帰趨
2. 違和感
英雄色を好む――それは男の手前勝手な言い分であろう。欲望を満たすことを、己が偉大なる人物であるからこそ人並み以上にそちらの方も盛んであるのだとする小癪ないいわけである。それでもその言葉を真理であるとし、むせるような色町で馴染みの女を持ち、或は屋敷まで用意して生活のすべてを掌握し囲う。それはいつの世も変わらぬ。幕末の動乱の中でさえ、否、左様な異様の中であるからこそ、皆、女を抱き、一時の夢を見た。夢だけに留まらず、それで身持ちを崩し本来の役割を忘れる愚かな男も数多く見てきた。己はそのような真似、到底出来まいと鼻で笑った。女に現を抜かす暇などなかった。なさねばならぬことがあった。だが――。
「どうかしました?」
問いかけに、俺は女から身体を離し、床を出た。
「気が乗らん」
長屋の、粗末ではないが立派ともいえぬ一軒では雨音がやけに大きく聞こえ耳につく。その五月蠅さに抱いていても気持ちよくはならず、それどころか何とも言えぬ不快さを感じるばかりである。俺は着物を纏った。
「そうですね。雨は鬱陶しいですものね」
女も床から出る。俺の振る舞いに気を悪くした様子はなかった。
この苛立ちは、女の言うように雨のせいか。確かに雨は憂鬱さを増させ、されば過去の陰鬱とした記憶が蘇ってくる。眠れぬまま一夜を過ごすこともある。梅雨時期は益々と気分が滅入るのはいつものこと。だからこそ、俺は女の元へ足繁く通っているのだ。
女と出会ったのは一月前、寄り合いの帰り、男に絡まれているのを助けたのが縁だ。それから俺の前に頻繁に顔を見せるようになった。そのような誘惑を受けたことはこれまで幾度もあり、いつも袖にしてきたが、初めて女の誘いを応えた。俺も男である。体が疼くこともある。欲求を解消するように抱いた。それは一度きりの交わりであるはずだった――が、女の具合は酷く良かった。その身を抱いている間は何も考えられずにいられる。俺の身に起きたことなど何も知らず、ごくありふれた小料亭の若旦那として接してくる姿に、女の前でだけは市井の者としていられる気がした。かつて馬鹿にしていた者たちが求めていたものの意味を、俺は今になって知った。
俺は女を好いた。
肌を重ねて溺れた。
翁はよい顔をしなかった。操がいるのにと――しかしこればかりはどうにもならない。黙っているのも心苦しく先日ついに操に真実を告げた。
それは久々に雨の止んだ、涼しげな風が吹いた夕間暮れ。その頃には女の処で過ごすことも多く、操が俺の部屋を訪れ、他愛のないその日の出来事やら、何処ぞで仕入れた小噺などを話しはじめ、俺は意識の半分で耳を傾け、もう半分で書物を読み耽るという、長らくの日常が失われていた。その理由を、問いただしてくることはなかったが、操とて気づいていただろう。ならば、いつまでも黙っているよりよい。
「好いた女が出来た」
二人で過ごすのはいつ以来か――考えながらも、俺は言葉を選ぶことなくそのままを口にした。操の表情は動かなかった。否、あれほどくるくると喜怒哀楽を見せる娘が無表情になることが反応なのだろう。混乱し色を失ったと解釈するべきだ。その後も、一言も責めることは言わず、俺の顔をひとしきり見つめてから黙って去った。その目には涙さえ浮かんではいなかった。怒鳴られ、泣かれるだろうと覚悟していた分、いくらか戸惑ったが、どうもそれは納得したわけではなく、事実を受け止められていないための逃避のようであった。
当然と言えば当然である。操のこれまでを思えば、早々簡単に事情を飲み込めぬのも無理はない。
されば、しばらくして翁が夕餉の際に皆の前で女を葵屋へ連れて来いと告げた。予期せぬ提案であった。皆も驚いていたようだったが、俺とて驚いた。その意図を慎重に探った。俺が他の女となさぬ仲になったことに難色を示していたはずが、どういう心境の変化か。
俺はその後で、翁の元を訪れた。
確かめておかねばならなかった。その真意を。
「好いた惚れたはどうにもならん。お前の気が他にある以上は操には諦めさせるより仕方あるまい。あれはまだよう飲み込めんようじゃし、こういうことは早う踏ん切りをつけさせてやるのが、結局は互いのためじゃ。お前が幸せである姿を見れば、操も自分の幸せを考えるようになるじゃろ」
