2013年読切

最期の願い

 敵から目を背けるな――戦いのいろはとして最初に教えられたことである。相手からけして目を背けぬことが勝機を呼ぶと。
 だがもう開けていることが出来ない。般若は遠のく意識の狭間で詫びた。
 踏ん張ることも出来ず倒れる身体が重たい。受け身を取り衝撃に備える力も残されておらず、ドサリと鈍い音が耳に届いた。不思議と打ち付けられた痛みを感じない。ガトリング砲で撃ち抜かれ満身創痍の状態では床に落ちた程度の痛みはもはや知覚しないのだろう。痛覚は飽和する。
 閉ざした視界が真っ暗に塗られ完全に色を失う。
 私はこのまま死ぬのだろうな――傍に潜む死神の息遣いを感じ取れば、じわりじわりと瞼の裏側が白く滲んでいく。



――ろくろう。



 声がした。名を呼んでいる。その声に覚えはないが、般若をろくろうと呼ぶ者は限られている。
 ろくろう――般若が親から付けられた名前だ。どのような字を宛てるのかは不明である。字を覚えるより前に、口減らしにあった。己の名も書けぬ幼いころに、山に捨て置かれた。
 ろくろうのろくは六と書くのだろうと推測する。己に兄弟姉妹がいたことはうっすら覚えている。六より前の数がその人数であろう。彼らの顔は覚えていない。
 ろくろうを捨てたのは母であった。
 その日、朝早くからろくろうは家を出た。母と二人きりで出かけた。そのようなことはこれまで一度もなく、出かけるとなれば、兄弟姉妹の誰かが一緒だった。しかし、その日は誰もついてこなかった。ろくろうはおかしいとは思わなかった。それよりも母と二人で手をつなぎ歩くことが嬉しかった。誰にも邪魔されぬ母と二人だけの時間は喜ばしいものであった。
 母は優しかった。山道は幼いろくろうには大変なものであったが、見上げれば母の優しい顔があり、辛い気持ちが和らいだ。茶屋店で団子も食べさせてもらった。餡子の入った団子など生まれて初めて食べた。あまりの旨さに驚けば、母は笑った。
 どれほど歩いたか、流石に足がくたくたになった。
「もう少し先に水飲み場があるから、そこで水を汲んでくる。お前はここでまっておいで」
 母が言って、ろくろうの手を離した。
 ろくろうは母の去っていく後ろ姿をじっと見ていた。母は不自然に肩を上下させていた。息が上がっているのか。母の方が休むべきではないか――ろくろうはそう思ったが何故だか引き留める声が出せなかった。母は一度も振り返ることはなかった。
 一人きりになると、気にも留めなかった山々の声が聞こえた。風に揺れる枝葉のざわめき、カラスか鷹か鷲か――それともろくろうの全く知らぬ生き物か、姿の見えない鳴き声に背筋が凍りつく。
 日が暮れ、周囲が闇に包まれると、それらの声が止み、今度は不気味な静寂が訪れた。ろくろうは一人きりになった。闇の中で一人きり。
『俺は、捨てられたのか』
 腹は立たなかった。何故、とも思わなかった。ただ、悲しかった。悲しくておかしくなりそうだった。膝を抱え丸くなり息をひそめても漏れる嗚咽が夜に飲まれていく。それでも怒りが生まれないのは、心の奥底で信じていたからだろう。母が思い直してくれるのではないか。やはり捨てることは出来ないと戻ってきてくれるのではないか。信じていたから、悲しくとも怒りは生まれなかった。されど、ろくろうの思いは叶わない。母がひとたび姿を現すことはなかった。





――ろくろう。ろくろう。お前は生きていたのね。



 また声がした。声の主に抑揚はなかった。
 ろくろうが生きていることを喜んでいるのか、悲しんでいるのか、どうでもよいのか、声だけではわからない。

 




