again and again
1. 時が満ちる
雑居ビルの入り口には「占いの館・マーズ」と看板が立てられていた。
ここへ入り占ってもらう、そのために来たのだが、去年に起きた有名人洗脳騒動で占いがいかに怪しく如何わしいか、そんなものに引っかかってはいけない、自分の人生は自分で決めるべきだ、とコメンテーターが声高に言っていて、そうだよねぇ、と思っていたから後ろめたさがあった。
看板には二十分、三千円からと金額が明記されている。これは一番安く済んだ場合のものだろう。内容によってはもっとかかるはず。正直、痛い出費だった。
(やっぱりやめようかな……でも、)
すぅと細く長い息が鼻から抜け出る。空を仰ぎ見たら家を出るときは晴れていたのに雨が降りそうな雲行きに変わっていた。先週に梅雨入りしたのは知っていたけれど、長らく晴天が続いていたから油断し折りたたみ傘も持って出なかった。パラパラと肩を濡らすくらいならば暑さを忘れさせてくれるが、近頃はすぐにゲリラ豪雨になってしまう。濡れて風邪を引いたら大変だし雨宿りのつもりで入るか、と無理やりな理由を付け足すとなんとか覚悟が定まり中へ進んだ。
灰色の廊下を抜けるとエレベーターがあり、乗り込むと二階のボタンの隣に「占いの館」と小さなシールが貼られている。それが妙にツボでくすりと笑ってしまった。笑いは緊張をほぐす効果がある。少しだけ余裕を取り戻した。
目的階へ到着すると目の前が占いの館だった。
エレベーターを降り扉の前に立つと横にコルクボードが置かれている。良く当たる占い師、恋愛マスター、という大きな見出しで始まる記事と、にっこりと微笑む女性の写真の切り抜き、その記事が掲載されていたと思われる雑誌の表紙が貼られている。取材されたものなのだろう。私も読んだことのある有名な雑誌だったので、すごい人なのではないかと期待が膨らんだ。
チャイムが見当たらず扉をノックする。マンションのような分厚い扉とは違い十分音が響いた。
「はーい、どうぞ」という声と共に扉が開く。写真の切り抜きと同じ顔の細身の女性が出てくる。実物のほうがずっと美しく、肌の手入れが行き届いた白い肌、長い睫にはたっぷりのマスカラが塗られていてボリュームがあり、口元には鮮やかな赤い口紅をさしている。なかなかこんな色が似合う人はいない。
「あら? あなた……」
息を飲む私を占い師が品定めするよう上から下までジロジロと見てくる。
「なんですか?」
惚けていたが眼差しの不躾さに我を取り戻しむっとして言ったら、
「ごめんなさい。知ってる子に似ていたものだから、その子かと思って視ていたの」
言われたことがぐるりと脳内を巡った。――知っている子に似ていたから見ていた――その言い回しをおかしいと感じたが、何がおかしいのかうまく指摘できない。考え込んでいるうちに、さぁ、どうぞ、とにかく入って、困っていることがあるんでしょう? と奥へ案内された。困っていた私は不快な気持ちを抑えて従った。
室内はそれほど広くはなく、真っ白なテーブルが中央に置かれていて四脚の椅子がある。向かい合って座ると占い師はテーブルに両手を乗せて指を組み形の良い唇を緩ませ微笑んだ。美しい表情は感じていた不快さを帳消しにするのに十分だった。
「それで相談の内容はどういうものなの? ちゃんと秘密厳守にするからなんでも話してね」
