口は禍の元を身をもって経験した。
大学からの帰り、改札を出れば知った姿があった。隣の家に住む四乃森蒼紫だ。彼も学校帰りらしい。この辺では一番の進学校の制服が眩しい。
彼とはいわゆる幼馴染だ。弟か妹がほしいと思っていた私は、隣の家に生まれた三歳年下の彼の存在を大歓迎した。両親同士も親しかったし、家族ぐるみで付き合いを持ち、彼をとても可愛がった。小学校ぐらいまでの話だけれど。
彼はすくすくと育ち、小学校高学年になると私よりぐっと身長が高くなってしまったし(現在は百八十くらいあるだろう。対する私は百五十にも満たない)、勉強も運動もなんでもこなし、おまけに顔も整っている。それだけなんでも揃っていれば地元では知らぬ者がいない有名人になるのは必然で、一部女子には王子様扱いされるようになり、なんとなく近寄りがたくなった。ただ、彼自身は世間のそういった評判などまったく気にしていないようで飄々としていたし、私に対しても何も態度が変わらなかったので、次第に私も以前のようにとはいかないまでも、ごく普通に接するような距離感に戻った。
だから、油断していたのだ。
「蒼くん!」と私はごく自然に彼の後姿に声をかけた。
反応して振り返ってくれたが、半身になったその向こうに彼と同じ制服を着た女生徒の姿が見えた。髪が長く、すらりとした美少女というより美女という方がしっくりくる女の子。制服を着ていなければ高校生には見えないだろう。大人っぽい。
「あっ……えっと」
固まる私に、彼もそしてその彼女も黙っていた。彼は無口な方だし、彼女も突然現れた私に何を言えばいいか困っているのだろう。固まっている場合ではなく、私がどうにかしなければ。そもそも私が声をかけてしまったのだから、と。
「ひょっとして彼女? やるじゃん。いつのまに! しかも、超美人!」
焦っていたせいか若干噛みながら、そして思いのほか大きな声になりながら告げた。それに対して、彼の顔が一瞬曇ったような気がした。いや、それは気のせいではなく、
「関係ないだろう」
冷え冷えとした物言いで返される。大柄な彼に低くうねるように凄まれて怯む。私たちの周りの空気だけが一挙に低下して重く澱み、こんな風に威圧的な態度をとられたのは初めてで、心臓がばくばくと震えた。傍にいる女の子の顔も強張っている。
――どうにかしなくては。
私はただこの雰囲気を好転させたいばかりに、
「関係ないって、冷たいなぁ。蒼くんのことは小さい頃から知ってるし、弟みたいなもんじゃん。姉としては彼女ができたらお祝いしなくちゃって思うでしょ」
努めて明るく、この重い空気を払拭するように言った。だけれど、思惑とは裏腹に彼はますます不機嫌になり
「ただ隣に住んでるだけで、本物の姉弟でもあるまいし。いい加減、そういうの鬱陶しいからやめてもらえるか」
無表情で淡々としていた。声を荒げてとかではなく。だから、これまでも態度にこそ出さないだけでそう思っていたという風に見え、私も流石にそれ以上茶化すようなことも言えず、
「ごめんね。そうだよね」
と、それでもにこやかに告げて、じゃあ、先に帰るね、とその場から逃げた。
自宅に戻りベッドになだれ込んだら、急に涙が溢れてきた。彼に放たれた台詞がぐさぐさと胸を貫き苦しい。全部その通りで事実だけれど、あんな風にはっきりと言われて、これまでのすべてが壊れてしまったように思えた。
――いつから鬱陶しいと思われていたのかな。
それに気づかずにいた自分がたまらなく恥ずかしかった。同時に、どうして私はきちんと距離を取らずにいたのだろうと恨めしかった。少なからず、彼の出来の良さに引け目を感じ、幼馴染だからと言って気安く声をかけることへ躊躇いを覚えた時期があったのに。
――馬鹿みたい。
内心は嫌がられていたというのに、態度が変わらないなんて思って。
――ばっかみたい。
繰り返すほど情けなさが膨れ上がっていく。何故こんなに苦しいのか。何故こんなに悲しいのか。もっと怒りに任せてもいいように思うのに。いくらなんでも鬱陶しいは言い過ぎではないのか。そこまで言われなければならないほど失礼なことを私は言ったのか。腹を立て、こっちからお断りだと拒絶してもいいのに。だけど私は苛立ちよりもずっと深く強く傷ついていた。
