恋愛初学者。シリーズ
恋愛初学者。
機嫌を損ねた。と蒼紫は理解していた。
近頃は会合に翁の代役として蒼紫が出るようになっている。
世代交代して翁は楽隠居――そして毎日女子を"なんぱ"して歩いている。それだけの元気があればまだまだ現役で働けるだろうと誰もが思うが、翁の隠居の目的は蒼紫に店を継がせることだ。責任感の強い男のこと、完全に店の主となってしまえばしっかりと根付くだろうと考えた。操と夫婦になると決めたのだから、いらぬ心配かもしれぬが、それでも念には念を。ここが蒼紫の居場所であると自他ともに周知させるにはよい方法だった。
そうして若旦那は寄り合いに出席するわけだが。
男――それもそこそこ裕福な――が数人集まれば羽目を外すこともしばしば。芸妓を呼んでお座敷遊びである。
芸妓とはいえ女。同じ酌をするなら"よい男"がいい。さすれば言わずもがなで美丈夫の蒼紫のご贔屓になりたいと考える者が後を断たない。しかし、蒼紫は酒は飲まぬし、女子の色香に惑わされるようなこともない。適当にあしらう。しかし、それがまたよいと芸妓の間で噂された。
すると、中には蒼紫を快く思わぬ者も出てくる。
男の嫉妬は見苦しいが蒼紫ばかりがちやほやされるのが我慢ならず、
「若旦那はんはよぉ〜おモテになりますなぁ。こないだも帰りに『遅なりましたし、送ってくださいませんか』なんて言われて。うちらこれまでそんなん一度も言われたことありませんわ」
葵屋にまでやって来て、ねちねちと言い始める。
蒼紫にとってはいい迷惑であったが、"付き合い"というのもあり煩わしいと感じつつも角が立たないように返事をしていた。
だが、こういう時に限って目撃されたりするもので――物の見事に操に聞かれた。
これはマズイと蒼紫は思った。誤解を解いておかねば厄介なことになる。それ故に、お前が思っているようなことは何もないと告げようとした。だが、そこで妙な矜持が顔を出す。
自分は何もしていない。疑われて責められる覚えはない。つまり、"言い訳"などする必要はないのではないか。何も悪くないのに慌てるなど女々しい真似はしたくない。
御庭番衆で御頭まで務めた男だ。人並み以上の矜持はある。そう思う気持ちはわからぬではないが。
しかし、色恋というのはそういうことではない。たとえ己に非がなかろうが、"好き"故に感じる"嫉妬心"を上手に安心させてやるのも大事なことだ。たった一言、「何もない」と言えばいい。だが蒼紫は「俺を信じておらんのか」と怠った。結果、予想していた通り"厄介なこと"になっている。
ここ三日ばかり、操と口を聞いていない。
操が蒼紫の傍に寄ってくることがなくなったからだ。
女学校から帰っても部屋にやってくることもなければ、蒼紫が外出するときに見送りにくることもないし、好き好きと抱きついてくることなどまったく。そうなってみて初めて、蒼紫は"後悔"したが。
しかし――それ以上に"俺は何も悪くない"と子どもじみた意固地さが強い。
普段あれほど冷静沈着で聡明な男とは思えぬ意地の張り方だった。いい年をした大の男のすることかという態度で均衡状態が続いている。
その日もまた寄り合いであった。
夕刻前、ぼちぼち出かけねばならないと蒼紫は翁の部屋に挨拶に向かった。さすれば先客がいる。別に堂々と己も入れば良いのだが躊躇って、部屋の前で足を止めた。
先客とは操である。
ここしばらくまともに話をしていない。普段が普段なだけに当然、店の者、特に翁は気付いている。その状態でからかい好きの翁と操と三人となる。あまり好ましい状況とはいえない。それ故に躊躇したわけだが。
翁と操は底抜けに明るい二人だ。共にいるときは陽気な声が聞こえてくるはずが今日はしない。妙に思いながら、ここで立っていても仕方ないと覚悟して障子に手を掛けようとしたが、
「ねぇ、じいや。やっぱり私、蒼紫さまと夫婦になるのは無理なんじゃないかなって思うの」
動きが止まる。
思ってもいないことだった。――否、操の自分への想いが恋慕ではないかもしれない。幼き頃から蒼紫を慕う操であったが、果たしてそれが恋心と呼べるものなのか。操にとって自分は男として存在しているのか。正直、違うのではないかと疑って、操がその事実に気付いて自分を追いかけることをやめるかもしれないと"考えた"ことは幾度かあった。
蒼紫が葵屋に身を寄せてからしばらく、操の熱烈な好き攻撃に応えずにいたのも、恋に恋する少女の時代が過ぎてしまえば、ころりと自分のことなど忘れて本当に好いた男が出来るだろうと思ったからだ。それは寂しいことではあったが、操には光の元を堂々と歩ける男と、晴れ晴れとした幸せを手にしてほしい。幼い身を葵屋に預けた時から蒼紫自身が願った操の未来。それが叶うならば己の心の寂しさなどたいしたものではないと考えた。
