努力が必ず報われるわけではない。とはいえ、報われなければ腹が立つものである。
学校帰りに痴漢を目撃した。黙っているわけにいかず、捕まえ警察に突き出した。被害に遭っていたのは偶然にも同じ学校の、クラスは違えど同じ学年の、学内でも美人と有名な高荷恵という女生徒だ。痴漢はただの痴漢ではなく、高荷のストーカーで、警察へも相談していたそうだが、ただ近くでじっと見てくるだけでは対処のしようがないという対応をされ、それで図に乗った男が今回の行為に出たらしい。今日捕まえられたのは幸いである。もっと取り返しのつかない酷い状況になっていたかもしれない。
事情聴取が終わり、警察から出て帰宅の途につく。駅の改札を出て、改めて礼を言われていると背後から声をかけられる。聞きなれた可愛らしい声は振り返らずとも誰かわかる。隣の家に住む、巻町操である。俺より三歳年上。十代の三歳差というのはかなり大きいもので、高校生と大学生では雲泥の差があり、相手を大人に感じるものだが、彼女に関しては例外だ。子どもっぽいわけではなく、なんというか……可愛らしい。本当に年上かと疑いたくなるほど可愛らしい。いや、それは惚れた欲目も入っているのだろう。
長らく、表記するならば、長ら――――――――く、とするべきほど長い時間、具体的に言うなら、小学四年の春先くらいに自分の気持ちを自覚した。それまでも、彼女がいれば自然と目で追ってしまうことはわかっていたが、単なる心配だと思っていた。何せ、当時の彼女は男まさりというか、小柄で愛くるしい容姿とは裏腹に、男子と平気で取っ組み合いの喧嘩をする。自分のためではなく、いじめられた女子をかばってのことである。正義感があるといえるが、こちらとしてはひやひやする。子どもの頃から妙に大人びた性格だった俺は、女の子なのだから顔に怪我でもしたらどうするのだと、窘めることもしばしばあった。すると、彼女はしょげる。「だって」と言いながらぐすっと涙する姿に、俺が泣かせているみたいではないかと思いながら、どれほど激しい喧嘩をしても泣かないのに、俺の前では弱音を吐いて涙するのだなぁと思えば、自分が特別扱いされているような気がした。それがハッキリと好きと言う気持ちだとわかったのは、彼女が中学へ上がったとき。繰り返しになるが高校生と大学生では途方もない差を感じるように、小学生と中学生にも――あるいは前述の関係よりもずっと大きな――差を感じる。彼女を遠くに感じ、寂しいというより、焦りを感じた。俺の知らぬところで彼女がどのように過ごしているのか。気になって気になって仕方なく、何故これほど気になるのか。流石にもうその頃には男子と喧嘩(まぁ、口論程度ならあるが、怪我をするようなもの)はなくなっていたし、分別のついた年齢に、俺が心配するはずもないのに。この気がかりの正体は何か。俺はようやく知ることになる。
知ってしまえば、気持ちはますます募るというものである。
しかし、小学生の俺に何ができよう。仕方なく俺はそれ相応の年齢になるまで待つことにした。それ相応の年齢とは俺が大学生になったら、である。三歳差であるから、俺が中学生になれば彼女は高校生、俺が高校生になれば彼女は大学生と、三年という年齢にはばかられてしまったが、大学は四年である。一年だけだが同じ土俵にあがる。それが良いタイミングであるように思えたのだ。
無論、それまでも漫然と待つわけではない。アプローチはしていたつもりだ。たとえば呼び方。幼い頃は親に言われるまま「みさちゃん」と呼んでいたが、「操」と呼び捨てするようになった。こんなことで男らしさを感じてほしいと今にして思えばメルヘン思想だが、当時の俺には結構な一大決心であった。しかし、初めて呼んだとき、何かしら反応があるかと思ったが特に何もなく愕然とした。それから、登校時間。彼女は高校へ自転車通学だったが、大学になれば電車になった。俺も高校は電車通学だったので(方向は真逆だが)これはよいと、駅まで一緒に行くために、彼女が家を出る時間に合わせて俺も家を出るようになった。朝、一緒になることを彼女は大して疑問にも思わず、蒼くんもこの時間に家を出るんだね、じゃあひょっとして同じぐらいの距離なのかなぁ、とのんきなことを言っていたが、とんでもない。彼女にとってはちょうどいい時間でも、本音を言えばこちらは遅刻ギリギリになる。学校の最寄駅から猛ダッシュしてどうにか間に合うぐらいギリギリである。おかげで俺は時間にルーズとのレッテルを張られているが、そんなことはどうでもよい。そうでもしなくては一日会えないこともあるし、何より朝から彼女の顔を見られるのが嬉しい。周囲の評判と彼女との時間を確実に持つことを天秤にかけたら、考えるまでもなくガタンと傾いたのだから。と、俺としては涙ぐましいともいえなくない努力をしているつもりだが、あまり伝わっていない。彼女はどこか鈍いところがあるし、仕方ないと諦めつつも、腑に落ちなさは感じていた。だがそれもあと一年の辛抱であると耐え忍んでいた。
