2014年読切

Love Letter

 春が終わり、梅雨が訪れた頃、私はふいと寂しさに襲われた。雨が、しとしとと降り続ける雨のせいだろう。雨音がひんやりと染み込んできて、ああ、そうか、もうここにはあの人がいないから、人の気配がなくなってしまったから、こんなにも冷え込むのだ、と思ったら私の寂しさは尚更に募った。
 部屋に入る。
 初七日が過ぎ、四十九日が終わっても、私はこの部屋を片付けなかった。あの人がいた頃のように、何も変えず、何も変えさせず、使う人もいないのに何時でも使えるよう掃除をしている。それを誰も止めはしなかった。
 机の前に座る。座布団の左側が妙に薄いのに気付く。気のせいではなく間違いなく薄い。それはあの人の座り癖のせいだった。普通に座っているように見えるのに右に重心が入るらしい。なので、日干しするときは薄くなったところがお日さまの光で膨らむように、ぽんぽんと念入りに叩き、部屋に戻すときは均等になるようにと左右を逆にして置くのだけれど、あの人はそれを戻してしまう。どうもこちらが左、こちらが右、と決めてしまっているらしい。そのせいで、右側の薄さはどんどん酷くなるばかりで、私も意地になって毎回薄い方を左にして置くのだが、絶対にそれを右に戻される。些細な攻防戦は常に私が負けていた。
 今なら不戦勝で勝てるな――そう思ったけれど私は立ち上がりその薄い部分が右側にくるように置き直し座った。つんと鼻の奥が痛んだ。
 しばらくじっと座っていたけれど、思い立ち、引き出しを開けた。生前、開けたことはなかった。止められていたわけではないけれど、なんとなく、この場所はあの人の聖域のような気がして掃除することはなかった。
 引き出しは綺麗だった。硯箱があるだけ。もう使われることのないそれを取り出して開けると、硯の下に帳面が見えた。私は迷いもなく開く。開いてみて、それが日記だと知り動揺した。てっきり店の帳簿か、顧客簿か、事務的なものであると思ったから躊躇いなく開いたのだが、まさか日記だったなんて。
 勝手に読むなんて破廉恥な真似をしてはいけない。
 そう思えど、私の目は文字を追う。止められない。辞められない。
 あの人の真実の心がここに書かれているのなら、どんなことでも知りたい。
 胸が聞いたこともないようなきゅるきゅると奇妙な音を鳴らしている。
 けれども、そこには私のことは何も書かれてはいなかった。書いてあるのは店の経営方針についてやら、子どもの成長についてのみである。頁をめくるとときどきの、子どもたちの様子が、短く簡潔に書き込まれている。
 私の心の臓は次第に落ち着きはじめる。落胆はなかった。どちらかといえば安堵が強い。私と夫婦になったことを、後悔する旨が書かれていなかったのだから。店と、子どものことを大切にしてくれていることがわかったのだから。
 蒼紫さまとの婚儀は、私が望んで望んで望んで、それでもうんと言ってはくれず、最期は、ならばもう尼になると、蒼紫さま以外の人とは夫婦になる気はないので、私を嫁にしてくれないなら出家するより他にないと、そう告げた私の覚悟の本気さにようやっと折れてくれる形で交わされたものだった。
 夫婦になってから、これまで以上に優しくしてくれたし、大事にしてくれたし、私はとても幸せを感じていたけれど、それでも時々不安に襲われた。いや、本当は、ほとんど脅しのような始まり方をしたことに、いつだって後ろめたさがあった。 
 夫婦になってからの日々が目まぐるしく蘇ってくる。日記を読む限り、少なくとも、家族としての情を感じてくれていたことは疑いようがなく、なんだか涙が出そうで、私は鼻をつまんだ。
 再び頁をめくりはじめると、そこには黄ばんだ紙が挟まれていた。何だろうかと手に取ろうとするが、はらりと畳に落ちる。文字が印刷されている。どうやら本、否、新聞の切り抜きらしいとわかる。
