again and again
2. 兆し
煙に巻かれたように終わってしまった占いの館でのやりとりだったが、その夜は夢を見ることがなかった。これが占いの効果で、このまま見ないようになるなら嬉しい。
ぐっすり眠れたおかげで爽快に目が覚め、普段より十分も早く支度を整え終わる。
せっかくだからたまには早く登校すしようと毎朝チェックしている朝の情報番組の芸能ニュースも見ないで家を出ようとしたら、
「今日はHOMURAの特集よ。ゲストで登場もするのに観ていかないの?」と母に止められる。
HOMURAは去年、一昨年と連続で抱かれたい男ナンバーワンに輝いた俳優だ。三十二歳にしては貫禄があり、渋くて男らしい、と若い子から年配の女性まで幅広い支持を得ている。母も大ファンだ。もうすぐ公開される映画と夏ドラマに主演するのでその番宣で、今日は朝から晩までテレビに登場する。
「いいよ。そんなに好きじゃないから」
「あら、そうなの? ミーハーのあんたにしては珍しい」
母にだけは言われたくないけれど、たしかに私はミーハーだ。芸能人を見てあれこれ言うのはもはや趣味みたいなものだ。ただ、HOMURAに関しては格好良いのは認めるけれど何故だか好きになれない。見ていると怒りのような苛立ちのような生理的な部分からの嫌悪(というと言い過ぎだけれど)を覚えた。嫌よ嫌よも好きのうちというものだろうか。何かの拍子にころっと熱烈ファンになったりしたら笑える。
「せっかく出るんだから見ていけばいいじゃない。好きになるわよ」
母には自分が好きなものを無理やり押し付けてくる癖があり執拗に言ってくる。だって私は好きじゃないし、と応戦するのもくたびれるので、
「駒形由美も出るなら観てくけど」
私は言った。
駒形由美は夏ドラマでHOMURAと共演することが決まり、かなり話題になっているカリスマモデルだ。近頃は女優業にも挑んでいて、年明けに放送された長時間時代劇では花魁役をしていた。ほんの少しのサービスショット的な役どころだったけど、その妖艶な美しさに私はすっかりファンになった。今回はヒロイン役に抜擢ということでいろいろな表情を見せてくれるだろうと期待している(相手がHOMURAなのは引っ掛かるけれど)。
「駒形由美は出ないわよ。HOMURAの特集なんだから」
母にあっさり否定され、じゃあ観ない、と私はそのまま家を出た。
本日も晴天であり、太陽がまばゆい。そろそろ日焼け止めが必要だ。先日の近所のドラッグストアの消費税分オフのときに購入するつもりが買い損ねてしまった。次の安売りまで待っていたら肌が焼ける。占いの館での支払いが浮いたので定価で買ってしまおうか思案する。
駅につくと電車が出たところだったが五分後には次が到着した。
生活のサイクルというのはほぼ決まっている。私は七時五十五分の前から三両目の後ろの扉近くを定位置としている。今日もそこへ乗ったがいつもより一本早いので周囲の顔ぶれが違っている。それだけのことなのに、すべてが――窓を流れる景色さえ――違って見えるから不思議だ。高校に通い始めた当初の何もかもが真新しくわくわくした気持ちが蘇ってくるようだった。
教室に着くと人はまばらで、そのうちの一人、窓際の列の後ろから二番目に座る人物を見て、私は自分の席に鞄を置きその席に近寄った。
窓から運動場が見え、かけ声が聞こえてくる。運動部が朝練を終えてストレッチをしている。私も中学の頃は陸上部に入っていたが高校では帰宅部だ。見学に行ったときの雰囲気がどうも馴染めずに悩んだ末に入らなかった。そういう予感は大事にした方がいいとこれまでの経験で知っている。
「おはよう。三条さん」
声を掛けると彼女は驚いた表情をしながら読んでいた本から顔を上げた。
「あ、巻町さん。おはよう」
「早いね。いつもこの時間なの?」
「……うん」
話しかけられて困っているように見える。読書がいいところだったのかもしれない。悪いことしたなと思いつつ、言いたいことがあったので話を続ける。
「昨日、教えてもらった占いの館に行ってきたよ」
占いと大声で告げるのはなんとなく憚られ声を潜めて言うと、彼女は、ああ、なるほど、と私が話しかけた理由を理解して読んでいた本を閉じた。それは話をしてもいいという合図だと解釈し彼女の前の席の椅子を引いて座った。
