帰趨
1. 終わりのはじまり。
「好いた女が出来た」
梅雨に入ってしばらくの夕暮れどき、蒼紫さまの部屋を訪れた。
近頃、蒼紫さまの外出が増えて部屋でゆっくり話せなくなっていたが、今日はどこにも出掛けないという。私はいそいそと向かった。すると、蒼紫さまは言ったのだ――好いた女が出来た、と。
リーンと風鈴が鳴る。夏には早いが優しい音色が気鬱な季節を和ませてくれるだろうと縁側に吊るしたものだ。昼間は静かだったが涼やかな音を響かせていた。風が出てきたのだろう。雨が降る前の少し黴くさい空気が鼻を刺激する。くしゃみが大きく一つ出て、私は鼻孔を押さえた。じんわりと目頭が熱くなったが涙がこぼれることはなかった。今夜は雨が降るな、お店は暇かも、と日常の心配事が頭をもたげた。
――好いた女が出来た。
蒼紫さまは確かに言った。
言われたことを反芻させても驚きはそれほどなかった。女の勘なんて大袈裟なものではないけれど、蒼紫さまの外出の理由をうっすらと理解していたから。それでも面と向かって言われないのをいいことに知らない振りをし続けた。真実へ自ら霧をかけて見えなくしていた。でも、蒼紫さまはそれも許してはくれないらしい。
押さえていた鼻から手を離すと滲んでいた涙が引っ込んだ。何故、涙が出ないのだろう。黴の匂いで鼻をやられ、目頭も熱くなっていたし、蒼紫さまの言葉にも心が強く揺さぶられた。泣いてもよいと思う。泣かない方がおかしいくらいだ。そうであるのに、一度引いた涙がひとたび溢れることはなかった。
泣いたら、負けだ。
何に負けるのか、よくわからなかったけれど、泣いたら負けだと思った。
それからしばらくして、今度はその女の人が葵屋にやってきた。
「その相手を、一度連れてこい」とじいやが夕餉の席で告げたのは覚えている。
どくり、と心臓が早まった。私は俯いて食事をとった。
何故、そんなひどいことを――そう思ったけれど、じいやにもじいやの考えがあってのこと。葵屋は私だけの家ではない。蒼紫さまが選んだ相手ならば、先々に葵屋の手伝いをしてもらうことになる。顔見せするのは自然だ。私は反対することもできなかった。
ただ、それが本当になると流石に動揺が強くて、その女の人の姿を直視できず、まともに挨拶もせず、失礼だと思いながら、じいやの後ろに隠れた。じいやは私のよくない態度を責めることはせず、そのままにしてくれた。近頃薄毛になってきていて、後ろから見ると際立つから、帽子を被るか、被っていないときは背後に人を立たせないよう気を付けていたはずなのに無防備に後頭部を見せている。やはりちょっと薄くなっていて、じいやも年だなぁ、ふふっと笑いたくなったのに喉が震えてうまくは笑えなかった。
蒼紫さまがその人と自身の部屋へ去っていくと、みんなは仕事を再開した。
「お茶を出さなくちゃ」私は言った。蒼紫さまへの来客は私がもてなしする。ずっとそうしてきた。くらくらとする頭でも習慣に、身体は動く。
「操ちゃんはお店の方を手伝って」お近さんが言った。
「でも、蒼紫さまのお客様なんだからおもてなししなくちゃ」私はもう一度言った。すると今度はお増さんが「私が持っていくから」と用意し始める。それでも私は自分で持っていくと言ったけれど、駄目と許してはもらえず、ここにいて店の手伝いをするよう強く言われた。絶対に部屋には近づかないようにとも。
二人の姿を見せたくないとの私への配慮だとは分かったが、行くなと言われると余計に行きたくなる。私は言いつけを守らず蒼紫さまの部屋に行った。
これまで蒼紫さまに言い寄る女性にしてきたように割って入ろうとしていたのだろう。蒼紫さまを笑顔にするのは私の役目なんだからね! と主張しようとしたのだろう。そうすれば、すべてなくなるような、間抜けな願望があった。
蒼紫さまの部屋は一番奥にあり、私はそろりそろりと近寄る。不思議と気配を消していた。自分の家でそんな振る舞い変だけれど、虫の知らせというものだったのかもしれない。ふらふらとした頭とは別に、よくないことが起きていると何かが察知し、身体が勝手に防衛していた。
そして、それは的中する。
部屋の前まで来て私は凍りついた。室内から聞こえる声が――。
「んっ……、だんなさん……あっ…」
布切れのこすれる合う音と女の人の艶のある声が漏れてくる。
何をしているのか。
何が起きているのか。
いくら間抜けな私でもわかる。
――ああ。
体中の力が抜けて寒さを感じ、震え出しそうな心許なさに襲われる。そうであるのに頭は冴え、知りたくないことを知らしめるように働きはじめた。
蒼紫さまもいい年齢だ。女性を求めるのは自然なこと。そのようなことをしていてもおかしくはない。好いた女が出来たと言われても実感を持てずにいたけれど、考えないようにしていたけれど、そういうこともしているのだ。
これはいつもの、蒼紫さまへ一方的に言い寄ってくる女の人とは違う。蒼紫さまもこの女の人のことを受け入れている。それが好いた女が出来たということなのだ。