考えたが――しかし、操は蒼紫への気持ちを僅かも揺るがすことはなかった。されば一心に自分を慕う姿に蒼紫の心は少しずつ変化する。そもそも蒼紫の方でも操を憎からず――というよりも己の人生に置いてかけがえのない者であると感じていた。もっと言うならば、操の気持ちが恋慕ではないかもしれぬと考えはしても、そうでなければよいと思ったことはない。けして表だって言動で示したことはないが、本音では蒼紫とて操を好いていた。
ただ己の過去が。蒼紫には消えようもない罪がある。そんな自分が果たして操に手を伸ばしてよいものか。後ろめたさが二の足を踏ませるが――それでもついに夫婦になると決めたのだ。
それが今になってまさか操が己と夫婦になりたくないと言い出すなど。それは確かに"思ってもみない"、"思いたくはなかった"ことであった。
目の前が真っ赤に染まる。
血が逆流するような、なんとも味わったことのない感情が滾るが。それでも持ち前の冷静さでどうにかそれを押さえこむ。さすれば、中では会話が更に進んでいる。
「……なんじゃ、藪から棒に。まぁ、どうしても嫌だというなら無理強いすることもできまいが……お前はホントにそれでよいのか。蒼紫を嫌いになったわけではないのだろう」
「嫌いになんてなるわけないでしょ」
すかさず否定する。それはどうしても譲れない一線であるように操は強い口調で言った。
嫌いになったわけではない――ならば、何故そのようなことを口にするのか。今すぐにでも障子を開けて問いただしたいような、しかし、聞くのが恐ろしいような。いずれにせよ蒼紫は先程襲われた強い衝撃から立ち直り切れず、身動きはとれずにいた。
「嫌いじゃないなら、なんじゃ」
「……それは、」
「それは?」
「だって辛いんだもの」
そう言うと、操は緊張の糸が切れたのか、饒舌に話し始める。
「蒼紫さまモテるでしょ。それはね、仕方ないって思うの。蒼紫さまが望んでそうなってるわけじゃないってこともわかってるし。けどね、わかってても嫉妬しちゃうし、疑っちゃうの。そんな風に思っちゃうことが情けないし、辛いし。でもね、蒼紫さまと夫婦になるってことはずっとこういうことが起き続けるってことなんだなぁって。私、こんなんでやっていけるかなぁ。って。きっとね、こんなこと繰り返してたら、蒼紫さまだって鬱陶しいって思うよ。男の人はそういうの嫌だって思うんでしょ? 学校の友だちが言ってた。嫉妬深い女は愛想尽かされるって。蒼紫さまに嫌われたくないよ。そんなこと考えただけで辛い。だから嫉妬しないように、普通にしようって思って頑張ってたんだけど、蒼紫さまの顔を見るとむくむくと蘇ってくるの。嫉妬しないでいようと思っても出来ないんだよ。だから、」
「だから夫婦になるのをやめると……操。それはちと話が飛び過ぎと言うものではないかの」
翁は半ば呆れたように、少しだけ同情的に言った。
蒼紫もまったく同意する。
言う通り、嫉妬深い女はいかがなものかと思うが、操が嫉妬することに関して蒼紫は一度たりとも疎ましいと思ったことはない。それを怒ったり無視するという形で表現されるのは痛手であるが、嫉妬そのものに対しては自分のことを好いてくれているからと思えば嬉しくさえあった。それを操本人は蒼紫に嫌われる要因であると切に悩んでおり、嫉妬を見せないために蒼紫を避け近寄らずにいたとは。てっきり責める気持ちからそうしていると真逆の解釈をしていたのだ。
事実がわかってしまえば、途端に蒼紫は己の大人げない振る舞いが恥ずかしくなる。すぐにでも一言二言告げていれば済んだ話を「夫婦になるのは無理かもしれぬ」との不安を操に口にさせるまでに発展させたのだ。
「まぁ、あれじゃな。それはいわゆる"まりっじぶるー"というやつじゃな」
翁は落ち込む操を励ますためだろう、明るい声で告げた。
「なにそれ?」
「婚儀前の娘がかかる病じゃ。あまり考え込むな。お前のない知恵を絞ったところでろくなことになはらん」
「……ってじいや、それひどくない?」
操の咎めるような声に、いつもの高笑いがする。そして
「とかく、操よ。物事を早急に決めるのは愚かなことじゃ。のう。お前の不安など消えることが起きるかもしれんし」
蒼紫は意識してそうしているわけではなかったが、癖というものか普通に立っていても気配を消してしまう。だが、神経を研ぎ澄ませてしているわけではないから、実力者の翁には蒼紫が障子越しにいることはわかっているのだろう。その台詞は、操にというよりも蒼紫に「どうにかせいよ」ということであったが。
ひとまずは翁がこの場をとりなしてくれるようだが、確かにこれは蒼紫と操の問題である。どうするか。
しかし時間切れだった。
葵屋の若旦那としての務めがある。操のことは大変気がかりではあるが、後ろ髪引かれながらもその場をそっと離れて会合に赴いた。
