永き恋の涯シリーズ

永き恋の涯

 頭が痛い。気持ちが悪い。不愉快さが先に立ち、操はなかなか"その"違和感に気付けなかった。瞼を上げれば移るはずの光景が、いつもの違うこと。否、ここは神谷道場の客間の一室であるから、"いつも"とは違って当然なのだけれど、その"いつも"ではなく、明らかに密着しているそれは人間の胸板である。
――ん?
 それでも操はまだ状況を認識しない。"そんなことあるはずがない"という信頼とも、悲しみともつかぬ現実を嫌というほど思い知っていたからだった。しかし、もぞりと動けばそれを阻止するように肩にまわされている腕。密着しているのだと。それでもどうにかわずかな隙間を作り距離を取り目線を上げてみる。端正な顔立ちは紛れもなく、長年思い続けてきた人物だ。
――え?
 夢を見ているのか。まず行きついた答え。
 その人を、夢に、見ることはままあった。会えずにいた長い年月の間は特に。せめて夢の中で会いたいと願っていたからか。ただ、夢の中でさえ、自分が一方的に追いかけて、そして大抵は置いていかれる。それでもごく稀に、立ち止まり待っていてくれることもあった。捕まえて背後から抱きつく。だが、そこで、目が覚め、夢だったのかと余計に悲しみが溢れた。せめて夢でと願ったはずが、寂しさを増させるだけだと知り、いつしか夢で会いたいと思うことにも切なさを覚え始めた。それが、今は――追いかけてはいない。それどころかその腕に抱かれている。このような夢を見るのは初めてだったが。
「起きたか」
 声がした。
 いえ、まだ夢を見ています。と答えようとして、違う。と思いなおす。
「操?」
 視線が合う。その人は珍しく無表情ではなく心配げだった。
「あ、おし、さま?」
 声を出すが喉が痛い。昨夜泣き叫んだせいだが酒に酔っていた操は"何も"思い出せず。ただ、今の現状に、

