永き恋の涯シリーズ
女心・男心・恋心
「蒼紫さまは、私のこと、ちゃんと好き?」
言いたいことは包み隠さない素直な娘であるが、蒼紫相手によくぞ言ったという台詞だった。だが、無表情な蒼紫を見て、「変なこと聞いてごめんなさい。やっぱり今のなし」と逃げるように去って行った。
春先に、肩ぐらいにそろえた髪が、今はもう背中に届き揺れ、甘い残り香がする。蒼紫はそれを複雑な顔で見つめた。
何故、このようなことになったのか。
話は、数日前に遡る。
女学校からの帰り、少年が人相の悪い男に絡まれていた。かような場面を見て、知らぬ振りなど出来る性分ではない。当然、助けた。少年は呉服屋の丁稚で、騒ぎを聞きつけた呉服屋の若旦那・左門は事の顛末を知り、
「うちの者がお世話になりました」
と述べた。それから、操の袴に泥が跳ねているのを認め、自分の店に招いた。操は最初それには及ばないと断ったが、「そのような格好では人目も気になるでしょう」と言われ、確かにそう言われると気になってしまう。促されるまま店に連れられて行った。すると、
「ああ、そうだ。実は本日、仕上がったばかりの着物があるのですが……うちには年頃の娘がいないので、ちょっと着てみせてもらえせんか」
左門は店の中央に設置された衣架にかけられている着物を指して言った。誰の目から見ても一級品と分かる薄桃色の総絞りの振袖である。着て見せてほしいと頼まれて、嫌を言う理由も見当たらず、何より美しいそれに目を奪われていた操はうなずいた。女衆に手伝ってもらい着替えると、
「お似合いです」
振袖を着た操に満足な顔で左門を言う。
「とても素敵ですね」
操が返せば、
「では、それをお礼にさせてください」
さらりと告げられ、驚愕する。
「こんな高価な物、受け取れません。私はそんなつもりで着たんじゃない」
慌てて告げるも、
「わかっていますよ。ただ、私があなたに贈りたくなったのです。どうぞ、ご遠慮なさらずに」
恐ろしいことを平然と言うものだと操は拒否するが、さすれば、
「あなたの着物はこちらで処分させてもらいました」
「ええ!?」
冗談でしょう、と返せば、笑顔で、本当です、と。
「どうして、そんな勝手なことを! あれは私の気に入りだったのに」
操の怒りに、だが左門は悪びれない。良い品でしたが、今、あなたが着ている品の方が高級品です。これからはこれをお気に入りにすればいいじゃないですか、と言う。左門が本気でそう思っていることが伝わってきて操は目の前が真っ暗になった。品物の質や値段の問題ではない。あの着物は女学校に入学が決まってから購入したもので、仕上がった時、普段は滅多な事を言わない蒼紫が珍しく「よく似合っている」と誉めてくれたのだ。
にこにこして、まるで自分がしたことを理解しない左門に操はとび蹴りの一つでもくらわしてやりたいと思った。しかし、美しい着物に目がくらみ着た自分にも非がないとはいえない。着物をもらう気はさらさらないが、脱いだところで他の着物を貸してくれそうもない。仕方なくそのまま帰ることにした。後日、返しに来ます、と言い置いて。
葵屋に戻ると、操の姿を見て、みなが驚く。
「どこの姫君かとおもったわい、どうしたんじゃ?」
翁が言うと操はあからさまに嫌そうな顔をした。似合っているという意味だとはわかったが嬉しくない。早いところ脱いでしまいたいのが本音だ。とにかく気分が悪かった。その勢いのまま今しがたの出来事を洗いざらいぶちまけた。
「あの人、何考えてんだろ。だいたいさ、ちょっと助けただけでこんなお礼してたらお店が潰れちゃうよ」
話し終えて最後に操は付け足した。さればそれまで黙って聞いていた――というか操の剣幕に誰も口を挟めなかったのだが――翁がやけに楽しそうな顔になって、
「ただの礼ではなかろう」
「ただの礼じゃないなら何なの?」
不審げに操が問えばさらに愉快気に
「惚れられたんじゃな」
そう告げると蒼紫を一瞥する。操もつられて見るがいつもの無表情がある。妙な沈黙。操はそれを誤魔化すように声を立てて笑った。
「そんなわけないじゃん。とにかく、明日もう一度行ってこれ返してくる」
「蒼紫にもついて行ってもらったらどうじゃ?」
翁の言葉に操はまたチラリと蒼紫を見るが相変わらずの無表情にズキンと胸が痛む。そんな自分をまた誤魔化すように、
「そんなのいいよ。返しに行くだけだし」
「こういうことは早い段階で手を打つのがいいもんじゃ」
「手を打つとか意味分かんないし。いいよ、一人で行くから」
宣言通り、操は一人で出掛けて行った。
そして、どうにか着物を返すことには成功したが「それでは私の気持ちが済みません」と言われ、「それじゃ、あんみつを御馳走してください」と提案し、甘処屋で向かい合ってあんみつを食べて帰ってきた。
これでおしまい――操はそう思っていた。
ところが。
それから左門は女学校から帰る操を待ち伏せして誘ってくるようになった。
「もういいですから。お礼ならもらいましたし」
断っても、断っても、連日。そのあまりの執拗さに操は憂鬱になっていった。そして、翁の言う「惚れらたんじゃな」という言葉が真実なのだと思い、いよいよ本気で気味が悪くなってきた。それ故に告げたのだ。
「私には将来を誓った人がいます。だから、他の男の人と二人で会ったりするのことはできません」
これで引くと思ったが。しかし、甘かった。
左門は全てを知っていた。
知っていて、その上で、操を誘っていた。そして、
「失礼ながら、その将来を誓った人は、私があなたを誘っていることご存知なのですよね?」
「何故、そのようなことを聞くんですか?」
「知っているなら、普通は私に忠告しにくるものでしょう? それがない。ということは、操さんのことをそれほど大事に思ってらっしゃらないのでは? そんな男より、私の方が操さんを幸せにする自信があります」
慇懃無礼な言葉である。操はカッとなった。
「蒼紫さまには言ってません」
何も知らないから、忠告しにきようがないんです。とまくしたてる。さすれば今度は、
「何故、告げないのですか? 本気で困っているなら、助けを求めるでしょう? そうしないのは、脈があるってことですよね」
「違います! 心配をかけたくないから言わなかっただけです!」
あまりにも勝手な解釈に、話にならないと操は去った。
――あったまくるなぁ。
帰宅してなお怒りが治まらない
こんなことならば、あの少年を助けてやらなければよかった。ふっと思ったが少年に罪はないと思い直す。悪いのは少年ではなく、左門である。
操は珍しくため息をつく。
左門の口ぶりから、諦めてくれたとは到底思えない。また、明日も待ち伏せされたらどうしよう。逃げて、逃げて、逃げ続ければ、いつかは諦めてくれるだろうが、それまでこの状況を我慢することが果たして出来るか。もう、今でもかなり限界にきている。
――蒼紫さまに話そうかなぁ。
無用な心配はかけなくない。操の内には強くその思いが根付いている。それはかつて葵屋に置き去りにされた記憶ののせいでもある。自分の身のことぐらい自分でせねば蒼紫の傍にいることは出来ない。足手まといになってはいけない。これぐらいのこと一人で解決しなくては――と思っていたがこうなったらそんな悠長なことは言っていられない。蒼紫にガツンと言ってもらえば、さすがに左門も諦めるだろう。操は考える。しかし。