◇◆◇
夜。布団に入っても操は寝つけずにぼんやりと天井を眺めていた。
ここのところ胸の奥に広がるもやもやとした気持ちを、翁に聞いてもらった。
「蒼紫さまと夫婦になるのは無理かもしれない」
言葉にしてみると思いのほか操自身を傷つけた。自分で言っておきながら、悲しくて辛くてたまらなくて、それなのにその思いは消えてくれなかった。
蒼紫の傍に女性が近寄ることに悋気を感じる。それはもうずっと。夫婦となると決めるより前からのことだ。当時は、蒼紫が自分ではない人と結ばれるのではないかと嫉妬していた。それで蒼紫が幸せになるならば祝わなければならないと頭ではわかっていても、心が納得出来ない。どうしても嫌だと嫉妬した。
だが今は――蒼紫は操と夫婦になると言ってくれている。他の誰でもなく操と。それなのにまだ他の女性に嫉妬している。そして、それは以前よりもどす黒いものであった。普通に考えれば妙なことである。思いが通じ合わなかった頃より、思いが通じ合った今の方が強い嫉妬を感じるなど。
だが、理屈ではなかった。
押し寄せる強い衝動。
自分を相手にしてくれないと思っていた頃の悋気は、蒼紫が違う人と結ばれるのを嫌だと思いながらも仕方ないと諦める隙間が僅かにでも存在していたのだ。だが、自分を見てくれた今は、その後で誰か別の人へ心変わりがあったら――そんなことは堪えられなかった。一度手に入れたものを失う。そうなったらどうしよう。後ろ暗い気持ちばかりが溢れ出る。
どうして夫婦になれることが嬉しいと思う気持ちだけを持てないのか。これほど不安を感じるのか。
そう、これは全て"不安"である。
結局のところ、操はいまいち蒼紫の気持ちを掴みかねていたのだ。
蒼紫は操に優しい。話を聞いてくれるし、相談事をすれば的確な答えをくれる。操がひっついていけば受け入れてくれる。ただ、蒼紫からというのはない。昔も、夫婦となると決めてからも。"何も変わらない"のである。本当に蒼紫は自分を好いてくれているのか。操は自信が持てない。
その不安を煽るのが女学校での級友との話だった。
女学校に通うようになって同じ年の友人が増えた。嬉しいことであり、おかげでようやく娘らしい時間を持った。しかし、女子が集まり"恋愛話"となれば、中にはいかに自分は好かれているのかを誇張して話す者もいる。あれをしてくれた、これをしてくれた、好かれているから尽くしてくれるの、と盛大に言ってのける。話半分に聞き流すのが通常だが、操はとかく素直な娘だ。また操自身に自分を良く見せようとする気持ちはないため、相手のそのような気持ちを理解できず、そんなことがあるなど思いもしない。話を額面通りに受けとめてしまう。そして、好かれていると男の人はこれほど熱烈になるものなのかと思う。さすれば、自分の身のことをつい考えてしまうのも自然な話。
だが、蒼紫は少しも話に聞くような態度をとってはくれない。
操とて蒼紫の性格は心得ているつもりだ。あまり感情を出さないし、無口で余計なことも言わない。ましてや常人の身には降りかかることないような深い悲しみを味わい、己の身を責め立てている。のんきに恋愛を楽しむような心情になれるはずがない。それを思えば自分と夫婦になると言ってくれただけでも奇跡のようなものだ。十分ではないかと思う。わかってはいる。それでも、やはり心の内で蠢くものが。わずかでも自分を好いてくれると思える行動がないかと、何かしら変化したところはないかと執拗になり、しかし"ない"となるとガックリと頭を垂れて、不安を募らせていく。
まったく愚かといえば愚かだ。ただ、仕方ない面もある。なにせ、操にとっては初恋で、何が正しくて何が間違っているかもよくわからない状態だ。そうでなくとも子どもがそのまま成長したような無邪気さでこれまで生きてきて、近頃ようやく"娘"としてあれやこれやと心が成長し始めたのだ。
しかし、それはよいものばかりではなかった。"女"特有の粘着質な面や、或いはどろどろとした感情も知り始める。再会できることをただ願っていた頃とはもう違う。あの頃はあの頃で辛くあり、会って傍にいられたらどれほど幸せかと思ったが、傍にいられればいられたで今度は別の苦しみが生まれる。それが人の常である。しかし、操にとってそれらは受け入れがたいものであり、自分がどんどん欲深くみっともなくなっていく気がしておそろしい。どう対処してよいかわからず、陽気に楽しく蒼紫を”好き"と言えていた頃に戻りたいと願う。だが、それは無理な話であるし、"娘"として"女"として生まれてくる感情はけして卑下するようなものではないのだ。とはいえ急激に変化し始めたことに戸惑うなと言う方が無理であったが。
操から盛大なため息が漏れる。
――"まりっじぶるー"かぁ。
翁に言われた言葉を思い出す。