 きゃぁぁぁああああああ。

 その日の神谷道場の朝はそんな絶叫で始まった。

 
「何も覚えておらんのか」
 操の響き渡る悲鳴に反応し、客間に来た神谷道場の面々を「何でもない」と追い払ったのは蒼紫だった。なんでもないはずはないのだが、蒼紫にそう告げられ、当の本人である操にも「本当になんでもないの。ちょっと寝ぼけてただけ。驚かせてごめんなさい」と言われれば引くしかない。操も「抱きしめられていて驚いた」とは恥ずかしくて公言する気にはなれなかったのだ。
 人がいなくなり静かになった部屋で蒼紫が切り出した。
 操の反応から覚えていないのだろうとの推測は出来るが認めたくはないのが本音。いずれはどうにかせねばと思っていた関係を、思ってもみなかった形ではあるが進展させたのだ。それを操が覚えていないなどあまりにもあまり。単に照れているだけであればと思い確認のために尋ねる。しかし、現実とは酷なもので、問われた操は、何について覚えていないと問われているのかもわからないほど何も覚えていなかった。それでも思い出そうと一応の努力はする。
 昨夜は――そう。花見から戻り道場で宴会をした。
 その席で、蒼紫と恵が親しげに話していた。
 普段自分が話しかけても基本、無言の男だ。たまに返してくれても「ああ」「そうか」の二言。それでも機嫌がいい時は「そうだな」の四文字になる。しかし、恵と話す蒼紫は違った。饒舌。一般的に言えばそれでも無口に分類されるだろうが蒼紫の日常を思えば十分すぎるほど言葉数が多い。
――いいなぁ。
 それを初めは純粋に羨ましいと感じた。
 私だって、と傍に寄ろうとも思った。
 留めさせたのは邪魔してはいけないという配慮だ。蒼紫があんな風に話すのは珍しいこと。楽しいのだと思うとそれを阻止するような真似は出来ない。一時期は絶望から修羅になりかけた男が、葵屋に戻ってからもその苦悩を抱き続けている男が、楽しいと感じるものを遮るなどしたくない。操は傍に行くことを諦めた。頭ではそれが最良だとも。
 しかし、恋心とは厄介なものである。
 美男美女。絵になる二人に嫉妬心を抱くなという方がむごいというもの。ましてや蒼紫と操が常日頃、睦言を言い合うような仲ならまだ余裕をもてたかもしれないが、保護者と子どものような関係しかない。特別な何かが――根暗で無愛想で、おまけに放っておけば世捨て人になっていたかもしれない精神的な脆さのある男が、確かにいささか年相応らしからぬといえ、世間的には立派な娘の面倒を厭うことなく、それどころかそのままでよいとさえ考えてみている時点で、特別である意外考えられぬが――男女のそれとしてという意味においては何もない故に、操の心は粗ぶってしまう。
『蒼紫を笑顔にするのは操殿の役目でござるよ』
 緋村剣心にそう言われて「任せて」と返事をしたのは随分と昔。あれから今日まで、結局のところ自分は蒼紫を笑わせることなど出来ていない。否、厳密には操の存在が及ぼすものは多大であるのだが、操が求める形で表現されぬそれを察して満足できるほど自信がない。他のことでなら出来ても、恋慕う相手にはどうしても気弱さが出る。もう少し気のきく相手ならば楽しい時期を過ごせるはずの娘時代を寂しく過ごすうちますます思考は憂えていった。惚れた相手が悪かったとしか言いようがないが。
 そのような状況での昨夜の二人。寂しさとやるせなさは限界にいたる。それでも蒼紫さまが幸せならば――とギリギリのところで堪え、代わりにやけ酒を煽った。しかしそれがまずかった。理性をつかさどる機能は酒の力により崩壊した。
「私、昨日、酔っ払って……」
 そうでなくとも痛かった喉が先程の大声でますます痛みさすりながらも正面に座る蒼紫を見る。
「介抱してくれたんですよね……」
 問えば、いつもの「ああ」と短い返事。
 保護者として放っておけず仕方なくという感じがする。機嫌はどうもあまりよくない。結局、二人の邪魔をして話を中断させてしまったのかもしれない。そのせいか、と思うと情けないやら、申し訳ないやら。しかし、
「それについては感謝しますけど、どうして、その」
 一緒の布団で寝ることに!? とまくしたてたいが、恥ずかしくて言葉に出来ず、ただ操の逡巡は伝わっているようで、
「お前が抱きついたまま眠ったからな」
「わ、わ、わ、私が……!?」
 蒼紫に抱きつくことはそれほど珍しいことではなかった。前からというのは――比叡山から戻ってきた時を覗いては――一度もないが、後ろからはしょっちゅうだ。だがそれは誰がどう見ても男女の抱擁ではなく、幼子が抱きついているようにしか見えない。それ故、本来なら「若い娘がところかまわず男に抱きつくなどはしたない」と咎められる振舞いを誰も何も言わなかった。それどころか葵屋の名物として微笑ましい光景と位置づけられている。操が蒼紫に抱きつくなど大騒ぎすることでもない。だが床まで一緒というのはやはり。否、蒼紫に限り酔って正体のわからなくなった嫁入り前の(しかも先代御頭の孫)娘に何かをするなどありえないが。それでも一緒の布団で眠るというのは異様だと思われた。
(いくらなんでも引き剥がすか、それが無理なら起こすよね? そうはせず、抱きかかえたまま眠るというのは……私のことを小さな子どもだと思ってるってこと!?)
 かつて、幼子だった操は夜眠れないと蒼紫の部屋に忍んで行って布団にもぐりこんだ。最初こそ驚いた様子だったが嫌がる素振りも見せず抱いて眠ってくれた。蒼紫の懐に抱かれると不思議と朝までぐっすり眠れる。何より誰より安心できる場所だった。しかし、
「私は、もう小さな子どもじゃないんですからね!?」
「……そんなことはわかっている」
 返ってきた言葉は端的だった。
「わかっているって……じゃあ、どうして……これでも私は嫁入り前なんですから、そ、そ、それが、お、おとこの、」
 それ以上は、どうしても言葉にならない。
 昨夜の酔った顔よりも上気して赤くなった顔を見つめて蒼紫の方が、
「お前は、俺を男と認識ているのか」  
「あったり前じゃないですか!」
 しかし、その言葉を蒼紫は信じ切れずにいる。そうであるならばそもそもここにくる道中でも、ここについても、同室になることを拒むものではないか。操は「蒼紫さまと同じ部屋〜」とはしゃぐことはあれ拒絶の色など微塵も浮かべなかったのだから。
「蒼紫さまこそ、私のこといつまでも子どもと思ってるんでしょう!? だからこんなことが、」 「別にお前を子どもだと思っているわけではないが」
 操が皆まで言う前に重ねられる。だが、それでも納得できず、
「だったらどうして、こんなことをしたんです? おかしいじゃないですか!」
「夫婦になると決めたのだから、これくらいはかまわんだろう」
――え?

