永き恋の涯シリーズ
華、愛でる夜
油断していたといえば油断だ。
「なんだよ、いきなり」
声がして操が泣いていることに気付く。
突然泣きだしたらしく慰めるのは傍にいた相良だった。半分呆れながらではあるが。
「泣き上戸なんて聞いてねぇぞ」
否、俺とてそのような記憶はない。操は常日頃から明るいが酒を飲むと拍車がかかる。よくぞまぁそれほど陽気になれるものだと感心するほど。それが。
「ったっくもうこのイタチ娘は世話が焼けるな。仕方ねぇからちょっとばかり夜風にでも当ててくるわ」
相良は操を立たせようとするが嫌がる。それはどう見ても幼子が駄々をこねているという風だった。ただ実際の幼き頃の操はかように我儘な子どもではなかったが。聞きわけのよい、扱いやすい子どもだった。唯一、聞きわけがなくなるのは俺に関することのみ。任務に行くのを止められ、それが無理だとわかると今度は自分も一緒に行くと――そんな問答を繰り返してきた。しかし、今は俺以外の相手に駄々をこねている。初めて見る光景だった。
ホントに、世話が焼けるな、ともう一度その声がしたかと思うと相良はついに操を抱き上げた。小柄な娘だ。造作もなく横抱きにされる。操は驚いて「ひやぁ」っと声を上げたが、
「暴れるなよ。落とすぞ」
落ちるぞ、ではなく、落とすぞ、と脅しをかければ、痛い思いをするのは嫌と見えて大人しくなる。相良は少し満足げな顔をして操を連れて出て行った。中庭にでも行くつもりだろう。
二人の姿が見えなくなると、今度はみなの視線が俺に集中した。
特に神谷の娘の目は敵対心むきだしだ。酔っ払っていることを差しい引いても剣呑で、目が合うと、
「何してるんですか」
怒り心頭を隠しもしない。何している――こんなところで何をしている。操の面倒を見ているのが何故、俺ではなく相良なのだと言いたいのだろう。だが、あの状況で駆けつけるのも妙というものではないか。何が妙なのか。それもよくわからないが。
「薫殿、落ち着くでござるよ」
それを宥めるのは緋村だった。
「まぁ、私もちょっと気が利かなかったわね」
更に近くに座る高荷も続ける。
「いやいや、恵殿の知識欲は患者を思う故でござろう」
それを助けるのはやはり緋村だ。中和剤のような男だと思う。人当たりの良さとでもいうのか。
いや、それよりも。
この状況の原因は俺にあるのだな、とその時になって理解する。
久々の東京。花見を終えて、神谷道場に戻ると宴会が始まった。
下戸である俺と、急患にそなえて酒を呑まない女医者。なんとなく輪からはみ出てしまったが、話かけられたのは意外だった。少なからずの因縁がある高荷は距離を取るだろうと思われたが、神谷の娘の人形を見破った件のこと――どこでその知識を手にしたのか。あれから随分と経過するが、それがひっかかっていたらしい。医師の自分を騙すほどの精巧なものを作り出せる技術に興味があったのだろう。それから互いの知識交換のような話をした。
操はそれが気に食わなかったのだろう。
いや、しかし。それにしてもいつもの操らしからぬ。とは思う。
悋気というものを考えなかったわけではない。ただ、操は直情的な性格であり、そう思ったら割り入ってくるだろう。だがそのようなことはなく、操は輪の中で楽しそうに過ごしていた。こちらとしても、何らやましいことはないので、そのまま話を続けた。
「操殿も大人になったでござるが、大人になりきれないでござるな。乙女心と言うのは複雑なものでござるよ」
そう言うのは、やはり緋村だった。
中庭に着くと、操はまだ泣いていた。
それほど悲しかったのか。
相良はどう取り扱っていいのか困っているらしく、俺の姿を認めると明らかに安堵の表情を浮かべて、
「ほら、御頭さんがきたぞ」
そそくさと場を去ろうとする。だが。
「ちょっと、いかないでよ」
年頃の娘が、男に向かって「いかないでよ」とは。何がしかの意味が含まれているわけではないのはわかる。しかし誤解を招く台詞であることは間違いない。まして、それが俺と二人きりになりたくない故であるとなれば複雑さはより一層深まる。
大きな目で訴えかけられて、子猫を捨ておくような気持ちになったのか相良は一瞬足をとめたが、