婚儀前の娘は、誰しもがかかる病だと言われた。本当にこの人と結婚してよいのか。不安と迷いに襲われてしまうと聞かされた。
それから、あまり考えるなとも。
『ない知恵絞ってもろくなことにならん』
あんまりな言い方ではあったけれど、そうかもしれない。
何より「蒼紫さまが好き」――間違いのない気持ちである。それだけを大事にしていればよいのかもしれない。不安や恐怖に負けて、最も大事な、これまでずっと守り続けてきた気持ちを手放してはいけない気がする。
操はもう一度息を吐き、静かに目を閉じた。
◇◆◇
遅くなった。
酒の席は好まぬが仕事の一環と思えば堪えるしかない。出掛けに聞いた操の言葉が気がかりであったが"葵屋の若旦那"の務めを果たし――ようやく解散となった頃、辺りはすっかり夜に包まれていた。月明かりがあるといえ暗い道を提灯の火を頼りに歩く。
それが、蒼紫には奇妙なことのように感じられた。
若い頃の自分は闇に紛れて仕事をした。己の姿が消えてしまう深遠な夜が居場所であり光など無縁であったが、今は提灯を手にして歩いている。平穏すぎる。それは、物理的なことに限ってではなく、心の方もであった。
考えるのは操のことだ。
「妬くな。俺にはお前だけだ」
そう言ってしまえば話は済んだ。蒼紫の本心なのだから正直に告げればよかったが出来なかった。そのような恥ずかしい台詞は言えぬ。俺は悪くない、疑うな。と黙った。おそろしく子どもである。
操相手にむきになり子どもっぽい態度を示す。他の者にはけしてしないであろう振る舞いをよりにもよって最も慈しみたいと考えている者にしてしまうなどどうかしている。しかし、頭ではわかるが意地を張る自分がいる。己に非がないのに、女子の機嫌をとるなどみっともないからしないと固執したが。しかし、蒼紫とて操を女として甘やかしたい欲求がないわけではなかった。
ならば、何故行動せずにいたか。
――情けないものだな。
蒼紫は足を止め、提灯の火へ見るともなしに視線を注ぐ。明るいその光が、己の足元を照らしてくれるその光が、操の顔と重なる。されば溢れ出て来る思い。
蒼紫は己の気持ちのままに行動へ移せぬのは矜持や照れであると考えていたが、どうやら違うらしいと。周到に隠れ潜んでいた感情にようやく気付く。それは――"俺がそんな甘やかな時間を持つことなど許されるはずがない"という過去からの戒めだ。
"あれだけ"のことがあったのだから、早々に過去を過去として思えるはずはなく生涯引きうけて行かねばならぬ罪もある。操と夫婦となると決めた今も、心根の奥深くには己が光を手にして良いのかとの迷いが。それ故に生じる躊躇。愛する者を慈しみたいと思えど、そんなことしてはいけないと、最後の一歩を踏み出せない。
否、もちろん持って生まれた性分というものはあり、たとえ血濡れた過去がなかったにせよ蒼紫は甘言をすらすら口にする性質ではない。それでも人である以上、時に甘やかさに身を置きたくなることがある。また言うべき時も。それを頑なに拒否していたのは単なる照れや矜持ではなかった。否"男は女子の機嫌などとらぬ"と――そのような気持ちもないわけではないが、それ以上に蒼紫を留めさせるのは"俺が女子と戯れて良いわけがない"と己を罰する感情であった。
それ故に、夫婦となると決めてもそれだけ。蒼紫の心の内にはこれまで以上に操を思う感情――大事な人としてではなく、愛しい娘としての気持ちが溢れているにせよ伝えてることはしなかった。一切。
俺は本当に操と共にいてよいのか。
手にした提灯を今度はしかと見つめる。
なければないで歩けたはずが、今は夜道を歩く時には必ず携える。失えば心許なく感じてしまう。それを弱いと嘲笑うことは簡単だが、蒼紫が望むのは己を嘲ることではない。
大きく息を吐き進む先を真っ直ぐ見据えると提灯を持つ手に力を込めて歩き出した。
◇◆◇
眠れない。
操は基本的に快眠体質であり、寝て起きれば嫌なことは忘れられるため、こんな時は寝るに限ると早々に床に就いたがうまく眠れず完全に目が覚めてしまった。
理由はわかっている――蒼紫が寄り合から戻って来ていないこと。
「若旦那はんはよぉ〜おモテになりますなぁ。こないだも帰りに『遅なりましたし、送ってくださいませんか』なんて言われて。うちらこれまでそんなん一度も言われたことありませんわ」
先日、偶然聞いてしまった話が頭から離れない。
女の夜道歩きは危険である。まして蒼紫は優しい。断って万一の事があればと考えると尚更、頼まれて嫌とは言わないだろう。蒼紫のそういうところを操は尊敬しているし自慢に思っていた。かつては。否、今もそれは変わらないが、ただそれだけに留まらなくなったのである。