 め と に な る

――えええええええぇ!?
 仰天するというがまさに。天と地がひっくり返ったような衝撃に言葉を失う。それとは対照的に、目の前に座る男は顔色一つ変えていない。その様子に冗談ではないと理解するが。しかし、そうであったとして一体昨夜何があったのか。どこをどうしたら自分と蒼紫が夫婦になるという結論に至ったのか。わからない。さっぱり。
 だが、動揺する操に、
「あれは酒の勢いで言っただけか?」
 静かに問われる。
「私が、言ったのですか?」
 女の自分から、夫婦になろうと? いくら酒に呑まれていたといえ何を口走ったのか。恥ずかしい。否、それよりも、西洋風に言うならば、ぷろぽーずというものを自らしたとして、蒼紫が受けたことに驚く。相手は酔っぱらいだ。適当にあしらって知らぬふりをしてもよさそうなもの。それが夫婦になる約束を交わし、だから抱きついて離れない自分を抱きしめて眠ったと。夫婦になるならこれぐらいかまわないだろうと。
――それって、つまり蒼紫さまも私のこと好きってこと? だから私のぷろぽーずを受けてくれたの?
 もしそうであるなら、この際、男と女が逆転してしまったぷろぽーずでもいいと思う。そんな小さいことこだわらない。長い長い恋が実ろうとしている。それならば。と、操は考えるが。
「本意ではなかったのなら、なかったことにしてもかまわん」
「え?」
「お前が望まぬならば、やめてもよい」
 蒼紫の言葉に操の思考は止まる。
「やめてもいいんですか? 私が嫌なら?」
「ああ」
 操の中で音を立てて崩れるもの。
「あ、蒼紫さまなんて、だいっきらいっっっ!!!」
 叫び声が、再び神谷道場に響き渡った。


「とにかく、落ち着いて。何があったの?」
 客間を飛び出した操を捕まえたのは剣心だった。
 勢い余ってはいるものの、二日酔いでふらふらしている。見過ごすおくわけにいかず、だが屋敷にいたくはないと言われ、道場へ連れてきた。心配した薫もやってきて、こういうのは女同士の方がいいからと交代し、事の顛末を聞きだしてみる。が。