蒼紫が、左門に話をつけてくれるのか自信がなかった。
そして、思い出すのは振袖を着て帰った時の蒼紫の無表情だ。翁が「惚れられた」と口にしても表情に変化はなく「蒼紫について行ってもらえ」との言葉にも何も言ってはくれなかった。
本当に蒼紫は自分を好いてくれているのか。浮かぶ疑問。
そもそも、夫婦になると決めはしたが、それ以前と以後と何の変化もない。許嫁同士になったわけだから、少しは甘い雰囲気になってもよさそうなものだが一切。ただそれに関しては操にも問題がないわけではなかった。相変わらずの無邪気さである。そこにあの堅物男とくればどうやって甘い雰囲気になるのだと聞きたくなるというもの。それ故、仕方のない部分もある。しかし、たとえ子どもっぽい表現であれ、操は蒼紫に「好き」と伝え続けている。だが、蒼紫からのそれは皆無だった。夫婦になることを取りやめたわけではないのだから、気持ちに変化はないのだろうが、それでも時々ぐらいは確かめたい。そうでなくとも、好かれているか不安なのだ。
(あの時は、しつこくされていたわけじゃないし、今なら、「俺の女に手を出すな」って言ってくれ……ないよねぇ。そんな露骨なことは無理だよねぇ。いや、でも別にその台詞ではなくても、それに近い言葉なら言ってくれ……るかなぁ。)
しかし、どう頑張っても、そんな台詞を言うところなど微塵も想像できない。
これまで、蒼紫を好いた女に操が割り行っていくことは幾度か(操が一人で悋気起こしただけで誤解だったことも含むと数知れず)あったがその逆など。蒼紫が操のために他の男と対峙するなど無理難題という気がした。
そして、思考かどんどん後ろ暗い方向へ進む。
元々、蒼紫は操に普通の男と普通の幸せを望んでいた。だが、生憎、誰かに言い寄られることはなく、また操も蒼紫しか見えていなかった。その結果、蒼紫は夫婦になると決めたのだろう。もし、言い寄る男がいたら、どうなっていたか。と、操は思う。左門のことを言えば、さればその男のところへ嫁げ、と言い出すのではないか。そこまで考えて、
――ああ、もう。こんなの私らしくなーい。
うじうじ悩むのは性に合わない。こうなったら出たとこ勝負だ、と蒼紫に告げることに決め部屋を出た。すると、運がいいのか悪いのか、蒼紫の部屋に着く前に廊下でバッタリと出くわす。そして、勢い余って告げたのがよりにもよって、
「蒼紫さまは、私のこと、ちゃんと好き?」
そういうことを言いたかったわけではない。左門のことを告げて助けて欲しいと言うつもりだったのだ。しかし、元来の素直な性分ゆえか、最も知りたいことが思わず口をついた。
(何言っちゃってるのよ!?)
焦るが。目の前の人物を見つめれば、突飛な台詞を浴びせられたにも関わらず、驚いた素振りはない。いつもの無表情だ。それを見て操は恐ろしくなった。望まない言葉を聞かされるのではないか。
「変なこと聞いてごめんなさい。やっぱり今のなし」
そして、逃げるようにその場を走り去った。
◇◆◇
蒼紫は部屋を出た。茶を飲みたくなったからである。
いつもならば、まるでどこかで見ていたのかと思われるほどの頃合いで操が運んできてくれるが今はない。それどころか、ここ数日は蒼紫の部屋を訪れることもなくなった。それまでは、女学校から戻ると部屋に乗り込んできては今日あった出来事を事細かに話していたのだ。
理由はわかっている。呉服屋の倅だ。
操は蒼紫の世話をしたがるし、誰か困った人がいれば解決策を相談にくるが、自分の身のこととなると、とんと無口になる。心配事を蒼紫に告げることはなかった。しかし根が素直な娘だ。蒼紫の顔を見れば頼りたい気持ちが出てしまうため、そのような場合は蒼紫の傍に近寄らなくなる。いつも暇さえあればひっついてくるのがなくなったとあれば逆に目立つ。何かあったのだな、とわかるが。そこまで頭は回らないらしい。しかし、おかげで蒼紫は労せず操の心の憂いを察知しわからぬように手を貸すことに成功していた。
そして、今回もまた操は蒼紫の傍に近寄ってこなくなった。悩んでいるのは明白だ。さすれば、いつも同様にひっそりと解決に向けて動けばよいのだが――しかし、出来ずにいた。
この件で、蒼紫が動くということはすなわち操に付きまとうなと警告することである。しかし、操が左門の方を選ばぬという確証がない。否、あれほど呆れるぐらい好きだと言われ続け何を言うか、と誰に話しても一笑されるような躊躇いであるがこれが本人本気なのだから厄介だった。だが、元来が明るい性分の操でさえ恋心が絡むとよくない方へ考えが流れるのだ。根暗な蒼紫がそうなっても不思議ではない。その他のことでは冷静な男でも恋心の織りなす独特の憂いの洗礼は受けるものだと、それはそれで人間らしくあってよいのかもしれないが。
そして、出した結論。
確信が得られない以上は動けない。操が自分を選んでくれるのであれば、離すつもりはないが、そうでないならば、操の意思を大事にする。それが蒼紫の考えである。それ故、操が何も言ってこないのならば傍観するより仕方ない。
――操には幸せであってもらいたい。
――操の想いを尊重する。
ただ、それだけを思い、忍ぶ。
しかし、日数が経過するほどに蒼紫は苛立ちを感じている自分に気付く。これが悋気であると聡い男だ、理解はしている。粗ぶる衝動のまま事態に終止符を打つべく動こうとする焦燥。だが、そこは感情を抑えることに慣れている身。若い頃よりの鍛錬が幸いしてかはたまた災いしてか、実際に実現されることはなかったが。
「俺は、どうかしているな」
洩れるのは自嘲だ。
そうして廊下を歩いていれば操とバッタリと出くわした。
まともに顔を合わすのは久々である。蒼紫はむやみにはうろつかない。操が蒼紫の部屋に行かねば二人きりになる機会はほぼない。
表情こそ変えることはなかったが、操の姿に蒼紫はいつになく緊張していた。さすれば、
「蒼紫さまは、私のこと、ちゃんと好き?」
まさか、かようなことを聞かれるとは。何より。いや、それは、俺の方が聞きたい、と危うく口から出そうになって堪える。そのような台詞はいえぬと妙な矜持がとどめさせる。己の心を律するため無表情になるが、それを見て操ははっとなり「今のなし」と去って行った。
残された蒼紫は、ただその場に立ち尽くした。
どうも、のんきに茶を飲んでいる場合ではない。自分も、操も、互いに何か思い違いがあるらしい。
ようやくそれを理解し、蒼紫は自室に戻った。
机の前、得意の禅を組み考えるのは――何故、操はあのようなことを尋ねるのか。
蒼紫にすれば不思議なことである。確かに自分は甘言を述べたりする性質ではないが、夫婦になると決めた、それが答えだ。以降、撤回するような言葉も態度も取った覚えがない。どちらかと言えば操の方が他所の男に言い寄られ、未だにハッキリと断り切れていない。かといって、助けを求めてくるわけでもない。一体どうしたいのか。
考えは堂々巡りである。
蒼紫は閉じていた目を開けた。考えることをやめたわけではなく、一つの気配が近づいてくるからだ。それは、あまり良くない人物だった。
入るぞ、とも言わず開けられる障子。蒼紫は背を向けたまま微動だにしないが。