夜の静かな道を二人して歩いているうちに、美しい芸妓の姿にふっと心揺れることがあるかもしれない。想像し、気持ちが落ち着かない。もうそのような妄想はするまいとつい数時間前に誓ったはずが、しかし考えてしまうものは仕方ない。
どうしても眠れず、操は部屋を出た。
音をたてぬようにそろりそろりと廊下を歩き、辿りついたのは蒼紫の部屋だ。主のいない部屋へ無断で入るわけにもいかない。幼き頃は、何も考えず、いないとわかっても我が物顔で入っていき、蒼紫の布団で勝手に眠ったこともあったが今はそんな真似は出来ない。それでは、何をしにここへきたのか。まだ帰って来ていないとわかっていたはずが。操自身、理解できない。ただ、じっとしていることが出来ずに突き動かされるようにしてきたのだ。
――早く帰って来て。
祈るように目を閉じて襖の前で願えば、
「――操。」
声が。はっとなって振り返る。そこには今まさに、早く帰って来てほしいと思っていた人がいる。背の高い蒼紫の顔を見るには小柄な操は見上げねばならず、振り向いただけでは視界に入るのは胸元だったが、それでも蒼紫であるとわかる。
「あっ、おかえりなさい」
驚きながらも操は目線を上げずに言った。さすれば「ああ」と短い返事。声音は静かでいつもと変わらない。操がここにいることをどのように思っているか汲みとることは出来ない。
顔を見ればわかるだろうか。操は思えど視線を合わせる勇気が出ない。
勝手な想像で蒼紫のことを疑っていた。後ろめたさが。
ぎくしゃくとした空気がたまらず俯いたままでじっとしていると、
「待っていたのか」
蒼紫が言った。それを合図に操はゆっくりと視線をあげた。長い前髪に隠れてはいるが蒼紫の目も操を射抜くように捕えている。
「何か心配事でもあったか」
その言葉もまた操を射抜く。
ナニカシンパイゴトデモアッタカ。
自分の浅ましい想像を見透かされているような、疑って悶々とし我慢できずに部屋の前で待ち伏せしていたのかと咎められているような――"気がした"。蒼紫の声は穏やかで責める色合いなど微塵もないしどちらかといえば優しげな雰囲気だったが、操の方にやましさがあったものだから青ざめて、
「あの、えっと、あの、蒼紫さま、芸妓さんを送ってきたの? だからこんな遅く……ってあのあれだよ、蒼紫さまを疑ってるわけじゃないよ。そうじゃない。嫉妬とかそういうんじゃないの。ただ、あの、帰りが遅いなって。そう、その、心配してて。……って別にそんなの心配しなくても蒼紫さまなら夜道を一人で歩いても大丈夫だよね。心配なんて全然することないよね。私、あの、だから、」
しどろもどろ支離滅裂な言葉だった。素直とはこのような場合に仇となる。"心配事"があったかと問われ、それは操の身に困ったことがあるのかとそういう解釈も出来るのに、操は蒼紫の心変わりを心配していると早口にまくしたてる。墓穴を掘っている。ただ、動揺している操にはそのようなことを考える余裕はない。
――何してるんだろう。
どうしようもなさが嫌になる。もう早く逃げ出したくて、
「じゃあ、あの……おやすみなさい」
そして踵を返したが。
体がふわりと軽くなる。
――え?
その身は蒼紫によって軽々と抱えられている。
――ええ?
何故そのようなことになるのか、さっぱり理解できず混乱が極まる操に、
「逃げるな」
手短に告げられた。
◇◆◇
「あの……蒼紫さま……」
蚊の鳴くような声で呼びかけられる。
「なんだ」
問えば
「……ごめんなさい」
謝りが。蒼紫は謝ってほしいわけでもないし、また謝られる覚えもないのだが、操としてはこの状況をどうしていいかわからないのだろう。
この状況――今現在二人は、蒼紫の部屋で敷かれた布団の上にいる。それも操は蒼紫の膝の上に横抱きにされている格好である。抱かれていると言うか、捕えられていると言うか。
つい先程、寄り合いから戻った蒼紫は自室の前で操を見つけた。帰りを待っていたと知る。
先日の会話を聞かれていたから寄り合いに行くとなればいらぬ心配をさせるかもしれぬとは想像できたが、部屋の前で待っているとまでは思わなかった。
帰る道すがら、早いところ操の心持ちを晴らしてやりたいと考えたが、すでに眠っているだろう。朝は何かと忙しく悠長に話をする時間はない。さすれば女学校から帰ってくるまで話せない。それまで悩ませているのは本意ではないが、それぞれに務めがある。おろそかにさせるわけにもいくまい。時を待つしかないと考えていた蒼紫には操の出迎えは都合が良かった。このまま話してしまおうと声をかける。
しかし、蒼紫の姿を認めると操は戸惑い落ち着きを失った。一言、二言尋ねるも、この場を去りたいという態度が見てとれる。
蒼紫にとって一番の痛手は、操に拒否されることである。
そうでなくともここしばらくまともに顔を合わせていないのだ。
