永き恋の涯シリーズ

帰りを待つ者

 ただ生きるなら簡単だ、何かをなそうとするから難しい、と思っていた頃があった。 ただ生きることこそ難しい。そんなことも知らずにいた。井の中の蛙。まさに。



 状況など所詮隠れ蓑にすぎぬ。四乃森蒼紫は思い至ったが認めるには躊躇いがあった。
 生きることに迷いはない。命さえいらぬ、と言った蒼紫に、捨てるなど容易い、と告げた抜刀斎の言葉は真実となりえた。死を望む弱さを排し強くあらねば。少なくとも彼の四名がその身を賭して守りたかった命は、強くあった主への忠誠である。それ故、生きることにもう迷いはない。どのように生きるべきかを模索することはあっても。そうして、禅寺通いに明け暮れた頃もあった。
 東京から戻って以降、蒼紫は小料亭の主という立場にいる。
 店に出ることはあまりない。陰気な自分が表舞台に立つべきではないと考える。仕事といえば専ら帳簿だ。御頭として組織を担っていた手腕が小料亭でも通用することは有難かった。
 蒼紫は真面目で勤勉な性格であり、細やかな仕事が性に合っている。どこぞの警察官は酒を煽ると血が騒ぐと嗤っていたが蒼紫は下戸であり、そのような性癖はない。それが責務であるからこなしていただけで、静かな生活を元来好む性分であると今になって知る。それがいささか滑稽にも思えた。
 ただ、それでも時折思うのだ。何故、ここにいるのかと。
 かつて蒼紫は一人ではなかった。御頭として指針となるべく動かねばならなかった。しかし今は――京都御庭番衆にとっても蒼紫は特別な存在で重宝されているが、江戸城御庭番衆とは異なる。理屈ではなく違う。それ故、葵屋に身を寄せる日々に逡巡する。己の身一つならいかようでもなろう。ここを出ても暮らして行けよう。留まる理由、いかに。
「蒼紫さま」
 声がかかる。軽やかな声。身の動きもまた軽い。
 盆に湯呑を乗せた巻町操が入ってくる。
 気の利いた男なら帳簿を閉じ共に一服するが、蒼紫は顔も上げず、返事もせず、手元の帳面を見ていた。
 操も物言わず茶を出すと去る。"蒼紫さまが部屋にいる。葵屋の仕事をしている"と分かれば十分。人は幸福に慣れていくもの。傍にいれば欲がでる。だが操にとって蒼紫不在の時間は長すぎた。目の前にいる。それ以上の欲が出るのはまだ当面先であった。
 操がどれほど別離を悲しんだか、蒼紫とて人の子、承知しているが優しい言葉の一つかけたことがない。堅物の男に女子の喜ぶ言葉が言えようはずもなく――何より蒼紫にはまだ迷いがある故に。


 二人の出会いは十数年前に遡る。
 当時、蒼紫は才覚を露わにし始めた頃、操は年端もいかぬ幼子であった。
 偉大なる御頭が孫娘を屋敷に引き取る。話を知り蒼紫は驚いた。忍びとて家族は持つが、御頭は一人身だと思い込んでいた。誰よりも危険な職に就く男だ。妻子がおれば未練が出る。身一つでいるものと。
 どのような経緯で孫娘を引きとったか、詳細は聞かされなかった。聞く必要もない、自分とは無縁であると考えていた。――ところが。
「あおしさま〜」
 幼子は蒼紫を気に入り見つけると駆け寄ってくる。
 周囲の者は年が近いからだと笑う。年が近いと言うなら般若の方だと蒼紫は思う。しかし、文字通り般若の面を付けた男の年齢を幼子が理解できるはずなく、見た目から判断して、やはり蒼紫が最も年が近い者だったのだろうが。
 御頭のお身内の女児を邪険に出来ないが、遊んでくれとせがまれると大変困る。幼子が喜びそうな振る舞いなどわからない。仕方なく般若を呼び出し面倒を見させる。幼子は満足して楽しそうにする。般若の面をつけた男を怖がることなく朗らかに笑う様は豪快だ。さすが御頭の孫娘である。蒼紫は安堵し、後は任せたと席を立つ。しかし蒼紫が立ちあがると機嫌よく遊んでいた幼子が慌てふためいて足にまとわりついてくる。"遊んでくれずともいいからいろ"ということらしい。二人が遊ぶ姿を見ていろというのか――幼子の要求を蒼紫は不満に感じながら、しかし、結局のところ従った。
 その光景は傍から見れば異様なもので、終始無言で難解な顔をした蒼紫と楽しげにはしゃぐ操と間に挟まれてひやひやしていた、とのちに般若が懐かしげに周囲に漏らしていたという。
 されど、それもしばらくすれば終わりを迎える。人は環境に順応する。順応したのは蒼紫の方だった。
 蒼紫は幼子に慣れはじめる。ちょこまかと周囲を飛びまわる姿に。無条件に、無心に、好意を寄せてくる姿に。過酷な任務が終わり屋敷に戻れば「おかえりなさい」と駆けてくる姿に。無言だったのが「ああ」に変わり「ただいま」と返すようになった自分に。