 あのね、昨日ね、私は覚えてないんだけど、酔っぱらって蒼紫さまが介抱してくれたんだけど、そしたらよ、私はどうもその、あ、その、……ぷ、ぷろぽーずって、あの、つまり、蒼紫さまに、夫婦になろうと、言ったみたいなの。酔った勢いっていうの? 覚えてないんだけど、言っちゃったみたいで。でもね、そしたら、蒼紫さまはそれを受けてくれたの。それを朝になって教えてもらったのよ。私、びっくりしちゃって。そりゃ、そうよね。どうしてそんなこと言っちゃうかなーって。けど、あの、でも蒼紫さまは私と夫婦になることを受けてくれたってことは、その、私のこと好きだったの? って思ったら嬉しくてね。まぁ、女の方から言うのってどうなの? って気持ちはあるよ。でも別にね、順番は違っても、私はいいって思ったの。蒼紫さまが私と夫婦になるって言ってくれたことが嬉しいって思ったの。それでね、胸がいっぱいで、ぼーっとしてたの。そしたら、蒼紫さまったら、何って言ったと思う? 「昨日言ったのは酒の上の勢いか。ならなかったことにしていい」って。私が望まないならやめていいってあっさり言うの。普通なら、そこで話しあおうとかなるものじゃない? 少なくとも、好きな相手なら説得しようと思うものでしょう? それが……要するに、蒼紫さまは私がお願いしたから、それを叶えようとしただけで、私のことを好きでもなんでもないのよ。だからそんなに簡単にやめようなんて言えるのよ。それってあんまりじゃない? そりゃね、蒼紫さまにとって、私は先代御頭の孫娘で、大事にするべき相手で。だから、私の望みを叶えてやろうって気持ちを感謝するべきなのかもしれないけど……でも、夫婦になるってそういうことじゃないでしょう? 好き合ってる同士がなるものじゃない? 蒼紫さまが私を好きじゃないなら、いくら私が蒼紫さまを好きでも、悲しくなるだけだよ。それなのに。

 感情的になっている操は、全てを吐き出すように言葉を発した。それは、あまり脈略をともなってはおらず、持って行き場のない気持ちをぶつけているという風だった。それでも言わんとしていることを汲みとり、
「操ちゃんが怒る気持ちもわからないではないけどねぇ」
 薫が隅の方でうずくまって、明らかにふてくされていますという操の背に向かって言う。
 自分が好いた相手と夫婦になることを望む。けれど、自分ばかりが好きでは嫌だ。相手にも自分を思って欲しい。相手からも望まれて結ばれたい。しかし蒼紫は操が望むから夫婦になると、望まないならならないと、そこに蒼紫の気持ちが見えない。夫婦になると承諾したのも、先代御頭の孫娘の願いを叶えてやろうとしただけなのかもしれない。夫婦になろうと決意するぐらいだから操を憎からず思ってはいるだろうが情熱があるわけではない。操が望むならば夫婦になってもいいと思う程度の何かがあるぐらいのものなのだ。大好きだから傍にいたいとは思えど、夫婦となると話は別。好いてもくれない相手と夫婦になっても侘びしくなるだけ。そんなものならいらない。操が嘆くのも無理はない。
 それが本当ならば。
 だが、しかし、である。
「でもね、操ちゃん。四乃森さんって普通の……というと語弊があるかもしれないけど、特異な状況で生きてきた人だからね。その辺も、加味してあげないと」
 薫の言葉は妙にしんみりしていて操はいじけた姿勢を戻しチラリと振り返る。そこには優しげな顔がある。自分とさほど変わらない年齢のはずの薫がひどく大人に見える。夫婦になり子を身ごもり産み育てている女性の顔だった。
「四乃森さんは、操ちゃんのことを先代御頭の孫娘だから大事にしているだけじゃないと思うよ」
「……そうかな」
 慰めはいらないよ、と操の呟きに