操にも操の想いがあり、いろいろ考えて辛くなっているため蒼紫に対して狼狽えるのだと理解はしても、愉快なものではないわけで、とかく、操の想いよりも己の欲求不満を解消するかのようにまさに"逃げ出そう"と踵を返した操を衝動的に捕えて部屋に連れ込んだ。
だが、いざ捕まえてしまうと、蒼紫自身もどうしてよいかわからない。本来、冷静沈着で考えなしで行動する性質ではなく、思惑なくとりあえず捕まえた現状に困り果てていた。そこに、操の謝罪であった。
「お前が謝らねばならぬことなどなかろう」
どちらかというと無体な真似をしている自分の方こそ謝るべきである。とまでは言わないし、それで操の身を離す素振りもなく抱えたままだが。
「で、でも、蒼紫さま怒っているでしょ」
その言葉もわからない。
「怒ってなどおらん」
怒っているならこのように抱きかかえて膝に乗っけたりはしない。とやはりそれも言葉にはならない。
「けど……私は蒼紫さまのことを疑ってたし」
「疑ったのではなく悋気だろう」
言って、自分で言葉にするような内容ではないなと少しばかり恥ずかしくなったが、聞かされた操も恥ずかしいらしい。灯りはつけておらず、障子越しに月明かりがわずかに差し込む程度であったが、夜目に強い蒼紫にはその差異が見てとれる。
朱に染まる頬にそっと触れると操は体を揺らす。
「だけど、嫉妬深い女は愛想尽かされるって学校の友だちが……」
そう言えば翁にも同じようなことを口にしていたな、と頭を過る。女学校に通うようになって女らしくなったし、年頃の娘らしい感覚を持つようになったが、良い面ばかりではないのだな。蒼紫は思う。物事とはそういうものだが操は知り始めた恋心に戸惑い、わからぬ故に自信のなさから友人の言葉を鵜呑みにするのだろう。それは理解出来たが。
「悋気ぐらいで愛想をつかしたりはせんが」
「……でも、面白くないでしょ。疑われるのなんて絶対面白くないよ。私は嫌だよ。蒼紫さまのこと信じられない自分も、嫉妬して落ち込む自分も。ただ好きでいられた頃に戻りたい」
「それで俺と夫婦になるのをやめると言ったのか」
蒼紫は少しばかり責めるように語気を強めて言った。操は大きな目を見開く。
「立ち聞きするつもりはなかったが、翁と話しているところを耳にした」
まさか聞かれていたとは――操もあれは本音で言ったわけではなかった。鬱屈とした気持ちをたまりかねて出た弱音であった。それを蒼紫本人に聞かれていたとは思わず。ただ、もう、聞かれていたなら仕方ないと妙に開き直る気持ちが。そもそもいろいろとわけがわからない現状である。何かが切れてしまったかのように、
「そうだよ」
引っ込みがつかず勢いに任せて告げれば蒼紫の眉間に皺が寄る。
「それで俺と夫婦になるのをやめてどうする。お前も俺もそれぞれ別の相手を見つけて夫婦になるとでもいうのか」
蒼紫の方もまた勢いに任せて告げる。売り言葉に買い言葉である。こんな時こそ冷静さを保てなくてどうするのか。だがやはり操に関してはどうしても普段の蒼紫とは違ってしまうようで、感情が先走る。しかし――蒼紫の発した言葉に、操はついに泣きだした。
泣かれてしまえば、冷や水を浴びせられたように我に返る。
「嫌だよ、そんなの。どうしてそんなひどいこと言うの?」
咎めるように告げられる。
先に酷いことを言ったのはお前の方だろう。とは言い返せず、
「操。」
出るのは宥めるような呼びかけである。
操は涙が止まらずに両手で顔を押さえる。すると、操の頬に触れていた蒼紫の手は宙に浮く。手持無沙汰となったそれをどうしていいか困っていると、
「蒼紫さまが他の人と夫婦になるなんて嫌だ」
「ああ」
「そんなの嫌だ」
「ああ、そうだな。俺もお前以外を娶る気はさらさらない」
どさくさにまぎれて言ってしまえば、操は両手を離して蒼紫を見る。
涙で濡れた目は普段の様子と少しばかり趣が違う。眼差しを受けて雷が落ちたような、背中にビリっとした一筋の痺れが走った。甘い疼き。蒼紫はもう一度己の手で操の顔に触れた。
◇◆◇
心臓がとくりと大きく脈打つ。
他の女を娶る気はない――告げられた言葉に思わず顔をあげて蒼紫を見る。いつもの真っ直ぐな強い眼差しがあった。だがそれがふいに色を変える。見たことのない暗さを宿しており操は息を飲んだ。
暗さは冷酷なものではない。熱を帯びて焼き尽くすような貪欲さである。
何を意味するのか操にも理解出来た。ただ、それが自分に向けられることが不思議に思えた。
そして、氷解していくのは操自身の不可解な感情の正体。
操は不安に襲われ心が揺れていた。
不安。確かに不安に思っている。しかし、"何に"なのか。
