恋愛初学者。シリーズ

執心

 温もりが、消えた。
 暗がりの中を動く姿。起き上がり身を整えているのがわかる。寒かったのだろうか。春が近づきつつあるといえ昨夜は冷えた。それ故に眠れずに目が覚めてしまったのだろうか。もう少し強く抱きしめていればよかったと、いくばくか後悔していたが――整え終わっても操は横になろうとはせず、それどころか床から出て行こうとするのが伺えて、
「操。」
 名を呼ぶと、驚いたように肩を震わせて、それからゆっくりとこちらを振り返る。
「どうした」
 と俺は横になったまま手を伸ばし促す。こちらへ、と。この腕の中へ。しかし、操は立ち上がることはやめたが飛び込んでくることもなかった。ただ静かに俺の手を取るときゅっと握る。さすれば俺はどうしようもない痛ましさに襲われた。
 ここのところ操の様子がおかしい。
 夜毎、逢瀬を交わすようになってからしばらくは変わらずにいたが、二週間ほど前から少しずつ。隠しているようだったが憂いが。
 体が辛いのだろうか。無体な抱き方はしているつもりなかったが、華奢な身には負担であったか。だがそれでも俺にはやめるという選択肢が浮かばなかった。していたのはただひたすら丁寧に触れることだ。痛みがないよう、苦しみがないよう、出来る限り優しく触れた。しかし――操の態度は堅さを増していく。抱き合っている時こそ全てを委ねてくれるが、否、それも俺の思い込みだったのかもしれない。夢中に求める熱が、操もまたそうであったほしいとの願望が、俺から真実を隠していただけではなかったか。その肌に執心する俺を操はいかに受けとめていたのか。
「あ、のね。自分の部屋に戻るよ。なんだか今日は疲れちゃったからゆっくり眠りたいなぁって……でも蒼紫さま、朝は早いでしょう。だから、その……」
 操が早口になるときは嘘をついているか、後ろめたさがあるか。いずれにせよあまりよろしくない感情を抱いている時だ。
 一体何を思っているのか。
 このまま「そうか」と見過ごす気はなかった。
 操に握られた手に力を込めて、俺も身を起こす。
 床の上で向かい合って座ると奇妙な気持ちになる。去年の今頃では考えられなかった。そして幸せだと。そのような言葉が自然と心に浮かぶようになった己に驚きつつも悪くないと思っていたが。しかし、やはり俺には分不相応だったのか。手に入れた温もりを失いかけている。薄暗い部屋でも、操の困惑が伝い、俺の胸をざわつかせる。
 失うのだろうか。
 操を。
 俺は何を誤ったろうか。
 やはりまだ操には早すぎたか。
「俺に抱かれるのは嫌か」
 随分と直接的な言い方だが、腹の探り合いをする仲でもあるまいと告げる。焦っていたのかもしれない。わけのわからぬ状態に早急に蹴りをつけたい。恐れが、俺を急かす。
 操の体温が上がる。いくらなんでも露骨過ぎたか。しかし、
「ち、違うの。そういう、ことじゃなくて……」しどろもどろとではあったが否定する。それから「だからね、そういうことじゃなくて、さ、さっきも言ったけど、今日はゆっくり眠りたいから、その蒼紫さまの邪魔になったらいけないし……」
 操を邪魔になど思うはずがないが、だがそういうことではなく。
「嘘を言うな」
「嘘じゃないよ!」
 思いもよらず強く告げられる。操は大きな声を出したことにはっとなって俯いた。
「ならばなんだ。何故俺から離れて行こうとする」
 操はじっと動かない。
 ただ繋いだ手を離す素振りもない。それどころか、さらにぐっと握られる。離すまいとする俺に応えるようにも感じられた。しかし、交わされる会話と、室内をとりまくひんやりとした空気とに少しも見合っていない。互いに堅く握りあうその手だけが異質なものだ。どちらが本当か、わからなくなる。どちらを信じればよいのか。
「何処にも行くな」
 気弱さが口を出る。
 そして、俺は、初めて置いて行かれる身の辛さを知る。愛しい相手が目の前から消えてしまう。自分を置き去りにして傍からいなくなってしまう。それがこれほど心細いものだとは。ぐらぐらと己の何もかもが揺らぐ強い衝撃。
 さすれば、操はいかな気持ちになったろうか。
 思うのはそれだ。平穏を願い幼き操を葵屋に"預けた"が、操にとってそれは"置き去り"以外の何物でもなかったろう。追いすがることもできず、黙って消えた俺を恨んでもよかったはずが――そうはせず、それでも尚も俺を求めてくれた。
「ごめんなさい」
 それはいかな意味合いか。もう冷静に聞けない。
 俺は恨む。お前が俺を置いて去ると言うのなら、その身を恨むだろう。お前のように強くはなれぬと。心に浮かぶ禍々しきもの。
「ごめんなさい。蒼紫さまを嫌いになったわけじゃないの。ただ、時間がほしい」
「時間はやれん」
 すかさず拒否すれば、操は黙る。
「何が不満だ。俺が何をした」
 責めるような。
 そんなことをしても意味はないだろうが。否、事態は悪くなる。だが俺は溢れる心細さを止めおく術も知らず――繋いだ手を引きよせて細い身を床に倒し、衝動のままにその甘い唇を犯した。手が頬から首筋、胸元、腰と辿り、着物の裾をまさぐり腿に触れる。それから上に動かそうとするが、繰り返す口づけの隙を縫うように咎めの声が、
「いや。やだ! ……こんなの蒼紫さまらしくないよ! やめて」
 そして鈍い音とともに痛みが走る。
 操から身を離し、つい先ほど獰猛な愛撫を施そうとした指先で己の唇に触れる。滲むのは紅の、血である。生温いそれを見るとぞっとした。
――俺は何を、
 乱れた姿で横たわる操は震えている。
 たちまちに押し寄せるのは罪の意識。
 我も忘れ、操に。
 痛みが。
 ひどく、胸が疼く。
 否、痛いのは操の方だろう。こんな真似をされて。俺は操の信頼までも踏みにじった。それでいて己の心が痛いなどよくぞ言えたとなじりながら、しかしそれでも生まれた苦さは消えてはくれず、操から逃げるように背を向けて座った。
「もうよい。行け」
 そんな言葉しか言えぬことを恨めしく思うが、他には何も。
 俺は操を失うのだろう。