「本当にそう思う?」
 と薫は微笑んで見せた。
「あの人は操ちゃんの幸せを願っている。誰よりもね。昔、葵屋に操ちゃんを預けたのだってそのためでしょう? 隠密御庭番衆と縁を切って、普通の娘の、普通の幸せをと願ってた」
「だけど、私は、」
「うん。わかるよ。操ちゃんの気持ち。好きな人と一緒にいられなくて何が幸せよって思うよね。危険な目に遭おうと、過去になにがあろうと、傍にいたいって気持ち。すごくよくわかる。だけど、操ちゃんのことを真剣に思っているなら尚更、もっといい相手がいるはずだと考える気持ちだってあるでしょう? まして、別れてから以降、四乃森さんはもっとずっと辛い経験をして、同時にその手を染めた。自らがしてきたことを許せない。たぶん、ずっとこの先も抱え続ける。そんな自分がってそれまで以上に思っても不思議じゃない。けど、四乃森さんはずっと操ちゃんの傍にいてくれてるじゃない?」
 薫の眼差しは遠い。それは蒼紫の、というよりも剣心のことを重ねているようだった。
 かつて、薫は剣心に別れを告げられた。自分は流浪人故に、流れると。さよならと。薫を思いやればこその決断であったが、頭ではわかっても、心はそれを優しさなどとは思えなかった。あの頃の薫は、恋する自分を憐れむばかりで、私が好きだといっているのだと。あなたの傍にいたいのだと。どうしてそれをわかってくれないのと。自分を本当に思ってくれているのならば、深い業を乗り越えて、それでも自分を求めてくれるはずだ。そうではなく別れを切り出したのは、結局はそこまで自分を好きではないのだと決めつけて、ただ泣き暮らした。
 求めるばかりだった。
 愛して欲しいと。
 だけど、愛されていたのだ。それを、伝えることが出来ない苦しみを少しも理解しなかった。
 相手を想う気持ちがあれば、何でも乗り越えられると思っていた薫が子どもだったのか。相手を想う気持ちがあっても、犯した罪を思えばそれを叶えることは出来ないと思っていた剣心が臆病だったのか。互いに思いあっているのに、すれ違った心――それを叱咤激励したのは、恋敵であった高荷恵である。
 そして今度はその役目を薫が。
「もし、本当に操ちゃんのことを先代御頭の孫娘だから大事にしているだけだったら、いくら操ちゃんが四乃森さんと夫婦になることを望んだとしても絶対にそれには応えないはずだよ。それよりも今頃とっくに葵屋を出ていると思うよ。それで他の男と夫婦になって幸せになるように告げていると思う。だけどそうはしてない」 
 常日頃からの蒼紫の態度と恋心が織りなす独特の憂いから悲観的な考えにばかり偏っていたが、冷静になれば薫の言うことは最もだった。蒼紫の性格を考えれば、いくら操が望んだとしても、自分よりもふさわしい男がいるはずと断るだろう。操が願っているからという理由だけで、操と夫婦になるような浅はかな男ではない。それが、操が望むならば、夫婦になると言ったのだ。あの四乃森蒼紫が。
「何処にも行かず操ちゃんの傍にいる。それだけじゃなく操ちゃんが望んでくれるなら、そう思ってくれるなら、自分と夫婦になってほしいって、それってすごいことだと思わない?」
 蒼紫の言葉は"操が望むなら夫婦になってもいい"と高飛車ない意味合いでは少しもなく、"操が望んでくれるのならば夫婦になりたい"という意味だと。
 操の心は揺れる。
 口数が少なく、それ故に誤解されることの多い男だ。だが、人一倍思慮深く愛情があることを操は知っているはずだったのに。それを自信のなさから疑って信用出来なかった。悪い方にばかり解釈して、そして、
「わ、たし」
――蒼紫さまなんてだいっきらいっ!!!
 叫んだ台詞。
 再び駆け出した操を薫は笑顔で見送った。