蒼紫が他の人を好きになるかもしれない――それも操の勝手な想像でしかない。現実に起きた出来事ではない。だが、考えてしまう。そんな自分がひどく嫌だった。不安などなく好きでいられた時があったのに。もう一度会いたくて日本全国を探した頃はこんな不安を感じなかったのに。もうあの頃の自分と今の自分は違う。悲しかった。蒼紫が傍にいてくれる。一番の願いが叶っているのに。それでも心は不安でいっぱいになる。何が自分を変えてしまったのだろうか。
――蒼紫さまに好かれたい。
操が蒼紫を好きであるように、蒼紫にも自分を好きになってほしい。そう願うようになってしまったからか。否、だがそれも叶っている。蒼紫は操と"夫婦になる"と言い"好いてくれている"のである。それでもまだある不安。
一体何がそれほど不安なのか。
わからずにいた。わかろうとしなかった。わかりたくなかったのだ。
"好き"という言葉に集約される感情は言葉よりも複雑だった。
操は蒼紫を尊敬し慕っていたが、それは男女の間に生まれる"好き"とは少し違う。そこに"恋慕"という"女として求められたい"という情欲を持ち始めてしまったのだ。しかし操はその気持ちと上手く付き合えずにいた。それはひどく恐ろしいものであるような、捕まってしまってはいけないような。
自信がなかったのだ。
自分は"女"として果たして蒼紫に愛されるのか。実際、蒼紫の態度は相変わらずで、夫婦となると決めてからでさえ操を"女"と見るような素振りない。蒼紫の操を"好き"という気持ちは操が蒼紫を慕っていたのと同様のものでしかないのかもしれない。自分が抱いてしまった男女としての欲はない。自分だけが望んでいる。自分だけがこの欲深な感情を持っている。それが恐ろしくてねじ伏せてきたが。
今、目の前にいる蒼紫から香るのは疑いようのない男の猛々しさだった。さすればそれに引きずられるように、
――"この人が、欲しい。"
長らく押し込めていた心が炙り出る。
しかし、浮かんだ言葉を、瞬時に操は奥底へ鎮めようとする。不慣れなそれが恥ずかしくてたまらず、蒼紫から目をそらせようとしたが。
「操。」
蒼紫も操に宿ったそれを見逃さなかった。
呼びかけに、操は身を固くして動けなくなる。すると、また、
「操。」
気の利いた言葉の一つも言えず蒼紫が熱に浮かされて口にするのは操の名だ。だがいかな言葉より切なく深く心へ染み込んで届く。
そして――奪うように口づけが。
蒼紫は体温が低くひんやりとしているが、唇は温かく溶けだしてしまいそうで、操は自分に向けられたあらゆる感情が正確に体に流れ込むように感じられた。
されば、ふいと込み上げてくる気持ち。
それは泣きだしたくなるような不可思議な気持ちであった。悲しいとも嬉しいとも違う。なんとも説明しようのないこれが。
触れては離れ、離れては触れ、繰り返される口づけをじっと受けていたが、操は頬に触れていた大きな手に自分の手を重ねる。それから少し手首の方にずらすと僅かにだが力を込めた。
蒼紫は動きをとめる。ゆっくりと唇が離れ端正な顔がある。これほど近くで見つめ合ったことはない。
蒼紫の瞳は揺れていた。
頼りなげな姿は操がよく知る人物とは別人に見える。操の手に込められた力に、拒絶を感じたように不安げだがそれでも距離をとろうとはせず、息がかかるほどの近くでじっと様子を伺っている。その熱が痛ましいほど切実で――操は何処にも行かないでと重ねた手にぎゅっと力を込める。すると、意図を理解してか、或いは押さえきれなかったのか、蒼紫の唇がもう一度操に触れる。ふっと掠める程度のものですぐに離れたが――しかし、離れて行く距離の分を今度は操が追いかける。蒼紫にとっては予期せぬ行動であったが、驚くよりも追いすがるように重ねられた甘い感触に己の熱が上がり、すっと身を引こうとする操にまた蒼紫が距離を詰める。そうして再開された口づけ。
僅かに唇が離れる隙間に、
「好き」
操の口からこぼれ出る。
これまでも数限りなく繰り返してきたはずの言葉であったが、まるで初めて告げるような感覚に陥る。それは操自身がよくよく。居心地の良い、楽しく、うきうきする柔らかいものとは全く違う。今まで感じていた気持ちとは質の異なるものだ。そしてこれが――"好き"というものだと知る。
"慕う"という感情の延長線にある"好き"とは違う"好き"。
欲深く、何かもを奪い尽くしたいという衝動。けして綺麗でも美しくもましてや優しくもない。こんな感情を解放してよいのか。到底受け入れられぬと、だからこそ奥底へ押さえこもうとしてきた。
だがそれは、けして否定する感情ではなかったのだ。
惹かれ合う男女ならば情欲は自然と存在する。厄介だったのは、蒼紫と操の間にはそれより前にもっと大きな絆が存在してしまったこと。男と女として蜜月を持った後で、ゆるりと穏やかな愛情に変わっていく過程を、しかし二人には先にそれが存在した。故に、相手の何もかもを自分のものにしたいという己の欲を、そうやって相手を求めることを、躊躇った。よくないものに"堕ちて行く"気がして、それを見せれば大事にしてきたものが壊れてしまう気がして隠した。