◇◆◇


 薄暗い室内。夜目は強いはずが涙が邪魔をして視界は不明瞭だった。私は泣いているのか。他人事のように思う。頭はやけにハッキリしているのに、心が少しも動かずに――感情が波打たず静まり返っている。
 乱暴に男の人に組み敷かれた。それもよく知る人。力では敵わないと十分に知っていたけど危険だと感じたことはなかった。優しくしてくれていたことをどこかで当然のものと、私に暴力的な何かをするはずないと考えていたのだろう。だけどそれは大きな間違いだった。見知らぬ他人のように、私の知る人とは別人のように組み敷かれたのだ。
 好きなようにされる――私の意志を無視して、滾るような熱をぶつけてくる姿に嫌悪が。
 抵抗する私の声など少しも聞き入れてはくれず、怖いと。生まれて初めて蒼紫さまを怖いと思った。けれど力では絶対に敵わない。私には逃げる術がない。無力さが耐えられず。それでも口づけなのか戒めなのかもわからぬそれを繰り返す唇を噛み抗う。血の味が。蒼紫さまは動きを止めて離れた。そして、
「もうよい。行け」
 短く告げられた。
 あれほど勝手な真似をして酷い言い草だと思う。だけど、何故だろう。嫌悪を増していいはずの態度に怒りも感じず、それよりも、
――傷つけてしまった。
 胸を刺すのは後悔。世界で誰よりも大切な人を、私は、傷つけた。
 弱い人だと知っていた。強いけれど、繊細な人だと。辛い日々を送り、その後も己の犯した罪を悔い続ける姿に、だから私は蒼紫さまの全てを受け入れようと決めた。何もかもを。それなのに、拒絶した。私は自分の心を持て余していたのだ。余裕がなくて。その結果が。
 露わになった太腿に冷たい空気が触れる。身震いがする。
 このまま寝ているわけにかない。私は鉛のように重く感じる身を無理に起こした。
 蒼紫さまは私に背を向けて座っている。かつて、寺で禅を組んでいた頃の姿が思い出される。私が去ればまたあの頃のように心を閉ざし、今度は二度と開いてはくれないだろう。それは、わかる。誤ってはいけない。それだけは。
 部屋に漂う空気は恐ろしいほどの静寂で、突き刺すように冷たい。春が、まもなく春が訪れようとしていたはずなのに凍りついてしまいそうだ。
 それでも蒼紫さまからは去らない。
 殺伐とした空気が痛く、回避するために自分からここを出てしまってもいい。"もうよい"のならば、"終わりだ"というのならば。けれど、私に「行け」と言っただけで動かずにいる――それが意味するものに、止まっていた感情が一挙に溢れだす。
 背にそっと近づき触れる。やはり抵抗されることはなかった。何も言ってはくれないけれど、避けることなく、距離をとることなく、触れる私の手を厭わない。
 広いはずの背が小さく頼りなく見える。私は一瞬だけ躊躇したけれど、勢いに任せて抱きついた。そうしてしまえば後戻りはできない。
 言わなければならないことがある。誤解を。
「蒼紫さまを幸せにしたい。蒼紫様を笑顔にするのは私だって今も変わらず思ってるよ」
 それは本当だ。私の中の確固たる真実だ。
「だけど、」
 私は全てが初めてだった――人を愛することも、男の人に触れられることも。全部、蒼紫さまが初めてで、私は生まれてからただ一人、蒼紫さまだけを求めていた。
 けれど、蒼紫さまは違った。
 私に触れる手が、何の躊躇いもなく施される動きの一つ一つが、初めてではないことを告げていた。そんなの、当たり前だ。蒼紫さまは私より十も年上だし、ましてや私とは二度と会わないと考えていたし、そしたら他の人を求めることだってあっただろう。そして、それはきっと喜ぶべきことなのだ。過酷であっただろう日々の間に誰かの温もりを感じ満たされた時間があったなら、幸せだと思う瞬間があったなら、私はよかったと思うべきだ。けれど、そんな風には思えなかった。
 触れてくる指先の甘やかさが、慣れた仕草が、かつてこうして私の預かり知らぬところで誰かを愛でたという証明であると。面倒見のよい人だとは知っていたけれど、閨での様子は面倒見が良いというよりも甲斐甲斐しいという方がしっくりくる。毅然として、優しいけれど厳しさのある普段の姿からは想像も出来ぬほど、ひたすらに甘く。かしずくと評してもおかしくないほどの――この人はこんな風に振る舞うのか。"女"を愛でる時はこのようにするのか。私が幼いままに一心に蒼紫さまを探し求めている間、こうしていたのか。私ではない他の女に。
 膨れ上がるのはおぞましいほどの嫉妬心。
 言っても仕方のないことだ。全ては過去のことだ。
 最もなことを思う。けれど、私には蒼紫さまだけで、蒼紫さまはそうではないという現実が私の心から消えない。
 私だけではないの――そんな思いに執心する。
 触れられると、求められると、ちらつく影が苦しい。見たくないものを見てしまう。
 蒼紫さまを愛している。
 だけど、私の愛は脆い。大きく全てを包み込み愛するなんて出来ない。
 好きなだけじゃ、どうにもならない。そんなことがあるなんて知らなかった。私は子どもなのだろう。だから強くならなければ、大人にならなければ。蒼紫さまを愛せるようにもっと。
 けれども心は思うようにならない。すぐには変われない。どうすればよいか、もうわからなくて。
 時間がほしかった。
 今のままではきっと駄目になるから、ただ蒼紫さまを愛しているという気持ちだけが残るまで、時間がほしい。そう思ったの。
 でも、それを上手く伝えられずにいた。こんな感情を知られたくはなかった。恐ろしくて。自分でも嫌になるこれを蒼紫さまに見せるなんて出来ないと。でも、そのせいで、
「ごめんなさい」
 結局は傷つけてしまった。
 自分勝手な思いに囚われて、どうしようもなく傷つけて、
「ごめんなさい」
 繰り返す言葉がひんやりと響いた。



「それはつまり浮気されたって感覚よね」
 薫さんが言う。浮気――あまりいい響きの言葉ではなかったけれど、そうなのかもしれないと頷いた。
 私は東京にいる。
 お盆に墓参りを兼ねて京都に来ると、薫さんたちは葵屋に泊まってくれる。私たちは大歓迎だけど、世話になってばかりでは申し訳ない。だから私たちにも東京まで遊びに来きてと以前より幾度も誘われていた。私としても行きたい気持ちはあった。だけど蒼紫さまは忙しいし、私にも学校がある。無理だろうなぁと考えていた。
 けれど、私は今、東京にいる。
 離れなければいけない気がしたから。一度。蒼紫さまから離れて、自分のことを見つめる時間がほしかった。
 私の突然の東京行きにじいやは反対しなかった。蒼紫さまは、何も。
 東京に着くと、薫さんも緋村も歓迎してくれたけど、私が一人で来たことに少しだけ驚いている様子だった。当然だ。いつだって蒼紫さまと一緒に行動してきた私が、自分から蒼紫さまと離れて一人で東京に来たのだ。不思議に思われても仕方ない。ただ二人ともそのことについて不躾に聞いてきたりはしなかった。"何か"あったと察して、薫さんと二人で東京見物に遊びに行っておいでと緋村は送り出してくれた。
 しばらく来ない間に、東京の町は随分と西洋化が進んで新鮮で面白い。薫さんもまだ剣路くんが小さいのでなかなか外に出られない。たまには息抜きが出来ていいと独身時代に戻ったようだと、私たちははしゃいだ。
 そして一服にと入った甘味屋。
 向き合って最初は他愛のない世間話をしていたけれど、ふっと訪れた沈黙が、私に話を促せた。
 薫さんも、そのきっかけを探してくれていたのだろう。私の言葉を静かに聞いてくれた。
 私は一人ではどうにもならなかった気持ちの何もかもを吐きだした。ずっと、誰かに聞いて欲しかった。けれどそれが出来ずにいた思いだ。薫さんという親しく、そして何より年が近いながらもすでに夫婦となり一男を設けている相手という安心感と、東京という遠く離れた土地という開放感が私を饒舌にしたのかもしれない。
「でも、その気持ちはわからないでもないよ。私も、剣心に奥さんがいたって知った時は、」
 そこで薫さんは遠い目をした。
 ああ、そうだ。緋村には奥さんがいたのだ。過去のことを思い出させてしまって、私は申し訳ない気持ちになりながら、同時に、それをどのように乗り越えたのか知りたいとも思った。
「やっぱり複雑と言うか、……過去のことだし、その人とのことがあって今の剣心がいるんだっていうのもわかるけど、何かこう、もやもやするというかね。でも、私と出会う前のことだし、そこはもう考えないようにしたけど。けど操ちゃんの場合は――出会っていたんだものね」
 出会っていたか、出会っていなかったのか。ここが私と薫さんの大きな違いだろう。私は幼い頃から蒼紫さまと出会っていたし、そしてずっと蒼紫さまだけを好きでいた。唯一人だけ。
「自分でもね、無茶苦茶なこと言ってるとはわかるの。将来の誓いをしていたわけでもないし、そもそも蒼紫さまは葵屋に私を預けて、それで終わりって思ってたのも知ってる。蒼紫さまにとって私はもう関係のない存在になってたんだって。だからね、私がずっと蒼紫さまを好きでいたのは私の勝手であって、離れている間、蒼紫さまが誰かを愛していたとしても私が口を出せることじゃないって。わかっているの。だけども、どうしても」
「うん、そうだね。"私という者がありながら"っていう気持ちにはなる。こっちはずっと好きで、少しも誰かに心揺るぐことなく思い続けてきたのに、相手はそうじゃなかったの? ってわかったときは、えってなっちゃうのは、それはもうね、あると思うよ。理屈じゃないじゃない。そういうのってさ、やっぱり好きって気持ちは独特なものだから。そのことで自分を責めることはないと思うけどね」
「……そう、かな」
「そうだよ。自分は一途に思ってたのに、相手は違ったって事実はやっぱり悲しいよ。それを望んでしまうのは無理な話だってわかっててもどうにもならないって気持ちはね、わかる。それを受けとめて欲しいって気持ちも。だから遠慮なくぶつけてよかったんだよ。それに、そういう気持ちが出てくるのはいいことだと思うし」
 私はびっくりして薫さんを見る。これがいいこと? 考えてもみない言葉だった。
 薫さんは優しげな笑顔を浮かべている。
「だって……こういう言い方をすると少し語弊があるかもしれないけど、操ちゃんはずっと会いたくて、探しつづけて、それでやっと再会して、けど、四乃森さんはとても深く傷ついていて、元気になって欲しい、笑顔になって欲しいって、それを願って、そのために出来ることはしたいって思って。そうやって気遣ってきたじゃない。ずーっと四乃森さんのことを一番に考えてきた。自分のことは後回しにしてきた。それが、少しずつ変化してきて、自分のことも考えられるようになって、今、ようやく"普通の"恋愛が出来るようになってきたってことでしょ?」
「普通の恋愛……」
「そう。普通のね、焼き餅を妬いたり、喧嘩したり、そういうのが出来るって大事なことでしょ? これまでは操ちゃんの方にもどこか遠慮しているというか……自分の気持ちを受けとめてほしいってところがあんまりなかったじゃない。でも、好きな人に自分を受けとめてほしいって思うのは重要よ。自分ばかりが相手を受け入れるだけじゃそれはやっぱり恋愛や夫婦とは呼べないもの。相手のことを考えるばかりじゃ苦しくなるよ。自分のことも考えたり、自分のことを相手に考えてもらったりすることも大切なんだから。それが出来るようになってきたってことでしょ? 操ちゃんにとっても四乃森さんにとってもいいことだと思う」
 薫さんの言葉に私は何と応えて良いかわからなくなる。
 これはいいことなのか。どうにもならないモヤモヤした思いを持つことがいいことなのだろうか。私は素直にそうだねとは思えずに湯呑を手にした。少し冷めたお茶をすすると苦く感じられた。
「けど、蒼紫さまはきっとこういうの嫌だと思う」
「どうしてそう思うの?」
「どうしてって……そういうのなんか、それならもういいってなると思う。っていうか、もしかしたら、もうそうなってるかも」
 思い出すのは"あの夜"のことだ。
 私はどうにか自分の正直な気持ちを伝えたけれど、それに対して蒼紫さまは「わかった」と短く告げただけだった。そして、翌日から避けられたりすることはなかったけど、私に触れてくることはなくなった。
 自分から言い出したことだけど、開いた距離をどうすればいいかわからないまま――私はここへ逃げてきたのだ。そんなことしても何の解決にもならない、事態は余計に拗れるとわかっていたけれど、それでも蒼紫さまの姿を見ることが辛くなってしまった。こんな日が来るなんて、夢にも思わなかった。
 考えると、気持ちはドンドン沈んで行く。だけど、
「それはないよー。絶対ない」
 薫さんは一際明るい声で否定した。笑い飛ばすみたいに。そのことに私は幾分驚いた。
「操ちゃん、ホントにそんなこと思ってるの?」
「だって、こっちに来るって言った時も何も言ってくれなかったんだよ? 呆れて嫌になった証拠じゃん」
「それは操ちゃんが時間が欲しいって言ったからでしょ? そう言われた以上、行くなとは言えないじゃない。何も言わなかったからって、何も思っていないのとは違うし。黙って見送ったってことは、操ちゃんの帰りを待っててくれてるってことじゃない? 嫌になってるのとは違うよ」
「そうかも、しれないけど……」
「というか、どうして操ちゃん、そんなに自信がないの? 四乃森さんだって操ちゃんのこと好きだよ。簡単に操ちゃんを諦めるわけないじゃない」
「……どうしてそう言い切れるの? 薫さんは蒼紫さまのこと知らないじゃん」
 励ましてくれているのだとはわかっていたけれど、私はむっとなって言った。
 だけど薫さんは私の言葉に少しも怯まなかった。それどころか、
「四乃森さんのことは知らないけど、操ちゃんを見ればわかるよ。だって、とっても女らしくなったし、綺麗になった。再会した時、あまりに変わってたから最初誰かわからなかったくらいだったんだから。それって四乃森さんに愛されてるからでしょ。こんな風に操ちゃんを変えた四乃森さんの愛情が、そんなちょっとやそっとでなくなるなんて絶対ないよ」
「な、な、何言い出すの!?」
 思わず大声が出る。他のお客さんの視線が集中して私は更に恥ずかしくなって口を押さえた。一方で薫さんは余裕綽々楽しげだ。なんだか緋村に似てきた? と思ってしまうけれど、
「ふっふっふ。照れちゃって、可愛い〜。あ、でもこれは私だけが思ってることじゃないからね。剣心だって言ってたんだから。操ちゃんものすごく綺麗になってるし、これは四乃森さんも気が気じゃないでしょうねって。だから、操ちゃんはもっと自信を持って堂々としていたらいいのよ」
 堂々と……と言われても。薫さんが言うようなことは逆立ちしたって思えない。私は曖昧に笑って返す。すると、今度は少しだけ押さえた口調で、
「今頃、ちゃんと帰ってくるか心配してるんじゃないの? これまで散々待って来たんだから、今度は待たせてやる! ぐらいの気持ちでのんびり東京を満喫して行ったらいいのよ」
 そう言ってにっこりと笑った。