「後はこちらで引き受ける」
その一言に、うなずいて去って行った。
操は相良の後ろ姿を縋るように追う。それを俺も黙って見つめる。涙は止まっていた。
夜風が、冷たく吹く。
「部屋へ戻るぞ。風邪をひく」
「私はもう少しここにいますから、蒼紫さまは先に戻ってください」
そのような提案を無論聞き入れるつもりはない。操の傍に近寄って、先程、相良がしたのと同じように抱き上げた。操は抵抗する。
「一人で歩けます。降ろしてください。私は子どもじゃない。恥ずかしい」
道場からここまで、相良に抱きあげられているのを見られているのに何をいうか。と思ったが口にはしない。
「すぐそこだ。恥ずかしがらずとも誰も見ていない」
「すぐそこなら、余計に自分で歩いていきます」
尚も暴れるが、無視して歩く。もしここで俺が「落とすぞ」と言えば、大人しくなるだろうか。それともまだ暴れるだろうか。そのようなことを考える自分に多少驚く。何を張り合う必要があるのか。愚かな。
当てがわれた部屋に入り抱きかかえたままで腰を下ろす。離そうか、と思ったが、その前にまたしても操が泣きだした。感情の琴線が壊れてしまったいるようだった。
どうしたものか。
降ろすべきか。このまま落ち着くまで待つべきか。しかし、もう操は幼子ではない。流石にこれはないか……とは思うのだが。酔っぱらっているからか、はたまた感情的になっているからか、それとも眠いからか、夜風に当たっていた割にはほんのりと温かく、その身は心地がよい。遥か昔の記憶が呼び覚まされるような気がした。
『あおしさまのおよめさんになるの』
一時期、操は朝から晩まで口にしていた。
任務が多忙を極めて、屋敷に幾日も帰ることが出来ず、戻ってもあまりの疲れに一人自室に籠って泥のように眠り続けたのだ。それまでは、いくら疲れていても戻ると操の相手をしたいたがその時ばかりは流石に。体力が回復して、ようやく顔を合わせると、操は俺の嫁になるのだと言い出した。
夫婦になれば一緒にいられると、一体、どこで聞いたのか。
それを幼かった操は鵜呑みにして、俺の嫁になるのだと言って聞かず、抱きついて離れなかった。それは言葉のあやではなく、手水や風呂に入る以外、べったりとくっついて、膝に乗って降りないので、手ずから食事を摂らせる事態にまで陥った。これでは嫁と言うより、雛鳥でも育てているという方がしっくりくると思ったものだった。
「蒼紫さま、私が話しかけても何も言ってくれないのに、あの人とは楽しそうにしてた。ああいう人が合うんだなぁって思ったんです」
思い出に浸っていると聞こえてくる。
あの人というのは、当然あの女医のことだろう。知らぬことを知るというのは面白いものであるから、楽しそうにしていたと言われれば否定はしない。だが話に興味を持っただけで、あの女医に興味があったわけではない。その辺を理解せず悋気を感じているのだろう。子どもっぽい嫉妬心だと思われた。ただ、操の性格からすると「私だって話したいのにー」っと突進してきそうなものを今回は違った。そのような素振りが見えないから、別段何も感じていないのだと油断していたのだが。そうではなく、自棄酒を飲むという態度になったらしい。そのような真似をせずとも、言えば俺は話を切り上げただろう。操が嫌だと言うならば。それがずっと気にかかっていた。なにゆえ、言わずにいたのか。
幼き頃にそうしたように背をさすってやると、
「私は蒼紫さまには幸せになってもらいたいんです」
強い言葉で言われた。それから、
「だから、蒼紫さまが誰かを好きになることをお祝いしなくちゃって思ってたんです。だけど、」
――やっぱり上手くできなかった。
思い出して悲しくなったのか、またそこで涙の量が増す。
俺はそれを見て、何をどう言えばいいのか戸惑った。
繰り返すが、俺は別にあの女医を好きではない。否、それよりも俺に幸せになってもらいたいというのは何なのか。好きな人が出来たらお祝いをする――つまりそれは、
「お前は俺が他の女と結ばれることを望んでいるのか」