 ろくろうは生きていた。
 山中に捨て置かれたとわかってからも一歩も動かず、腹が減り喉が渇いても何処へも行かなかった。行く場所もなかった。母が戻って来てくれぬならばここで果てると覚悟もしていた。それでも心細さに涙は止まらず、泣くほどに飢えは酷くなった。そこへ、一人の男――否、ろくろうとさほど年齢の変わらぬだろう少年が現れた。
「いつからここにいる」
 少年はろくろうに告げた。事情を聞くことはなかった。口減らしは時世である。見ればわかるということだろう。 
 ろくろうはしばらく考えた。夜が明けて、日が暮れて、それが三度はあったように思うが覚えていない。そんなことに興味はなかった。
「三日はいる」
 答えれば、少年は、そうか、と頷き
「お前の運強さを買った。ともにこい」
 この山には獣が出る。遭遇すれば非力な子どもなどひとたまりもない。危険な場所で三日も無事でいた強運を買う――少年は言った。
 左様に危険な場所に自分は置いて行かれたのかと、ろくろうは知った。ならば一思いに手にかけてくれたらよかった。獣に引き裂かれるくらいなら母に殺された方がよい。母はろくろうを殺せず、そうであるのに生き残る見込みのない山へ置いて行った。
――俺の命を”本当に”捨てたのだ。
 どうなってもよいと。知らぬと。捨て置いた。
 その捨てられた命を、少年は買うと言った。ろくろうは頷いた。
 少年は徳川幕府に仕える隠密集団・御庭番衆の一員だった。
 ろくろうは少年から拳法と文字を教えられた。ろくろうとそれほど年端は違わぬが、少年は圧倒的な力と大人も舌を巻くほどの聡明さを持っていた。ろくろうは次第に少年を崇拝し始めた。運強いと告げられても、何が運強いものかと思ったが、この少年の目に留まった己の身は、たしかに運強いと思った。
 ろくろうは少年へ――四乃森蒼紫という人間へ終生の忠義を誓った。
 己の鼻を削ぎ唇を焼き”どんなものにも化けられる”顔になった。それが忠誠の証。蒼紫の手足として働く。それがろくろうの生きる意味となった。
 蒼紫はろくろうに面を与えた。般若の面である。
 般若というのは智慧を意味する。
 蒼紫の智慧。懐刀。
 それより以降、ろくろうは般若と名乗った。





『母さん』
 般若は声にならぬ声で告げた。
 そのように親しみを込めて呼び掛けているのが可笑しかった。
 自分は捨てられたのだ――そう理解した日から般若が家族のことを思い出したことはなかった。思い出さぬようにした。言っても仕方のないことだと諦めた。諦めきれると思っていた。
 だが、心の奥底では気詰まりなものとして重たいしこりが出来ていた。
 そしてそれの捌け口となったのは一人の幼子だった。