 不思議に思いながら記事に目を落とす。


 ……英訳書の依頼が舞い込んだときのことである。これは西洋で大変誉れ高い文学であるので、日本にも是非ともという話であった。文明国でさほどに誉れ高き文学とあらば、さぞや素晴らしいものだろうと、私は揚々とした思いで仕事にかかった。しかし、仕事を終えて読み返しても私にはその誉れ高さがさっぱりわからぬのである。これはいかがなものかと心配し、古くからの友人であり、文学に詳しいという者に読ませてみたが「お前さん、この訳はいけないねぇ」と言うのである。何か誤訳があったかと尋ね返せば「これは我々の感性にはない」とまた言うのである。私は今度は混乱した。すると、彼は指で指しながら「いいかい、たとえば、この、男が女に募る思いを打ち明ける場面だが、お前さんはこれを『私は貴方を愛します』と書いている、これではいけないね」と続けた。私の混乱は増すばかりである。彼の指摘した言葉――I love youとは、Iは我を、 loveは愛を、 youは貴方を指す言葉であり、『私は貴方を愛します』との訳に間違いはないはずである。私が訝しがると彼は更に「これは我が国の感性にはない」と言う。「日本男児たるもの、無闇に『愛している』などという表現は使わない」なるほど、と私は唸った。彼の指摘はまさしく私の盲点である。私も家内と夫婦となり、数十年と月日が経つが、左様な言葉を使った試はない。左様な言い方はしないのである。まったく馴染みのないものでは到底心を重ねることも出来ず、それ故にこの文学の良さがわからなかったのではあるまいか。訳すとは忠実に言葉を置き換えれば良いというものではないと、己の浅はかさに気付いたが。されども、ならばこの訳いかにすればよいかと、私はふたたび尋ねた。されば彼はしばし考えてから「そうだねぇ、『月が綺麗ですね』としたらどうだい」と答え……


 あの人が大事に切り抜いたぐらいだから、余程重要なものなのだろうと思われたが、読んでみると小噺のような記事だった。
 何故、こんなものを? と思ったと同時に強烈に浮かび上がってくる光景があった。
 あれは、祝言を上げてしばらくした、ちょうど今頃の季節だったと思う。私たちは夜道を歩いていた。何故、そのようなことになったのかはすっかり忘れてしまったけれど、二人きりで。昼に雨が降ったせいで空気が澄んでいた。空が青く星々が綺麗で、私はぼんやりと見上げながら歩いていた。蒼紫さまに危ないと注意されて、子ども扱いしないでよ! と返すと、子ども扱いされるような真似をするな、と呆れられた。
 むっとし忠告を無視して空を見上げながら歩く。子どもではないのだから、易々とこけたりしません、と証明しようとしたのだ。けれど、思惑は真逆の結果になる。私は小石に躓き転びそうになる。寸でのところで、蒼紫さまが支えてくれたけれど。
「だから言っただろう」
 ますます呆れた声だ。
 流石に私も恥ずかしくて、ごめんなさい、と謝った。
 蒼紫さまは盛大なため息を吐いた。
――何も、そんなにすることないじゃん。
 殊勝な気持ちが消え、反論を言いかけるが、その前に蒼紫さまが歩き出した。私の右手をとって。びっくりした。ただ、もう、びっくりして、口をぱくぱくさせても何も音にならない。ようやくきちんと発音できたのは、路地の角を曲がったときだった。
「人に見られるよ」
 手を繋いで歩いているところなんて、人に見られたら何と言われるか。
「誰もいない。いたとしても、見られて困ることはない」
 私の心配を余所に蒼紫さまは歩き続けながら言った。
 え? 困らないの? とまたびっくりした。だけど、たしかに、困ることはないのかもしれない。私たちは夫婦なのだ。人様に顔向けできない関係ではない。でも、手を繋いで歩くなんて、今時の若い人は、とかひそひそ噂になるかもしれない。そういうの、蒼紫さまは嫌がると思われた。