◇◆◇


 同刻。客間にて。
「難儀なものでござるな」
 飛び出した操を心配していると思い、保護したと知らせにきた剣心が見たのは、黙って禅を組む蒼紫だった。思うことがあるのだろうとそっとしておくべきかとも考えたが、この件に関してはおそらく蒼紫では答えは出せぬだろう。女心の機微など――と思い、部屋に留まっている。
 昨夜は、この気難しそうな男が珍しく惚気ていたが、今朝は状況が一変。天国から地獄とはこのことだろうか。それにしても操の「蒼紫さまなんて、だいっきらいっっっ」と響き渡った声には驚いた。蒼紫に限り無体な真似をして拒まれたというようなことはないだろうが、長年の恋がようやく実り、その状況で盲目的ともいえるほど蒼紫を慕う娘が、朝から大嫌いと叫んだ。あらぬ想像が脳裏を過ぎても仕方がないと言えるが。
「それで、一体何があって、操殿に嫌われたのでござるか?」
 蒼紫は無口な性分ではあるが、操のようなとりとめのない(返事のしようのない)世間話ではないならば、(短く素っ気ない返答であれ)問えば答える素直なところがある。他人に対する礼儀を尽くすとでも言うのか。だが、この時はしばし口をつぐんだ。それでも剣心が待っていると、
「昨夜のこと、操は何も覚えていなかった」
「おろ」
 思わず出たのはいつもの口癖。
「それ故、飲んだ勢いだったのならば、夫婦になるという話はなかったことにしてもかまわんと」
「……そのようなことを言ったのでござるか。それは、それは」
 操が怒るのも無理なかろう。と剣心はため息をついた。
「お主はよいのか」
「操が望まぬことをするつもりはない」
 蒼紫の思いを剣心には理解できる。
 これまで歩んできた道が、己に降り注ぐ光明を素直に受けとめることを阻む。剣心もまた苦悩した身。自分が罰せられるだけならまだしも、傍にいれば愛する者を危険に晒すかもしれない。それならば別れを選ぶのがよいと信じた。だが、それこそが独りよがりであると、薫は追いかけてきてくれた。やがて、剣心は自身に降り注ぐ光を受け入れる強さを得た。だからこそ、言えることもある。
「そのような思いやりを操殿は望んでござらんよ」
 操はとうに覚悟を決めている。蒼紫がいかようであっても、その身を修羅に落としかけた時でさえ、心根の奥で蒼紫を求め続けた娘だ。誰がどう言おうと、この先、何があろうと、蒼紫の全てを許し愛するだろう。だが、否、だからこそ、肝心の言葉を"蒼紫から"自分を求めていると思える言葉を欲しいと願う。
 剣心の言葉に、蒼紫は閉じていた目をゆるりと開いた。
 その目は心なしか陰鬱としているように思える。
「操殿もお主の性格を重々承知しておるでござろうが、それでも年頃の娘。好いた男に強く望まれて夫婦になりたいと願うのは当然。態度だけでは拭えぬ不安もある。一言、お主から明瞭な言葉を聞きたい。それが女心というものでござるよ」
 操が望むならなど回りくどいことを言わず己の気持ちを述べろ、と告げる剣心の言葉。つまるところ男らしくないと言われている、と蒼紫は受けとめる。仮にそれが剣心以外の言葉なら、気にしなかったかもしれない。だが、同じようにその手を血に染めた男は、好いた女と夫婦になり一男を儲け暮らしている。その手で掴みに行ったのだ。何もかもを乗り越えてでも。
「女心の説教を受けるとはな」
「拙者も、お主に女心の説教をするとは思わなかったでござるよ」
 一時期は命のやりとりさえした間柄。それが――人は変わるものだと。過去は変えられないが、未来は。そして、幸せになってはならない者などいない。込められた思いに蒼紫が頷きかけたところで、
「蒼紫さまっ!」
 廊下を走ってくる音がしたと思うと、伺いをたてるでもなく開け放たれた障子。入ってきたのは涙を浮かべた操で、その勢いのまま蒼紫に抱きついた。突然のことではあったが蒼紫は避けることもせず、なだれ込むように預けてくる身を受けとめる。
「……操。人前だ」
 このような状況でさえ落ち着いた物言いで窘める。ただ、言葉とは裏腹にその手は操を引き剥がそうとはせず、優しい手つきで抱きしめなおしているのだが。一緒にいた剣心は夫婦喧嘩は犬も食わないということだったのかもしれぬと自分のお節介に苦笑いを零しながらも、その様子に黙って席を外した。操によって開け放たれた障子がパタリと閉まる。
(あの男には、昨夜から妙な場面ばかり見られているな)
 蒼紫はそんなことを思いながら、抱きついたままの操の背をあやすように撫でる。
「どうした」
「……ごめんなさい」
 小さな声。
「酷いこと言ってごめんなさい」
 肩に顔をうずめていた操は、そう言うとゆっくりと身体を離し蒼紫の顔を見つめる。濡れた瞳。瞼は腫れている。頬を、蒼紫は自らの手で触れながら、
「お前に、嫌いと言われたのはこれが二度目だな」
 その声に怒りや不快さはなく、どこか懐かしげである。