「私がで、ございますか」
 御頭から直々の呼び出しに何事かと思えば、幼子の面倒を見ろと命じられる。
 御頭には娘が一人。離れて暮らしていたが、その娘が死に、残された孫を引き取った。話には聞いていたが、その孫娘の世話をするようにと。
 何故、左様な命を申されるのか――般若は納得しかねた。
 蒼紫は薩摩へと向かっている。しばらくは戻れぬ任務である。般若は同行出来るものと考えていたが、屋敷に留まるよう命じられた。それだけでも不満があるのに、更には幼子の世話役にと言われれば”能無し”と見下げられたように思えた。
「不服そうだな」
 御頭は般若の心を承知して尚も世話役を撤回させることはなかった。
「お前に、必要なことだ」
 幼子の面倒をみることが必要とはいかな意味か。般若には理解できなかったが、命令は絶対である。渋々だったが従うより他になかった。
 幼子の名は操という。事前に知らされた情報はそれだけだった。
 指示された部屋へ向かえば操は位牌を前に静かに座っていた。
「ちちさまと、ははさまは、二人仲良くお亡くなりになられてしまわれたの。けれどね、お二人一緒だから、きっと寂しくはないと思うの」
 誰にというわけではなく凛とした通る声だった。
 般若は傍に座り儀礼的に手をついて深々と頭を下げる。
「般若と申します。これから操様のお世話をさせていただく者です。どうぞなんなりと申しつけください」
 顔を上げれば操は位牌から般若へと体を向けていた。
 幼子が懐きそうな顔に変装することも出来たが何もせず、普段のように般若の面をつけていた。この姿を怯え厭うてくれたらお役御免になるとの打算があってのこと。
「般若? 般若とはそのお面のことでしょう? あなたのお名前は何というの?」
 ところが操が面に怯えることはなかった。般若は思惑が外れたことより僅かも怖がらぬ様子に驚いた。
 操は大きな目でじっと般若を見つめて返事を待っている。
「私に名はありません。般若と呼んでいただけましたら、お応えいたします」
「ふーん。」操は般若の答えに満足しなかったのかつまらなそうにつぶやいて「般若様は、いつもそのお面をつけているの?」
「操様、どうぞ私のことは呼びつけにしてください。様は、不要です」
「……けれど、般若様は操のお世話をしてくださるのでしょう。ちちさまと、ははさまのように」
 だから、様をつけるのだと主張する。
「いいえ。私は操様の父上様や母上様とは違います。どうぞ呼び捨てにしてください。そうでなければ私が叱られてしまいます」
「操が様をつけて呼ぶと、叱られるの?」
「左様でございます」
「けれど、操の世話をしてくださるのでしょう」
 般若が叱られるのは困るが、世話をしてくれる相手を呼び捨てにしてはいけないと感じるらしく、どうしたものかと悩み困った顔をする。
 すると、襖が開かれた。
 御頭であった。
「おじい様」
 操はぱっと大輪の花が開いたような笑顔を向ける。 
「おお、操。いい子にしておったか」
 昼には任務から戻ると聞いていたが、戻ってすぐ愛孫の様子を見に来た。目の中に入れても痛くはないとはいうが、まさにその通りである。
 般若はなんともいえぬ心持ちがした。己は親に捨てられた。血のつながり、温もりを絶たれて生きてきた。羨ましいと――よもや左様なことを思うほど幼くはなかったが、それでもこの幼子は般若の失ったものを持っているのかと思えば何とも言えぬ気がした。
「おじい様。操は困っているの。」
「何を困っておるのじゃ」
「般若様を様付けで呼ぶと、般若様は怒られるって言うの。けれど、操のお世話をしてくれるというのに、呼び捨てにしてはいけないでしょう。だから操は困っているの。」
 そのようなことを御頭に言われてしまうとは思ってもみずひやりとした。
「ほうか、ほうか。ならばのう、『君』と呼べばよい」
「君?」
「左様。君とは親しみや敬意を込めて呼ぶときに使うものだ。それならば般若も困らんだろう」
「うん。わかった」
 操はひとたび般若の前に来た。
「般若君」
 般若はどうしてよいものか困る。そのような呼ばれ方をされたことはなかったし、答えてよいものか。否、御頭がそう呼べと仰ったのだから返事をするべきだろう。
「般若君。」
 返事を待ちきれず操がもう一度呼ぶ。
「はい、操様。何でございましょう」
 告げると、操は笑った。御頭に向けた花のような笑みを浮かべた。
「般若君はいつも般若のお面をつけているの? 他のお面もつけたりするの?」
 他の面もつけるなら、もっと別の物にしてほしいと言われるのかと考え、平然と己の願望を口に出来る態度を我儘と感じた。般若は快く思えずに黙る。己の変装は蒼紫の役に立つためのものであり、幼子のためのものではなかった。
「他のお面を持っているなら、操にも教えてね。だって、そのお面以外のお面だと般若君がどうかわからなくなるでしょう? そしたら困るでしょう?」
 しかし、操は般若の思いもよらぬことを言った。
 憤りを感じ不快に思った毒気が抜かれる。
「いいえ、操様。操様がお呼びになれば、この般若どこへなりとも参ります。操様のお傍にいるのが般若です。それ故、ご心配はご無用です」
 般若は少しばかり決まりが悪くなりながら答えた。

 操は天真爛漫な子どもだった。
 喜怒哀楽も大きく、お転婆な女児だった。
 両親を失った幼子を皆が可愛がった。御頭の愛孫ということで大事に扱われた。
 般若はそれが理不尽に思えた。これまで命を救ってくれ生き場所を与えてくれた御庭番衆を有り難いと感じてきたが、されどここはけして居心地の良い場所ではなかった。無能な者を切り捨てられる。般若は生きるために、己の住み場を守るために必死だった。日々の修練に励み、人に面と向かって言うことのできぬ仕事も多くしてきた。
 非力な者はいらぬと捨てられる。それが世の常ではないのか。力がないために般若は母に捨てられた。ここでも力がないなら排除される。だが、操は、何をするわけでもなく、甘やかされ、大事にされている。
 己と操の何が違うのか。ただ、御頭の孫であるそれに尽きる。
 般若にはその事実が理不尽に思えた。
 命令であるから世話はしたが、懐いてきても必要以上のことはしない。般若は操を嫌った。疎ましいと感じ冷たくした。そうであるのに操は般若に親しげに話しかけてきた。よほど鈍いたちなのかと、操の様子に苛立ちは増していった。