◇◆◇


 疲れていた。少しばかり暇になる中旬期というのに酷く疲れる。一日の始まりと終わりを告げる朗らかな声がなくなり、俺の日常から光が消えた。太陽が昇らず曇天の日々ばかりが続けば憂鬱になるのも無理はない。
 床について横になっても募るのは侘びしさだ。
 一人寝が辛いと思ったことなどこれまでなかった。否、肉体的な衝動としてならあったか。たまらなくなって幾度か、その道の女を抱いたことはあった。別段それを悪いことと思ったことはない。俺とて一般的な男としての機能がある以上、そういう気持ちになる。解消するための店が存在するのだから、利用したことも。
 金で買った相手といえ、勝手気ままに乱暴に振る舞うのも無粋だと、ましてや蜜事を交わすのだから礼儀を持って接したつもりだ。女が悦ぶ姿にこちらも余計に高ぶることもあった。だが衝動が発散されてしまえば終わりだ。一夜限り。こんなものかとさめざめとした思いを残すばかりで、特定の相手に情を抱くようなことはなかった。俺は色恋において淡泊な性分なのかもしれぬとまで考えたが。しかし、それはしかるべき相手ではなかったからであったと、今更になって思い知る。
――操。
 浮かんだ名に胸が焦げる感覚が。
 大切だった。大事にしたいと考えていた。操の傍で共に生きられるのならば、それだけで十分であると信じていたが。一度、その身を抱いてから"傍にいられればよい"などと淡い感情は消え失せた。生まれたのは性質が悪いと言ってもよいほどの強い執心だった。
 それまで確かに、操が幸せであればよいと。もし万一自分の存在が操の幸せの邪魔になるならば迷いなく去るだろうと考えていた。まだどこか幼さの残る姿に、これから出てくるだろう縁の中に、俺よりも好く男が現れるかもしれぬと。そうなったら俺は身を引くと、引けると思っていた。それで操が幸せならば、操が操らしく笑っているのならば、それが俺の最良であると。
 だが、それは"そんな日などこない"とどこかで自惚れていただけであった。
 否、あの身を抱く前ならば、押さえ切れたのかもしれぬそれを、だが今はもう無理だ。操が俺ではない誰かを選ぶと言うなら、人の目には触れさせぬ場所へ閉じ込めてでも引きとめる。誰にも渡さないし、何処にもやらない。たとえそれで操に恨まれようと――俺は引き返せぬ場所まで来てしまった。
 だからこそ、なお一層、操を大事にしようと。
 そう、努めてきたはずだった。
 だが、それこそが操を不安にさせていたとは滑稽すぎる。
 操から聞かされた言葉が、今も突き刺さっている。俺の動作の一つ一つに、他所の女の影を感じ苦しんでいたなど。他の女と情を交わしたとて、それと操に対するものとは違う。そんなことわかってくれていると思った。そもそも問題になるなど考えつかなかった。しかし――ただ一心に俺を探し続け、求め続けている間、当の本人は他の女と情事を交わしていたと知れば面白いはずがない。
 仮にこれが反対であったならば。ひたすらに恋い焦がれ、いつか再会できる日を願い続けていた相手が、その間、俺ではない男と関係し、それ故に俺を悦ばせることが出来たとして、俺はそれを嬉しいと感じたろうか。
 否、男と女は違う。それにこれは極端な話しである。全部は結果論だ。俺はあの頃、操とは二度と会わないと考えていたし、会うことがあったにせよ操に対して抱いていた気持ちは近しき者への親しみであり、色恋とは異にする感情だった。今、そういう関係になって操を傷つけてしまったが、当時の状況からこれを想像は出来ない。故に、責められることなどない。
 ない、けれども。
 操にとって、俺は生涯、ただ一人の相手として存在している。それを俺にも求めてしまう潔癖さを否定することなどできない。それだけ絶対的なものとして俺を思ってくれている気持ちを、理屈で諭しても意味はないだろう。 
 さすれば、どうすればよいのか。
 何も、わからなかった。
 浮かぶのは後悔のみ。
 結局俺は、操の気持ちの真摯さに甘えていたのだ。"ずっと思い続けてくれていた"ということがいかな意味を持つのか。深く考え、向き合っていなかったのだ。ずっと。ずっと。ずっと。その言葉の持つ重みを理解など僅かもせず。操があまりにも自然に、当然に振る舞ってくれることに胡坐をかいていた。
 俺は操に触れる時に"これまでないほど丁寧に"と、無意識のうちに経験を引き合いに出して――操の一途さを知らぬ間に踏みにじっていた。
 愚かだと。
 明るく陽気な様子に惑わされてしまうが、凛とした強さに油断してしまうが、その奥に潜む繊細な心を俺は知っているはずだった。
 子どもの頃からそうだったではないか。
 先代御頭を失った時も。
 操は唯一の肉親を失ったというのに普段と変わらぬ様子であった。まだ幼い故に死というものが理解できぬのであろうと。年若くして御頭となった俺は、今後の御庭番衆の行く末を考えるのに忙しく、操が朗らかでいてくれることに安堵していたが。それから半年ほど経過した頃、忽然と操の姿が消えた。夜になって戻ってきたが誰しもが心配し、或いは心配をかけたことに怒りを感じていた。黙ってどこへ行っていたかと問いただせば、操はただ一人で先代の墓参りに行っていたと。その日は先代の月命日であった。忙しさに飲み込まれる俺たちには何も言えず、たった一人で墓へ。そこで初めて、操が先代の死を理解していなかったわけでもなく、また平気でもなかったのだと。間抜けにも俺は操の心を見誤っていたと知った。
 俺はいつも操の心を誤る。最も大事なはずの操の心ほどわからずにいる。
 それはすなわち甘えだ。操が俺に与えてくれる居心地の良さに甘え、大丈夫であると思ってしまう。昔も、今も。肝心なところで、読み間違える。
「操。」
 呼びかけは届かない。むなしく暗闇の中へ消えた。
 知ったはずの暗がりが不気味なものに見える。光を失いかけていると否応なく突き付けられる。しばらく前は光など手にするのも分不相応であると考えていたが、随分と贅沢な不安を抱くようになったと感じられたが。
――操はここへ戻ってくるだろうか。
 ここへ。俺の元へ。
 浮かんだ問いかけに思い出されるのは"あの夜"のこと。
 伸ばした腕に応えてくれなかった。
 代わりに握られた手から伝うものに頼りない感情が生まれた。あれは何であったか。単純にその身を抱きしめられなかったことへの寂しさと解釈していたが。違う。もっと重大な落ち度を知らせていたのだ。それは、
『俺が操にとって果たしてどのような存在か』
 操は俺を受け入れ、帰りを待っていてくれるがその逆は――操が帰る場所として俺はしかるべきことをしていたろうか。この腕こそが操の居場所であると示してきたろうか。
 答えは否。
 操は傍にいるものと、振り向けば後ろをついてきているものと、俺が一人で出掛ければ帰りをじっと待ってくれるものと。口では、頭では、操が他の男を好くかもしれぬと言いながら、心は少しも疑ってなどいなかったのだ。しかし"あの夜"、操が俺の呼び掛けを拒否し、それが"初めて"現実味を帯びた。
 人の心の移ろいやすさなど百も承知と思っていたが、操の一途さに俺はどこかで"この思いだけは例外である"と考えていたのではあるまいか。そう思ってしまうほど操の思いは真っ直ぐだったが。しかし、そうであったとて僅かの不安も抱くことなく無防備に無意識に信じ込んでいた己の浅はかさが。
 俺という男はどこまでも間が抜けている。
 ただ操の好意に寄りかかった関係ならば、操がそれをやめればたちまちに切れてしまう。自分から手繰り寄せる糸がないのだから。
 されば、このまま、ここで、操の帰りをただ待つだけで良いのか。
 引っ張り寄せることが出来ぬならば、己が行くべきではないか。
 仕事を捨ておくわけにはいかぬ。務めははたさねばと考えていてたが、それもまた言い訳だろう。俺が似合わぬ"若旦那"などに納まっているのも全ては操あってのこと。その根本の存在が揺らめいているのに、仕事が大事と本末転倒ではないか。
 ならば――俺がすべきことは一つだった。