「どうだった? 何か言われた?」
「それが、ものすごく抽象的な言い方で、私にはよく理解できなかった。時が満ちるとか、運命が動き始めるとか、夢の意味もそのうち理解できるとか……でも、昨夜はあの変な夢を見なかったんだ。おかげですごく快眠」
「そっか」
彼女は短く呟いただけで、他には何も言わなかった。
会話が途切れ私は彼女が読んでいた本に視線を落とした。ブックカバーがかけられていたので題名は見えないが随分と分厚い。
「本好きなんだね」
「え? あ、うん」
「いつもすごいなぁって思ってるんだ。私は本とか全然だから。眠くなってしまう」
彼女はとても大人しく、たいてい机に向かって本を読んでいる。その光景は一枚の絵画のように様になっていて、彼女が静かに本を読む姿をうっとりと見つめる男子生徒は多い。神秘的な雰囲気に憧れる女子も。
そんな彼女が、挨拶は交わすけれど会話らしい会話をしたことがなかった私の悩みを耳にして、声をかけてくれたことが今になって奇妙な気がした。
どうして、三条さんは私に占いの館に行くよう勧めたのだろう。
「何を読んでいるの?」
気になる質問があったのに、私は全然違う質問を口にした。
「これ、」
問いかけにブックカバーを外して見せてくれた。そこには「前世の記憶を巡る」と書かれている。彼女の口から「霊能占い師」という言葉が出てきたことが連鎖した。
「……こういうのって気味が悪いって思う?」
「うーん、知らない世界ではあるけど、そんなことは思わないよ。三条さんは興味があるんでしょう? だったら堂々と好きって言ったらいいと思うよ」
「……巻町さんらしいね」
彼女は控えめな笑みを浮かべながら言った。
私もつられて笑みを返そうとしたけれど、その瞬間、ズキリとこめかみに痛みが走り、金縛りにあったように身体が硬くなって目の前の景色が色を失った。
――何?
見間違えかと目を凝らすが色彩は戻らず、目をこすれば元に戻るのではないかと思うも腕が動かない。頭は働いているけれど指令が身体に届いていない。
突発的に、何かが起きたのだ。
それだけはわかるけれど、何がどうなっているのかまではわからない。大事な神経器官がプツリと切れたのだろうか。脳貧血とか脳卒中とか若くても起きる可能性があるらしい。そういうとても恐ろしいことが起きているのかもしれない。
どうしよう――動かない身体をもてあまし頭が必死に悲鳴を上げていると彼女の顔が二重にぼやけはじめる。それは幽体離脱のようにどんどん浮かび上がる。離脱した像はエプロン……メイド服を着ていて、たしかに彼女の顔をしているけれど彼女よりぐっと幼く見えた。
「巻町さん?」
三条さんが心配げな顔で私を見ている。何か答えなければと思うのに、もう一人の彼女の姿が私をとらえて意識を奪い、自分の身体なのに自分の思い通りに反応できない。
「人の席に勝手に座って何してんだよ」
声が降ってきた。同時に、頭部に痛みが走る。いよいよ脳にまで異変がきたのかと思ったが、声の主に背後から頭を小突かれた痛みのようで、それがどういうわけか私の身体の性能を元に戻し、ぼやけた視界が一瞬で明瞭になった。そしたら嘘みたいに身体の自由も取り戻す。
「ほらどけよ、俺は朝練でくたくたなんだから。つーか、お前、燕に何の用事だよ。まさかいじめたりしてないだろうな」
振り返り顔を上げれば忌々しげに私を見下ろしてくる明神弥彦がいた。だけど私は明神の存在を無視してさっきまで満足に動かせなかった腕を見る。後遺症のようなものもなく動く。すべては幻覚だったと思えるほど。
(何かの間違いだったんだ)
「……なんだよ。ボケっとして。変な奴だな」
無言の私に今度は呆れ返った明神の声がする。
私は視線を自分の手元からふたたび明神へ移した。声と同じ呆れた表情で私を見ている。
「あ……って、あんた今、私のこと小突いたわね。信じらんないわ。か弱い女の子の頭を小突くなんて」
「お前のどこがか弱いんだよ。か弱いっていうのは燕みたいな女のことを言うんだよ。それより、どけって。自分の席に戻れよ」
そう言うと半ば無理矢理立たされた。
勝手に座っていたのは悪かったけれど、そこまで邪険にすることないんじゃない!?