 事件が起きたのは、そんな頃だった。

 操の姿が消えた。
 部屋で大人しくしているようにと言っても聞き分けず、隙を見ては外へ遊びに行ってしまう。その日もいなくなり、般若は面倒と放っておきたかったが、世話役を命じられているのでそうもいかず、忌々しく思いながら探しに出た。
 大方の見当はついている。屋敷を出てしばらく行ったところに寂れた神社がある。その敷地の奥は林が広がり大池がある。池には鯉がいた。操は鯉が気に入り行きたいと繰り返していた。般若は操の頼みを聞き入れず何ら理由をつけて断り続けたので、しびれを切らして一人で向かったのだろう。
 案の定、操は橋の上から水面を見下ろしていた。
 さて、なんと声をかけるか。
 般若が思案しているうちに、こともあろうに操が池へ落ちた。鯉の姿を見ようと身を乗り出したのはよかったが幼子は頭が重い。こらえきれず落ち派手な水しぶきが上がる。駆け寄れば、操は両手でバシャバシャと水をかき溺れている。
 早く助けてやらねば沈みきる。
 されば、死ぬか――脳裏に掠めたそれが般若の動きを止めた。
 このまま見殺しにしてしまえば自分は世話役から解放される。少し手水に立っている間に姿をくらました。慌てて探したが見つけたときには手遅れであった。そう告げればよいのではないか。そもそも世話役とはいえこれは御庭番衆の仕事ではなく御頭の私用であるし、勝手して屋敷を抜け出したのは操だ。すべてを終わりにするために知らぬふりをしてしまえばいいのではないか。
「だすけて、だ……すけ、」
 池の水を飲みこみながらも懸命な声が聞こえる。
 水面には波紋が広がり続けている。池の鯉が異変にひょいひょいと頭を出して様子を伺っている。
「たすけ、」
 そうやって助けを呼べば誰かが助けてくれると思っている。
 甘やかされて大事にされて守ってもらえると考えている。
 般若は操を忌々しいと思った。日頃より感じていたよろしくない感情がここぞとばかりに増幅した。
 誰も助けてなどくれない。
 お前など、どうなってもいい。
「たすけて! ははさま。ははさま」
 渾身の力を込めるように操が叫んだ。
 もうこの世にはいない母親を呼んだ。
 その瞬間、般若ははっと胸を押さえた。その声が”あの時"出せなかった己の声と重なる。息が詰まる思いがし、じっとしていることが出来ず身を翻し池に飛び込み、今まさに沈み始めた操を抱きかかえる。小さな身体であったが水を含んだ着物は重く、必死にしがみついてくる力に邪魔されうまく泳げなかったが、それでもどうにか陸へ上がる。
 水が地面に滴り落ちれば泥に変わりぬるりとした感触がした。
 生えた草々がチクリチクリと着物の上から差し込んできて痛かった。
 うわぁぁぁぁぁっと泣き声がする。
 操は池に落ちた驚きと、溺れかけた恐怖と、助かった安堵感と、その体では受け止めきれる感情を吹き零すように般若にしがみついたまま大声を上げて泣いた。

