝おう」
蒼紫は真っ直ぐに操を見つめた。
操の動きはまた固まる。
蒼紫が自分の誕生を祝ってくれる。嬉しい事実であったが、それだけではなく言わんとする決意がその生真面目な眼差しを伝い流れ込んでくる。
「……ホント?」
「ああ」
「来年も、再来年も、……この先ずっと?」
「ああ」
操は右手で唇を掴んだ。ぎゅっと力を込めて、溢れてくる何もかもを飲み込む。すると出口を奪われた感情は体中を巡り巡ってやがて目頭を熱くさせるが、それもぐっと息を止めて制止して、ただ満ちてくるすべてを噛みしめる。
長い時間をかけて夢見た未来を、今、確かに掴んだ。
「明日も早い。そろそろ部屋に戻れ」
照れからか、本当に明日のことを思ってなのか、蒼紫は素っ気なく述べた。普段であればその様子に、操はふてくされていただろうが、今日は素直に頷く。
「そうだね。うん。明日は忙しいもんね。夜はね、蒼紫さまのお誕生日会をひら……あ、しまった。これはまだ内緒だったんだ。今のなし、聞かなかったことにして! じゃあね、おやすみ」
浮き足だっているらしく、じっとはしていられないのだろう。まくし立てるように告げると蒼紫の部屋を後にする。廊下を走っていく音と、しばらく先で「お増さーん、お近さーん。聞いて―」と叫ぶ声が響いた。
Copyright(c) asana All rights reserved.