「あおしさまなんて、だいっきらい。しらない!」
 任務から戻ると、いつもなら出迎えてくれる操がいない。蒼紫が様子を見に行くとそう言い放ちぷいっとふくれて追い払われる。いつにない反応だが、蒼紫は操の拒絶を受け入れた。原因が何かは分かっていたからである。
『あおしさまのおよめさんになる』
 幼い操は、夫婦になれば傍にいられると信じ、ただ蒼紫と共にいたいばかりに、夫婦が何かもわからぬままそう繰り返した時期があった。蒼紫から離れず、四六時中、寝る時も、同じ部屋で過ごした。これでもう大丈夫。蒼紫とずっと一緒にいられる。安心していた操は、だから蒼紫が一人で職務に出てしまったと知ったとき驚いた。「およめさん」になるのだから行くならば自分も連れて行ってくれるとばかり思い込んでいた。それが置き去りにされ幼心に裏切られたような気がしたのだ。
 懐いてくる姿を可愛らしく思う気持ちはあれ、あまりにも懐かれ過ぎると鬱陶しく感じることもあった。それがなくなったのだ。ようやく幼子から解放された。静かな日常を取り戻し蒼紫は初めは安堵した。ところが。
 物足りない。調子がでない。
 明るく朗らかな声で「あおしさま〜」と駆け寄ってくる姿を失い心に穴が開いたような虚しさに襲われた。そのことに蒼紫は戸惑った。
 知らず知らず己の心の中で大きくなっていた存在。傍にあるものと思っていた事実。
 隠密として、その生涯を全うすると決めた時より、人並みのことは諦めていた。大切な物が出来れば未練がでる。そのようなことになっては徳川のために身を捧げることに躊躇いが生じる。それでは御役目が果たせぬと自らに決断した。それが心とは厄介なもので、誰かを思うとはこれほど自然に芽生えるものなのかと。
 だが、そんな己の心を蒼紫は押さえこめようとした。
 寂しさなどいずれ消えるだろう。そして、二度と温もりなど求めぬように、誰も、何も、近づけないでおこうとした。しかし、
「守るものがあるからこそ、強くなれる。人は、一人では生きては行けぬ。帰りを待つ者がいると思えばこそ、生きて、職務を全うしようと思えるものだ」
 御頭が言った。なにゆえ、そのような話になったのか、もう覚えてはいない。蒼紫の生きることへの執着のなさを危惧してだったのか。隠密としての才能とは別にその繊細な精神を心配し枷となるべきものを持てということだったのかもしれない。
 それから、
「香月堂の金平糖」
 操の好きな菓子だと笑った。
 蒼紫は言われたそれを買いに行った。
 手にした菓子を持ち、屋敷に戻り、そこでハタっと我に返る。何をしているのだろうか。これを渡してどうしようというのか。御頭の言葉が思いのほか深くへ染み込んできたといえ、その相手が"操"だというわけでもあるまい。否、操は御頭の孫娘であり大事にするべきではあると思うが。それは蒼紫の個人的なものとは違うはず。
 持て余したそれを懐に入れたまま蒼紫は庭に出た。白いツヅジが咲いている。
「あおしさま。おはな、きれいね」
 以前、操が鬼ごっこと言って庭を駆け回っていた時、足を止めて見入った花だ。蒼紫が近づくと、鬼が来たと逃げ出すかと思ったがにこりと笑って告げた。花を愛でる姿はお転婆ではあれやはり女子なのだと思わせる可憐さがあった。
 じっと見つめる横顔を眺めているとそれほどこの花が欲しいのかと思い手折って渡してやった。操は満面の笑みを浮かべ「あおしさま、ありがとう」と何度も礼を言った。余程嬉しかったらしくその後、会う人、会う人に「あおしさまにもらったの」と言いふらし、「あの蒼紫が娘に花をやった」と瞬く間に噂が広がった。娘ではなく、幼子であるし、深い意味はないと思い「いや、俺は」と否定しようとしたがうまくいかなかった。
 そのような記憶を巡っていると、
「あおしさま」
 頼りない声。久々に見る操の姿だった。目に涙をいっぱいに浮かべ、両手を強く握りしめている。泣かないように堪えているのだと理解する。
「どうした操?」
 走っていてこけたのだろうか。操は身軽で足も速い。だがうまく止まれずに度々転んだりぶつかったりする。今回もそうだろうか。怪我でもしたのだろうか。心配して近寄るが。
「ごめんなさい」
 こらえきれず涙を零す。
「ひどいこといって、ごめんなさい」
 そう言うとぎゅっと抱きついてくる。その身体は震えている。
「あおしさまいなくて、とってもさびしかったの」
 幼子は移り気だ。もう自分のことなどすっかり忘れているだろうと考えていたが、操は蒼紫に「大嫌い」と告げてから、小さな身体に悲しみを貯め込み続けていたのだ。何故、もっと早くに自分から声をかけてやらなかったのかと蒼紫は悔いた。
「ああ、俺もだ。操。俺も、お前がいなくて」
 それから、懐に忍ばせていた金平糖と、もう一度ツツジの花を手折って渡した。操を悲しませることはしない。自分がいなくなれば泣き暮れるだろう。そのような真似はしないと。確かにそう誓って。