◇◆◇


 豪邸が建ち並ぶ一画に突如現れる空き地。
 かつてここで"惨劇"があり、当時建てられていた屋敷は血の海と沈んだ。恐ろしい出来事が起きた場所に新しい住み主が現れることなく、放置された建物はやがて廃れ取り壊された。
 あれから数年。
 ようやく買い手が着いたらしく近々新しい屋敷が建築される。その準備としてだろう。大きな立て札に「私有地につき許可なく入ることを禁ず」と書かれてあり、誰も入れぬように鉄線が張られていたけれど――立て札の少し右側だけ、鉄線が緩い。大柄な人間には無理だろうけれど、私なら身をかがめると入ることが可能だ。念のため周囲を見渡して踏み込む。
 緋村から大方の屋敷の配置は聞いてきた。
 入り口があって、大きな階段があって、その先の大広間。
――この辺かな。
 立ち止まり目を閉じて大きく息を吐く。
 幾度か東京に来たことはあったけれど、一度も訪れたことはなかった。蒼紫さまと一緒だったから。流石にそれは、彼らの死んだ場所へ行きたいとは言えずにいた。
――こんなにも町の中だったんだ。
 私はその事実に驚きを隠せなかった。
 周囲を見渡せば大きな屋敷がいくつもある。平穏に、平和に、日常を生きる人が、今もそして当時も暮らしていたのだろう。このような場所で回転式機関砲を打つなんて。他に死傷者が出てもおかしくはない。だけど。
『彼ら四名は命懸けで蒼紫を守ったでござるよ』
 ああ、そうだ。蒼紫さまのことも、他の人のことも、守ったのだろう。傍にいて、終生その忠信を捧げたのだ。
――みんな、蒼紫さまのこと慕ってたもんねぇ。
 特に般若くんは。
 蒼紫さまと般若くんの間には特別な何かが存在していると、幼いながらも理解出来た。年が近いこともあったのかもしれない。二人はけしてそのような素振りを見せなかったけれど、あくまでも主と従者という態度ではあったけれど、友人だったのだと思う。固く結ばれた揺るぎい友情が存在した。
 それがとても羨ましかった。私は蒼紫さまが般若くんに対して抱くような信頼を得ることはないだろう。般若くんは特別だ。それが羨ましくて悔しくて、一時期は般若くんを目の敵にしていたこともあったっけ。
 あれはいつだったかな。
 私も一緒に任務についていくと駄々をこねたまくり、蒼紫さまは呆れ果てて相手にしてくれなかった。そのことで更に悲しくなって泣きわめいていたら、般若くんが傍に寄って来て慰めてくれたのだ。だけど、私は、
「はんにゃくんなんてだいっきらい。いっつもあおしさまといっしょにいくもん。みさおだけのけものにするからきらい!」
 今思えばとんでもない八つ当たりだ。言っていることもめちゃくちゃだった。でも、それでも般若くんは優しかった。
「操さまをのけ者にしているのではありません。蒼紫さまにとって操さまは何より大切なお方なのです。だから危険な目に遭わせたくない。それ故に、連れてはいかれないのです」
「そんなのうそだ! みさおがきらいだからおいていくんだ。だから、あおしさまも、はんにゃくんも、だいっきらい! みさおをきらうから、きらい〜!!!」
「操さま。そのようなことを言ってはなりません。操さまに嫌われたら蒼紫さまは悲しみます。蒼紫さまを悲しませてよろしいのですか?」
 叱られると反発心が強まっていただろうけど、般若くんは優しい声で諭すように述べたから、怒りの後ろに隠れた本当の感情――悲しみが炙り出される。涙が。後から後から溢れてくる。すると、般若くんはあれほどひどいことを言った私の頭を撫でてくれた。
「蒼紫さまは操さまを大切に思ってらっしゃいます。操さまのお傍が蒼紫さまの居場所なのですよ。ですから操さまは蒼紫さまを信じてお待ちください」
「でも、まってるのさびしいもん。みさおもいっしょにいきたい」
「左様でございますね。寂しいですね。……ならばこれを」
 そういうと般若くんは私の髪紐をほどいて手に取った。
「こちらをお借りできますか。操さまの代わりにこちらをお連れしましょう。これで操さまも一緒でございます」
 たぶん苦肉の策だったのだろう。でも当時の私には素晴らしい解決策に思えた。驚くほど単純だった私は、すごい一緒だと喜んだ。
「それでは操さま、約束でございますよ。屋敷で蒼紫さまのお帰りをお待ちください」
「……ちゃんとかえってくる?」 
「ええ。もちろん。必ず。操さまの傍に戻られます」
「……はんにゃくんもかえってくる?」
「私でございますか?」
「うん。みさおは、ホントははんにゃくんもすきなの。きらいなんてうそだからね。だからはんにゃくんもかえってきてね。やくそく」
 小指を差し出せば、般若くんはそれに自分の小指を絡ませてくれた。
 そして、約束したのだ。私の居場所は蒼紫さまのお傍。蒼紫様の居場所は操さまのお傍。ですから私も必ず操さまのお傍に帰ります。そう約束を。
 だけどそれからしばらくして、私は一人残されてしまった。葵屋に預けられた。最初のうちは信じられずにいた。任務が終われば私のところへ帰って来てくれる。約束したんだから必ず戻って来てくれると。でも、三ヶ月も経過すれば能天気な私でももうみんなが戻って来ないことを悟った。
「嘘つき。」
 私は、怒っているんですからね、と。呟けば風が。私の頭を撫でるようにほのかに吹く。春風の柔らかさなのか、それとももっと別のものなのか、不思議な心地に現実味が失われていく。
――嘘だよ。
 嘘つきなんて、ホントは思ってない。怒ってもない。ただ、悲しいのだ。
 今ならばわかる。
 般若くんの言葉に偽りはなかった。少しも。ただそれが、実際に出来るかはまた別の話で。あの激動の時代に、終わり行く時代に、みんな懸命だったのだ。最後の御庭番衆としての役割を全うせねばなるまいと、忍びとして闇を生きると。他の道は選べなかった。そしてそれに私を引き込めないと。それでも、
『抜刀斎が約束を果たしました。蒼紫さまが戻られます』
 十本刀との戦いのときに聞こえた般若くんの声に、私は"般若くんが"私との約束を覚えていてくれたのだと理解した。私を葵屋に預けた後も、私のことを気にかけてくれていたのだと。ずっと心配してくれていた。そして私の元へ蒼紫さまが戻ることを願ってくれていた。私の傍が蒼紫さまの居場所だと、般若くんは本当に思ってくれていたのだ。死してもなおも、蒼紫さまのことを思い、私を心配して。
 みんなで幸せになりたかった。静かな日常を、命の危険にさらされることなく平凡な日常を。けれどそれは叶わぬ夢で、それでも――それでもみんなは蒼紫さまをこちらに帰してくれたのだ。だから私は蒼紫さまを幸せにしたいって。みんなの代わりに、今度は私が傍にいて蒼紫さまを笑顔にするの。そう、思っていたのに。それなのに、私は
――あの人を自分で締めだした。
 自分の気持ちにばかり執心して、挙句の果てに東京まで逃げてきたのだ。
 辛い過去の記憶に苦しみ、己が幸せになるなど許されるはずがないと考えていたはずの蒼紫さまが、私と夫婦なると言ってくれた。一歩、踏み出してくれた。だから私はその手をけして離してはならなかったのに。
――なんてことをしてしまったのか。
 時間が経つほどに溢れ出るのは後悔だ。情けなくて、申し訳なくて――それなのにまだ、私は自分の内に広がる"欲"を捨てきれずにいる。このまま蒼紫さまの元へ戻ってもきっとまたこの欲が暴れ出し蒼紫さまを傷つけてしまう。それはしてはいけない、したくはなかった。
 どうすればいいのだろう。
 私はどうしたいのだろう。
 答えが見つからない。何も思いつかないまま私は祈るように両手を合わせた。 