かつて、俺の嫁になると言って聞かなかった幼子が今度は俺に別の女を娶ることを願っていると知り、思ってもみなかった事態に衝撃は強い。操からかような言葉を聞かされるとは。
「だって、蒼紫さまには幸せになってほしいんです。でも、私が反対したら、気持ちよく結ばれないでしょう? 私の気持ちに応えられずに、他の女の人と結ばれることに後ろめたさを感じるでしょう? だから辛くても祝福しなくちゃって、思ってたのに」
どうやら、俺に対する気持ちが無くなってはいないようだ。それを聞いて少しだけ腹の奥底から込み上げる苦味が和らいだが。しかし、この話の展開は如何に。酔ってわけのわからぬ思考に陥っている――のではないだろう。
「お前は、それでよいのか」
涙を流して、駄々をこねるのに、何故、そのような結論を出したのか。知りたい。
操はゆっくりとだが顔をあげた。涙は流れてはいなかったが滲んでいる。やはり、納得などしていないのが見てとれる。さすれば、俺に他の女と結ばれて幸せになれなど考えなければ良いのだが。俺がそれを望んでいると言ったわけでもあるまいに。勝手な想像で、勝手に結論を出して、勝手に悲しむ姿にわずかな怒りが生まれる。そのような心情をまるで考えもしない操は鼻をすすりながら、
「よくないですけど……だって仕方ないじゃないですか。蒼紫さまは私のこと好きじゃないんだから」
「俺はお前を好きではないなど言った覚えはないが」
「でも、好きじゃないでしょ? そりゃ、大事にしてもらってるのはわかりますけど、女として見ているわけじゃない。先代御頭に頼まれた責任でしょ。蒼紫さまは責任感が強いから、頼まれたことを途中で投げ出せないから、私を大切にしてくれるけど、それは御庭番衆の御頭としてそうしてるだけで、四乃森蒼紫として自らの意思でそうしてるわけじゃない。私のことを女性として、将来の相手として、見ることはできないでしょ。私だってそれぐらいわかってます」
操の言いたいことは理解出来た。しかし、明るい娘だとばかり思っていたが俺に対する感情はどうもいつものそれとは違うらしい。後ろ向きというか――これが年頃の娘の憂いというものなのだろうか。
確かに俺の態度はその通りだったが。
葵屋に身を寄せてから今日まで、操に対して保護者として接してきた。だが、それは操を女としてみられないからというわけではない。幼き頃から知っている相手ではあるが、俺と操の間には空白の八年が存在する。一時も離れることなく傍にいたら、それこそ本物の兄妹のようになっていたかもしれぬが、八年の月日は大きい。再会した操は、面影があるといえ、あどけなさが残るといえ、"妹"と認識するには難しい存在だった。正直、どう接すればいいか混乱した。そんな俺に対して、幼き頃のような無邪気な好意を示してきたのは操の方だ。困っていた俺はそれに応えて、保護者面をしてきたにすぎない。お前がそうさせたのだろう、とつい言いそうになる。乗じたのは俺自身であったとしても。
「お前の考えていることはわかった。それで、俺が他の女と夫婦になったら、お前はどうする気なのだ」
「……どうするって、私も誰かと夫婦になります」
私だって、赤ちゃんを産んで、お母さんになりたいですから。と告げられ、年頃の娘なのだから、当たり前と言えば当たり前の夢だが驚く。普段、将来のことなど考えている素振りを見ることはないからか。或いは、俺の内には、どこかでまだ操を幼子と思う気持ちがあるからか。しかし。
「そのために、好きでもない男のところへ嫁ぐのか」
言って、瞬時に恥じた。好きだとか、嫌いだとか、そのような感情がいかほど重要だと言うのか。俺を諦めて、他の男と家族を築く未来を思い描いている。それは喜ぶべきではないのか。真っ当な男と夫婦になり、まっすぐに光の元を歩む。そのような幸せが操には似合う。元々、それを願って幼子の操を葵屋に預けたのだから。そうであるのにそれをいざ突きつけられると動じている。己の心境の変わり具合に何ともいえぬ感情が生まれる。
「世の中の人、全員が、惚れた人と結ばれるわけじゃないでしょう? それに蒼紫さまが誰かを好きになる姿をみたら、諦めもついて、私も他の人のことを好きになろうって思えるかもしれない。そしたら、そういう人に巡り合えるかもしれないじゃないですか。……じいやに頼めばお見合い相手を探してくれると思いますし」