 湯呑を手に取り口をつける。濃い目の茶をすすり一息つく。
 ややあって、蒼紫は立ち上がる。
 目的があったわけではない。ただ、ふらりと外に出たい。日夜部屋に閉じこもれば体がなまる。武芸を生業にしてきた者の性なのか、平穏を好むことと己の腕が鈍ることは別の話であった。
 部屋を出て廊下を渡り裏口。表は店の入り口でもありこちらを使うべきと考えた。
 店の主が勝手口からこっそり出掛けるとはおかしな話、堂々と表から出て行かんか。翁は言う。操も。それには別の意味が含まれている。蒼紫も重々承知していたが、それでいて、しかし、これでよいと考える。
「蒼紫様、御出掛ですか」
 葵屋の女衆・増髪が井戸で野菜を洗っていたが手を止め声を掛けてきた。
 頷くと増髪の顔は陰る。
 増髪も御庭番の一人。感情を隠すのは慣れているはず――平和に気が緩んでいるのか。否、敢えて見せたと考えるのが妥当だと蒼紫は解釈した。
 蒼紫が葵屋に戻った当初が思い出される。
 操は蒼紫がまたいなくなることを恐れ、出掛けるときは何処へ行くのか、いつ帰るのか、一緒についてくることもあった。そうであるのに言葉として「何処にも行かないでください」とは言わなかった。蒼紫が何と応えるか、応えないか、確認するのがおそろしかったのだろう。それもようやく落ち着いてきている。詮索しすぎると窮屈に感じ逆効果と翁が助言したことも知っている。
 気塞ぎにさせるのは本意ではない。蒼紫もなるべく出掛けるときは告げて行くようになった。さすれば操は必ず戸口まで見送りに来る。それがない。黙って行くことを意味している。増髪は心配しているのだろう。
「夕刻には戻る」
 手短かに告げ、出る。
 日が高い夏の午後。蝉の声が五月蠅い。


 葵屋に預けてしまえば話は終わると考えていた蒼紫にとって、操が自分たちを探し一人旅をしていたという事実は驚くべきものだった。
 初めて実行したのは齢十二だと聞いている。身が軽く、般若から拳法をならい、苦無を使う操は、普通の男子にならば負けぬが、それでも女子であり子どもである。腕っ節の強い男に出くわせばたちまち危険にさらされる。よくぞ何事もなく無事であったと肝を冷やした。
 さりとて、何が操をそれほど駆り立てたか。
 操が向けてくる好意が、果たしていかようなものか、蒼紫は計りかねていた。
 思えば、操は不遇な子であった。両親を亡くし唯一の血縁者である御頭も病死し天涯孤独の身。
 病床で操を託された蒼紫は、尊敬する御頭の頼みを、自分を慕う操を、守るのは当然と考え傍に置いた。さすれば操が蒼紫を頼りにするのは道理。慕い続けた男に進退を預けられたからには絶対の存在となるのは容易い。蒼紫もそれを問題視しなかった。否、省みる余裕がなかった。天才と謳われ、御頭を継いだが当時十五である。その重責、身に余る。江戸城御庭番衆の行く末を思うばかりで、操の"女としての幸せ"を思う余裕がなかった。拳法など習わさず、苦無など使わせず、しとやかな女に育てることを。
 しかし、陰に身をやつし、日々鍛錬を行って過ごす、年の頃少年と呼べる男に、女の身の幸せを考えてやれというのも酷である。気が回らずとも責められはしまい。だがそれでも蒼紫は悔いた。先代御頭に頼まれた大事な娘の幸せを慮ってやれぬ己は御頭になる器ではなかったと嘆くほど。
 江戸城御庭番が御役御免となり蒼紫が京都を訪れたのは後悔を終わらせるためだ。操に御庭番と関わらせぬ日常を――それを表向き料亭を営むとはいえ元御庭番衆である翁に頼むなど間抜けのように感じるが、時は幕末、動乱の時世で危険から身を守ってくれ、且つ、操を大事にしてくれる場所は葵屋しかないと考えた。
 それが、操はたった一人で旅をして自分たちを探し求めていたという。
 蒼紫だけなら諦めていたかも知れぬ、と思うこともある。般若も、べし見も、ひょっとこも、式尉も、操を可愛がっていた。愛でてくれる者が一度にいなくなる。それらの者は共にいる。ならば探し出そうと思う。蒼紫一人なら違っていたかもしれない。
 だがそれも、すべては過ぎたこと。
 操の元に戻ったのは蒼紫ただ一人。そのことを責められはしなかった。蒼紫さまが戻ってくれて嬉しい――と昔と変わらぬ笑顔で接されるばかり。その好意が果たしていかなものか、蒼紫は計りかねていた。