 操を救い屋敷に戻ってから般若は倒れた。気が緩んだのか熱を出し倒れた。時々目覚めると首にねっとりとした嫌な汗を掻いていた。
 見慣れたはずの天井が高くなったように思え、頭の内から揺さぶられているような気持ち悪さがある。詮索方の任務で船に乗ったとき不慣れさで波に酔ったときと似ている。
「目が覚めたか」
 声が降ってくる。静かな声は御頭である。
 慌てて起き上がろうとする般若を制すると、
「操を、守ってくれたそうだな。礼を言う。今しばらく休め」
 御頭はそう告げると部屋を出た。
 一人残された般若はぼんやりとした。
 奇妙なことを言われた。御頭の言葉は般若に違和感を覚えさせた。
 溺れる操を一度は見殺しにしよう思ったが、母を呼ぶ声に突き動かされて気づけば池に飛び込んでいた。無我夢中で操を引き上げた。結果として操を助けた。それを御頭は”守った”と口にした。
 守るというのが実にしっくりこない。聞き慣れない。馴染みがなさ過ぎて気味が悪かった。
 守る。――般若はそっと胸の内で繰り返した。
 守るとは慈しみ育てることである。
 弱き者を大切にすることである。
 ふいと、喉が熱くなった。心が揺り動かされてわけもわからず目頭も熱くなる。そんな自分に般若は戸惑い慌てるが、泣きやむ術もわからない。何故泣いているのかもわからずに、隠すように右腕で目元を押さえた。
 思い返せば、般若が涙をしたのは、山中に置き去りにされ不安でたまらず嗚咽を漏らしたのが最後であった。自分は"本当に"捨てられたのだと自覚してからは一度も泣くことはなかった。御庭番衆としての厳しい修練でも一度も涙は流さなかった。それが今は泣けて泣けて仕方ない。
 泣いても誰も助けてはくれない。救ってはくれない。意味はない。
 強くあらねば。生きていくために弱さはいらない。
 悲しみなどいらない。
 御庭番衆として生きると決めてから、力をつけた。弱くあっては生きていけぬ。自分を拾ってくれた蒼紫に仕えるためにも強くあらねばと必死であった。そうやって生きてきた。
 その甲斐あって般若は力をつけた。
 その力で今度は人から奪った。情報を、物を、命までも奪い続けた。強くなるとは即ち奪う側に立つということであった。力のなかった”ろくろう”は母に捨てられすべてを奪われた。力をつけた”般若”は奪う側に立った。道理であると思った。
 奪うか奪われるか。
 般若の世界はそのどちらかであった。
 奪われたくないなら奪い続ける。
 されども、そうした日々を過ごすうちに般若は静かに混乱していった。どこまでいってもどれほど進んでも危うさがついて回る。危うさの正体は虚無である。空洞である。般若の心には空洞があった。その空洞は弱い故に捨てられた過去の寂しさだと考え、強くなれば自ずと満ちると思ったが、いくら強くなっても満たされることはなかった。
 般若は強さがわからなくなった。否、そもそも強さとはなんであったのか。
 ふつふつとあぶくのように生まれてははじけていく疑問だった。
 左様な日々に現れた幼い命。非力でひ弱で一人では何もできぬ幼子を皆が大事にした。
 御頭の孫であるから大切にされるのだとしても、強くもないのに何故捨てられずにいるのか、般若のこれまでを覆す存在に苛立ちはじめたが。
――違っていたのではないか。
 深く深くあった重いしこりが浮上してくる。
――俺は非力であるから捨てられたわけではなかった。
 般若が非力であるから捨てられたわけではなく、母が非力であるから守りきれず捨てざるを得なかったのではあるまいか。
 唐突に思いだされたのは母の最後の姿。”ろくろう”に背を向けて立ち去っていくその両肩が大きく上下していた。あれは泣いていたのだろう。涙で震えていたのだろう。守ることが出来なかった自分の非力さを泣いていたのだ。


「ほら、食べなさい」
 山へ入る前の茶屋店で、母が団子を食べさせてくれた。
 食うや食わずで、その日をどうにか乗り切る貧しい生活をしていた”ろくろう”は、菓子など当然食べたことがない。それを母は買って食べるようにすすめた。
 ふゆふゆとしているのに弾力があり、何より頬が落ちそうなほど甘いこれが団子というのか。ろくろうは感激した。ぱくりぱくりと頬張り夢中で平らげてしまってから、母が食べていないと気づく。
「母さんも食べればいいのに」
 容易く言った。己だけが食べたことへの後ろめたさからのことであったが、母の顔に一瞬の陰りが見えた。ろくろうに食べさせるだけが精一杯、それもなけなしの金子だったのだろう。これから山に捨て置く子に最期に良い目を見せてやりたかった。愚かで勝手な発想だが、それは間違いなく母なりのろくろうへの愛情でもあった。


 思い出せば般若はたまらなくなった。
 ずっと長らく忘れていた、忘れようとした記憶である。それが鮮明に思い出されることが皮肉に感じた。
 般若は母を憎みたかった。恨みたかった。されどそれが出来ずにいたのは母との楽しい思い出のせいだ。捨てるならばいらぬというなら優しくなどしてほしくなかった。そうすれば嫌うことができた。嫌うことが出来れば楽になれたかもしれない。だが、般若は母を嫌うことができなかった。ちらつく思い出に胸を痛めるばかりで、それ故、家族のことはなかったことにした。忘れるのがよいと思った。
 そうであるのに忘れきることも出来ず、今になって強く般若を揺さぶってくる。
 ”ろくろう”はつまらぬから捨てられたわけではないと。母にはろくろうを育てる力がなかった。ろくろうが非力ゆえにいらぬと捨てたわけではなかった。ただ、母に力がなかっただけである。――そう訴えてくる思いがどこからくるのかはわからない。母の気持ちなど般若には少しもわからない。顔もほとんど覚えていない、記憶の彼方の相手の気持ちなどわかりようがなかった。ただ一つ、はっきりとしたのは――般若が憎みたくなかったのだと。自分を捨てた母を恨みたくなかった。悲しみが怒りにすりかわり責め立てようとする気持ちとは裏腹に、最後に食べさせてもらった餡子の入った団子の味を嘘にしたくはなかった。 母は母であった。たとえ関係を断たれようとも。だがそれを素直に認めることができぬ仕打ちにあった。どうしようもなく、思い出さぬのが最善と忘れた。それでも忘れきれなかったのは憎しみでも恨みでもなく母追いする幼い己の心だった。