 どれくらいここにいたのだろうか。
 過去の記憶を思い返していると、あっという間に時間が過ぎていた。気付けば陽が随分昇っている。
 今日は昼から浅草へ出掛けるつもりでいた。東京に来て早二週間。もうそろそろ京都に帰らなければ緋村家にも迷惑だろうし、葵屋のみんなも心配するだろう。その前に、お土産を買いに行こうと思っていたのだ。予定が大幅に狂ってしまう。
 私は急ぎ足で張り巡らされた鉄線まで行き隙間から出ようと身をかがめた。
 すると――ふと視線を感じた。
 立て札に隠れて見えなかったけれど人がいる。持ち主か、或いは関係者か。私はひやりとした。勝手に入っていたことを咎められて面倒なことになるのではないか。考え事で頭がいっぱいだったとはいえ気配に気付かずにいたことを悔いながら、どう言い訳しようかとその人を見るが。
――え?
 世界が。
 まるで世界が止まったような静かな衝撃に襲われる。
――どうして。
 疑問は音にはならず。
 目があってもその人は何も言わない。ただじっと、私を見ている。
 その様子に私の方が慌てた。とにかくこの鉄線から抜け出さなければと動くけれど、焦ったせいか抜けきってしまうより先に体勢を戻してしまい髪が鉄線に引っかかる。絡まったそれは無理に引っ張ろうとすると余計に食い込む。これはまずいと振り返り手を伸ばし絡まりを解くが、早く、早く、と自分を急かし混乱が指先の動きを鈍らせる。そしてしまいには
「痛っ」
 親指を切る。チクリと刺して血が滲む。反射的に口に咥えて舐める。生温かい血の味が滲む。
 もう、嫌だ。
 どうしてこんな。
 投げやりな気持ち。最悪だった。それを。
「動くな」
 低い声が頭上から降ってくる。見慣れた長い指が私の髪に触れ、絡まりを器用に解く。いとも簡単に、私が出来なかったことをしてのけた。
「……ありがとう」
 動揺しているはずなのに礼だけはすんなりと出る。それが妙におかしい。
「いや、」
 それより指は。と問われる。そのまま私の手を取ろうとしたのだろう。右手が動くのが見えたけれど、それは空を切り降ろされた。たぶん、"何もなかった"ならば迷いなく傷口を確認していた。だけど今は。私に触れることを躊躇っている。
「うん、平気。大したことないよ」
 どこを見ればよいのかわからず視線を漂わせて返せば
「そうか」
 ぶっきらぼうにも聞こえるけど、安堵の色があった。
 それから、奇妙な沈黙。
 無口な人だし、この状況では私から話を切り出すべきなのだろうと思う。どうしてここにいるの? とそう尋ねればいいのだ。でも、言えない。代わりに顔を見る。確認するために。誰かと見間違えるはずないし、声を聞き間違えるなんてこともない。自信はあった。でも、万が一ということもあるかもしれない。そして、まだ向き合う覚悟が出来ずにいた私は、そうであればと願っていた。けれど、目の前に立っているのはやはり――蒼紫さまだった。


◇◆◇


「お主は行かなくてよかったでござるか」
 客間で向かい合って座る緋村が告げた。


 東京に着いたのは昼前だった。汽車が出来てから長旅も随分と楽になったものだが、不慣れな振動を味わっていると不慣れな疲れも感じる。しかし、宿に荷を置くとすぐに神谷道場へ赴いた。時間が惜しい。自分でも呆れるが俺は急いていた。告げておかねばならんことがあった――操が結論を出してしまう前に。それで操が出す答えに影響があるのかはわからぬが、それでも俺は言っておきたかったのだ。
 しかし、情けないもので、いざ目的地が近付いてくると今度は恐れが首をもたげた。
 何と切り出せばよいか、何と言葉にすればよいか。思えば俺はこれまで己の心の内を人に話したことなどなかった。必要がないと思ってきた。大事なのは過程ではなく結論である。導き出したものを告げればそれでよいと信じてきた。言ったところでどうにもならぬことを告げて何の意味があるのかとも。それ故に、"何を考えているのかわからぬ"と言われることも多々あったが。それはそれで都合が良かった。考えを読まれぬ方がよい。読まれてしまえば命の危険に及ぶかもしれぬ。そんな世界で生きてきたのだ。
 だが、今は――操に、言っておかねばならぬと。そして東京まで来たのだ。
 困惑を抱えながら足は進む。しかし、俺は神谷道場への最短距離ではない道を歩いていた。焦りと留まりたい気持ちが交差して、近づきつつも遠回りを。心の矛盾そのものを行動でも示したのか。
 やがて見え始める住宅街。
 最短距離ではない道ならば他にも幾つかあるはずが、俺は"あの場所"の前に差しかかる。すると、
――操。
 建物が取り壊されて空き地となった中央に、祈るように手を合わせる姿を見間違えるはずもない。
 さすれば俺は瞬時に呼ばれたのかもしれぬと。否、霊魂など信じない。現実的ではないよもや話など。だがそれでも、長らく、東京に来ても立ち寄れなかった場所で、操を見つけるなど果たして偶然であるのか疑わしく思う。
 奴らの墓は京都にある。墓参りは必ず操と共に行っているが――ここへは、奴らの最後の場所へは連れてきたことはなかった。話をしたこともない。己から話したい内容でもなかった。聞かれれば答えてはいただろうが、操はけして奴らの死に際について尋ねてくることはなかった。俺はそれをいいことに黙っていたのだが。
 奴らも操を可愛がっていた。
 特に般若は。
『操さまがお待ちです』
 まるで任務完了の合図のごとく終われば決まって繰り返す。操さまが待っていらっしゃいます。早く戻りましょう。きっと待ちわびておられます。そして、その通り戻れば操が待っていた。生臭い匂いの、思い出したくもない記憶の、だがそれが僅かの光を孕むのは、俺に帰る場所を示し続けた般若と、帰る場所であった操がいたからだ。一人で生きているような気がしていたが、当時から俺は甘やかされていたのだろう。
 ならばせめて俺は、奴らの本当の終焉の地に、奴らが愛でた操を連れて来て、話してやるべきだったのではないか。真実の全てを話して聞かせるべきだった。だが、結局はそうはせぬまま、未だに己の内にある"傷"として操にも隠し持ったままでいた。そうして俺がうかうかしている間に操はただ一人でここへ。そのことが心をざわつかせた。肝心なことを何一つせぬまま、大事な物を失いかけている愚かな様を目の当たりにしていかんともしがたい心持ちが。
 操は熱心に手を合わせている。
 横顔は普段見せる明るい色合いはなく真剣な表情だ。操のそのような顔を見ることはほとんどない。元来が明るい性分というのもあるし、悲しみや辛さを隠してしまう周到さも手伝って、陽気な娘であり続けるのだが。それでも時折はっとするほど真剣な顔をする。その中に含まれた押し隠した感情。
 やがて操はその場を離れこちらへ歩いてくる。
 張り巡らされた鉄線を越えかけたところで俺に気付いた。大きな目が見開かれる。
 半月ぶりの再会だった。