 しばらく歩けば寺がある。
 境内に入ると小坊主が掃除をしている。蒼紫に気付くと丁寧なお辞儀をした。
 寺には四名の小坊主がいた。この小僧は、一番小柄で他の三名にからかわれることが多かった。蒼紫も幾度か見かけたが手を貸すことはおろか、声をかけて慰めることもしなかった。そうするべきだと思った。それすなわち、蒼紫がそうされたかったからに他ならない。
 あれから、他の小坊主はみな途中で修行を投げたと聞いた。
 本堂に上がり禅を組ませてもらう。
 蝉の声が煩いが、やがて聞こえなくなる。自分の内に意識をもぐらせていく。心を無にするのが禅である。それは浮かび上がってくるものを無視することではない。心の憂いを直視し、先にある静かな場所へ行きつくことを意味する。


「お主は、少し物事を難しく考え過ぎるでござるよ」
 抜刀斎――緋村剣心が言った。
 東京から戻る前日。茶の湯に付き合うとの約束を果たしたときのこと。何になのか、誰へなのか、言わずもがなとその台詞だけを投げられた。
 緋村剣心が神谷道場に身を寄せる理由と、蒼紫が葵屋に身を寄せる理由、共に同じであるが、片やそれでよしとし、片やそれでよいのか迷う。
 いや、しかし、と蒼紫は思う。
 神谷の娘と操は違う。
 神谷の娘は明らかな恋慕だが、操のそれは思慕であるが恋慕と呼べるか際どいところ。身内、兄という気持ちが、忽然と姿をくらまされ意固地な執着心となり錯覚しただけかもしれない。勘違い。誤解。蒼紫を慕う気持ちが本当でも質が違えばそれからの関係は違ってくる。
 操には幸せになってもらいたい。
 人の幸せを願う――現実主義が徹底された御庭番において祈りなど排除される。実際に出来ることを行動する。己の手を離れた操のことは考えない。否、自分のような男が操の幸せを願うことは迷惑である。一切の関わりを忘れるのがよいと信じた。しかし、心の奥で消えることなく存在し続け――それは思っていたより遥かに深く大きなものだと気付いたのは最近になってからだ。だが事実を認めきれずにいる。己を鑑みれば血濡れた生臭さ。望まれるのならまだしも、自ら望むなどあまりにも強欲と。
 だから蒼紫は状況に甘んじる。
 操が身内であることを、兄であることを求めるなら、そうするだろう。操が女にならぬなら蒼紫も男にならない。傍にいて操に災難がかかるならいつでも去る。だが、そうでないなら――。
 しかし、当の本人は相変わらず。葵屋で別れを告げたときと変わらぬ態度で接してくる。安堵しながら歯がゆくある。いっそう初めから、完全に手に入らぬものであれば、さすれば迷わずにいられたものをと思わなくもない。


 蒼紫は目を開けた。
 時はすでに夕魔暮れ。
 帰らねば――操が心配する。
 ほとんど無意識に浮上した。その一瞬に蒼紫は狼狽えた。
 この身など、どうとでもなれと思うところまで堕ちた身が、それでも死ぬことが叶わず、ただ生きることの難しさに今更ながら打ちのめされていた己が、日の沈む頃、帰らねばと、まるで幼い子どものような気持ちを持つなど。
 そして、それが指し示すもの。
「お主は、少し物事を難しく考え過ぎるでござるよ」
 再び声が聞こえた。
 答えは、とうの昔にあった。――だが認めるにはやはり難儀な性分が邪魔をする。


 葵屋の前。一人の娘が右往左往。近づく影に気付いて駆け寄ってくる。
「蒼紫さま!」
 元気のよい声は、変わらない。昼も夜も。昔も今も。
 待っていたのか、と問えば、はい、とまたも軽やかな。
「おかえりなさい」
 蒼紫はわずかに目を細める。それは夕日が眩しくてそうしたものと思えなくはなかったが。
「ただいま。操」