『母さん』
 般若はひとたび呟いた。やはりうまく声にはならない。  
 聞こえていたはずの声も、もう聞こえなかった。
 代わりに聞こえてきたのは、朗らかで、華やかなもの。


 


「般若君。」
「はい、なんでございましょう。操様」
 縁とは不思議なものである。熱が下がり具合がよくなった般若はあれほど疎ましく思っていた操を厭わなくなった。それよりもその小さな命に、あの日置き去りにされた”ろくろう”を重ねた。己がしてほしかったものを、母がおそらくしたかったであろうことを操にしてやるうちに、どうあっても埋まらなかった空洞が少しずつふさがっていく気がした。
 般若には力がある。
 その力は奪うばかりではないと知った。
「あのね、操にね、拳法を教えて!」
「拳法を、ですか」
「うん! 操は強くなりたいの。それでね、おじい様や、般若君を守ってあげる!」
 操は興奮気味に言った。
 力は大事な人を守るためのものである。ようやく知った般若であったが操はさも当たり前のことのように告げた。
「私を守ってくださるのですか」
「そうだよ」
「それは心強いですね」
「でしょ!」
 ならば私も操様を守りましょう――般若もまた約束をした。

 操の朗らかさに明るさに無邪気さに無垢さに触れるうちに、般若は人間らしさを取り戻した。
 真っ暗な闇の中をふらふらと歩く危うい生涯に必要なのは研ぎ澄まされた嗅覚である。それは獣になることだ。人では生きていけぬ道を進みつづけるうちに、どんどん遠のいていったもの。それをひとたび手に入れはじめた。光が差し込むように、泥の中に咲く蓮の花のように、殺伐とした日々の中でも、操の存在が般若の闇を拭い人に還らせた。
『お前に、必要だ』――御頭の言った意味を般若は理解した。
 そして、それを必要とするのは己だけではないことも。

「お帰りなさいませ。蒼紫様」
 長らくの任務から江戸に戻った蒼紫を出迎える。傍には操の姿もあった。
「おかえりなさいませー。あおしさまー」
 操は般若を真似て元気よく言った。
 蒼紫とは初対面であるのに親しげに帰りを出迎える。日頃は無表情の蒼紫もこの時ばかりは面食らった顔をした。この幼子は何者なのか、何故自分を嬉しげに出迎えるのか、わからずに困惑したのだろう。
「御頭の孫娘、操様です。……操様、こちらは四乃森蒼紫様。私の恩人でございます」
「般若君の恩人?」
 操は目をくりくりさせながら言った。
「左様でございます」
「それなら、操の恩人になるね! 蒼紫さまは操の恩人!」
 池から救い出してくれた般若は自分の恩人であり、その般若の恩人ならば蒼紫も自分の恩人であると――理屈としてそこまで可笑しいものではない気もしたし、操の扱いには慣れてきた般若には操が言いそうなこととほほえましく映ったが、しかし、初めて会った蒼紫には何のことやら話が見えぬ事態である。
 操は固まる蒼紫にずいずいと近寄って「蒼紫さま! 蒼紫さま!」とはしゃぐ。
 蒼紫は整った顔立ちをしているが、表情が乏しく、近寄りがたい雰囲気がある。その人物にひるむことなく怖がることなく抱きついていく様に般若は妙に感心する。そういえば、初めて自分と会ったときも、恐ろしい般若の面を怖がることはなかったし、池から救い出した後に寝込む般若を見舞いに訪れ素顔を見られたが、それも恐れなかった。流石御頭の孫娘である、と至極頷いていれば、
「般若」
 どうにかしてくれ、と珍しく――というよりも初めてだろう――蒼紫から助けを求められる。
 されば般若は確信する。自分がそうであったように、蒼紫もまた、操が必要であろうと。この幼子が蒼紫の凍てついた心には必要であろうと。


 般若が思惟した通り、やがて蒼紫にとって操は特別の存在となっていった。
 天才隠密と言われるが、その実、繊細な精神を持つ蒼紫の隠された脆さに、操が真っ直ぐ注ぐ信頼が安定をもたらした。蒼紫自身それに気づいているかいないかわからぬが、たしかに、操と過ごすときの蒼紫の表情は優しく穏やかであった。