私では、ないの。
蒼紫さまが選んだのは、私では、ない。
ようやく、現実が開かれた。同時に、
――どうして。
目の前が真っ赤に染まり、足の先から凄まじい熱が昇ってきて部屋に押し入りそうになる。
「何してるの!」そう叫び罵りたい。
右手を胸に置けば脈打つ心臓が痛い。
酷いよ。どうしてよ。ずっと好きでいたのに、蒼紫さまのことだけを思ってきたのに。私のこと裏切って他の女の人を選ぶなんて、人でなし、大っきらい。
真っ黒で獰猛な感情が私の身体を駆け巡り、憤るままぶちまけてやりたかった。
けれど、私はその場を黙って去った。
私の想いが報われないからと蒼紫さまが他の人を好くことを咎められない。それはあまりに勝手だ。そもそも私と蒼紫さまは恋仲ではなかったのだ。これは裏切りでもなんでもない。裏切りと思いたかったのは私の一方的な言い分だ。そう考えるだけの冷静さがまだかろうじて残れていた。我儘で言いたいことを言うはねっかりと窘められることも多かったのに、こんなときに冷静でいられるくらい、私も少しは大人になったのだ。――否、そんな理性的な気持ちではなく、単にまだ現実を受け入れたくなかっただけなのかもしれない。
一歩一歩音を立てぬように摺り足で下がる。ここにいることを誰にも気づかれたくない。背を向けて店へ戻る。歩みを進めるほど、呼吸が浅く心音はまだまだ速まっていく。
廊下の途中で風鈴が揺れている。行きのときは気にも留まらなかったが風に揺れて存在を主張している。薄い水色に金魚の絵柄。去年のお祭りで買ったものだ。毎年、出店で風鈴を買う。それは私の決めごとだった。
リーンリーンリーン。
澄んだ音がやけに耳にこびりつく。高く、か細く、美しい音色が鳴り続けていた。
店へ戻れば「どこにいっていたの?」と私を見るなりお増さんが言った。
「手水だよ」心配するようなところへは行っていないと嘘を。
「そう」お増さんは息をついて仕事に戻る。
私も手伝いをする。なるべく普通に。なるべく明るく。何食わぬ顔で店の手伝いに精を出した。
夕刻前、女の人が帰るからと蒼紫さまと店に顔を見せた。
女の人が私を見てにっこり笑い、可愛らしく小首を傾げるように会釈しながら襟元をすっと撫でる。襟が開き白い首筋がチラリと見える。ほんの一瞬だったけどそこには痕があった。
――あっ、
小さな悲鳴を上げそうになり、私は二人に背を向けた。
何の痕か鈍い私でもわかる。そういう時に、そういう痕を残すようにすることがあると、友だちの話で知識としてあった。ただ、声を聞いていなければ咄嗟には結びつかなかっただろう。単なる虫刺されくらいに思っていた。実際、本当に虫刺さかもしれない。だが、そういうことではなく、問題は痕を見ても虫刺されとは思えなかったことだ。
私は知っている。
瞼を閉じれば光の残像がチラついた。何度も深呼吸を繰り返すうちに、ふいにざわついた気持ちが静まる瞬間が訪れる。目を開ければ見慣れた風景が見知らぬもののような、まったく別の世界に思えた。
私は知っている。
もう一度胸の内で唱えれば、妙に可笑しくて、口元が緩みそうだった。
引き際なのだ。認めるしかないのだ。この人が蒼紫さまに愛されていること。そして私はそれに太刀打ちできないことを。
それから、女の人を送って帰ってきた蒼紫さまに私は言った。
「蒼紫さまが幸せなら、お祝いしなくちゃね」
もっと震えたり、ぶっきらぼうになったり、嫌味っぽくなるかと思ったが、声に出したそれは思いのほか普通だった。心が張り裂けてしまいそうなほど辛いくせに、お祝いしようなんてこれっぽっちも思ってないくせに、私は笑顔で告げることが出来た。
真逆のことでも口にすれば本当と錯覚出来る。
否、違う。蒼紫さまの幸せが、私の幸せ――そう思う気持ちも全くの嘘ではなかった。
何より、一言でも非難めいたことを言えば、これまでの自分の気持ちまでも汚してしまう気がして怖かった。私が思い続けた日々まで嘘になる気がして、それだけはしたくなかった。
私はホントに、ホントに、蒼紫さまが好きだったのだ。
誰よりも、何よりも、愛していた。
だから、せめてそれだけは守り通したい。私の蒼紫さまへの思いだけは綺麗なままで、今までの自分を間違いだと思わずにいられるように守ってあげたかった。
蒼紫さまは私の言葉に一瞬すっと目を細めて鋭い眼差しになったので、やはりどこかおかしなところがあったのかときゅっと心臓が縮まる気がした。でもすぐにいつもの無表情に戻ったから私の態度は上手くいったのだと思った。
リーンと風鈴が揺れる。梅雨の次に来る暑い季節を待ち焦がれるように軽やかに鳴る。綺麗で優しいと好いていたはずの音色――それが私の長い長い恋の終わりを告げる音となった。
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