 
「ああ、俺がいない方が楽しめるだろう」
 言ってから、少しばかり後悔する。これでは何かふてくされているようにも聞こえると思ったが。しかし、緋村は人の良さそうな笑顔を浮かべたまま、
「左様でござるな。買い物は女同士の方が楽しいものでござろう」
 同意する言葉に俺は頷いた。
 操と神谷の娘――母である女子を娘と呼ぶのも奇怪だが――は二人して浅草へ出掛けて行き、緋村と俺は道場で留守番であった。
 なにゆえ、かようなことになったかといえば、全ては神谷の娘の計らいだった。
 俺の姿を見てから、操はしきりに恐縮した。
「私もね、もうそろそろ帰ろうと思っていたの。これ以上長居したら、薫さんたちにも迷惑だろうし、"葵屋のみんな"にも心配かけるだろうし。だから帰ろうって。ホントよ。今日だって、これから浅草に行ってみんなのお土産を買いに行く予定だったの」
 早口にまくしたてれば、聞いていた神谷の娘が、
「あら、うちはいつまでだっていてくれてもいいのよ。部屋はいっぱいあるし。なんならここに住んでも構わないんだからね。赤べこの妙さんだって言ってたじゃない。操ちゃんみたいな店員さんほしいって。ああ、操ちゃんね、ちょうど風邪でお休みしていた店員さんの代わりにお店を手伝ってたんですよ。葵屋で手伝っていたからかしら、とっても慣れていて、明るいし愛想もいいし、たった二日手伝っただけだったのにその後も"あの店員さんはどうしたんですか?"って尋ねられて大変だったって。是非ともうちの店で働いてほしいって言われてたんですよ。住屋も、職もあるんだから、東京で暮らしていけるわ。だから迷惑なんて思わないで考えてみてもいいんじゃない?」
 後半は俺への揺さぶりだろうことは理解出来た。言葉には怒りのようなものも感じられた。操も緋村もあからさまな振る舞いはせぬが、何の遠慮もない神谷の娘は二人が言えぬ言葉を代わりに告げるようにも見えた。見えたと言うより事実そうであり、長らく仕事をほおっておけぬから明日の朝には京都へ戻ると告げた時は、
「そうですか。それはいいですけど、トンボ帰りなんて一体何をしに東京まで来たんですか? 操ちゃんを"連れ戻しに"来たのではないみたいですね。そうであれば一日で帰るなんて予定は立てませんもんね。それとも一日で説得できると考えているなんて――そんなことないですよね」
 あなたの言うことならば大人しく聞いてすぐに京都に帰るだろうなんて自惚れてないですよね、と告げるそれには流石に緋村が「薫」と口をはさんだが。いやしかし、一層清々しくてよい。あまり関わりのない娘であったが、的を射たことを言う。
 操がいかほど俺に甘くあったか。
 そしてそれに俺がどれほど胡坐をかいていたか。
 この娘にもよくよくわかっての立腹だろう。やはり俺の振る舞いは傍から見ても腹立たしさを感じずにはいらえぬほど横柄なものであると痛感する。
「そうではない」
 答えて、神谷の娘から操に視線を移せば、その小柄な身が緊張するのがわかる。
 わずか半月会わずにいただけだが、東京という土地で見るせいか、他家に世話になっているうち自然と気遣う振る舞いがそうさせたのか、俺の知る操より幾分と大人びて見える。否、もうずっとそうであったのかもしれない。京都にいる頃から、俺が無意識に"まだ幼い"と思い込もうとしていただけで、操は俺の知るあどけない子どもなどではなくなっていたのだろう。
「話しておきたいことがあってな」
「……そのためにわざわざ東京まで?」
「ああ」
「忙しいのに……無理して来てまで言わなくちゃならないことなの?」
「ああ、一刻も早く言わねばと」
 何よりお前の顔が見たかったと――言葉には出来ずにいたが存分に見つめる。
 操は視線を真正面から受けていたが瞳が揺れる。何を言いに来たか気になるのだろう。少しばかり不安げな、頼りなさげな表情に、俺はいくばくか安堵する。心を憂えさせることは本意ではないが、同時にそれは未だ俺が操の内にある程度の意味を持って存在することの証明だ。俺を切り捨てたわけではないと。
――触れたい。
 ふと衝動が。
 手を伸ばせば触れられる距離にいる。白くなめらかな肌に、暖かな頬に、己の指を伸ばしたい。その温もりを感じたいと願いが膨れる。
「でも、話は戻ってからにしてくださいね。これから浅草に出掛けるので」
 突然割り入ってきた声。現実に戻される。ここには俺と操以外にも、緋村と神谷の娘がいる。我に返り拳を固く握る。俺はどうかしていると自嘲する。
 それから操と神谷の娘は出掛けて行った。
 操は俺のことを気にしている風であったが、神谷の娘が半ば強引に連れだした。
 元より予定していたことを優先させる。つまりは俺の思う通りになどさせないと。これまでの操は俺を一番に考えてきたが、今回はそんなことにはならぬと。それで思い知れば良いということだろうと解釈した。 
 残された俺と緋村は、対峙して茶を飲んでいる。
「薫はあれで操殿を大切に思っているのでござるよ」
 嫁の振る舞いについて、緋村なりに思うところがあるのだろう。それでも止めなかったのは神谷の娘の思いに同意する気持ちがあることも。
「わかっている。元は俺の愚かさが引き起こしたことだ」
「お主は愚かなわけではない。ただ、少しばかり不器用な性分でござろう。操殿も」
 それには何と答えればよいか。俺は黙った。