 ようやく生きるということがわかりかけた。
 己の生涯を見つけたと思えた。

 しかし――再び居場所が失われる。

 時は幕末。徳川に仕える隠密集団は幕府崩壊により不要のものとなった。新たな人生を掴み去っていく者たちの中、戦いにしか生きる術のなかった者たちだけが取り残される。蒼紫と部下四人、それから操とが時代からはみ出し、方々を転々と旅した。その生活の間にあっても操の明るさは失われなかった。それがいかほど蒼紫らの頼りになったか。
 それ故に、蒼紫の決断は予想していなかった。
「操を、預ける」
 京都・葵屋。元・隠密御庭番衆である翁の切り盛りする店に預け置くと。
 蒼紫の決定に口をはさむ者などいないが驚きは隠せなかった。
 先の見えぬ道に操を巻き込むわけにいかぬと、気持ちがわからぬわけではないし、それが妥当であるとも理解するが、それでも――操の存在がどれほど慰めになっているかを思えば未練はないものかと。否、未練ならばあったのだろう。それ故に「預ける」と。事実それは永劫の別れを意味するものであるのに、預けると口にした。預けるとはそのうち返してもらうとの気持ちを表している。それが未練でないはずがない。

 出立は夜。日が暮れて夜に沈みきった頃に葵屋を出ることになった。
 太陽が昇るのを待たず蠢く闇に紛れるのが相応しいとの考えだろうと般若は解釈した。現実主義の徹底した御庭番衆において天才と謳われ齢十五で御頭につくほどの手だれであったが、蒼紫には左様な面があった。諸国の書物を読み漁るうちに身についてしまった情緒なのだろう。
 葵屋に身を置いている間、操の世話は女衆が見ることが多かった。増髪と近江女は操を実の妹のように愛でた。操も二人に懐いた。やはり女子同士の方が何かと都合がよいのだろう。その様子にここでの操の生活を確信できた。
 されど、その日、操はやけに蒼紫の傍にいたがった。操なりに虫の知らせを感じとっていたのだろう。うつらうつらとしはじめると、普段であれば女衆のどちらかに手を引かれて床につくのに、いやいやとぐずった。
「操。」蒼紫が眠るように促せば
「蒼紫さまも一緒なら寝る」
 蒼紫に子守唄を歌えと――左様なことを言えるのはこの世でただ一人、操だけであろう。
 立場上、また醸し出す雰囲気が、人を遠ざける蒼紫に屈託なく懐く操を蒼紫が厭うことはない。任務があれば出来ぬと泣く操を置いて出掛けたが、今は任務などない。御庭番衆の存在は必要ないと消えた。操の願いを断る理由はなくなり、いくらでも望みを叶えることができる。左様な身になったというのに操と過ごすのは今宵が最後である。今生の別れに寝かしつけてやるだろうと般若は考えた。
 蒼紫はひっついてくる操の髪を撫でた。長く骨ばった指先で丁寧に撫でると操は気持ちよいのか大きなあくびをした。
「今日は般若と眠れ」 
 しかし、蒼紫の口から告げられたのは般若の考えとは違った。
「般若君と?」
 蒼紫がいいと駄々をこねるかと思われたが、操は不思議そうに問うただけで、否とも是とも言わない。とろりとした目を再びこすっている。いよいよ限界なのだろう。蒼紫は操の身を懐に抱きあげた。
「般若」
 名を呼ばれ、般若は傍に寄った。抱えた操の身を託される。蒼紫の手から般若の手に渡されるそのほんの一瞬、蒼紫の操を抱く手に力が込められた気がした。
 面越しに蒼紫と般若の眼差しが合う。互いに無言だった。
 蒼紫は操が手から離れてしまうと懐手をした。別れは静かに済ませたと、それから般若が部屋をでるまで蒼紫が二人を見ることはなかった。