 操こそが、己の良心であると。
 蒼紫にとっての光明であると。

 だが、再び、操と離れることとなる。
 時は幕末から明治に移る動乱期。御庭番衆最後の御頭としての役割がいかなるものか。終わって行くものに焦燥を感じながら、己の居場所を模索した。根を張る場所がなくなったと感じ――流れた。

 この身が戻る場所など、一つしかなかったのに。
 遥か昔に、それは与えられていたのに。
 己の手で手放した。

 それでも。

「私は前にも蒼紫さまを嫌いって言ったの?」
 蒼紫の言葉に操は不安げに尋ねた。
 まだ幼かった操は覚えていないのだろう。それほど昔から自分だけを求めてくれていた唯一人の人。手放せるはずはなかった。それをわからずに随分と遠回りをした。それでも、また、自分はここに戻ってきている。にもかかわらず肝心のところで手を伸ばせないでいる。
(情けないものだ)
 いかなる過酷な任務にも怯むことなかった男である。しかし、自分の身のこととなると躊躇う。そのことが滑稽に思えたが。慎重になりすぎては返って失敗するとわかっているつもりがこの有り様。
「あの時は、お前の好きな金平糖と、それからツヅジの花で機嫌をとった」
「蒼紫さまが私の機嫌をとったの?」
 信じられないという顔で操に見つめられる。
 さすれば蒼紫は"笑った"。ああ、そうだ、と。操は見たことない蒼紫の様子に言葉を失う。
「お前に嫌われるのだけは、敵わない」
 そう言う蒼紫の瞳はどこまでも静かで深い。
 冷戦沈着で人に弱みをみせる真似はしない。その男が、敵わないと。操に嫌われることだけは、耐えられぬと言う。信じがたいことを聞くような、だがそれが真実であると伝えるのに十分すぎる眼差しだった。
「嫌いになんてならない。蒼紫さまのこと嫌いになんてならないよ」
 あんなの嘘だからね。と告げる操の頬を両手で包み込む。
「そうか。今回はどうやって機嫌をとろうかと思案していたが」
「何もいらないです。何もいらない。その代わり、もうどこにもいかないでね。私の傍にずっといてください」
 それは、蒼紫が葵屋に戻ってから、一度も言葉にして言えずにいた、操の一番の願いだった。
「ああ、お前がそれを望んでくれるのならば――夫婦になろう」
 告げられる言葉。
「本当に? 蒼紫さまはそれでいいの?」
「俺が嫌を言うはずがない」
 さればたちまち操の目から零れ落ちる涙。
 幼い頃から、物心つくずっと以前から、ただ蒼紫の傍にいることだけを願い続け、諦めずに思い続けた操の願い。それがようやく、
「蒼紫さまの、お嫁さんになる」
 返事に蒼紫の眼差しはいっそう深さを増す。
「操」
 その名を呼ぶ声は柔らかい。当人ですら無意識なほど甘く優しく響く。溢れる涙を拭いその唇に自分のそれをそっと重ね――永き恋に真の春が、訪れる。