「お前は、存外に、駄目な男じゃなぁ」
話し好きな翁は顔を合わせば一言、二言話しかけてはくるが、蒼紫の部屋に来てまで軽口を叩くことはそれほど多くはない。やってきたのは、半分からかいのためだが半分は心配であった。
もし仮に蒼紫が普通の男であったならば、操に変な虫がついていることに気付きながら、未だに動かず、傍観しているのはなにゆえか。操が可愛くないのか。他所の男に横恋慕されていながら、何も言わぬ腑抜けであったか。と、言っているところである。しかし、蒼紫のことを昔より知る翁にとって、それが難しいことも理解できた。
蒼紫は美丈夫であるし頭も切れるから言い寄ってくる女が大勢いる。しかし、性格が生真面目な上に、齢十五で御頭の大役を任されたからには女に現を抜かすなどまず考えられない。普通の男子が衝動に目覚める頃は、ひたすらに御頭という立場に忠信して過ごし、しかしそれがお役御免となると、今度は行き場のない部下を引き連れ彷徨う。そして――。男である以上、男女の情を一度も結んだことがないとは思わぬが、あっても一夜限りの睦言であろう。肉体の衝動からで、それは恋募とは違う。言ってみればこれが初恋のようなものである。しかもその相手が、これまた年頃の娘にしては子どもっぽいときている。難儀な二人が結びついたとしか言えない。
更に、話を厄介にしているのは、蒼紫が我欲のために行動したことがないことだろう。いつでも、御庭番衆のため、部下のため、自分の身に課された責務を果たして生きてきた。全うすべきことが存在した。だが、それは自らの欲のためではない。何かを欲するということはなかったのだ。
しかし、恋募というものは、極端な言い方をすれば欲である。相手が幸せであるならばいいと思うような柔らかな気持ちよりも、もっとずっと個人的な、己が相手を幸せにしたいと。他にふさわしい男がいたとして、誰にも譲る気はないという、それは欲である。
蒼紫の操に対する気持ちに、それがないとは翁は思わない。件の男が現れてから、蒼紫の発する空気から僅かにではあるが苛立ちを感じる。本人は巧く隠しているし、偉大なる先代御頭と唯一渡りあえた翁であるからこそ察知できる程度であるが。しかし、己の感情を隠すことに関しては相当な理性を持つ蒼紫が、僅かであるといえそれを外の漏らすなどいかほどのものを押し殺しているのか言うに及ばずである。それを素直に出せば物事は全て丸く収まるものを、と翁は思うが。感情を出すとことに疎い蒼紫にとっては難しいこともある。ただ、
「のう、蒼紫よ。お前は操をどうしたいのじゃ」
問いかけに、蒼紫はようやく振り向いた。
いつもの無表情である。
翁はわざとらしくため息をついてから、
「お前がここへ戻って来てから、お前を目当てに葵屋にくる女子が増えて、操が悋気を起こすことがよくあったろう。それは我儘ではあると言える。お前の幸せを願うというのならば、黙って見守るのが筋というものじゃ。その中に、ひょっとしてお前が気にいる娘がおるかもしれん。それをぶち壊すなど、勝手な振る舞いであろう。操とて、それぐらいのことはわかっている。じゃが、それでも、邪魔せずにはおれんかった。お前を笑顔にするのは自分でありたいと思ったからじゃ。他の女子には譲れんと悋気を起こした。それを、お前はどう思ったのじゃ。浅はかで煩わしいと思ったか?」
言葉を、やはり無言のままに聞くがその心には深く刻み込まれる。
操の悋気を疎ましいと感じたことはない。それよりも――春先、東京での宴で「蒼紫さまの幸せを願っているから、誰かを好きになる邪魔をしたらいけないと思った」と聞かされた時の方が胸をざわつかせた。日頃の、蒼紫の保護者然とした態度に「蒼紫さまを笑顔にするのは自分には出来ない」と諦めかけたこと。結局は諦めきれず、涙を流して辛いと癇癪を起したわけだが。あのまま、操が堪えていたら。そして、諦めていたら。そういう可能性は存在した。それが操の意志と己は納得したのだろうか。否、操が選んだのならば納得さざるをえないのではないか。しかし、
「相手の意志を尊重することは大事じゃが、必ずしもそれが思慮深さであるとは限らん。幸せを願っているだけの男より、幸せにしようとする男に気持ちが傾いたとしても、それは操が選んだわけではなく、お前が選ばせたんじゃ。お前の態度は、そういうことじゃ」
黙っていることは、意思を尊重することでも、見守っているのではなく、冷たく突き放していることだと告げられれば、複雑な気持ちになる。
蒼紫の目にかすかに宿った憂いを、敏感に感じ取った翁は、いつもの陽気な声で、
「お前は、頭が切れるが、色恋となるとからっきしの駄目男じゃな。一体、これまで何をしておったのか、嘆かわしい。なんなら、これから儂が"れくちゃー"してやろうかの。京都きっての色男である儂にかかれば、お前も少しは――」
だが、最後まで言い終える前に、ここからは無駄口と判断したか蒼紫は再び背を向ける。
「まったく、愛想のない男じゃな。だが馬鹿な男ではないな」
そして、高笑いしながら部屋を後にした。
一人きりになると、ため息を吐きだす。
いかなる状況でも、弱音を吐いたことがない男が。
――俺は、逃げていたのだろうな。
認めざるを得ないとばかりに、吐息が零れる。
『お前は、操をどうしたいのじゃ』
翁の言葉は、蒼紫に欠けていたそのものである。
操が幸せであってくれるならば何でもする。操が望むことならば叶える。そのために己の身がどうなろうと大したことではない。蒼紫の想いに嘘はない。つまるところ、操のためにならば死ぬ覚悟があるということだが。それはもう。しかし、それではかつて部下たちのために修羅となり果てた頃と同じだ。"操の幸せを願う"と言いながら、結局のところ、蒼紫はまた逃げていたのだ――生きることから。命を落とす覚悟など誰が求めていようか。そうではなく、生きてどうするのか。己が、どうしたいのか。わかっていたはずが、少しも。
そして、東京で、緋村剣心に言われていた言葉が思い出される。
操が望むならなど言わず、己の気持ちを述べろ。それこそが操の望みであると。
あの時、固めたはずの意志だったが、実のところ決め切れていなかったこと。一度は確かに掴んだはずが気付けば手を緩めている。やはり己には分不相応な気がして奥底へ沈めようとした。
「本当に、俺は駄目な男だな」
やはり洩れるのは自嘲であったが、少しだけ清々しく響く。
◇◆◇
女学校の帰り。ぽつりと冷たいものが頬を――雨だ。
「嘘でしょ〜」
と急に曇り始めた空を睨む。
朝は雨の匂いはしておらず崩れる予兆もなかった。それが。
――最悪だ。
呟く気力さえなく音にはならない。元からよくなかった気分がもっと滅入っていく。
はぁ、と大きなため息が。
操の憂鬱の原因は呉服屋の倅・左門である。否、厳密には左門の出現により蒼紫との関係がぎくしゃくとしていることだ。ここしばらく蒼紫の傍に近寄ることも出来ずに、おまけに昨夜は妙な言葉を口走ってしまった。気まずくて仕方がない。今朝も逃げるようにして店を出てきた。これがずっと続くのだろうかと思うと悲しくなる。どうして大好きな人を避けなければならないのか。
嘆いていてもはじまらない。急いで帰ろうと駆け出せば、
「操さん」