人間の体というのはえらいものだ。翌朝、頭がずきずきしていて、顔は腫れぼったく、昨日のことが頭を過れば布団から出たくない気持ちになったけれど、それでも涙はもう流れなかった。勝手に溢れて止めようにも止まらなかったのが嘘みたいに、どんよりとした息苦しさはあるものの、一滴も流れない。そのことがおかしくて、おかしいと思ったら次にお腹がすいて、そしたらむくむくと起きる気力がわき、やらなければならないことをこなそうとする。
一度動き出してしまえば、さくさくと体は準備をし、いつも家を出る時間になっている。だが、私は玄関の扉の前で立ち止まった。
今、家を出たら彼と鉢合わせになる。
彼の通う高校と私の通う大学は反対方向にあるが距離が同じくらいで、お互い遅刻しないギリギリの電車に乗るため、家を出る時間が重なる。結果、駅まで一緒に行くことになる。わいわいと楽しく会話するわけではなく、私が一方的に話しかけて、彼がときどき相槌を打つという感じで、約十分の道のりを歩く。それが日常になっていたが、昨日の今日でそんな真似をする勇気はない。
五分ずらして出よう。
そうすると徒歩では厳しいので自転車で行かなければ。駅前の駐輪場、一日二百円を毎日使うのは厳しいので、明日からは早起きするとして今日は仕方ない。
よし、と計画(というほど大袈裟なものではないが)を立てて、きっちり五分経過したのを確認してから家を出た。
夏のカラッとした太陽の光が眩しく、雨でも降ってくれたらセンチメンタルに浸れるのになぁと思いながら、自転車の鍵を外して門を出た。そしたら、そこに彼の姿があった。
どぉぉぉぉぉぉしているのぉ、という絶叫を口の中で噛み砕く。
どきどきと心臓の音と、やかましく鳴く蝉の声が混ざり合って、ぐわんぐわんと眩暈を起こしそうになりながら、妙に冷静に、ああ、そうか、彼も会うのが気まずくて時間をずらしたのかも、と思った。そしたら、どくりとひときわ大きく心臓が鳴り、静まりかけていた痛みに再び揺さぶられた。まったくそれは勝手な話だ。私だって同じことをしているのに、彼の行動に傷つくなんて。けれど、 鬱陶しいと言われた方が避けるのと、言った方が避けるのではいささか意味合いが違ってくるように思う。
「今日は遅いんだな」
彼は私の心情を他所に、言った。
あまりにも普通に、あまりにも当たり前に、何事もなかったように。その態度にやかましかった心臓の音も蝉の声もピタリと止まった。
何故そんな風に話しかけてこれるのだろうか――これが大人の対応というものだろうけれど。鉢合わせになったものは仕方ないと諦めて、これまで通りに接する。それにこちらも応えれば表面上はつづがなく穏やかな関係に戻れる。そうするのがマナーなのだろうけれど。でも、私は子どもっぽくてもそんな真似できそうもない。
「あのさ――」昨日のこと何もない風にするなんて無理だから。こっちも話しかけないし、だからそっちも話しかけてこなくていいから。そう吐き出そうとしたのに。
「自転車パンクしたんだ。乗せてくれ」
彼は言って、つかつかと傍に寄ってくると前かごに鞄を押し込み、私から自転車を奪いまたがった。
私はその行動についていけず、立ち尽くす。ハンドルから離れた腕がだらりと下がった。
「後ろに」彼は続けた。
「なんで、」そういうことになるのだと、最後まで言う前に、
「遅刻するのはまずいだろう。お互い。早く」
それはそうだけれど、どうして二人乗りしなければならないのか。けれど、彼を自転車から降ろすのは難しそうで、ここで言い合いしていれば確実に遅刻だ。そうでなくともかなりギリギリの時間に家を出ている。仕方なく私は後ろの荷台に横座りした。
私が体勢を整えれば、見計らって自転車をこぎ始める。