だが、蒼紫と操は親子でもなければ兄妹でもない。そんな風な結びつきをしてきたが、環境がそうさせてはいたが、そして"家族"という絆はそれはそれで尊いものであったが、男と女としての関わりも――互いに求めていた。それが、ようやく。
操の手が動く。抱きつくように蒼紫の首筋に腕を絡めれば、蒼紫の腕もまた操の頬を離れ細い腰を引き寄せる。弱さゆえか、臆病ゆえか、今一歩のところですれ違う最後の一線が溶け合っていく。
その夜、正真正銘、二人は身も心も結ばれた。
うっすらと目を開ければ、辺りは暗いとも明るいともつかない。夜から朝に変わる狭間のまどろみのような時間帯だろうか。
背後に気配を感じる。髪を――神経のないものだったが弄ぶように触れられているのが分かる。
振り返ろうか、もう少しこのままでいようか。目覚めたばかりのまだ上手く機能していない頭で考えるのはそのようなことだった。しかし、操が決めるより前に、
「起きたか」
声が降ってくる。声の主は操の目覚めを察して髪に触れるのをやめるかと思われたが、やめたのは遠慮がちな態度の方で仕草は大胆になる。ゆっくりとした動作ではあったが、髪を撫でる指先が時折頬に、首筋にと触れた。操はくすぐったくて笑いをこらえるが、それでも執拗だ。言葉には出さないけれど振り返ることを催促しているように感じ、観念して動く。
操が振りかえると、蒼紫は満足したのか手を止めて、代わりに振り向く時にずれた掛け布団を寒くないようにと引っ張り上げ、そのまま己の手は布団から出してふわりと操の体の上に置いた。
すべてが終わった後、気だるさに襲われてうつらうつらとする操の身の仕度を整えてくれたのも、また蒼紫であった。起きてあられもない姿のままであったら、おそらく操は動揺していたはずが、細やかな配慮により、あれは現実だったのか夢だったのか曖昧でそれ故に落ち着いている面もある。ただ、前にする蒼紫の表情を見て、何もかもが本当であると得心した。
さすれば、操は笑う。笑うよりほかには何も出来ず。ただ、その笑みも満面の笑顔を浮かべ大きな声を出す元気なものとは違い、娘らしい恥じらいと、目の前の相手に対する膨れ上がる愛おしさと、それをどう表現すればよいかわからぬ躊躇いと、これまでの操にはなかった笑みだった。
「体は――辛くはないか」
問われる。
操は答えるかわりに、手を伸ばし先程の仕返しとばかりに蒼紫の髪に触れた。
「癖がついてる」
長い前髪は言うように少しはねていた。蒼紫のそのような姿を見るのは初めてだ。幼き頃に一緒の布団で眠ったことは幾度もあったが、操が目覚めるといつも"しゃん"とした姿だった。起きて蒼紫の姿がないと大泣きする操のために、操が起きる頃、再び床に入って"一緒に起きたふり"をしていただけで、実は先に起きてすっかり身支度を整えている。だから蒼紫の本当の寝起きの姿を操は一度も見たことがなかったが、今は。
「ずっと、」
ここにいてくれたの。と最後までは言えなかったが蒼紫は理解した。
「ああ、ずっと触れていた」
操の眠りを妨げぬようにとそっと髪に触れていたと。
どこにも行かず。操が目を覚ますまで。傍で。
「少し眠ったほうがいいよ」
蒼紫の体を心配して操は告げた。生真面目な蒼紫のこと己の仕事をさぼるような真似はしない。今日もいつものように業務をこなすだろう。もうじき、朝が明けてしまえば忙しくなる。操もまた女学校へ行って勉強せねばならない。こんな日でも――否、こんな日だからこそ普通の振る舞いをする。
「惜しくてな」
蒼紫は情けなさそうに告げる。
操は言葉の意味があまりよくわからない。蒼紫はふと笑う。
「寝て起きれば全てが夢だったとならぬかと。ならば眠らずともよいと思った」
素直な言葉であったが、操は少しだけ驚いた。普段の蒼紫らしからぬ様子に。それから、平気で眠ってしまった自分を思えばなんとなく後ろめたい。操よりも蒼紫の方がずっと"ろまんちすと"なのだと悔しくもある。
「じゃあ、今度は私が起きているよ。起きて見てる。夢じゃないように。それなら安心でしょ?」
「そうか」
ならば、そうしよう――と告げると、操の体の上に置いていた腕に力が入り、ぐっと掛け布団ごと広い胸に抱き込まれる。息も出来のほど密着して、それには操は悲鳴を上げる。
「ちょ、苦しいよ」
「お前の見張りだけでは心配だからな」
「え?」
「こうしていれば消えてしまうことはないだろう。その方が安心だ」
「……それってひどくない?」
言いながらも笑い合う。
何かが確かに変わった新しい朝であった。
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