聞き覚えのある声。左門だ。昨日、怒りのままに罵倒したはずがけろりとした顔で待ち伏せしている。操の眉間に自然と皺が寄る。
気付かぬふりをして走り去ってしまおうかとも一瞬思ったが、進む道の真正面から呼ばれて流石に"気付かない振り"は無理がある。避けることも出来ずにいると近寄って来て持っていた傘を差しかけてくる。通常ならば親切心に感謝するべきとこだが操の眉間の皺が深まる。いわゆるこれは相合傘だ。こんなこと蒼紫とだってしたことがない。かつて禅寺に籠っていた想い人を、雨が降ったからと迎えに行ったことは幾度かあれど自分用ともう一本を携えて向かった。一緒の傘に仲良く二人で入るなどない。
そんなことを言い出せば甘味処で向かい合って「あんみつ」を食べたのもそうである。蒼紫は甘い物を嫌いではない。疲れた脳には糖分がいいらしく時々口にしているのは知っている。数度、翁と三人で食べに行ったこともある。だが二人ではなかった。あの時、軽い気持ちで「あんみつを御馳走してください」と言ってしまったことを、操は今更になって腹が立った。無論、自分自身にである。気に入りの着物を一言の断りなく捨てられて怒っていたはずが、どうしてそのようなことを言ったのか。礼などいらないと突っぱねてもよかったのだ。
そして、連鎖するように心に浮かぶものが。
左門が強引な真似をするのは、自分に隙があるからではないのかと。己の態度が曖昧だから、いつまでもこうして左門がやってくるのではないか。いくら執拗であっても、もっと毅然と断れば、諦めるのではないか。それをしていないのは何故か。
――どうして、私は。
ふっと心に去来した疑問は言い逃れができのほど中心を貫く。
ゴロリと近いところで雷が鳴る。
それは、隠し持った本音を暴くような強い響きだった。
全ては、蒼紫への複雑に絡まった恋心にある。
好いた相手に他の者が近寄るのは嫌だと思う。それが人の心。操自身がそうだった。
蒼紫は美丈夫であるし、京都で名の知れた料亭の若旦那だ。当然に女子がほおっておかない。葵屋に戻って来てからしばらく、縁談が持ちかけられたり、滅多に店に姿を現さない蒼紫を一目見ようと連日やってくる客までいた。その度に操は悋気を起こした。好きだからこそ感じる気持ち。それがいいものであるとは思えないがそれでも。
だが蒼紫は違った。「惚れられたんじゃな」と翁が言った時も何の反応も示さなかった。翁のいつものからかいと判断したのか。それにしたって一言あってもいいはずだ。それが、全く。
もしも、本当に左門に言い寄られたら、どうなるだろうか。
魔が差すというのか。操の心に無意識のうちにそのような気持ちが芽生えていた。
ああ、そうか。私は。
私は――蒼紫さまに、嫉妬してほしかったんだ。
それ故、自分は左門から本気では逃げていなかったのかもしれない、と操は認める。
しかし、反面、それでも何も言ってくれないかもしれないと、期待と恐怖では恐怖が勝り、結局、蒼紫に何も告げられぬままであったが。奥底にあった本音は蒼紫が悋気を感じるかどうか知りたい。それだった。
事実に気付けば情けなさで胸は押し潰されそうに痛む。
いつから、このような姑息な真似をするようになったのか。
ただ、もう一度会いたくて。会いたくて、会いたくて、日本全国を旅していた頃には感じることなかった気持ちである。苦しく、やるせない。夫婦になると約束してもなお、かような振舞いをしている。こんなことで本当に夫婦になどなれるのか。蒼紫のことは好きだ。それは一生変わらない。自信はある。だが、好きであるからだけでは生涯を共に生きられるわけではない。今のままでは、ずっとこの不安定な気持ちを持ちづづけるのではないか。自分の腹が決められないのならば。
何より、恋する気持ちや、それがうまく届かない辛さならば、誰よりも知った身であったのだ。それをまがりなりにも自分に好意を寄せてくれる相手の気持ちを考えず、自分の不安のみに執心し、弄ぶような真似をした。操は真実恥じた。
「ごめんなんさい」
勢いよく頭を下げる。
「あなたの気持ちには応えられません」
「……ですが、あなたの許嫁はあなたに興味がないのでしょう? そのような男と一緒にな」「いいえ」
左門の言葉を遮るように操は言葉を重ねた。
「彼がどうであれ、私が好きなのは一人だけです。この先も、絶対に変わらない。だから、あなたでは駄目なんです。もっと早く言うべきでした。ごめんなさい」
「操さん。女子は望まれて嫁ぐのが一番。今はそう思っていても、先々で後悔する。私はあなたにそのような想いをしてほしくはない」
その時、初めて、無闇に拒絶し続けてきた左門の好意と操は正面から対峙した。
昨日、今日知り合ったばかりの男に何が分かると、どこかで軽んじていたが。操の意志や気持ちを無視するような振る舞いに腹が立っていたが。確かに、左門は強引でやや傲慢な言動はあるが、操への想いは純粋な好意である。それを、邪険に受けとめていたことを本気で申し訳なく。しかし、だからといって受け入れられるかと言われると、それはまた別の話で――ごめんなさい、と三度その言葉を口にしようとしたが、
「よぉ、色男。お嬢ちゃん、嫌がってるみたいだが」
言葉だけならまるで無理やり手籠にされそうな娘を軽やかに助け出す義賊のような台詞であったが、振り向くと立っていたのは下卑た笑みを浮かべた男と、それを取り囲む人相の悪い男が数名。それは数日前に操が"懲らしめた"男で――つまるところ、逆恨みの報復に、仲間を引き連れてきたということである。
「左門さん、下がって」
操はほとんど反射的に、左門を庇うように前に立ち、先手必勝とばかりに男たちに向かって駆けだした。
◇◆◇
雨の気配がする。匂いと言うべきか。敏感に感じ取って蒼紫は開いていた帳簿を閉じる。
操がぼちぼち帰ってくる時間だ。この調子では途中で雨に遭うだろう。傘を持って出てはいなかった。迎えを必要とする。いつもならば女衆が出掛けて行くのだが。
自室を出て裏口ではなく表――店の方へ。さすればお増が気付き「お出かけですか」と一声ある。
「雨が降りそうだ。出てくる」
操を迎えに、と口にせずとも意味を察する様子を蒼紫はありがたいと思う。
ここしばらく、蒼紫と操の間に流れる微妙な空気を店の者も全員気付いているはずだ。そのような状況で操を迎えに行く意味を、見つけられたのが翁であれば存分に揶揄られたに違いない。
傘をお持ちしますねとお増が向かったが、
「あら? 操ちゃんの傘がない」
声がする。
近寄ってみると、確かに。操愛用の傘だけがない。
「持って行ったのかしら?」
お増は思案顔をするがそんなはずはないと蒼紫は胸中で呟いた。常日頃から操の動向を気にかけているが今朝はよくよく。操も昨夜の言葉を気にしてか明るく振舞っていたがどこかそわそわし、いつもよりも早めに出て行った。間違いなく傘は持っていなかった。
蒼紫は息を吐く。
これが誰の仕業か見当はついた。
身長差のある二人が道を連れだって歩きながら会話をするというのはそもそもが難しく。無口な蒼紫となればなおのこと。そこへ其々に傘をさしていれば通常よりも更に。しかしながら、一本の傘に入るとなれば違ってくる。濡れぬように密着すれば物理的なものばかりでなく縮む距離がある。そうであったとして偶然たまたまならばまだしも、最初からそのつもりで出掛けるのは、と躊躇いがある。女子と一本の傘で歩くなど照れもある。翁のそれは心配であるがからかい或いは今まで手をこまねいていた蒼紫への仕置きでもあるのだろう。