だんだんと腹が立ってきて文句を言ってやろうとしたが
「おはよう。燕」
すでに私の存在など無視して優しげな笑顔で三条さんに挨拶している。
明神が三条さんと幼馴染で仲がいいのも、彼女を大事にしているのも知っている。周囲からは公認のカップルと言われてもいる(一応本人たちはその辺ははぐらかしているけど。というか明神がその話をすると怒り狂う)。
それにしたって、ここまであからさまに別扱いするか?
持って行き場のない苛立ちに立ち尽くしていれば予鈴が鳴る。イライラしているときに聞こえてくるのんきなチャイムはことさら苛立ちを強調させるように思えた。
午後五時半すぎの電車は朝ほどではないが混雑している。この辺は学校や会社が多く帰宅ラッシュだ。それを避けるために居残って友だちと話をしたりするのだけれど、今日はそういう気分になれずにまっすぐ帰ることにした。
朝の爽快さはどこへやら、不愉快な気持ちになっている。それもこれもすべて明神のせいだ。
あれから、私の身体はいつも通り正常に動き、頭痛が起きることもなく、単なる貧血だったのかもしれないと思った。貧血になったことがなかったのでびっくりして大袈裟に不安になっただけだろうと。
ただ、三条さんに見た像のことは引っ掛かっていた。彼女によく似た、少しだけ違うあの子は何であったのか。どこかで見たことがある気もするけれど……あのメイド服っぽい姿に覚えがあるような……考えても今一歩のところで意識が散漫になり思い出せない。喉元まで出ているのにどうしても出てこなくてますます気になってしまう。
何かヒントはないかとチラチラと彼女に視線を送った。それを目ざとく察知した明神が「なんだよ」と私の前に仁王立ちする。
「あのさ、なんであんたがしゃしゃりでてくるのよ。私は、三条さんと話がしたいだけなんだけど」と言うと
「燕に話があるなら、俺を通せばいいだろ」と返される。
「なんであんたを通さなくちゃいけないのよ」
「燕はあんま体が強くねーんだよ。お前みたいなうるさいのに連れまわされたら体調不良を起こすだろう」
明神の言う通り、三条さんは体が弱い。激しい運動は出来なくて、体育はいつも見学だ。私だってそれぐらい知っているし、無茶なことをしようなど考えていない。それなのに明神はまるで私を信用しない。そのことに腹が立って仕方なかった。
どうしてあいつは、あんなにも三条さんに過干渉なのだろう。幼馴染みにしても恋人だったとしても、やりすぎな気がする。何か理由でもあるのだろうか。
考えても答えの出ない問いに、ああ、もう、と頭を掻きむしりたくなった。
そんな苛立ちを感じながら帰宅したら、玄関にピカピカに磨かれた男性物の黒い革靴があった。父の物ではない。誰かお客さんだ。こんなに磨き上げられた靴を履く人物に一人心当たりがあり、私はイライラしていたのも一瞬で忘れ急いで中に入った。
リビングへ繋がる廊下の扉を開けたら、クーラーのひんやりとした風が顔に当たる。
「明良兄!」
「おう、操。お帰り」ダイニングテーブルの椅子に腰かけていたその人は、さわやかな笑顔で迎えてくれた。
清里明良。母の姉の息子、つまり、私の従兄妹だ。明良兄の実家は京都にあり、大学進学で東京に出てきてから、うちが明良兄の実家変わりで、頻繁に食事をしにきていた。十も年上の相手だし、それまでたまに顔を会わせる程度だったけど、これを機に私たちは急速に親しくなった。国立大に一発合格する知力を見込んで夏休みの宿題を手伝ってもらったり(両親には内緒)、高校受験のときには家庭教師もしてくれた。
「どうしたの? なんできたの?」
自分でもわかるほど落ち着きを失って、明良兄の前の椅子を引き、そこに荷物を置きながら言った。
「なんだよ。来たらダメなのか。つれないことを言うようになったなぁ」
「って違うよ! つれないのは明良兄のほうじゃん。全然うちに来なくなったのに、今日はどういう風の吹き回し?」
明良兄に来ないでなんて言うわけないでしょ、とふてくされながら付け足すと、そうだよなぁ、操は僕のこと大好きだもんなぁ、と臆面もなく言って笑った。そんな風に言えるのは完全に妹扱いしている証拠だと思ったら胸の奥から焦げるような苦味が広がる。
「招待状をお持ちしました」
明良兄はかしこまってテーブルに置いてあった封筒をひらひらと見せてきた。
招待状――それは、結婚式の招待状だ。
明良兄は結婚する。知ったのは去年の今頃の時期だった。