秘密厳守という言葉と、なんでも話してという言葉に、私は強く頷いて、ここしばらくの出来事を思い出しながらゆっくりと話した。
ことのはじまりは二週間前に遡る。
奇妙な夢を見るようになった。
初めてそれを見た朝、目覚めると体が怠く、頭も重く、疲れが少しも取れていなくて、寝違えたのかと疑ったけれど首は自由に動く。それから目元がひりひりしていて触れると涙の痕があった。泣いていたらしい。何かが、どこか、変だ。そう思っていると母の、操、早く起きなさい、遅刻するわよ、という大きな声が聞こえて食卓へ向かった。
テーブルにはパンとハムエッグと牛乳が並んでいた。食べる気にはなれなかったけれど、牛乳だけは飲もうとコップを手にする。私は小柄で高二だというのに中学生と間違えられることがある。両親や友人は、それは外見のせいというより中身が子どもっぽいせい、とからかうけれど絶対に外見のせいだ。改善すべく好きでもない牛乳をどんなときでも朝晩欠かさず飲んでいる。得たいものがあるなら努力しなければならない。
冷たい牛乳が喉を通るとこめかみが鈍く痛んだ。
「そういえば、今朝、変な夢を見たよ」
何気なく言った。
夢を見ることはよくある。
「どんな夢を見たの?」
私の夢の話には慣れている母も気安い感じで聞いてきた。
「それがさぁ……なんか、私は料亭の娘なんだけど、その料亭っていうのが実は忍者みたいな感じの家なんだよね」
牛乳をもう一口飲む。舌の上と喉の奥に甘みが広がった。
「それもカラーで見たよ」
続けると、母は、夢がカラーかどうかなんて考えたことなかったわ、と言って面白がった。私もこれまで夢に色がついているかどうかなど意識したことはなかった、と告げて、さらに話をしようとしたけれど、悠長にしてたら遅刻するわよ、と言われ途絶えた。
それですべておしまい。帰宅する頃には日常のもっと大切なことで頭がいっぱいになり、夢のことなど忘れているだろう。そして、一度忘れてしまえば思い出すことはないし、考えることもなくなる。夢とはそういうものだ。
ところが、私はこの夢に悩まされることになる。――毎日見るようになったから。
正確にいうなら、その夢と同じ世界観の夢だ。料亭兼忍者の家の娘であることは同じで、少女は旅をしている。旅先で路銀を得るために追剥ぎをしたり、あくどいことや危ないこともやる。夢とわかっていてもあまりいい気分はしないし、日を追うごとにそれが生々しさというか臨場感を帯び始めた。
たとえば野宿をするところなら寄りかかる木々のしっとり青い匂いや、湿ったざらざらの手触り、お尻や太腿にあたる草のチクチクとした痛みが少女の身体を介して流れ込んでくる。少女は痛みなどお構いなしで寝床の準備を始める。やがて日が落ちて周囲は闇と呼ぶにふさわしい漆黒に染められる。あまりの静けさに耳鳴りがした。獣を寄せ付けないよう火をおこしているが、灯りが届くのはせいぜい薪の周り二メートルぐらいだ。光と闇の境界線が綺麗に見えて、そのラインが生命の線引きのような気がした。この火が消えたら恐ろしい獣が襲ってくるんだ、これが命の火種でもあるんだ、と朝まで必死に絶やさないようにするべきなのに、こともあろうに少女は眠くなったら火を消して吐息を立て始める。
どれだけ神経図太いの!? 危機感なさすぎ。無防備すぎる。やめてよ、起きて!