 操を抱いて廊下を歩いているうち夜風が吹いてきて体を抜けて行く。少し冷えたせいか用意された部屋につくころ、操の目は冷めていた。床に寝かせ、般若は傍に座った。
 日中、天気がよいからと布団を日干ししたところで、ふかふかとしているのか、ぬくもりに包まれるうちに離れた睡魔が近寄ってきて操は目をこする。
「さぁ、操様、おやすみください」
 般若は掛け布団をかけてやり、その上からあやすように優しくポンポンと手を置いた。
 世話役を命じられた当初のことが、思い出された。
 操は寝付きの悪い子どもだった。両親が死亡した経緯を詳しく知らされはしなかったが、病死ではなかったと聞く。操が眠っているうちにすべてが終わっていた。残酷な場面を見ることなかったことを幸いであったと人は言うが、それは他人だから思えることで、己の知らぬうちに両親が奪われる。残酷なことである。操が眠るのを嫌がるのは自然のこと。
「般若君。明日は、お花を見に行こうね」
 それもまた操の癖であった。
 明日の約束を求める――それはいなくならないでほしいとの願いだろう。自覚あってのことではないと思われたが、ただ、本能が、目覚めても知らぬうちにいなくなっていないようにと約束を求める。
 かつて、般若は操を厭うていたが、大切にされ甘やかされる幼子に身勝手な憎悪をむけたが、操も操で辛い経験をしていた。
「あのね、梅の花がね、とっても綺麗なの! 今日ね、おますさんと、おちかさんと、お花を見たの。今度はみんなで行こうね」
 操の言う”みんな”は、蒼紫と、般若と、べしみ、ひょっとこ、式尉である。されども、その”みんな”は今日で終わる。明日から操が示す”みんな”はここの、葵屋の人々になる。それが、操のためである。 
――恨むだろうか。
 般若はふと思った。同時に、己が置いて行く側になることを皮肉に思った。
「それでね、帰りにお団子を食べるの。般若君、お団子好きでしょう。餡団子!」
「左様でございますね。さぁ、もう眠ってください。夜更かしはいけません」
「うん。おやすみなさい」
 操は聞き分けよく眠った。疑いなく信用して眠りについた。
 ようやく夜、眠れるようになったが、明日になればまた眠れなくなるかもしれない。再び眠っている間、すべてが終わった事実を知り、目の前が真っ暗になるかもしれない。それもまた時の流れのうちに納まっていくのだろう。
 すやすやと寝息をたてる姿に指を伸ばしかけたが、はっとなり引っ込めた。
 般若はそっと部屋を後にした。

 葵屋を出ると、蒼紫と他の部下が待っていた。
「操は寝つかせたか」
「はい。……しかし、よろしいのですか。朝起きて我々……いや蒼紫様がいないとわかったら悲しみますよ」
 般若が言った。蒼紫の決断を否定するようなことを言葉にしたことはこれまでなかった。蒼紫は間違わない。信頼できる人物である。だがこの時だけは洩れでた。
「……操のことは翁に頼んである。心配ない……それよりお前たちこそ本当にこれでいいのか」  
 蒼紫もまた般若らに聞いた。
 皆、是と。他に道はないのだと異を唱えなかった。

 般若は今になり後悔した。
 あの時、己が止めることもできたのではないか。
 蒼紫は止めて欲しかったのではないか。

 蒼紫一人ならば、彷徨うことなどなかった。
 非力な部下を見捨てることが出来ず――蒼紫には力があった。力があったから、部下を切り捨てることが出来なかった。蒼紫に力がなければよかった。母がそうであったように、蒼紫に力がなければ、自分たちを切り捨ててくれただろうと思う。しかし、蒼紫はけしてそうはしなかった。捨てられた命を拾い、最後まで手放さず、傍に置いた。口数が少なく、厳しい面を見せるが、情に厚い人物であった。










 瞼に映っていた光景が再び黒く染まる。
 人は死に際に己の生涯を顧みるという――走馬灯――さしずめ今のがそうであったか。般若は思い至り、流れ去ったこれまでに、己の生涯に、熱くなる。
 けして褒められぬ人生であった。
 許されぬ罪も犯した。


――蒼紫様。


 生きている間、気恥ずかしさと、恐れ多さで口にしたことはなかったが。


――操様。


 血のつながりはなくとも、家族であった。
 失ったと思ったものは、失ってなどいなかった。別の形でそれ以上にものを己は手にしていたのだと。
 

――どうか、どうか、御二人に、

 
 願いが届くかどうか、般若に確かめる術はなかったが、それでも薄れゆく記憶の中で願わずにいられない。
 思い返せば生涯で何かを願うなどしたことがない。ならば唯一つ、一度きりの願いくらい、叶えてくれるのではないか。神というものが存在するならば、聞き入れてくれるのではないだろうか。
 般若は懸命だった。夢中だった。もう己に時間はない。何もなせない。それでも祈る。何よりもかけがえのない彼らの未来に、
 












――――――光が降り注ぎますように。