永き恋の涯シリーズ
年の暮れに。
大晦日。葵屋は賑やかだ。お祭り好きな翁の影響か、年越しは毎年酒宴と決まっている。今年も例外なく、大いに盛り上がっていた。楽しいことが大好きな操も輪の中ではしゃぐ――かと思われたがそこそこに盛り上がってきたところですっと抜けだした。向かうはしばらく前に退座した人物の部屋である。
今年は、操にとって大きな出来事があった。
春先に、東京へ出掛けた際に、思いもよらず蒼紫と夫婦になることが決まる。それは長い間、本当に気の遠くなるような長い時間、操が願い続けてきたことだった。だが、叶わないだろうとも心の奥では感じていた。蒼紫には操は保護するべき対象であり、愛する対象ではないのだと。幼き頃はそのような違いなど何一つ問題ではなく、蒼紫の傍にいられればいいと思えたが。しかし、操も娘である。所帯を持ち、子を持ちたいと考える。そして、そのような幸せを操が手にすることを蒼紫も"願っている"ことを知っていた。だからこそ、どこかで見切りをつけねばならないだろうと切なくなりながらも、それでもどうしても踏ん切りがつかずに過ごしていた。それが――蒼紫と夫婦になれると。夢のような話だった。実は今も夢ではないかと怖いが、紛れまなく事実である。
祝言は年明けて春。操の女学校卒業を待って執り行われる。
「蒼紫さま、入るよ」
部屋の前で声をかける。返事はないが操は遠慮なく障子を開ける。
蒼紫が葵屋に戻ってきた頃は「入ってもいいですか」とお伺いをたて、それに一つずつ蒼紫も答えていたが、いつ頃からか、操のそれはお伺いではなく断りに、そして蒼紫は返事をしなくなった。いちいち伺わなくとも入りたければ入ってくればいい――そういう間柄である。
蒼紫は机に向かい書物を読んでいる。
その姿を見るのは随分と久しぶりだった。
人は変化するものと言うが、ここしばらくの蒼紫の変わりように操は少しばかり驚いている。これまでは食事以外、自室にいることが多かったが、近頃は団欒の場に長居する。相変わらず言葉数は少ないが、それでも人を厭わなくなったのは歓迎するべきことだ。しかしながら、そのことが操は反面で寂しくもあった。以前は自室に引き上げる蒼紫を追いかけて部屋で二人きりで過ごしていたのだ。やはり会話はないが、大好きな蒼紫と誰の邪魔なくいられる時間は操にとって嬉しいものだった。その時間が減少してしまったことは悲しい。
みんなと打ち解けてくれた嬉しさと、蒼紫を独り占め出来ない寂しさと、そのような矛盾する気持ちをいつだったか翁に打ち明けたが、
「お前はまったく男心をわかっておらんなぁ」
と告げられた。
「どういう意味?」
尋ね返しても、蒼紫に直接聞けと返された。素直な操ではあったが、流石に"二人で過ごせなくて寂しい"など恥ずかしくて言えない。意味深な翁の言葉は気にしないことにした。
蒼紫は操が部屋に入ってからも書物から顔をあげない。操は構わず蒼紫の傍まで進む。
いくら人を厭わなくなったといえど、下戸の蒼紫は酒の匂いが充満する場は避ける。それ故に今年の年越しも蒼紫の部屋。久々の二人だけの時間に操の気持ちは華やぐ。
操は蒼紫の真後ろに腰を下ろした。
ここまで来ても蒼紫は声をかけてくれることもなければ、振り向いてさえくれない。しかし――操の顔は自然と緩む。昔も今も、蒼紫は人に背をとられる真似はしない。間合いに踏み込まれると体が自然と避けるようだった。それは腕に覚えのある剣豪ならば誰しもあることだが。しかし蒼紫は操だけにはそのような反応を起こさない。気を許している。この世でただ一人、操だけが蒼紫の背に寄り添える。特別に思われていると実感出来る瞬間でもある。
火鉢の音がパチパチと小さく鳴る。
操は身も心も温かくなり、蒼紫の背にこつんと頭を寄せる。大きな背に寄りかかっているとやがてうつらうつらと始める。
「蒼紫さま、好き」
満たされた気持ちをそのまま言葉にして操は目を閉じた。
◇◆◇
すこやかな寝息が聞こえ始めると背に感じていた重みが増す。蒼紫は読んでいた書物を閉じ息を吐きだした。
『蒼紫さま、好き』
少し前に告げられた言葉を思い出しもう一つため息。
操が幼き頃から数え切れぬほど繰り返されてきた台詞だが、ここしばらくは聞かされると気詰まりを起こす。それはひとえに蒼紫の心持ちの変化のせいだ。
夫婦になると決める以前は操のいかな言葉も余裕を持って聞けた。年少者が年長者を慕うものと己に納得させることが出来た。しかし、現在は思いの他この言葉に振り回されている。否、最初の内はそのようなことはなかったのだが。