就職してからは忙しく、大学生の頃のようには顔を見せなくなったが、それでも月に一度は来ていた。それが去年の春先にパタリと止まる。何かあったのではないかと母と私はとても心配し、連絡をしてみようかとおろおろした。父だけが、男は働き出すといろいろあるのだから放っておいてやれ、と言った。
「何よ、お父さんは心配じゃないの?」と私が怒り
「そうよ。明良くんの身に何かあったら、姉さん夫婦にも申し訳がたたないじゃない」と母がまくし立てた。
たぶんきっとあのままいけば夫婦喧嘩になっていただろう。そこへタイミングがいいのか悪いのか明良兄から連絡があった。――紹介したい人がいるんだ、と。そして、私たちは明良兄に恋人がいたこと、その恋人と結婚を決めたことを知らされた。
「わざわざ持ってきてくれなくても、郵送でよかったのに。忙しいんでしょう」
お盆に麦茶を乗せた母がいつのまにか傍まで来ていた。
「いえいえ、お越しいただくんですから」
私は明良兄から招待状を受け取って中を見る。
真っ白でツルツルとした上質な紙で二つ折りになっていて、広げるとほんのりと甘い香りがした。
皆様にはご健勝のこととお慶び申し上げます
このたび 私たちは結婚式を挙げることになりました
つきましては 親しい皆様の末永いお力添えをいただきたく
ささやかですが 小宴をもうけました
おいそがしい中と存じますが
ご出席くださいますよう ご案内申し上げます
他に日付と場所の住所、地図が印刷されていた。
「今週末だったよね。ジューンブライド」
私は六月二十九日という日付を指でなぞり確認しながら言った。
「ああ、そうなんだ。やっぱり結婚式は六月だろう。天候が心配だけど」
明良兄はそう言うと出した麦茶をおいしそうに飲み干してしまい、それほど喉が渇いていたのかと母はもう一杯入れるために台所へ戻った。私は母が去っていく後姿を見ながら、
「明良兄ってそういうジンクス信じるんだね」
知らなかったと続けると心にぽっかり穴が開いたような気がした。親しいと思っていたけれど、よく考えれば私は明良兄のことをほとんど知らない。この家に来てくれている明良兄が、明良兄のすべてではないのだ。そんなことも知らずに、一番親しい人くらいに思っていた頃が懐かしく切なく思い出された。
「僕はロマンチストなんだよ」
「それ、自分で言っちゃう!?」
相変わらずにこにこと人の良い笑みを浮かべる明良兄へ毒づいたが、これっぽっちも気にしていない。とても浮かれている。結婚式が待ち遠しくて仕方ないのだろう。幸せそうな姿に、私も喜んであげなくては、とは思ったけれど、その考えはあまりうまくいかなかった。
「それで、明良兄、今日はうちでご飯食べてくの?」
私は話題を変えようと口にした。
「そのつもりだけど……ひょっとして宿題があるのか?」
明良兄は何を勘違いしたのかそう言った。
「違うよ! なんでそういう風に思うの!?」
「操がしおらしい言い方になるときって、たいてい頼みごとがあるときだろう?」
「違うってば! 久しぶりだから、そうだといいなって思っただけなのに! そんなこと言うならもう知らない!」
明良兄はいい人だけど時々とんでもなく鈍感だ。でも、きっとその鈍感さに救われているのだろう。そうでないなら、私はもっと気まずい思いをしている。
「なんだ、違ってたのか、それは失礼」
「失礼すぎだよ。でも、いいよ。私は優しいから、お詫びに、今度数学教えてくれたら許してあげる。期末テスト前ね」
私が言うと、ちゃっかりしてるなぁ、と言いながら明良兄は約束してくれた。
私は着替えるために部屋に戻ることにし、手にしていた招待状をテーブルに置き、代わりに椅子の上の鞄を手に持った。
入れ違いで母が麦茶の入った容器ごとテーブルに持ってきて空になったグラスに注ぐ。
「奥様の愛情たっぷりの手料理には負けちゃうでしょうけど、久々に腕を振るうからたっぷり食べていってね」
「おばさんの料理も十分おいしいですよ」
会話が背後から聞こえてきて、胸がきゅっと締め付けられたけれど、それに気づかない振りをして先へ急いだ。部屋に入り扉をパタリと締めると、クーラーの効いていない部屋は熱気がたちこめていてひどく息苦しかった。私は制服のままベッドに倒れ込んで枕に顔をうずめた。
2013/7/8
2014/4/7 改稿
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