で、話は戻るが、駅前で声をかけられた。
彼女だとわかれば自然とテンションはあがり条件反射のように素早く振り返ったが、表情があまり顔に出ないので喜んでいるとは気づかれなかっただろう。いっそう気づかれた方がいいのかもしれないが。
帰りが一緒になるなんて珍しい。ついている、と思った。ところが、彼女の動きが一瞬止まり、それから、
「ひょっとして彼女? やるじゃん。いつのまに! しかも、超美人!」
話が見えなかったが、彼女がきょろきょろと視線を俺と、その後ろへ動かしているので高荷と一緒であることを思い出した。それで、彼女などという発言になったのか。まったくとんでもない勘違いだな。何故俺が、他の女を恋人にしなければならないのか――と冷静に言おうと思ったのだが。
「関係ないだろう」
音になったのは自分でも驚くほど低く凄むような声だった。
こんな言い方するつもりなかったと焦るが、俺の言葉に対して
「関係ないって、冷たいなぁ。蒼くんのことは小さい頃から知ってるし、弟みたいなもんじゃん。姉としては彼女ができたらお祝いしなくちゃって思うでしょ」
と彼女が言った。
祝う? 俺に彼女ができたら? 嬉しいと?
にこにこと笑って、むごいことを言う。
「ただ隣に住んでるだけで、本物の姉弟でもあるまいし。いい加減、そういうの鬱陶しいからやめてもらえるか」
だから、俺はそう言ったのだ。言ってすぐはすっきりとした。それはすべて事実だった。俺は彼女に弟ではなく男として見てほしかった。だが、彼女は謝罪を述べて逃げるように去って行くし、一緒にいた高荷にも、お節介だけどあんな言い方はどうかと思う、とまで言われる始末だ。
――たしかに、言い方も言うタイミングもありえなかった。
冷静だと思っていたが少しも冷静ではなかったことに呆然とし、謝まらなければと焦り始めたが、彼女もまた今はまだ落ち着きを失っているかもしれない。朝になるのを待つのがいいのではと一晩過ごした。
そして、翌日。いつものように彼女が出てくるのを待っていたが、時間になっても来ない。もう出てしまったのか。いや、そんなはずはない。三十分も前から見ていたのだから。となれば、これは避けられていると考えるのが妥当だろう。いつもより遅く家を出るつもりか。
俺が考えるより事態はずっと重いものなのか。考え出せば不安ばかりがあふれ出す。
普段は何気ない顔をして彼女が出てくるとこちらも出ていくのだが、俺は玄関扉を開いた。
眩しい夏の太陽が照り返し、眩暈を覚えた。――が、いってきます、と隣から聞きなれた声がして意識がはっきりしてくる。彼女だ。
俺は急いで門をくぐる。彼女は徒歩ではなく自転車を押して出てきた。
「今日は遅いんだな」
まず、ひと声をかけてみる。
彼女はいつもにこにことしているというのに、無表情で俺を見ていた。その目は腫れぼったい。気のせいではなく。
ズキリと走るのは後悔か、痛みか。
「自転車パンクしたんだ。乗せてくれ」
そうであるのに、俺は、彼女から自転車を奪うようにまたがり言った。
自分でもよくわからない。すべきことはわかっているのにも関わらず、何をしているのか。
「後ろに」俺は続けた。
「なんで――」言いかけた彼女の言葉を遮るように
「遅刻するのはまずいだろう。お互い。早く」と更に。
俺は前を向いた。彼女の泣き腫らした顔を見ることも、彼女がどんな反応をするかも、おそろしく正面から受け止められなかった。しばしの空白のあと、彼女は自転車の後ろへ座った。事態は僅かも変わっていないが無視されなかったので吐息がこぼれる。
これからどうすればいいか。駅につくまで考えなければならない。
しかし――もぞもぞと背後で動く気配がする。風を切る音に混ざっているのは鼻をするる音。
泣いている?