◇◆◇


 気が重い。賑やかな町並みを歩きながら私の心は沈んでいた。
 蒼紫さまが東京に来ている。最初はそれを、なかなか戻って来ない私を連れ戻してくるようにとじいやに言われたのだと思った。私だってそろそろ戻ろうと考えていたのに寄りにも寄って蒼紫さまを使いだてするなんて! と少しばかり混乱する。けれど蒼紫さまはそうではないと。私を連れ戻しにきたのではなく、「話しておきたいことがあった」と。そのために東京へ来たのだと。忙しい身の蒼紫さまが、仕事を置いてまで東京に来て、それで言いたいことって何だろう。余程のことだと思われた。同時に、怖いと。
「もう、操ちゃん。そんなにため息ばっかりつかないの! 幸せが逃げちゃうよ?」
 薫さんは発破をかけるように言う。
「せっかく浅草まで来たんだから楽しまなくちゃ。ね?」
 そうは言っても、私の気持ちは晴れない。見かねて、薫さんは「少し休もう」と甘味屋へ入る。混雑気味の店内で、どうにか二人席を見つけて座る。女の人の多い場所は話し声も華やかで楽しげだ。
 薫さんの言うように、せっかく浅草まで来たのに、私の心は沈んで、これでは付き合ってくれている薫さんにも申し訳ない。
 店員さんが近づいてきてあんみつを二つ注文する。
「ここのあんみつおいしいのよ。妊娠中に無性に甘いものが食べたくなって、だけどあまり太り過ぎると産むとき大変だからって、散歩がてらここまで歩いてきて食べたの」
 神谷道場からだと結構な距離がある。
「緋村、心配したんじゃないの?」
 妊婦さんが遠出なんて。と尋ねれば、
「うん。一緒に付いてきてくれた。女性ばっかりのお店に入るのってやっぱり抵抗あるみたいだったけど、あの人小柄だから、混ざっててもそんなに目立たなくて馴染んじゃって複雑そうな顔してたな」
 想像して見ると確かに、違和感なく馴染みそうで私は笑った。
「いいなぁ。仲が良くて」
 ぽろりと出た言葉にたちまち胸が痛む。
 考えれば私は蒼紫さまと二人きりでどこかへ出掛けたことがない。"お墓参り"には行くけれど、そういう目的があってのことではなくて、ただ二人でぶらぶらと町を見て周るとかそういうのはなかった。蒼紫さまはあまり人ごみが好きではないし、言えば一緒に出掛けてくれたかもしれないけれど私には言えなかった。
「そう? 喧嘩も多いけどね」
「でも、喧嘩するほど仲がいいっていうじゃない。私は――蒼紫さまと出掛けることもないし、喧嘩することもない。なんにもなかった」
 そこまで言って、胸の奥から込み上げてくる気持ちに喉が熱くなる。
 何かの糸が切れてしまったのか。
「どうしよう。きっと蒼紫さま怒ってる。私の勝手に呆れて、婚約を解消するって言いに来たんだよ」
 蒼紫さまの顔を見てから私の心にあった不安。告げたら最後、堪えきれずに涙が溢れてくる。こんな風に泣かれても薫さんを困らせると分かっているのに、一度堰切れた思いはどうにもならず、私は奥歯を噛み殺しながらも涙する。
 東京に来て、話を聞いてもらって考えてきたこと。
『好きな人に自分を受けとめてほしいって思うのは重要よ』
 薫さんに言われた言葉が私の内に広がり続けていた。
 自分を受けとめてほしい――思いがなかったわけではない。だけどそれは望めないことだった。
 元々蒼紫さまは私に「何の罪も背負っていない、血濡れた過去のない男と、ごく普通の恋をして、幸せになれ」と言っていたのだ。
 幼い私を葵屋に預けた日から、それこそが蒼紫さまの願いだった。
 志々雄一派との戦いが終わり葵屋に戻ってきてくれてからも、蒼紫さまは私にそれを望んでいたことを知っている。自分のような男ではお前を幸せに出来ぬと、他の男と光り輝く未来を進むようにと――でも私は蒼紫さま以外の人と生涯を共にする気はないと言い続け、やがて蒼紫さまも私の気持ちを受け入れて夫婦になると言ってくれた。 
 蒼紫さまの過去を思えば苦渋の選択だったに違いない。
 自分の取った行動を後悔し、責め、深く絶望していた人が、前を向き夫婦になるとの決断をする。後ろめたさや申し訳なさが伴ったはずだ。それでも私の我儘を叶えてくれた。十分すぎることをしてもらっている。
 だから私は、もう何もいらないと。私が蒼紫さまを幸せにする。蒼紫さまの心を少しでも慰めることが出来たなら幸せだと思った。
 そう思ったのは嘘じゃない。けして嘘ではなかった。
 でも――私は浅ましくも欲を出し始めた。少しずつ、少しずつ、普通の恋人たちがすることを私もしたいという欲が。
 そしてそれは、蒼紫さまの腕に抱かれるようになってからいよいよ爆発した。
 ああ、蒼紫さまは私だけではないのだ。
 いつか、どこかで、こうして、別の女の人を。
 その思いに執心するのは"嫉妬"だとばかり思っていたけれど――否、嫉妬ももちろん感じていたけれど、もっと別のものが潜んでいた。それは私の膨れ上がった欲だ。
 その人とは"恋人らしいこと"をしただろうか。閨で交わす睦み事ではなく。したかもしれない。まだ彼らが生きていた頃ならば。あんなにもむごい出来事が起きる前ならば。心が今ほど傷ついていなかった日々の中でなら。そういうことがあったかもしれない。今はもう無理でも、その当時は、私が願えないこと、叶わないこと――我慢していることを、他の誰かと。
――そんなのズルイ。
 私は蒼紫さまだけで、たった一人蒼紫さまだけで、でももう蒼紫さまはそれをすることは無理だから、私は生涯"普通の恋人"のような振る舞いは出来ない。でも、蒼紫さまはしていた。私ではない人とはしていた。私だけがそれを知らないまま過ごさなければならない。
――そんなのないよ。
 責める気持ちが。
 でもそんなこと言えない。私が無理を言って、他の男と幸せになれと願う蒼紫さまに我儘を言って、傍にいることにしたのに、自分から望んだのに、責められるわけがない。自分勝手すぎる。そんなこと言えば、きっと絶対呆れられ、嫌われ、「そうしてほしいならそれを叶えてくれる男と夫婦になれ」と言われるだろう。最初からそう告げているだろうと。
 苦しくて。苦しくて。どうにもならない。
 東京へ逃げてきてからも、粗ぶる感情を落ち着かせようと頑張った。けれど溢れてくるのは抑え込んできた願望。私は本当はどうありたかったのか。飲み込み続けた思いに復讐されている。
「ねぇ、操ちゃん。それ全部、言った方がいいよ。四乃森さんに言って、それでもし、もしもホントに操ちゃんが言うように『そういうことがしてほしいなら他の男を探せ』って言うなら、残酷だけどそうした方がいい。そんなことしか言えない人なら、その程度の人だよ。残念だけど操ちゃんを幸せに出来る人じゃない」
 ほとんど独り言のような呟きを終えると、しばらく黙っていた薫さんが言った。
「でも、言ったら本当に終わっちゃうよ」
「そうかもしれないけど、どこかでけじめはつけなくちゃ。今のまま曖昧でいて何処にも行けずじっとしているわけにはいかない。こうして四乃森さんが来てくれてるんだから、逃げずに正面から話すいい機会だよ。それに私は、」
 薫さんは一度そこで言葉を切った。
 何だろうと、私は伏せた目をあげて薫さんを見る。真っ直ぐで穏やかな眼差しがある。
「――私は四乃森さんは操ちゃんが考えてるような言葉は言わないと思うよ。もう少し彼の気持ちを信じてあげてもいいんじゃない?」
 それはとても強い言葉だった。
「信じる?」
「そう。人は変わるよ。そりゃ、昔なら『他の男を探せ』って言ってたかもしれないよ。幼い操ちゃんを葵屋に預けた頃の四乃森さんならね。でもあの頃とはもう違ってるよ。前にも言ったけど、簡単に操ちゃんを諦めたりしないと思う。その気持ちをもっと信じてあげるべきだよ」
 薫さんの言うことはわかる。人は変わる。だからってそれで蒼紫さまが私を諦めないなんてことは言えない。そんな風にはどうしたって思えない。すると、
「自分のことになるとわからないってことはあるけど、操ちゃんはもう少し四乃森さんのことを冷静に見られるようになった方がいいかも。あんな"熱い目"で見られてるのに、それでまだ信じられないなんて可哀相だよ。ちょっとばかり懲らしめてやろうと操ちゃんを連れ出してきたけど、操ちゃんにも問題があるわね。やっぱり二人はもう少し話した方がいい。うん、それが一番ね」
 言って、目の前のあんみつをぱくりとほおばる。それに対しても私はやはり何も言えず、同じようにあんみつを食べた。


