2013年読切

追いかけていたもの

 わたしは、考えている。
 東京を出て京都へ向かう蒸気船の中でもわたしの心は実のところ揺れていた。
「さよなら。」と言われたのだ。別れの言葉をあれほどはっきりと告げられた。それでも会いに行って、私は何がしたいのだろう。剣心は命を懸けて戦おうとしているのに、ただ好きで、会いたいと思って、それで会いに行っていいのか、迷う気持ちが強くあった。そうであるのに心のどこかで、会わなければならない、とまるで使命であるかのように感じてもいた。それが、どういうところから沸き起こってくるのか、わたしはずっと考えていた。





「ねぇ、薫さん。薫さんは好きだけで緋村を追いかけてきたわけじゃないんでしょう」
 言われて、薫は操の顔を見つめた。
 京都・白べこ。夕餉を食べ終えて用意された客間に引き上げてしばらく、風呂が沸いたのでどうぞと勧められて、先に弥彦が使わせてもらうことになり、一人きりですることもなくぼんやりしていると、操が訪ねてきた。
 操は面倒見のいい気質であるらしく、何かと薫と弥彦を、とりわけ薫のことを気にかけていた。年が近いこと、操もまた好きな相手を探し日本全国を旅しているという共通点がそうさせるのだろう。
 先日、ようやく緋村剣心に再会できたときも、操は我がことのように喜んでくれた。
 ところが、せっかく会えたというのに、その後、当の本人の薫はどこか物憂げだった。なるべく表に出さないようにしているが、操は人の変化に鋭敏な性質で、気になり様子を見にきた。
 畳の上で足を崩して座っていた薫の傍に座った操は正座だった。甚平という動きやすい服装の操は胡坐をかくことさえあるが、今は思いつめたように神妙な態度なので妙だなと思ったら、続いた言葉も真剣だった。
 好きなだけで剣心を追ってきたわけではない――言われたことを薫は反芻させてみる。
 自分は、剣心が好きだから追いかけてきた。あんな風に別れを告げられて納得できなかった。だから、追いかけてきた。でも、それだけではないんでしょ? と操は言う。そこにどういう意図があるのか、薫は黙ったままで操の次の言葉を待てば。
「……あたし、本当は、わかってたの。」
 操は続けたが、その言葉もいまいち要領を得ない。
 混乱、しているのだろうと薫は思った。
 操もまた、長年探し求めていた人物・四乃森蒼紫との再会をつい先日果たしたが、操のそれは残酷な現実を突きつけてくるものだった。
 蒼紫はかつての誇りを失い修羅と化し、剣心の居場所を知るために同胞であった翁を血の海へ沈めた。
 それでも操は気丈に振る舞い、道を踏み外した蒼紫を自らの敵だといい、倒すべき相手とまで言った――だが、本心ではそれでも蒼紫を切り捨てることは出来なかった。
 一命を取り留めた翁が、剣心に蒼紫の安息のために殺してやってほしいと願い出たとき、だが、剣心が蒼紫の安息は死ではなく、ここにあると、必ず連れ帰ると口にし、聞いていた操は涙を流した。ずっと泣くことがなかった操が、蒼紫を憎まずにいていいと言われ大粒の涙を。
 薫は佇まいを直し畳に手を付き、操を向き直る。
「あたし、知ってたのよ。本当はね、わかってた。蒼紫さまの身に、辛いことが起きるだろうって。蒼紫さまが進む先に幸せがあるなら、あたしを葵屋に預けたりはしない。一緒に連れて行ってくれる。でも、そうせずにあたしを置いて行った。それは蒼紫さまの向かう先に幸せがないからなんだ」
 幸せになるなら、必ず連れて行ってくれる――そう言い切る操に薫は圧倒された。四乃森蒼紫、という人物について薫は直接知らないが、恵や弥彦の話から冷徹で冷酷な人間であると思っていた。その男を、操は”自分の幸せを願う人”と信じている。僅かの揺らぎも迷いもなく、自分を置いて行ったのは蒼紫が幸せになろうとしていないから、自分を巻き込みたくないと置いて行ったと告げた。
 ジリリと薫の心を焦らす。