さて、どうするか。他の傘を持っていくという案もなくはないが――蒼紫は自分の傘のみで葵屋を出た。
少し歩けば、予想通り雨が降り始める。
雨脚は、まだそれほど強くないから足の速い操ならば走って帰ってくればどうにかなると急いでいるかもしれない。だが、女学校へは袴姿である。これまでの甚平とは勝手が違う。動きにくいこともあろう。濡れて風邪を引かぬようにと蒼紫の足取りは自然と早まる。
そうして先を急いだわけだが。
しばらく進んだところで、不穏。己の進む方角、先に見える商家の角を右に曲った辺りだろう。喧騒を感じる。幕末の動乱期から随分と月日が流れたが、今もって粗ぶる連中が存在する。そんなことは承知しているので別段驚かない。ただ、そこに、見知った空気を感じ取り、蒼紫は僅かに眉を顰めた。
歩調は俄然と早まり、急いで角を曲がってみれば、案の定、男たち四人に囲まれているのは予想した通りの人物だ。一体何があってこのようなことになっているのか。相手は見るからに素行のよろしくない連中だ。操に非があってというより、難癖でも付けられたのだろうと推測するが。
「左門さん、下がって」
と軽やかな声がする。次の瞬間、操が跳ね上がる姿が目に飛び込んでくる。そして見事な怪鳥蹴りが決まるが。流石に袴姿でそのような真似をしたことはなかったことと、雨で足場がぬかるんでいたせいで、着地に失敗する。受け身をまともに取れなかったらしく足をひねったのが見てとれた。
「よくもやってくれたな」
蹴りをくらい伸びた男を一人が支え、残り二人のうち一人が告げた。言葉だけならば、やられた仲間を思って怒りを倍増させているように感じられるが、その声音は嬉しげである。犠牲になった仲間などどうでもよく、その結果、操が足に怪我を負ったことを喜んでいる。
男のはさしていた傘をたたみ手に持つ。それで嬲り打ちにでもするつもりだろう。動けぬ操に近寄っていく。
運というものはある。
それも実力のうちというが、運が悪かったのだろう。
操のことではく――因縁をつけている男たちが。
蒼紫は力はあるが暴力的な性質ではない。穏便に済めばそれにこしたことはなく。まして、時代が変わって以降、派手な真似をすれば厄介なことになる。昔取った杵柄というか、その筋に知り合いはいるし、いざとなれば事なきを得ることは可能だ。しかし、小料理屋の若旦那として表の顔を持っている今、やはり目立つことは得策とはいえない。それ故に、普段ならば、おそらくはまず口で忠告しているはずであった。この手の輩は長い物には巻かれろと、自分の身を守る才には長けており、蒼紫のもつ普通ではない雰囲気を感じ取れば逃げ出すことが多い。それでも挑んでくる者には、それなりの制裁をする。途中、許しを乞うたり、逃げだせば後は追わない。
しかし、この時ばかりは違った。
女子を嬲ろうとするな、男の風上にもおけない。この時点で、同情の余地なしであるが。その対象になっているのが、他でもなく操とあれば、蒼紫が許すはずもなく。そうでなくとも蒼紫の機嫌はよくない。連日、操から避けられていたことにより貯め込んでいた鬱屈とした感情。それをどうにか収めんと、操と話すべく迎えに来てみれば、当の本人は件の男と一緒にいて、その男を庇っての現状である。ここで苛立ちを感じるなというのが難しい。しかしながら、そのような感情を直接操や男に向けるほど大人げなくはない。さすればその怒りが向かうのは言わずもがな。不運な男どもは、忠告もされなければ、許しを乞う時間も、逃げ出す隙も与えられず、一瞬のうちにあっけなくのされた。殺さなかっただけましと思え、という体である。
地面に転がる男どもを一瞥して、蒼紫は投げ捨てた自らの傘のところまで戻る。
雨は、激しくなりつつある。
拾い上げた傘をさすが、着物はすっかり濡れている。視線を操にもどせば、同様に。早く帰って風呂に入れねば風邪を引く――と、その少し後ろには例の男が立ち尽くす姿が目に入る。
(この男か)
視線が合う。しかし、すぐさま逸らされた。蒼紫が操の何であるか察していて、後ろめたくあるのだろう。まして操に庇われて怪我まで負わせているとあれば尚更。
何も出来ずにいた自分を恥じている様子に、蒼紫は左門が真っ当な男であると認識した。武士の倅ならまだしも、商人の倅である。いざとなったら戦えと教えられて育ったわけではない者が、ましてや明治を迎えてこれからは商人の時代と言われているご時世で、このような状況に、どうしていいかわからず動けなかったとして、責められるものではない。逃げ出さなかっただけ少なくとも腑抜けではない。と蒼紫は考えるが。
だがいくら理屈はそうであれ、やはり女子に(それも自分が惚れている)庇われたとなれば情けないと感じ己を責めてしまうのも理解できる。操も罪づくりな真似をしたものだと、蒼紫は少々難に思う。ただ、操は特別だ。普通の女子ではないからと。それもまた慰めにはならないだろうし、伝えるのも矜持を傷つけるだけである。
結局のところ、黙って去るのが最良だろうと蒼紫は左門に声をかけぬことに決め、無言のまま操の前まで歩いて行き膝を折り、今更あまり意味はないだろうが、これ以上濡れぬようにと傘をさしかける。操は未だ何が起きたかわかっていないらしく、惚けた顔で蒼紫の顔を見つめている。
「立てるか」
と問えば、立とうと動くがその顔にはすぐに苦痛を浮かべる。さすれば、と蒼紫は傘を持つように促す。操を素直に従う。それから、おもむろに操を抱き上げた。「わっ」と操からようやく洩れたのは小さな悲鳴だが、蒼紫は気にせず今しがた来た道を引き返し始める。
「あ、あ、蒼紫さま!」
「なんだ?」
「なんだって、その、あの……歩けます。降ろして」
「立つことも出来ぬのに歩けるわけがなかろう。大人しくしていろ」
「だって……! 人に見られるよ、目立つし!」
「雨が降っていて、人通りはまばらだ。それほど見られてはいない」
「人数の問題じゃないでしょ! 恥ずかしい」
操は腕の中で暴れる。人に見られるやら、恥ずかしいやら、それならばこのような場所で乱闘騒ぎを起こすな、と蒼紫は思う。どちらかといえば、男に抱きかかえられているより、男相手に大立ち回りを披露する方が問題であろうとも。しかし、操にとっては蒼紫に抱かれて歩いている現状の方が大問題らしい。要するに照れているのだが。それも、しばらくすれば大人しくなる。蒼紫が離す気はないとわかったのだろう。
「……寒くはないか」
返事の代わりに、操が小さくくしゃみをしたので、少しでも温かいようにと自分の方へと抱き寄せる。すると操の視線を感じる。凝視されるとそれはそれでこちらも困る、と蒼紫は真正面から見つめ返すこともできず黙々と歩く。
「蒼紫さま」
名を呼ばれたのでそれは無視する真似は出来ず、歩みを進めたままで視線を合わす。操の瞳は小さくであるが揺れていた。何か不安があるのか。頼りない眼差しだ。
「どうした」
「……助けてくれてありがとう」
最初に言わなきゃいけなかったのに。と付け足す。
