2013年読切
愛しているが言えない
春の夜、風がやおら温もりを帯びて眠りを誘う。
店が終わり操は蒼紫の部屋を訪れて繕いものをしている。その気配がいつになく静かであることを蒼紫は感じ取っていた。
操は素直な性分だが性格だけではなく肉体の面でも季節の移ろいをすんなりと受ける。春眠暁を覚えず、部屋に入ってきても大人しいのは眠気のせいだろう。眠気眼で繕い物など危ぶまれる。今日はもう休め、と声をかけようかと思ったが、しかし、蒼紫は口火を切らずにいた。操の気配を背後に感じながら読み物に耽る時が蒼紫には心地よい。
その始まりは随分と前である。心身ともに傷を負った蒼紫が葵屋に身を寄せ、禅寺通いに明け暮れていた日々が終わり、部屋で終始禅を組むようになり、緋村剣心たちが東京へ戻ってから、二月ほど経過した頃だろう。操が夜、訪ねてくるようになった。当初は、一刻もせぬうちに「遅いから戻れ」と促した。そげない態度であると蒼紫自身が感じていたくらいであるから、されている操にはもっと堪えるものだったろうが、操はそれでも毎日蒼紫の部屋を訪れた。
蒼紫は困惑した。操の真っ直ぐな思いに己が応えてよいはずはないとの思いと、操が訪ねてくることを嫌ではないと感じている事実との狭間で、どのような態度をとるべきか迷いが積もった。
答えを出せぬまま何度目かの春が訪れ、一通の手紙が届いた。緋村剣心から便りだった。神谷薫との間に一男をもうけたと書かれていた。
――あの男は家族を持ったか。
ならば自分もと、そこですんなり重い腰を上げられるほど器用な性質ではないが、少なからず蒼紫の内に広がっていた濃霧のような迷いを晴らせるだけの威力があった。人並みの幸せを持つ、という選択が必ずしも閉ざされたものではないと頭で理解する程度には蒼紫も強さを持った。
蒼紫の心は操の夜の訪れの時間に映し出された。操が部屋を訪れても無下に戻れとは言わなくなった。会話らしい会話があるわけではない。蒼紫は操に背を向けて書物を読み、操は邪魔しないように蒼紫の背を黙って見つめる。その静かなときが、少しずつ長くなっていることを操もまた気づいていた。小さな変化であったが、蒼紫の変化を操は傍で見つめ続けた。
山裾の湧き水が大河を作り出すように、やがてそれが大きな決断を生む。
去年の秋口、暑さがおさまり涼しげに過ごせるようになった夜のこと。いつものように操が蒼紫の元を訪れる。この頃になると、部屋に随分と長居をするようになっていたものだから、操は裁縫道具を持ってきて繕いものをすることが多かった。その日も持ってきて、針に糸を通そうと集中していた。すると、蒼紫から一言があった。
「そろそろ、よいかと思っているが……お前はよいか」
言葉はしかと操の耳に届いた。操は顔を上げて、チラリと蒼紫を見るが、こちらを振り返ることなく背を向けたままだった。口数の少ない蒼紫が話しかけてきた――貴重なことと操は喜び勇んで会話を続けようと必死になる。数年前であればそのような態度であっただろうが、よくも悪くも操もまた時の移ろいの中で変わっていた。蒼紫のわずかな態度に一喜一憂することなく、いうなれば度胸がついた。さらりと言われた台詞は、いろいろと抜け落ちて真意がつかめなかったが、蒼紫の態度からさほどの意味はないだろう、追求して読み物の邪魔をしたくはないし、何より手元の作業に忙しく、生返事のように「いいかも」と答える。どうとでも受け取れる曖昧なものだが、それきり蒼紫の方も何も言ってはこないので、操もそれ以上言うことはなかった。
それが”ぷろぽーず”であったことに気づいたのは翌朝。皆で朝餉を食べるため居間に集まりそれぞれの膳の前に座った。
「皆に、知らせたいことがある」
蒼紫が重々しく言った。
何事かと男衆も女衆も操も緊張する。唯一、翁だけは鼻歌交じりでご機嫌に見えた。
「操と祝言を挙げることにした」
手短な一言だが、一同はまず驚愕し、それからすぐに歓喜となった。ただ一人操だけは驚いたままで固まっている。
そんな話聞いていない。否、蒼紫が一人で決めてしまうということはないだろう。いくら操が気持ちを伝えているとはいえ、夫婦となるとはまた別。何事も生真面目な蒼紫が操に何も言うことなく、このようなことを言うはずがない。――されば、脳内に浮かび上がるのは昨夜の会話である。
『そろそろ、よいかと思っているが……お前はよいか』