長い髭を撫でながらひっそりと俺に告げた。
翁の言うとおりである。俺は、女を店に連れて行くことにした。以前より、女からも店に行ってみたいと言われていたこともあり、話はすんなり進んだ。
女の姿を見れば、操はさっと翁の後ろに隠れてしまった。相当に傷ついただろう。その後ろめたさに、俺は早々に自室へ引っ込んだ。そうしていれば、増髪が茶を持ってきてくれた。心なしかその様子もぎこちない。店の者も俺が他の女を選んだことを複雑に思っている。
「私は嫌われ者みたいですねぇ」
女は二人きりになると触れてきた。
「だんなさんの匂いがしますね」そういって、ここで抱いて欲しいと――艶やかに口元を緩めねだってくる。
屋敷の中でことに及べば操にばれるかもしれない。流石にそれは、と俺の躊躇いに女は含み笑いを浮かべた。
「ここではできません? 若旦那さんやのに店の人に気を使いますの?」
挑発するように言われる。
女は俺に触れた。ここで拒否すれば度胸のない男と思われると妙な意地が顔を出す。何より、巧みに誘惑され煽られた身を鎮めることが出来ず抱いた。
すべてが終わり帰りがけ、今一度の挨拶と店へ顔を出した。皆、表面上はにこやかにしていたが、微妙な空気だった。しかし、それは単純に操の手前、俺と女のことをどのように受け止めればよいかの迷いからで部屋での睦事は知られていないようであった。万一、昼間の、皆が忙しく働く最中に同屋敷で左様なことをしていたと知られればもっと眼差しに咎めの色があったろう。いくら御頭といえ、そこまで俺に寛容ではない。日頃より俺の部屋に来る者は滅多とない。女が一緒とあれば尚更、わざわざこのような時に訪れる者はいない。それはそうであると思った。
ただ、操だけは来た時と同様に俺と女を見ると落ち着きを失くし背を向けられる。話に聞くだけであるのと、女を目の前にするのとではやはり衝撃が違うのだろう。これでようやく、操も現実を受け入れる。時は必要であろうが、次第に心は前を向く。その前に俺は罵りを受けるだろう。当然である。操の存在がなければ、今頃どこぞで野垂れ死んでいても可笑しくなかったというに、その気持ちに応えずに余所に女を作ったのである。
「蒼紫さまが幸せなら、お祝いしなくちゃね」
だが、俺の予想に反し、操は女を送り戻ってくると俺のところへ来てそう言った。悲しみも怒りもなく笑顔で告げた。
その笑みは静かであった。これまでの無邪気で屈託のない真夏に咲く大輪の花のごとき笑みではなく、静かで凛とし見慣れぬものだ。
――操。
名を、呼びかけようとして喉をつかえる。
ひとしきり恨み言を言われると覚悟していた。操は強い娘だがすんなり納得するはずないと。何故、笑っていられるのか。それも、俺の知らぬ笑みを浮かべて。いつから、お前はそんな顔を出来るようになったのか。
あれから胸の内に冷やかな波紋が広がり続けている。
「店を出ようかと考えている」ふと俺は口にした。
今の環境がよくないのかもしれぬ。葵屋は操の家だ。操と夫婦になると思っていたからこそ翁も俺を若旦那にした。余所に女が出来たならば俺には葵屋にいる資格はない。それに店の者たちの俺を見る眼差しもぎこちない。奴らも色恋がままならぬものと理解はしても、長らく操の一途さを見てきたからには肩入れするのは無理からぬし、故に俺の振る舞いをどう受け止めればいいのか胸中複雑なのであろう。波風を立てるばかりならば店を去り、ここで女と暮らそうかと。
「そんなことダメですよ!」
女は慌てふためいて止めた。
俺は視線だけを女に向ければ、明らかに不味いという顔になり、
「あ、あの、ほら、だんなさんがいなくなったらお店だった困りますし。私のためにだんなさんの将来を棒に振らせるなんてことできません。今のままで十分です」
「……そうか」
俺は懐から包みを出して、机に置いた。
「今月の分だ」
そして、振り返らず家を出た。女の嬉しげな顔を今は見たくなかった。
感情が波立っていく。冷静であると周囲からも、自分自身も思っていた。そういう訓練をしてきた身である。それが――これもすべては雨のせい。嫌な季節がすぎれば治まる。そうに違いない。
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