「いや、」
礼にはおよばん。怪我を負わせてしまったからな。と返せば。静かに首を振り「ありがとう」と繰り返す。それから、
「どうしてここに?」
「雨が降り出したから、お前を迎えに」
「蒼紫さまが?」
「ああ」
驚く操に、それほど驚かずともよかろうと返せば、驚くよ、とまた返される。確かにこれまで一度もこのようなことはなかったが、そこまで意外という顔をされると蒼紫も少しばかりむっとしたのか、
「ならば、もう驚かれぬように、これからは手の空いているときは俺がお前を迎えに行くことにしよう」
「ええー。いいですよ。そんな迷惑かけられないよ。自分のことは自分でするから」
操は滅相もないと首を振る。しかし、
「お前に関することで迷惑なことなどない」
予想もしていなかったことを言われて操は目を丸くする。蒼紫は視線を前方へ戻す。再び会話のなくなった二人を、雨音が包み込む。
◇◆◇
「うー」
呻き声。布団で顔を押さえつけて操はうねっていた。
あれから店に戻ったが、捻った足の腫れは酷くなり、患部を温めぬ方がいいと風呂には入らず、着替えをして布団に入った。いつもならば店の手伝いをして忙しくしている時間。眠れず、かといって動けぬから退屈だ。じっとしていると、つい考えてしまうのは先刻のこと。
男たちに絡まられ、それを蒼紫に助けてもらった。
その後、抱きかかえられて店まで運んでもらったのだが。
『お前に関することで迷惑なことなどない』
あれは、どういう意味なのか。否、どういう意味も何も、困っていれば助けてやるということなのだろう。だがそれを操は素直に喜ぶことが出来なかった。
蒼紫がしてくれることは、操が求めているものと少し異なる。守ってもらえることは嬉しいと思うし感謝するけれど――対等になりたい。それが難しいなら、せめて自分の身ぐらい自分で。そうして蒼紫と離れている間、修行した。強くなった。だが、今もって蒼紫にしてみれば自分は庇護するべき手間のかかる幼子のような感覚なのだと言われている気がした。
自分が蒼紫を思う気持ちと、蒼紫が自分を思ってくれる気持ちは、きっと違うのだろうな、と操は考える。
夫婦となると決めはしたが、蒼紫の気持ちには自分のように切羽詰まった感情はないと。それを認めるのは悲しいがこればかりはどうにも。仕方ないことだとは頭ではわかっている。同じように思ってほしいと願うことがそもそも贅沢である。元々、二度と会えないかもしれなかった相手だった。それが今は同じ屋敷に住み一緒に生活している。十分すぎるほど幸せである。自分はいろいろ欲張りすぎたのかもしれない。そして、その欲が己を苦しめている。
現状に操は寂しくなる。
ならば、どうすればよいのか。否、答えなどわかっている。
蒼紫の傍にいたい。傍にいられる。それが叶っていることに感謝し、それ以上を求めない。欲深いことを思わずにいられればいいのだ。しかし、やはり好きな相手に同じように思ってほしいという気持ちをなくすことは早々簡単なことではなく――そして洩れる呻き声であったが。
「操。起きているか」
呼びかけに、操は飛び上がりそうになった。
蒼紫である。
操の部屋を蒼紫が訪ねてくることは珍しく、最初は聞き間違いかと思ったが。
「あ、はい。起きてます」
慌てて返せば静かに襖が開く。入って来たのはやはり蒼紫で風呂上がりらしく髪がまだ濡れていた。いつもは降ろしている前髪を後ろに流しているので顔が良く見える。水も滴るいい男そのものだった。このような無防備な姿は、同じ家にいてもあまり見ることはない。どういう風の吹き回しか。操は緊張したが、そんなことにはお構いなしに傍まで来て腰を下ろす。手には桶と包帯とがある。
「足の具合はどうだ」
「……少し痛みます」
そうか、と言うと掛け布団をめくり始める。
「え? ちょっと、あの……」
「包帯を巻きかえた方がいいだろう」
「それなら、自分で」
しかし、操の言葉は聞き入れず怪我をした足をとる。慌てて引っ込めようとした瞬間、ビリっとした痛みが走り顔を顰める。それには反応を示し「動くな」と手短に告げられる。
「で、で、で、でも、」
「……お前は、俺が何かをすると驚くな」
「だって、私はもう小さな子どもではないんですからね」
「ああ。そうだな。もう子どもではない。幼き頃のお前なら、俺が世話をすることを厭うような態度はとらなかった」
厭うような態度と言われれば操も黙っていられない。蒼紫に世話をかけることを申し訳ないと思うから恐縮するわけで嫌がっているわけではない。そういう気持ちが伝わっていないのかと、
「小さかったから、手間かけちゃいけないってところまで考えられなかったんです!」
今は大人になったから迷惑かけないようにって私も考えるようになったんです。とまでは言葉にはしなかったが、言わんとしているのはそういうことである。しかし、操の言葉に蒼紫はわずかにため息を吐くと、
「お前にかける手間ならわずかも惜しいと思ったことはない」
告げられて操はどう受け止めればいいのか戸惑った。
帰り道で言われた言葉と、似たことをまた。さほど時間を置いていないうちに二度目である。それも無駄なことは言わない蒼紫が繰り返すのだから相応に意味のある――というよりかなり重要な言葉である。と、考えるのが得意ではない操にもわかる。しかし、それで何を伝えようとしているのか。真意はどこにあるのか。操は推し量るように蒼紫の顔を見つめてしまう。しばし、そうして見つめ合うが、
「穴が開くな」
先に音を上げたのは意外にも蒼紫で、動きを止めた操の足を改めてとり、包帯を巻き直し始める。そのように言われては見つめることも憚られるので操も蒼紫の顔から視線を外し自分の足をとるひんやりとした長い指先が器用に動く様を見つめる。
何かが、確かに、いつもとは違う。
それがいいものなのか、悪いものなのか。逃げ出したい――と操は思う。この不慣れな空気から。しかし、それは叶わない。ここは自分の部屋であるし足を怪我して動けない。逃げる先も逃げる方法もない。
やがて、三分の一ほどが巻かれたところで、
「操。」
動きを止め名を呼ばれた。
部屋には蒼紫と操のみなのだからわざわざ呼ばずとも言葉を発すればそれは操に言っていることである。それをわざわざ名を呼んだ。蒼紫の躊躇いが操にも伝わり身を固くする。何を言われるのか、一瞬の緊張ののち、
「俺は何も、お前を子どもだと思って、世話を焼くわけではない」
またそれは言葉少なである。ならば、何故世話を焼くのか。それが重要であるが、そこまで言えないのがこの男の欠点だろう。そして、これだけで察することが出来ぬのが操の欠点だ。否、もう少し「好かれている」自信でもあればまた違ってくるのだろうが、都合よく解釈して浮かれるほど、今の操の心は元気がなかった。蒼紫の性分を、操も重々承知している。無口なところも好いている。しかし、今は。この時は。言葉を。わかりやすいものを切に望んだ。それは蒼紫にも伝わっているらしく、
「……お前と同じだ。お前が俺の世話をしたがるのと、同じ気持ちだ」
「私と?」
ああ、と言うと、再び包帯を巻き始める。
それをまた見つめながら、操は言われたことを考える。
