永き恋の涯シリーズ
そして、
祝言の夜。翁たちは店を空けた。今宵はめでたい故にどこぞで飲み明かすと言うが、二人のためである。夫婦となり、初めての夜。契りを交わすのは自然の成り行き。ただ、二人は葵屋で暮らし、その葵屋では二人暮らしではない。元よりわかっていたし別にそれでも構わん、と蒼紫は思えど、操は女子である。聞き耳立てるような輩はおらんだろうが気になるだろうとの配慮だった。
二人きり。部屋には当然に床は一組。
先に入ったのは蒼紫だが、すぐさまそこへ行くのもあまりにもあまりと、ひとまず座敷に腰を下ろす。後から入った操もそれに従うが――遠い。蒼紫から一番遠いところへ座るのは故意だろう。祝言を挙げ、部屋にまできて、このありようは如何に。と思うが、何もかもが初めてのこと。そもそもが、それ以前より男女としての関わりはほとんどしなかった二人である。蒼紫は甘言を述べる性質ではないし、何より夫婦でもない女子に何がしかをするなど考えも及ばぬ。それが先代御頭の孫娘とあれば尚更に。操もまた、口では色々言うが、いざ蒼紫の前となると、どこまでも幼き頃のような態度であった。それが、祝言を挙げました、だからすぐさま男女になれという方が無理とも言える。それでも”待っていた”蒼紫は別段それに抵抗はなかったが。問題は操である。念願叶って、長き恋慕を実らせたが、いざ現実として夫婦の営みとなるとどうしていいかわからない。蒼紫の傍にずっといたいという想いは本物であれど、傍にいるだけでいいと割と真剣に思うほど心は未成熟である。
「じいやたち、今頃きっと大騒ぎですね。見にいってみましょうか」
元来が明るい性格の操だ。この重苦しい空気に堪えかねたのか述べたが。言うにことかいてそのような提案をするか。と蒼紫は思う。悪気がないのはわかるが、今行けば、初夜の日に花嫁に拒まれた男と公言するようなもの。何故そのような憂き目に遭わねばならぬのか。
「俺は下戸だ。酒は飲めん」
行かぬ、と暗に告げる。それなら私が見てきますと言い出したらどうするか、とひそかに危惧するが操は「そうですねぇー」と語尾を伸ばして心細げに告げる。半分逃げ出したくて、半分は受け入れたいということか。と蒼紫は解釈する。
「操」
呼ぶ。
「こちらへ」
近くにと。
だが本人は動かない。動けないのか。
「俺が嫌か」
そう問えば返ってくる言葉は決まっているが。それでも聞く己も相当に底意地が悪いなと思う。いやしかし、操の態度を見ていると聞きたくなると言うもので、やはり操にとって自分は男ではないのかもしれぬ。早まったかとわずかの痛みが生まれるが。
「嫌じゃないです」
返事はやはり想像していたもので安堵する。さすれば、と蒼紫は立ち上がる。呼んでも来ないなら連れに行くまで。傍に寄ると操は息を呑む。
「それほど緊張せずともよかろう」
「だって、」
操はそこで一度言い淀む。続く言葉は予想がつく。これまで操から近づいてくることはあれ蒼紫から傍に寄ることなどほとんどなかった。そのことに驚いているのだろうと。だが、
「だって、蒼紫さま、いつもと違っておしゃべりだし。何か怖い」
お前が怯えているのはそれか、と蒼紫は苦笑いする。だが言われてみると納得する。普段は操が話しかけてくるのを基本黙って聞いている。自ら話しかけることはほぼない。とりたてて話すようなこともない。無駄話は好まない。それを思えば確かに今の自分は口数が多い。それも自ら話しかけている。見たことのない様子に違和感を味わうのは無理ない。
しかし、それは致し方あるまい。とも思う。
このような場合、やはり男である自分が動くべきものだと考えるし、何も言わず強引に事に及ぶことも可能であるが、それでは生娘を手籠めにするようなもの。たとえ祝言を挙げた同士であれ、無言のうちにするのは怖がるだろうと思い、でがどうすれば恐怖を抱かせずいられるか。そのようなことを思えばこその言動である。蒼紫とて、女子を宥めすかせてまで抱きたいとは正直思わぬが、それも操相手ならばと寛容につとめているのだ。それを逆に怖いと言われては立つ瀬がない。蒼紫は頭痛がした。ならばやめてしまえばいいのだが、それはやはりそれ、である。夫婦になると決めた以上、距離感はおのずと変わることを教えておくべきだと考え、手を伸ばし膝上に抱き上げる。