「だから、あたし、探さなくちゃって思ったの。好きだから蒼紫さまやみんなに会いたいって気持ちもあったけど、それだけじゃなくて、探してみんなで幸せになってって、そうしようって言いたかった」
 探し出せたとしても具体的にどうしていくのか、操に考えがあったわけではないだろう。それでもじっとしてはいられなかった。自分の大好きな人が、幸せではない道を歩もうとしているのを黙っているわけにはいかない。
 聞かされて、薫の心を焦がしている思いに今度は息苦しさを感じ始めた。
 操が蒼紫らを探して旅を始めたのは齢十二の頃だと言っていた。子どもとも呼べる少女が、たった一人で日本全国を旅して探し回る。並みの行動力ではないことに驚き感心しながらも、無茶で無謀な真似が出来るのは幼い故に、世間の怖さを知らない故なのかもしれないと考えていた。好きという気持ちに突き動かされての、己を顧みない行動なのかと。――しかし、操のそれは、ただ好きで会いたくてという気持ちだけではなかった。
――みんなで、幸せになろう。
 幸せ。その一言は薫の内にあったもやもやとした感情を晴らしてくれる強さがあった。
 剣心に別れを告げられて辛かった。置いて行かれて寂しかった。生まれて初めて人を好きになり、その人が目の前からいなくなる、それがこれほど苦しいものだとは知らず、気力を失い寝込むまでに至った。その姿を仲間たちは叱咤し、連れ戻しに行かなくてどうするのかと発破をかけられ、ようやく京都へ向かった。けれど、その道中でも薫には迷いがあった。剣心に会って何を言えばいいのか。何が言いたいのか。好きだから戻ってきてほしい――それは一つの事実であるけれど、それだけではない何かがあるような気がして、だが、その正体を掴みかねていた。
 しかし、ようやく、思い至る。
 薫は剣心に幸せになってほしかった。
 さよならと去ったのは、薫の身を危険にさらしたくはないとの思いからだが、裏を返せば剣心は危険に身を投じるという意味だ。そこへ向かうことが剣心の幸せであろうはずがない。
 剣心が幸せにならないなら、薫も幸せになどなれない。好きな人が幸せではないのに、自分だけ安全な場所に身を置いて、ではまた別の誰かを好きになって幸せになろうなど思えるはずがない。
――馬鹿にしないでよ!
 ふっと生まれるのは怒りだった。
 自分がいなくなっても薫は幸せになると、剣心が思っていたとしたらこれは怒り狂っても誰も文句は言わないだろう。薫はそれほど薄情な人間ではないし、それほど容易い気持ちで剣心といたわけではない。
 もし剣心が自分の幸せのために薫を切り捨てるというなら諦める。悲しくてやるせなくて恨むかもしれないが、剣心が幸せになるというなら、諦めてあげる。でも、そうではないなら、諦めたりしない。――だから、薫は追いかけてきた。京都まで、剣心を、剣心の幸せを、追いかけてきたのだ。
 自分の望みだけならば、泣き果てて諦めていたかもしれない。我欲だけなら、情熱が保てるはずがない。だが、操も、薫も、自分のためだけに思い人を探す旅をしたわけではない。彼らの幸せを、彼らの代わりに追いかけた。どうしても幸せになってほしかったから。――彼らを幸せにしたかった。
 自分が何を思い、何を言いたかったのか、なかなか言葉にならなかった思いが綺麗に整理されると、薫の内から迷いは消えていく。
「……結局、あたしは間に合わなかったけどさ……って、そういうことを言いたいわけではなくて、あたしがいいたいのは、えっと…」
 薫は操の膝に置かれている手に自分のそれを重ねるとぎゅっと強く握った。
 楽観視はけして出来ない。これからの戦いを思えば不安はある。出来れば今も、この戦いを止めてほしいという気持ちがないわけではない。だが、剣心はけして止めたりはしない。ならば、薫に出来ることは信じることだ。
 薫が笑顔を浮かべると、操ははっとした顔になり、それから握られていた手に自分もまた力を込めた。
「信じて、帰りを待とう」
 そして帰ってきたら、今度こそ一緒に幸せになろう――薫はそっと願いを込めた。