叫んでも声は届かず目覚めるのは私のほうだ。飛び起きるとべっとりとした嫌は汗をかいている。おかげで少しも眠った気がしなかった。
毎日そんな風だからすっかり睡眠不足になり身体が重くて仕方ないし、何より気味が悪く、私は母に相談した。けれど、夢でしょ? と笑って取り合ってくれなかった。次に友人へ相談すれば、何かに憑りつかれているんじゃないの、と言われた。たぶんきっと冗談半分だったと思うけれど、真剣に不安を覚えていた私は、どうしたらいいのか、お祓いへ行くべきか、と恐怖のあまりに言えば、私たちの話を傍で聞いていたらしい、普段挨拶程度でほとんど話をしたことのなかったクラスメイトが、
「霊能占い師に見てもらったらいいよ」と言った。
「ええ!? 霊能占い師って、洗脳されたら困るじゃない」
友だちはケラケラ笑ったけれど、私は信用できる占い師を知っているのかと尋ねた。もし何かが憑りついているとしたら、早い段階でどうにかしないといけない。
「なるほど、それでここへ来てくれたわけね」
話を終えると占い師は言った。眼差しが鋭くなっている。心の内までを見透かされているような居心地の悪さを感じ、奥の簡易ラックへ視線を逸らせてしまう。本が五、六冊と隣にリラックマのぬいぐるみが飾られていた。
ふいに窓から日差しが降り注ぎ眩しくなる。どうやら天気は持ちこたえたようだ。
「大丈夫よ、憑依とかそういうものではないから。それは安心して」
不安を取り払う強い台詞が聞こえた。占い師へ視線を戻すと最初のにっこりとした笑みに戻っている。
何か憑りついていると言われ、お祓いが必要だと宣言され、法外な金額を請求されたらどうしよう、と入る前に懸念していたことが妄想に終わった。ほっと胸を撫でおろしていいはずが私の心は天気のようにころりと変わったりはしなかった。
「……でも、じゃあ、あの夢は何なんですか? ただの夢なんですか?」
あれがただの夢ということはけしてない。憑りつかれていないなら、どうしてあのような夢を見るのか。他にどんな原因があるのか。気にしすぎ、ただの夢だと言われたら、この占い師が当てにならないのだと私は判断する。それぐらいあの夢の生々しさは本物だった。
占い師はテーブルに乗っていたカードを手にして混ぜ始めた。私は即否定されなかったことに僅かな期待を残しながらその指先を見つめた。透明のマニュキュアが塗られ手入れされている。女性にしては随分太くゴツゴツしているなと思った。
混ぜ終わりカードを一ヶ所へ集め展開する。表を向けられたそれは綺麗な絵柄が描かれている。本物のタロットカードを見たのは初めてだった。
「そうね、これはとても難しい問題だわ」
十枚ほど広げると人差し指でトントンとテーブルを叩き音を鳴らしながら言った。
「時が満ちてきた、と言えばいいかしらね」
続いた言葉は抽象的すぎて返答に窮し、はぁ、と曖昧な相槌しか打てなかった。
「つまりね、これは始まりで、準備をしているというのかしら?」
「準備って……何の準備ですか?」
「あなたの運命が動き始める準備よ」
今度こそ私は言葉を失う。そんな大袈裟な話を聞きたいわけではなく、教えてほしいのはあの夢の正体だ。
占い師は手に持っていた残りのカードを置く。
「夢が何であるか、今、あたしがここで答えてもあなたはきっと信じられないと思うの。百聞は一見にしかずっていうでしょう? これはそういう類のものだから、あたしが教えるよりあなたが自分で理解するのを待った方がいい。ただ、この夢はあなたが考えるような、霊的なものが憑依しているから見ているわけではありません。そこは安心していい。時がくるまでもう少し待ってみて」
「……つまり、あの夢は、ただの夢じゃないってことですか?」
「夢は夢よ。いくら現実味を帯びていても、それは今のあなたの現実ではない。そこを混合しないでほしい。あなたは、あなた」
「はぁ……」
「これから、あなたの周囲は騒がしくなると思うけれど、ちゃんと出会うべき人に出会えるから安心して。そうなったらまたいらっしゃい」
占い師はそう言うと名刺を取り出し印字してある番号とは違う番号を手書きで書き込む。
「これはプライベートのもの。営業時間外はこっちに掛けてくれたら繋がるから、何かあったらすぐに連絡して」
と添えて渡され、それから、お代もいらない、あなたはあたしの恩人だから、とまったく要領を得ないことを言われた。
恩人とはどういう意味なのか。覚えていないだけで占い師と以前にどこかで会っていたのだろうか。
何が何かわからず、どれから尋ねればいいのか混乱しているうちに別のお客さんが泣きながら入ってきて、私はその勢いに追い立てられるように退室した。
2013/7/8
2014/4/7 改稿
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