あれはつまり祝言をあげるとの意味だったに違いない、他にそれらしいことを言われたことはないので、蒼紫からの”ぷろぽーず”だったのだと一日遅れで気づいた。素っ気なく、大したことではいように見せかけたのも、顔を向けることなく言い放ったのも、すべては照れであったのだと。
あれから操はふたたび蒼紫の一言一言に注意を払うようになった。
二人は祝言を挙げる。明後日には正式な夫婦となる。その前に、操はどうしても聞いておきたいことがあった。
「蒼紫さま、」
ためらいがちな声に、蒼紫は書物から顔を上げ操を向き直った。
操の静けさは眠いからだと解釈していた蒼紫だったが、振り向いた先にいる操の様子から眠気を感じない。
「どうした」
「……あのね、祝言を挙げる前に、一つだけ聞いておきたいことがあるの」
操は崩していた姿勢を正し座りなおすので、蒼紫の方も緊張が走る。
「えっと、……蒼紫さまは本当に私のこと好き?」
「お前と夫婦になると言ったはずだが」
「それは、そうだけど……でも、その……好きとかそういう言葉を一度も聞いたことがないなぁって思ってさ。ちゃんと、聞いてみたい。……男の人はそういうことを言わないものなんだって、みんな言うし、無口な蒼紫さまなら余計にそうかなぁって思うけど、でも、なんというか、”ぷろぽーず”もそういう言葉はなかったし。というか、あれが”ぷろぽーず”だったって後になるまでわかんなかったし。蒼紫さまが私を好きかどうかちゃんと聞きたいというか……」
最後の方はごにょごにょと覇気がなかった。言いながら恥ずかしくなったのだろう。
蒼紫は小さくなる操の傍まで自らにじり寄った。
「不安にさせていたか」
「……不安というか……うん、まぁ、ちょっと」
操はたまらなくなって俯いた。
蒼紫の操への態度は誰がどう見ても特別であるし、操もそれは認める。大切にしてもらっている。だが、態度だけでは拭えぬのが人の心の厄介さで、蒼紫はそれが格別下手だ。操も重々承知はしているから、長らく言えずにいた不安だった。それでも、この曖昧な気持ちのまま祝言を迎えるわけにはいかないと告げたが――告げてみるとたちまち情けないような気になった。
「それは、祝言前でなければならぬことか」
「え?」
「男だから言わぬ、ということはない。言うべき時には言う。されど、それは今ではないと考えている。夫婦になってからでは遅いか」
「……えっと、どうして夫婦になってからじゃないといけないの?」
ここで「わかった」と言うべきであると操は悟ったが、怖い物見たさというべきか、日頃より考えると同時に言葉を発してしまう癖のためか、なんとなくポロリと追求する言葉が出る。
「祝言を挙げる前に手を出すわけにはいかんだろう」
続いた言葉に操は顔を上げた。表情には混乱があった。
蒼紫はそれを見て、少しばかり口元を緩めた。
「お前は言葉だけで済むと思っているのか」
「あの、ええっと……」
これ以上の続きを聞きたいわけではなかった。操の手のひらには汗がにじみ出ている。
「左様なことには不慣れだろうし、緊張させるのもなと思っていたが、今のままでは落ち着いて祝言を挙げられぬと言うのなら致し方ない。男が言葉を言うのは女子を心の底から愛でたいと思うから告げるのだ。それ故、むやみには言わないし、言えぬだろう。無論愛でるとは赤子を愛でるようなものとは違う。精神的な意味合いではなく、もっとに」「わかった! わかったよ。蒼紫さま。わかったから、あの、もう、説明はいいです……」
慌てて操が遮った。
真顔で平然ととんでもないことを言うものだと、何故好きや愛しているは言えないのに、このようなことならばすらすら言えるのかと操には不思議に感じられたが、それを聞く勇気もない。
「そうか。説明はよいか。ならば後、二日待て」
やはり顔色一つ変えずに言われる。
ただ一言、聞きたかっただけであるのに、どうしてこんなに恥ずかしいことになるのか。待ち遠しかった祝言が今は少し恐ろしいものに感じられて、されども時は止められぬ。来たるべき日を思うだけで操はカッカと身体から熱が出そうになりながら、当日まで過ごすことになった。
余談であるが、祝言のあと――蒼紫の宣言通り願っていた言葉を聞けることになった。しかし、夫婦になって初めての夜は嬉しいものというよりも「恥ずかしすぎて思い出したくない」と思い詰めるほどのものであったことも付け加えておく。
2013/4/15
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