蒼紫の言う通り、操は蒼紫の世話をしたがる。蒼紫に関わることならば、何でも自分がしたいと思う。少しでも傍にいて役に立ちたい。それが願いであり、叶えば幸せだ。嬉しいと感じる。そう思うのは蒼紫を好きだからで――と行きついた答えに、
「そういうことだ」
まるで操の頭の中を覗いているのかと思うほどの絶妙な相槌だった。途端、操の顔が赤く染まっていく。その様子に蒼紫は満足する。しかし。
「嘘だ」
操の口から出たのは、否定だった。
「そんなの嘘だ。だって、蒼紫さまは何も言わなかったじゃない。じいやが、あの人に『惚れられた』って言った時も何も。興味なさそうだった」
言えずにいたわだかまりを言葉にすると、あの時の蒼紫の無表情に自分が思う以上に傷ついていたのだと操は自覚する。元より喜怒哀楽がハッキリとした娘が珍しく抑え込んでいた悲しみは発散できずにいた分、一度外に出るともう止まらなかった。
――同じでなどあるはずがない。
自分ならば、蒼紫に惚れている女が傍に寄ることを嫌だと思う。もしかしたら、蒼紫もその女を好きになるかもしれないと不安にもなる。だから、どうにかしたいと動くだろう。たとえ自分が駄々をこねても、おそらくそうなったら止めることなど出来ないだろうと、人の心はどうにもならないとわかっていても、それでもどうしたって嫌なものは嫌だとその間に割入っていくだろう。みっともなくても、情けなくても、自分勝手なものであったとしても。それが、恋慕というものだと操は思う。
だが、蒼紫は違った。
無論、操とて蒼紫が自分と同じように悋気を起こすなど思ってはいないが、それでも少しばかりは気にかけてくれてもいいのではないかと。しかし、わずかも気にしている風はなく。だから、自分と蒼紫の気持ちが同じであるなど信じられるはずがない。否、一緒であるはずがない。自分の気持ちの方がずっと切実なのだと。それを同じと告げる姿に込み上げてくる感情が。
操は蒼紫を睨みつけた。同じなど易々と言ってくれるなという怒りである。
しかし、その言動は蒼紫の内にある激情に触れた。
「お前に言いよる男に、俺が何も感じていないと、本気で思っているのか」
すり切れそうな低い声だった。蒼紫は常に考えて言葉を口にする性質だが、この時は思ったことがそのまま出たと言うような。それ故、操は何を言われているのかすぐさまには反応できなかった。さすれば操の足を少し高い位置に持ち上げて、
「他所の男のために怪我を負ったことを、俺が何も感じていないと思っているのか」
その声もいつもの冷静で静かな――何を考えているかわからぬ――ものとは違った。感情的とまではいかずとも、確かにそこに存在するのは怒気である。
操は蒼紫に対しては当然に、そうでない他の者にも世話を焼く。元々が世話好きなのである。それ故に、これまでも危険なことに首を突っ込んでは怪我をすることがままあった。その度に、蒼紫に窘められて叱られるのが、今回のそれは、これまでのものとは違う。含まれている感情の質が明らかに。それは操も疑いようがなかったのか、自分が怒っていたはずが、蒼紫のそれに完全に飲み込まれる。すると、今度は泣きだしたくなった。今までぶつけられたことのない怒りを前に怖くなったのだ。
しかし、操も操で頑固な一面がありこのまま素直にごめんなさいとは言えない。敬愛し信頼する蒼紫が見せたこともない怒りを露わにしている。そんな風にさせた自分が悪いのだと、普段ならばそう思うだろう。だが今は、恋心の織りなす矜持が、ここで引くわけにはいかないと。
「……でも、蒼紫さま、何も言ってくれなかったもん」
その口調は完全に子どものものであった。普段、自分は立派な娘だとあれほど主張しながら、このような時に子どもじみた態度をとるなど卑怯この上なしといえるが。
「何も言ってくれなかった」
だから知らない。そんな風に怒られたって知らない。どうして私が怒られなきゃいけないの。と堪え切れずぽろりぽろりと涙がこぼれ落ちる。操とて、それが無茶苦茶な態度であるとはわかっているだろうが、もう今更引っ込みはつかない。ただ、蒼紫が悪いのだと責めるしか。
蒼紫は黙ったまま聞いている。それがまた操をいたたまれぬ気持ちにさせた。何か言われるより、何も言われぬ方が堪える。呆れられているのだろうと涙は一層溢れ出るが。
「操。」
また、名を。
その声には、先程の怒気はすっかり消えている。
◇◆◇
――俺は何をしているのか。
目の前で泣いて今にも癇癪を起こしそうな(というよりほとんど起こしている)操を見つめて蒼紫は思う。泣かせるつもりも、怒らせるつもりもなかったのだ。
左門という男に悋気を感じているとは自覚していたが、考える以上に憤りを感じており、それを思わず操にぶつけ、怖がらせて、傷つけたのである。そのような大人げない真似をするつもりはなかった――そう、まさに、大人げがない。十も年下の娘を相手に一体何をしているのか。どうかしているとしか言いようがない。どうも自分は操に関することでは普段とは違うらしい。これが所謂、恋慕というものなのか。人並みにそのような感情を持つ自分に驚くが。否、悠長に構えている場合ではない。
何か、言わねばならない。
言うべきことが――しかし。
このような場合、何をどうすればよいのか。皆目見当がつかないのである。泣く(泣いていなくてもだが)女子の機嫌をとるなどどうすればよいか。戸惑いは大きく。顔にこそ出さない(出ない)が相当に動揺している。
ともかく、
「操。」
名を呼んでみたが。それに答えてくれる素振りはない。
繰り返すのは、「蒼紫さまは何も言わなかった」という言葉だった。
操の言うとおりである。自分は何も言わなかった。操に惚れた男が現れたと知った時も、それから今日までずっと、何一つとして言わなかった。
操が彼の男を好きになるかもしれない。それを、邪魔するような真似は出来ぬと思った。人の心の移ろいはどうしようもないもので、操には思うように生きて、幸せになってもらいたいと――そのような尤もらしい考えで、己の心を戒めていたのだが。しかしそれは建前で本音にあったのは単なる臆病さである。夫婦になると約束までして未だに操を自由であると構えるのは思いやりでも寛容でもなくただの腑抜けだったのだ。己のような男がと、未だにそこから抜け出せず、負い目を持ち、腰が引けていた。
しかしながら、操は蒼紫の全てを受け入れている。蒼紫がしてきたこと何もかもを。その重き罪を咎めることも、厭うこともせず。蒼紫が地獄に堕ちるというならば僅かの迷いなくついていくほどの強靭な。それは蒼紫の身のことを正確に理解していないのとは違う。軽んじているわけでも。ただ、操にとっては"そのようなこと"はどうでもいいのである。否、普通に考えれば少しも"そのようなこと"と言えるような出来事ではないのだが、操にとっては"そのようなこと"だった。そういう強固な場所から、蒼紫を求めている娘だ。それ故に、普通の男に求めるものを、普通に求めてしまう。それを、蒼紫の方が二の足を踏む。許されるはずがないと。認められるはずが。だが、それも。
「操。」
もう一度、その名を呼ぶが、相変わらず効果はなく、俯いたまま目線も合わせてはもらえない。
蒼紫は触れていた操の足をゆっくりと戻し、代わりに濡れた頬に手を伸ばす。絹のようななめらかな肌。体温の低い蒼紫とは違い操の肌は暖かい。指先から伝う温もりに溶けだすのは、