普段は母が乗っているママチャリだから大柄な彼が乗るにはサドルが低すぎる。そのせいで足がつっかえるのか、時々左に右に不安定に揺れた。私はそれでもめげずにこぎ続ける彼の背中を見つめた。そうしながら、ある懐かしい記憶が蘇ってくる。
それは私が高校一年で、彼が中学二年の今ぐらいの時期のこと。
間抜けにも朝寝ぼけて階段を踏み外した私は、ねん挫した。全治二週間。かかりつけの町医者のおじいちゃん先生は、癖にならないようにと大層なギプスをはめてくれた。それはいいのが、おかげで歩くには松葉杖を要し、通学が大変だ。高校は自転車で通える範囲だったから、完治するまで徒歩で向かうことになる。慣れない松葉杖を考慮したら、いつもより一時間前に家を出なければならない。朝は一分でも一秒でも寝ていたいのに。
「治るまで、休んじゃダメ?」
ダメ元で言ってみたら、馬鹿言うんじゃないの、と一蹴された。わかっていたけれど、そんな言い方しなくてもいいじゃん、とふてくされながら、しばらく早起きかぁとがっくりきした。でも、私は早起きする必要がなくなった。彼が自転車で送り迎えをしてくれることになったから。
何故そんなことに? と驚きより疑問が先に立った。中学と私の高校は方向が同じだけれど、中学の先に高校があり、送るとなれば遠回りどころの話ではない。一旦中学を通り越し、私を送った後、また戻ってこなけれなばらないのだ。まして、中学は自転車通学が禁止のはずだ。
「学校には話をして許可をとったから」
ぶっきら棒に彼は言った。そして、朝だけではなく、夕方も迎えに来てくれた。
私は申し訳なく、心苦しく、辞退したけれど、朝起きるの苦手だろう、と言われ最終的に甘えることにした。
「ごめんね」と謝れば
「世話になっているから」と返される。
だけど、世話になっているのは私だ。小さい頃こそ面倒を見ていたと言えるが、大きくなってからは出来の良い彼に助けられることの方が多かった。その一番は喧嘩の仲裁だ。男勝りの私は、いたずら好きの男子にいじめられた女子を庇ってつかみ合いの喧嘩をしょっちゅう繰り返し、それを庇ってくれた。呆れながら、怒りながらだったけれど。
ものすごく優しくしてもらった記憶を思い出してしまえば、昨夜の怒りはしぼんでいく。
いつから疎まれていたのだろうか――そう考えていたけれど、あの時の出来事を、嘘の、うわべだけのものであるとは考えるのは早計だ。そう思ったら、頑なになっていた心がゆるゆると緩んでいく。そしたら、自分の無神経さの方が浮き彫りになる。
彼は年頃の男の子なのだ。
あんな風に茶化されたら、そりゃ、恥ずかしくなるよね。
女の子と一緒にいたので、動揺して、だけど沈黙にも耐えられずあんな風に言ってしまったけれど、恋愛ごとなどかなりプライベートで繊細なものだ。無神経すぎた。
――動揺。
その言葉が逆流するように戻ってきて、心の真ん中で止まった。
どうして、私は動揺したのだろう。
彼に恋人がいるからって、何故私が動揺するのか。別に普通じゃないか。だって彼は王子様と言われるくらい格好いいのだ。恋人くらいいて当然ではないか。それなのに。
その答えが言葉になる前に、視界がかすむ。目頭が熱く、イガイガとしていた塊が溶け出すように涙が零れ落ちる。昨日あれだけ泣いたのに。もう今日は泣くことはないだろうと思っていたのに。悲しみに飲まれてというより、こみあげてくる涙はもっと暖かく切ないものだ。
こんな形で自分の気持ちに気づくなんて。
私はひたひたと止まらない涙を乱暴に腕でこすり目頭を押さえつける。なんとしても泣いていることを彼に悟られたくはなかった。けれど、私の願いは届かず、異変に気付いたらしい彼は自転車を止めた。
「……どうした。何故泣いている」
「なんでもない」
そう言いながら声は震えている。誤魔化しようもないほど。
「なんでもないわけないだろう」
「なんでもないってば。目にゴミが入ったの。それより早くいかないと遅刻するから」
私はそれでも尚抵抗した。当然だ。泣いている理由など言えるはずがない。
けれど、彼は納得してはくれず、駅ではなく近くの公園に行先を変えた。
2014/7/22