ズキリとまた、先ほどよりも強い痛みの襲われ、べダルから足が外れた。
恐る恐る振り返れば、ごしごしと涙を拭う姿がある。
「……どうした。何故泣いている」
「なんでもない」
「なんでもないわけないだろう」
「なんでもないってば。目にゴミが入ったの。それより早くいかないと遅刻するから」
そうか、とそれで納得できるはずもなく、俺は急遽行先を変え、近所の公園へ向かった。
朝が早いせいか、俺たち以外に誰もおらず、木陰になっているベンチの前に自転車を止める。彼女は降りることを抵抗したが、俺が先に降りれば、バランスが崩れ地に足をつけ、それをきっかけにベンチへ移動した。
ピタリと真横に座る。彼女はチラリと俺を見て、すぐに視線をそらし俯いた。
四方八方から蝉の鳴き声がやかましいが、なければ静まり返って気まずいのだろう。無音よりも音があった方がましに思えた。
彼女の頬にある涙の痕。泣かしているのは十中八九俺なのだろうが、泣く姿がいかんともしがたく可愛らしい。これまで彼女が他の男に泣かされて(厳密には喧嘩を終えて気が緩んだら俺の前で泣く)、俺は慰める立場であったが、俺が泣かせているのだと思えば、申し訳なく、自分を呪いたくなる――という気持ちもたしかにあるが、好きな子をいじめて悦に浸るという気持ちが鮮明にわかった。そんなものわかるのもどうかと思うが。
「ごめんなさい」先に口を開いたのは彼女の方で、それも謝罪だった。
「何への謝罪だ」
「……遅刻させてるから」
「遅刻ぐらい別になんでもない」
中途半端なまま登校しても気もそぞろだ。
「でも、」とようやく彼女は顔をあげ、俺を見た。
大きな目が、しっとりと潤んでいる。痺れが俺を身体を駆け巡る。
喉元に汗がしたたり落ち、からからと乾く。
「泣いている原因は俺のせいだろう。俺が、傷つけるようなことを言ったから」
「でもそれは、私が無神経なことを言ったからでしょ」
無神経――それはそうだが、その無神経の意味を本当に理解しているのか。理解しているのであれば俺の気持ちに気づいているということである。そうであるなら泣くという行為に出るだろうか。
黙っていれば、彼女は更に続ける。
「蒼くんも年頃の男の子なんだし、あんな風に茶化したらそりゃ恥ずかしいよね。怒るのも無理ないと思う。だけど――」
やはり彼女は俺が思うような意味合いで解釈しているわけではないのだな、と安堵していいのか落胆していいのか、微妙であったが。
「だけど、なんというか、あの時は、動揺して、パニックになったというか。か、彼女がいるなんて思わなかったし」
動揺。その言葉に、靄のかかったような気怠い、先の見えない、重く苦しい感覚がすぅーっと晴れていくのを感じた。同時に、蝉の鳴き声が、益々大きくなったような、いや違う、大きくなったのは俺の心音である。
俺に彼女がいたと知り、動揺したとは。それは、
「ショックを受けたということか」
酷く、胸が痛かった。考えたことがなかったのだ。俺は彼女を思っていて、大学になれば告白をすると決めはしたが、そして、彼女が恋人になってくれることを想像したが、しかしその想像には大きく欠くものがあった。彼女から好きを返されるという想像である。恋人になることと、好き合うことがイコールを結ばない。最重要視しなければならない部分がすっかりと抜け落ちていた。いや違う、想像したくなかったのだ。それは恥ずかしいことのような、恐ろしいことのような、考えれば体中を掻き毟りたくなるものだったから。
彼女は再び俯いた。耳まで赤くなっている。
その恥じらいは、図星であるからか。
彼女は俯いたまま微動だにしない。押し黙って、小柄な身が益々小さくなったように思える。
俺は彼女の腕を掴んだ。細い。力を込めれば折れてしまいそうで、俺は怖気づきながらも、どうしようもなく泣きたくなった。愛おしくて。ああ、本当に俺は彼女を好きであるのだと。
流石に驚いて、彼女は顔を上げた。目が合えば、
「俺に彼女がいることに、傷ついたというのは、そういうことと解釈していいのか」
「そ、そういうって……ええ!?」
ほとんど、無意識に、身体が動く。昨日から頭で考えたことではない行動ばかりだが、恋とは理性でするものではなく、本能でするのだと、その証明のように、彼女の腕を引っ張りよせ、抱きしめれば、当然ながら悲鳴を漏らす。それでも俺は彼女を離さなかった。もっと強く、もっときつく、腕の中に抱き込んで、耳元に唇を押し付けるようにして囁く。
「両想いだ」
すると、もぞもぞと身じろぎしていた彼女の動きが止まる。何か言ってくれるかと、或は顔を上げてくれるかと、俺は僅かに腕の力を緩めるが、それでも彼女は腕の中から逃れることもなく――ただ、静かにだが、頷いてくれたので、俺の予定より随分早く、そして予期せぬ形ではあったが、これまでのすべてが報われたことに、昨夜までの不満はどこへやら、歓喜の渦に飲みこまれた。
2014/7/24