 ねぇ、やっぱり離して――と言うべきなのに、でも言えなかった。蒼紫さまの手から伝わる暖かな何かが私の胸を苦しくさせる。そうであるのに嬉しくもさせる。
 私はその大きな手をぎゅっと掴んだ。そして、言ったのだ。
「蒼紫さま、私のこと好き?」
 自分で言っておきながら私は面食らった。さっきからずっとびっくりしてばかりいるが、今度こそ私はひっくり返りそうなほどびっくりした。何故、そんなこと言ってしまうのか。どうかしている。
 半歩先を歩く蒼紫さまが、私を振り返る。手にした提灯の光に下から照らされているせいか怖いもののように見えた。いや、実際、私は恐ろしかったのだ。蒼紫さまが何と答えるか。知りたいけど、聞きたくない。
「ごめんなさい。今のはなし! なしなし!」
 意気地は出せず、否定する。
 蒼紫さまはあっさりとしたもので、また歩き出す。ほっとしたような、寂しいような、残念なような、これでよかったような、散々な感想が目まぐるしく入れ替わる。
 それから二人とも無言だったけれど、また路地の曲がり角に差し掛かったとき、蒼紫さまが口を開いた。
「月が綺麗だな」
「え? え? 月? ……ああ、そうだね」
 私は依然動揺していたので、先に相槌を打ってから、どうやら蒼紫さまは本当にさっきの言葉を気にしていないらしいと納得した。それで良かったはずなのに安堵すると次はあまりに気にかけてもらっていないことに不満を抱いた。現金だなと思いながら、空を見上げる。
「……月なんて出てないじゃん」
 言われた月はどこにも見当たらない。
 そこで、今日は新月だったことを思い出す。見えるはずがないのだ。それなのに、どうしてそんな嘘を? そのときになって、実は蒼紫さまも私に言われたことに動揺しているのかもしれないと考えた。だってこれまで一度だってそのようなこと尋ねたことはなかったから。動揺し、話題を変えようとしたのか。
「見えていなくともある」
 蒼紫さまは言う。
 見えてなくともある――授業で習ったことがある。月は満ち欠けしているようでいて、それは地球が回転しているのでそう見えているだけで実は空に球体として浮かんでいると。私にはさっぱり実感できなかったけれど。だって事実、月は満ち欠けしているのだから。
「いつか見えるとよいな」
 いつかではなく、明日からまた徐々に月は満ちてくるだろう。なのに、どうしてそんなことを言うのか不思議に思えた。私はその意図を知りたくて尋ねようとするけれど、結局何も言わなかった。振り返り私を見る蒼紫さまの顔が見たことない表情だったから。
 そんな風に見ないで、と言いたい。その表情はけして嫌なものではなくて、それどころかとても優しげで、とても穏やかで、とても幸せそうにさえ見えていたのに、どうしようもなく私を切なく苦しくさせるのだ。どうしてこんなに胸が震えるのか。わからない。わからないけれど、何も言ってはダメだと思った。一言でも言葉にすると、何もかもが消えてしまうような気がした。
――ああ、
 なんて馬鹿なのだろう。
 あのときの、あの胸の痛みが何であったのか、私は今になって、今更になって理解する。そして、待っていてくれたのだろうということも。私が気付くのを。言葉を尽くされても拭い去れなかっただろう不安を、言葉ではなくて、そこにある真実を見つけ出すのを。
 馬鹿だ、私。それから蒼紫さまだって。こんなのないよ。ひどいよ。やっとわかったのに。もういないなんて。それを伝えられないなんて。
 喉の奥が震え、呼吸が出来ない。苦しくて悲しくて、そうであるのに満たされているような、とても暖かなものに包まれるように、私は声を上げて泣き続けた。