「操」
と呼べば、ぷいっと顔を背ける。
そのような態度をされるのは初めてのこと。いつでも、蒼紫が呼べば、いや呼ばずとも、駆け寄ってくる娘である。それがこの状況で自分を避けるのはむごいとしか言いようがない。
「恥ずかしい」
「ならば灯りを消せばよいか」
「消してもみえるじゃないですか」
御庭番衆は夜目にも強い。暗がりだろうが見えるだろうとすごまれる。ならばどうすればいいというのか。困り果てるとはこのことか。
「わかった。今宵はもう何もしない」
告げれば、勝気な娘である。初夜に何もしないなんてことありますかと(己が拒んでいながら)反発してくるかと思ってのことだが、蒼紫の予想を裏切り操は心底安堵した顔をする。それを見て、蒼紫は操の唇を奪った。油断大敵。一体何が起きているのかわからないのか、ただその身が硬直していくのを感じる。それでもしばらくしていれば今度はそれが緩んできたので、ゆっくりと離してみる。真っ赤になった顔が見える。照れているのか。否、
「何もしないっていったじゃないですか!」
「怒るな」
「ズルい」
何がズルいものか、と思う。
蒼紫はそれでも辛抱強く、
「お前は、俺と夫婦になる気があるのか」
「あるに決まっているじゃないですか。だから祝言をあげたんです」
噛み合っていないな、と蒼紫は思う。自分の言う夫婦と、操の言う夫婦は意味が違う。”そのようなこと”を知らぬわけではないだろうが、自分がそれをするとなると考えが及ばないのだろう。子どもっぽいことを嘆くわりには、大人になることを己で拒んでいるのだ。それが何故なのか、心中を計りかねる。恐怖なのか、照れなのか。一度、及んでしまえば案外すんなり女になるやもしれん、と一瞬脳裏を掠めたが、無理強いするのもな、と躊躇いもある。いつまでも変わらぬ姿に言いようのない安息を感じていた己もいる。華開かせずとも、このままで。
いや、しかし。
操の目にはいつの間にか涙が浮かんでいる。緊張が限界に達したのだろうか。その姿に妙な色気を感じてしまう。人は、いつまでも幼子のままではいられぬと。それはもうどうしたって。
「操」
呼び、溢れるそれを拭うように唇を寄せれば、今度は非難の声はあがらない。
「抱いてもよいか」
風情も何もあったものではないが真正面から問えばいい逃れることも出来ないだろう。操の性格は知りぬいている。わかるだろうと想いを汲みとらせる真似は蒼紫の甘えでもある。日頃はそれで事なきを得ても、このような場合には安堵する言葉が聞きたいのだろう。そう思って、蒼紫も言葉を多くしていたが、それでも肝心の、操が求めてやまぬ台詞は一つも。
操からの返事はない。いいとも、否とも。ただその目はこちらを見つめていた。もう逃げることはやめたらしい。さすれば、覚悟をつけるのはまずこちらからか、と。
「操」
幾度目かの呼びかけ。操はわずかに体を固くした。
「一度しか言わんぞ」
もったいぶるわけではないが、そうでも前置きせねば言えぬと。それから蒼紫は操の耳元に唇を寄せて、たった一言、言葉にする。瞬間、この俺が、と自ら揶揄る気持ちが生まれる。そうでも思わねばいたたまれない。だがそれも、嬉しげにほころぶ笑顔を前に消え失せてしまう。喜びのあまりか、それまでが嘘のようにすり寄ってくる姿はさながら子猫のようであるが。
たかだか言葉一つにここまで浮かれる姿を単純と思い、たかだが言葉一つを言えぬ己も情けないと思い、しかしまぁ、これほど求められるのならば、一度でなくてもいいのかもしれぬ。と内心考えたが、それは後でじっくり思案するかと、ひとまずその身を抱きかかえてようやくの初夜を迎えた。
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