きっかけは夏の終わり頃だったろうか――操がとある男に惚れられ蒼紫は悋気を感じた。
好いた女に横恋慕する者が現れれば誰とて苛立ちを感じる。自然で当然な感情であったが蒼紫は己の内に芽生えたそれに戸惑いが強かった。操への気持ちが単なる保護者としてのものではないと。それは自覚していたし、何より夫婦になると約束した後のことである。先代御頭から預かった大事な娘という気持ちとは別に、蒼紫にとっても愛おしい存在であるからこそ決断したのだ。だが、そうであってもどこかで操を幼子のように見ている、というよりも見ようとする心が存在した。そうすることで己の欲望を上手に隠していたのである。しかし、その男の出現により操への想いは男が女に向ける感情以外の何物でもないと認めざる得なくなった。一旦自覚してしまえばもう後には戻れない。蒼紫は保護者であるとの誤魔化しを己にすることが出来なくなった。
さすればおのずと操を見る目も変わってくる。
操に対してあらぬ感情――否、"あらぬ感情"などではなく普通の男が普通に持つありふれたものに違いないのだが、それを己が慈しみ大事にしたいと長年思ってきた操に抱いてしまうことを蒼紫は後ろめたく感じてしまう。一方で操は蒼紫の胸中など察してはくれず相変わらずの無邪気さで擦りよってくる。操の方にも"そういう意味合い"が多少でも含まれていれば違ったかもしれないが、何も変わらぬ無垢さに、そうでなくても生真面目な性分の蒼紫は操を汚しているような気になり情けなくなった。
どうしたものかと悩みながら、しかし、それも年が明け祝言を終えるまでの辛抱であると。夫婦になってしまえば"そういうこと"もおかしくなくなるはずだと。あと半年程度のことだ。待てると考えていたが。
だが、それは甘かった。
色恋から生じる感情、欲求は蒼紫が想像していたよりも強靭であった。ただ押さえるだけでも一苦労するのに、そこへ秋の訪れで人恋しい季節の到来。操も例外ではないようで、好き好き攻撃は日増しに強まる。蒼紫の理性は確実に奪われていく。かといって回避するために冷たい態度を取れば操が"誤解"をしてややこしいことになる。となれば、残る手段は一つである。
二人きりにならぬようにする。
人がいようがいまいが操は関係なく好きだと抱きついてくるが、人の目があれば蒼紫の方に制御がつく。人前で何がしかに及ぶことはありえぬと考え、みながくつろぐ場に長居することにした。敏い葵屋の面々は蒼紫の真意を理解している。翁は面白がり、男衆は蒼紫に同情的、女衆は操を窘め注意する。だが、当の操は「えーいいじゃん」と少しも聞かず、それよりも蒼紫が団欒の場に長居することを「馴染んできて嬉しい」という解釈のようである。そういうことではない、と蒼紫の苦悩は尽きぬが。
蒼紫は背にもたれかかる小柄な身をゆっくりと振り返り正面に抱え込みなおす。
「操。」
このような眠り方をすれば風邪を引くと声をかけるが、深く眠り込んだようで一声では目を覚まさない。この態度をいかように受けとめればいいか。無防備すぎて誘っているのかと"思いたい"が操に限ってはありえない。それどころか蒼紫を"男"として認識していない故の態度ではないかと不安になる。本当に操は蒼紫をそういう意味で好きであるのか。それでも規則正しい寝息を立て幸せそうな顔を見ていると、巡ってくる感情の質は変貌してくる。
こういうことになるから嫌なのであるが――しかし、"そう"なってしまえば心は目の前の存在に集中してしまう。ほとんど無意識的に大きな手がその頬を撫でる。触れても起きない様子に、今度は右手の親指を下唇にあてた。自分のそれとは違うしっとりとした感触を弄んでいたがそれでも起きないとなると、指先で、よりもこの柔らかさを味わいたという衝動が頭に過る。通常ならば「いや、それは」と止める己の声が聞こえるはずだが――蒼紫は吸い寄せられるように顔を寄せた。
もうほとんど触れるか触れないかの際どい位置まできた瞬間。
ゴォーン。
低く響き渡るは、人の煩悩を除くために鳴らされるという鐘の音である。蒼紫ははっと我に返る。一体何をしているのか。咎められている気になり操から顔を離す。
「春まで待てということか」
呟きを肯定するようにまた鐘の音が重なる。
祝言までもうしばらく――年の暮れも大暮れの出来事であった。
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