しかしながら、操から俺を諦めるという言葉を聞くのはやはり好ましいものではなく。何より、
「見合いは無理だろう」
「どうしてですか! ……そりゃ、今まで一つもお見合い話はきたことないけど……こっちからお願いすれば一つや二つぐらいは……」
俺の言葉に、自分には女としての魅力がないのはわかってますけど、とこれまた気弱な発言だった。いつもなら「私だってもう大人の女なんですからね!」とかなんとかまくしたてるところだが。
それにしても、と意外に感じたのは翁だ。口の軽い翁のこと、あることないこと操に吹きこんでいるかと思っていたが。こういうところは妙に口が重いのだな。
「見合い話ならいかほどかきていた」
「え?」
「翁から、相談を受けたが全て断った」
告げると、絶句して、大きな目を丸くした。
翁から、操の見合いの話を告げられたのは、随分と前だ。
「操もそろそろ年頃だ。嫁げば少しは落ち着きもでるじゃろうて」
部屋に入ってくるなり、切り出された。
相手は三人。商人の息子が二人と、農家の息子が一人だったと思う。
「どれがいいかのぅ」
問われても返答に困ると言うもの。
「先代御頭から操を託されたお主の眼鏡に適う男でなければと思ってな」
それも最もな話だとは感じたが、翁の表情には含みがある。言わんとしていることは俺にもわかる。返答によってはこの話は進められるのだろう。「蒼紫も賛成している」と言えば、操は逆らわない。傷ついて泣きだすことはあれ"当の本人"の俺がそれでいいと言っているのだ。悲しみの果てに俺が指し示した道を歩む決断をすると思われた。
翁とて操が可愛い。何の態度も示さない俺に痺れを切らしたのはわからないでもないがそれにしても強行だ。さて、どうしたものか。しばし思案し、
「操に好いた男が出来て嫁になりたいというのならば、俺は反対しないだろうし、翁が見合いを進めると言うのならば口出しもせんが、俺にそれを問うのならば眼鏡に適う男などおらん」
それが真実であった。
翁の満足する答えではなかったのか、ため息交じりに「難儀な男じゃて」と告げて部屋から出て行った。それからすぐに、操を女学校に行かせることにしたと告げられた。花嫁修行にもなるからと。しかしながら、見合いを進めることはなかった。
「どうして断ったんですか。……そんなに酷い相手だったんですか?」
「いや、そうではないが」
なら、どうしてですか? と聞いてくる。潤んだ目で見つめられると妙な気持ちになるが。しかし、どうしてと聞くか。わからないものか。俺もそのような素振りを見せてはおらぬが、少しぐらいは自惚れたりはせぬのか。それともこれは芝居か何か――いや、操にそのような真似は出来ないだろう。素直な娘だ。その目には純粋な疑問しか浮かんでいない。良くも、悪くも。
「俺が気に入る男がいないからだ」
告げれば、操は明らかにふてくされた顔をする。意味が伝わっていないのは明白だ。深読みというものをする性質ではないが。いや、それどころか、
「そんなの無理に決まってるじゃないですか! 蒼紫さまが認める男なんてそんな簡単にいるはずないでしょう!」
俺の基準が高すぎるのだと訴えてくる。しまいには、「私がお嫁にいけないのは蒼紫さまのせいなのね!」と怒りだす始末。そういうことではないだろうが。否、そういうことでなくはないのだが、意地悪をしているとでもいうような解釈がどうも。俺が操に嫌がらせをする理由などなかろうに。もっととりようがあるだろう。本当に、本気で、微塵も、俺が操を思っていると考えつかぬものか。俺の態度はそれほどそげないものなのか。多少なりとも改めねばならんな、と初めて思った。
「ならば、嫁にいかなければいいだろう」
「……! 酷い! 酷いよ、蒼紫さま。そんなこと言うなんて」
バタバタと暴れ出す。操の力ぐらい造作もないがなんだか俺は気力が抜けて行く。
「別に酷くはなかろう」
「どこがですか。嫁に行くななんてあんまりです!」
「嫁に行くなとは言っていない」