「泣くな」
――俺が悪かった。
続いた言葉に泣きやむどころか操はますます涙する。
操もまた、自分の言い分が正しいと思っているわけではなかった。自分とて蒼紫に左門のことを告げずにいた。「何も言わなかった」のは同じだ。あまつ悋気を起こしてほしいと姑息なことを願っていた。そんな自分が蒼紫を責められる立場ではないが、それでも責めずにはいられず。喚き散らした我がままとの自覚があった。だから謝ってほしいなど望んでいるわけではないのだ。
何より、泣きやませるために言っているのかと思えば――仮にそうであったとして、あの蒼紫がそのために謝罪の言葉を言うなど、如何に貴重なことなのかということまでは考えつかず――より一層悲しくなるというもの。そして、
「蒼紫さまは、何も悪くないでしょ。どうして謝るの?」
散々責めておきながら、この台詞である。
「俺は悪くはないか? 大事なお前を放っておいたのだから責められるのは当然だと思うが」
"大事"という言葉に、操の表情が一瞬強張る。
それは、嬉しいものだ。おそらく、もう少し前の操ならば狂喜乱舞するほど喜ぶものだった。しかし"大事"にもいろいろあると知ってしまった今となれば、大事の持つ意味合いの差に打ちのめされることも。
「……あ、蒼紫さまの"大事"は、私の思ってる"大事"とは違うから、悪くないの」
「何が違うのだ」
「何がって、違うの! 同じじゃないの!」
その違いをどうして説明しなければならないのか。そんな辛いことを、とばかりに叫ぶが、
「何も違わない」
反して蒼紫は静かに告げる。しかしその質量は操の叫びより遥かに重く響く。
「何も違わぬ」
繰り返せば操は唇を噛みしめた。
反論できないような絶対的な通告に、だがやはり素直には認められない。簡単に消えてくれる悲しみなら、最初から感じてはいない。押し黙る。さすれば頬に触れていた手が口元に動かされた。強く噛まれた唇は血が出てしまいそうに白い。それを丁寧に指先で触れていく。甘美で艶やかな仕草は、これまで蒼紫が操にしてきた態度とは一線を画するもので、そこには保護者然とした様子は微塵もない。
「お前の気持ちと、俺の気持ちに、わずかの違いもない。不安を感じさせて悪かった」
しかしそれでもまだ、操の不安は消えない。
依然と噛みしめられた唇を執拗に撫でながら続ける。
「俺はお前を手放すことはできない。手放す気もない。たとえ相手が、天子様だろうと。それを"お前は"許してくれるか」
操は唇を噛むのをやめた。そして、ゆっくりとだがようやく蒼紫の顔を見つめた。否定しようがないほど愛おしい女に見せる男の顔に息を飲む。だが、それでもまだ完全には消えぬ不安が。
「……許さないって言ったら、蒼紫さまどうするの?」
弱々しい声で問い返せば、
「許してはくれぬのか?」
「そ、そうじゃないけど、だから、その、」
口籠るが操が何を求めているか蒼紫にも理解できる。否、理解できるようになったというべきか。緋村剣心に諭された女心――『年頃の娘は好いた男に強く望まれたいのだ』と。あの時は、そのような説教を受けるなどと複雑に思ったが。それから昨夜は翁にまで発破をかけられた。確かに自分は年頃の娘の心などまったくの専門外で、興味もなかったのだが、そうはいっていられぬ事情が出来た。甘やかな台詞など、どの面下げて言えるのか。気がしれぬと信じてきたが、操が求めているものは、己のつまらぬ矜持を捨ててしまえばいくらでも与えられる。さすれば何を迷う必要があろうか。
「そうだな。許してくれぬなら、許してくれるまで乞い願う」
「蒼紫さまが?」
「ああ」
言えぬ言えぬと思っていたのは何であったのか。告げた言葉は操を満足させるより赤面させる。嬉しさよりも、恥ずかしさで涙は止まっている。その様子を見て蒼紫も照れる――どころか返って開き直りの境地にでもなったのか、表情一つ変えず真顔だ。
「そ、そんなの蒼紫さまらしくないよ」
「お前を留めておけるなら、それでよい」
そこまで告げられ、操は言葉を失った。これ以上に何も言うことがないと。ただ、普段なら好んでいる射抜くような強い眼差しが今はどうも耐えきれないと俯くが。そんな姿に追い打ちをかけるように、
「それで、お前は許してくれるのか?」
答えを。執拗に。それは確かに操が求めていた強引さではあったが、いざそうなるとそれはそれで違うような気もした。しかし――やがて、俯いたままだが小さくうなずくと、
「ならば、よいな」
蒼紫は少しだけ声音を緩めて告げた。ただ操は言葉の意味が解さなかった。しかし「何がいいの?」と問う間もないままに唇に触れるもの。手ではなく蒼紫のそれが。ただ、すぐに離されてしまったせいで理解するのは数秒後。わかってしまえば出るのは叫びだったが――遅ればせながらの絶叫は、しかし音になることはなかった。二度目の口づけに飲み込まれたからである。
「居続けか」
翁が廊下を歩く蒼紫の背に向けて告げた。
それは遊里で幾日も泊まり遊び続けることを意味する言葉であるが。蒼紫が居続けているのは勿論遊里などではなく――操の部屋だ。男たちに絡まれて怪我負った日から三日が経過した。まだ歩けない操の面倒を看るために蒼紫は操の部屋に入り浸っている。それをからかっての発言だ。
「みな、店の仕事で忙しいからな」
時間の融通がきく自分がするのが最適である。との返答がくる。
それはそうであったが、別に入り浸る必要はない。何か用事があれば、それこそ耳の良い御庭番衆の特性を活かし鈴でも鳴らすように言っておけば済む話だ。それぐらいのこと考えつくだろうが、蒼紫はそうせずにいた。当の操は動けぬから退屈しているし、蒼紫がいてくれることを喜んでいるのだが。
「言っておくが、お前たちは婚姻前なのじゃからな」
歩みを進める蒼紫の背にさらに告げる。
釘を刺されて、蒼紫は振りかえり翁を見る。わざわざ言葉に出さずともそれぐらい承知している。よもや本気で俺が操の部屋に"居続け"ていると思っているわけではあるまいな、と。しかし、
「この屋敷で儂が知らぬことなどないぞ」
それはいつもの翁の軽口である。先代御頭に継ぐ実力者だが今は気楽な隠居の身。幕末の動乱期ならいざしらず、屋敷の変化を敏感に感じ取るような真似はしていない。だが、この言葉は"身に覚え"のある蒼紫には効果覿面であった。先日の操と交わした口づけを、知られていると解釈する。
翁はその少しの動揺を見逃さない。はからずも鎌をかけて、からかい甲斐の無い男を見事にひっかけたのである。
ただ、それを見ても翁は怒りはしなかった。それよりも、夫婦になると決めても何の変化も見えない二人にやきもきしていたぐらいだ。口では婚姻前だと述べたが、喜ばしいことであるというのが本音。
「そうか。今晩は赤飯でもたくかの」
それもまた、半分本気であるが半分からかいである。さすれば蒼紫は困り果てる。いや、そこまではしていない、と言えば言ったで、ではどこまでしたとかと問われるし、だが黙ったままでいれば誤解されたまま――見たこともない複雑怪奇な表情で立ちつくす蒼紫に翁の高笑いが響いた。
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