「嘘ばっかり! 言ったじゃないですか!」
「他所の男に嫁に行くなといっただけだ。何も嫁に行くなとは言っていない」
なにゆえ、こんな問答をせねばならないのか。頭が痛くなってくるが。しかし、こうまで言っても操は理解せず、それどころか声をあげてわんわん泣きだした。酔って感情的になっていることを差し引いても酷い有り様だ。もうこのまま捨てておくか……と一瞬思っても仕方あるまい。しかし。
「操」
泣きやまぬ身を抱き込んで名を呼ぶ。
「お前が悲しむようなことは言ってないだろう。それとも、お前は俺と夫婦になるのがそれほど嫌なのか」
面白いように泣き声が止む。動きも止まる。嵐の前の静けさか。やがて操はもぞもぞと腕の中で身をよじりはじめたので抱く力を緩めると、ゆっくりと顔をあげて俺を見上げてきた。
「夫婦になるの? 蒼紫さまと、私が? どうして?」
どうしてとは、これまた難問だなと思う。どうもこうもないのだが。操は黙ったまま見つめてくる。それをこちらも見つめ返す。先にたまりかねたのは操の方だ。元々無口な俺と、元々話好きな操と沈黙に強いのは言うまでもないから当然だが。
「私が望んでいるから? だからそれを叶えようとしているんですか? それとも義理立て? 責任? 私は蒼紫さまに幸せになってもらいたいんです。無理してほしいなんて思ってません」
これが所謂自業自得というものなのか。俺の気持ちなど操は全く気付いてもいないし、理解してもいない。ある意味、そのような状況でよくぞ俺を思い続けたものだと感心する。気持ちを返してもらえぬ相手など、いい加減諦めてもよさそうなものを。否、だからこそ、操は他の男に嫁ぐことを考えたわけか。俺は、やはり態度を改めねばならないなと思う。
「……義務や責任のみならば、このようなことは言わん。もっと何の罪も背負っていない男にお前を託す。血濡れた俺の傍より、その方がお前のためだろう。俺の心は決まっている。後は、お前がどうしたいのか。好きにすればいい」
操の瞳が揺れる。かと思うと、また涙が溢れ始める。今度は声をあげて叫ぶようなことはなく、だだ無言で泣きついてきた。その背を撫でれば、
「蒼紫さまのお嫁さんになる」
懐かしい言葉。べったりと張り付いてくる様もまたひどく懐かしく感じる。過去も、今も、変わらずこうしてこの身を抱きしめているなど奇妙としか言いようがない。
何もかも、この命さえ捨てようと、そのような時期があった自分が、手を伸ばした欲深さ。許されぬことを数多く犯しその罪を引き受け続けて行く人生に引き入れてしまうことを忍びなくも思う。だが、それでも俺を選んでくれるならばもう迷わない。これから先もずっと。
その身を抱きしめなおすと操は身を擦り寄せてくる。
満足気な表情。あれほど泣いていたのが嘘のように微笑んで見えた。それは気持ちを柔らかくさせるものだった。
しばらくそうしていると安堵したのか、抱え込んだ身の力が緩み今度は健やかな声が聞こえ始める。
まるで子どもだ。もう少し大人にならぬものかと――思う気持ちもないわけではないが、これもこれで悪くないと感じるのだから大概だな、と。しかし、操が操であるならば。俺はそれが。
コトリと音がする。
黙って去るのは盗み聞きしていたようで気が咎めるのだろう。
「騒がせたな」
背後の廊下に向かって言う。面倒見のよい男だ。あれほど大声で暴れていれば気になるというもの。しかし。
「惚れた女には弱いか」
いつもの口調とは違う。皮肉った物言いを苦々しく思いながらも否定はしない。
「今度来る時は、子どもの一人でも連れてこい」
「いや、」
――当面は、これだけで十分だ。
辛い思いをさせた分をと。そのようなことを思うのも、惚れた弱みだろうかと我ながら呆れる。しかし、それ以上に緋村が、
「お主に当てられるとは思わなかった」
呟き去っていく。俺とてたまには惚気の一つも言いたくなることはある。
――今宵はこのまま眠るとしよう。
腕の中に眠る身を見つめて思う。
春の夜。華を愛でるには丁度いい。
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