◇◆◇

 
 宿屋に戻れば部屋にはすでに床が敷かれてあった。
 仲居が操の姿を見て「お連れ様がいらっしゃるならもうひと組用意いたしましょうか」と尋ねてきたが断る。さすれば何を誤解したか「近頃のお若い方は大胆でございますね」と去っていった。客にそのような言葉を述べるなどいささか不愉快に思えど、よくよく考えれば宿へ着いてすぐ出掛けた。心付けも渡してはいない。金払いが悪いは、女子を連れこむは、性質の悪い客だとでも思われたのだろう。それならば嫌味の一つも告げたくなるというもの。ここは"そういう宿屋ではない"と追い出されないだけましなのかもしれぬ。
 ひとしきり考えて、操に視線を移せば、所在なさげにしている。顔も心なしか赤い。仲居の言葉を気にしているのだろう。妙に意識されては参る。気まずさが膨れ上がる。
 そもそもここに着くまでの道中から会話らしい会話はなく妙な空気だったのだ。よく話すはずの操がだんまりを決め込んでいる。それは夕餉の時からであったが。緋村たちと食事をする間、操は静かだった。それをとりなしたのが緋村の息子だ。幼子の陽気さにどうにか場が保たれた。
 しかし二人きりになると一挙に重苦しさが。良くない方へ空回っている気配が俺の心を暗くさせる。
 やはり神谷道場の客間を貸りていればよかったか。だが、あの場はどうも落ち着かぬ。他家の一室でする話しでもなかろうと夕餉を御馳走になった後、操を連れ出してきたのだ。
 提案に最初操は少しばかり戸惑っている様子であった。それを後押ししたのが意外にも神谷の娘だ。ただし「帰りはちゃんと送って来てくださいね」と釘を刺された。無論それは、夜道を一人歩きさせるなという意味合いではなく、無体な真似はする。何もせず今夜中に帰せとの苦言である。つまりは神谷の娘にしても仲居にしても――俺がそのような振る舞いに及ぶと見ているということだ。されば、それほどに俺の操を見る眼差しは危ういのだろうかと、なんとも言えぬ気持ちになる。
 かつて、操と二人旅をしたことがあったが、あの頃は同じ部屋に泊まると言っても一切勘ぐりをされることはなかった。お部屋は二つご用意しましょうか? と提示されたこともない。睦まじい兄妹と見られていたのか。操もまた自然の振る舞いとして俺に触れてきた。触れるどころか抱きついてきた。それに少しの違和感もなく、じゃれてくる様子を子猫のようだと思いながら受けとめる。和やかで穏やかな時間が居心地良く。己がかような柔らかな時間にいることが不思議で、同時に心苦しくもあった。
 しかし、今はもう兄妹とは思われない。宿に泊まれば男女として見られる。
 敷かれた布団は目に入らぬ振りをして、机の傍まで歩みを進めて座れば、操も静かに襖を閉めて着いてくる。そして傍に座った。俺の視線の右側、背後には床がある。その光景は扇情的に俺には見えて心臓が大きく鳴った。
――どうかしている。
 そうは思うが、体は熱くなる。
 これでは苦言されても仕方ないとやるせなさに襲われた。
 本当に、俺はどうかしてしまっているのだ。
 誰に言われるまでもなく、操を襲うような真似をする気は毛頭なかった。俺はここへ話をしに来たのだ。しかし、操と"それ"が一緒に目に入るのは居心地が悪い。"そのようなこと"を他人の口から二度もほのめかされたことも手伝い――たとえそれが咎めであれ――連想してしまう。そうでなくとも触れたいとの欲求がないわけではないのだ。それほど切羽詰まっているのかと。否、切羽詰まっているのだ。僅か半月離れているだけで恋しくなり東京までやってくるほど。
 手を伸ばしたい衝動。
 その肌に触れる瞬間、操の見せる眼差しが今一度見たかった。恥じらうような、照れるような。普段であればけして見せることのない、俺だけが知る表情が心を刺激する。それは愛おしいとは違う。幼い頃から操は愛おしい存在であった。清らかさに、無垢さに、数え切れぬほど心慰められたが。そのような心満たされる感情とは別の――"可愛い"と。俺の腕の中で身を委ねる姿に可愛いと感じる。それは生まれて初めて抱く感情であった。俺を感じて縋りついてくる細い体の全てが可愛いくて仕方なかった。可愛くて、可愛くて、もうどこにも誰にもやらぬと。操は俺のものだと。刻みつけるように抱いた。そして今もまた。
「……お茶、淹れましょうか」
 邪な思いを察知したのか、操が告げる。
「ああ」
 生まれた感情を飲み込むようにして応える。
 操は立ち上がり湯をもらいに部屋を出て行く。姿が消えると盛大なため息が漏れ出た。
 一体何をしているのか。否、何をしたいのか。
 ほとほと情けなくなるが、異様な緊張感がある。俺の方にもだが、操にも。
 俺はもう一度ため息を吐きだした。


◇◆◇


 重たい空気に耐えきれず部屋を出てきたはいいけれど途方に暮れる。
 このまま神谷道場へ逃げ帰りたい。薫さんは私の想像するようなことを蒼紫さまは言わないと笑っていたけど、どう考えてもよくない気配がする。蒼紫さまの緊張が否応なく伝わってくるのだ。
――そんなことこれまでなかったもんねぇ。
 蒼紫さまは無口だけど、言いにくいことであっても言わなければならないことなら言葉にする。その時、多少躊躇ったり戸惑ったりすることはある。けれど今回はそれに加え"緊張"が見られた。ピンと張った糸のような。そんな姿は見たことがない。余程言いにくいことなのだろう。そして、それほど言いにくいことは何か。明るい内容ではないと思われた。それならばもっとすんなり話してくれるはずだ。
 怖い。
 ただ、ひたすらに恐ろしい。
 洩れるのはため息。本日何度目になるのだろう。嫌になる。でも、本当に逃げ出すわけにはいかない。逃げるのは簡単だけど、きっと私は後悔するだろう。けじめはつけた方がいい。
 階下へ降りて、人の気配を伺う。廊下を真っ直ぐ進んで右に折れると仲居さんたちの集まる座敷に辿りついた。
「あの……すみません」
「はーい」
 年配の女性の溌剌とした返事が聞こえて、障子が開く。
「何かごよ……あら、どうされたんですか?」
 仲居さんは私の顔を見ると驚いて、それから心配げな顔をした。
「何かございましたか?」
 不備がございましたか? という感じではなく、言葉は私の身を案じる問いかけだった。初対面の仲居さんに何故そのような、と一瞬理解できずに口籠り、そういえば昼間に甘味屋で大泣きして目が腫れていることを思い出す。蒼紫さまにばれないように俯いて過ごしていたけど、部屋を出ると気詰まりから解放され忘れていた。
「違うんです。あの、急須をおか――」「さっきのお嬢さんじゃないの!」
 言い終える前に奥から別の声が。それは先程部屋で床の用意をしてくれていた仲居さんだった。私の顔を見るなり訳知り顔で、
「あの男に何かされて逃げてきたのね。可哀相に。見るからに危ない雰囲気がしてたんだよ。さぁ、中に入って。もしあんたを探しに来ても匿ってあげるから」
「違います! あの人はそんなに危ない人じゃないし、」「いいのよ。そんな嘘つかなくても。いいつけたりしないから」
 話を聞いてくれず、完全に決めつけている様子だ。
 どうしてこんなことになるのか。そりゃまぁ、蒼紫さまはちょっとばかり人を寄せ付けない雰囲気があるし(近頃は随分和らいできたけど)、まして今はいつもと違って私も見たことがない態度だし、そしたら初対面の人にはおっかなく映ってしまうのかもしれない。おまけに私は私でこんな顔だし。誤解させても無理はないのかも。いやでも、いくらなんでもこれは、と困っていると。
「ちょっと田井さん。お客様を"あんな男"呼ばわりするなんて失礼ですよ」
 最初に出てきた仲居さんが窘めるように割って入ってくれた。
「ごめんなさいね。この人、悪い人ではないんだけど少しばかりお節介で」
「ああ、いいえ。あの、急須をおかりできますか?」
「え、部屋になかった?」
「ないみたいでした……」
「あら嫌だ。ごめんなさいね。……もう田井さん! 妙な詮索ばかりしてないで、しっかり仕事してちょうだい!」
 更に叱咤を飛ばされて田井さんと呼ばれた仲居さんはすごすごと奥へ消えた。
 それから、最初の仲居さんが急須を乗せたお盆を渡してくれる。そこには可愛らしい桜の花びらの形をした茶菓子も添えられていた。
「お詫びに。食べてね。甘い物は落ち着くから」
「ありがとうございます」
 親切心を有難く受け取ったけれど、やはりそれは何か誤解されたままなのだろうかと少しばかり後ろ髪引かれながら、私は部屋へと戻る。
 普通に歩いても急須のお茶が零れるようなことにはならないだろうけれど、それでも零さない名目だと言い聞かせて故意にゆっくりと歩きたい気持ちと、あまり戻らないとそれはそれで後々気まずい思いをするだろうとの心配とで、どっちつかず、のらりくらり、時に早足に、なんとも怪しい足取りで部屋の前に辿りつく。
 襖を開けて中へ。
 蒼紫さまは懐手をして目を閉じていたけど、私に気付いてこちらを見た。
「随分と遅かったな」
「あ、うん。ちょっと色々あって」
 色々? と不審げに問われるけれど、内容を話すのも憚られる。蒼紫さまを酷い男と誤解されたなど言えるはずなく、私はなるべく明るい声で、
「うん。面白い仲居さんでね、お茶菓子ももらっちゃった」
 傍まで歩いて行き座るとお盆を机に乗せた。
「ほら。とっても綺麗でしょ」
 もらった茶菓子を蒼紫さまの前と、自分の前に置き、急須からお茶を注ぐ。茶葉は開ききって少しばかり濃いけど、蒼紫さまは苦味のある方が好みだからちょうどいいだろう。どうぞ、と差し出す。
 蒼紫さまは湯呑を手に取りすする。一口、二口、三口飲むと机に置いた。
 それから、茶菓子の乗った器に触れる。食べるのかと思ったけど、人差し指で触れて動きを止めた。言葉を、選んでいるのがわかる。
――くる。
 私は気付かれぬように膝の上に置いた手を握る。だけど、
「お前は、どこへいっても誰とでも親しくなるのだな」
「へ?」
 妙な声が出る。思っていた内容とは随分と違ったから。
「こちらで店の手伝いをしていたとも言っていたな。評判の店員となったと」
「いや、あれは薫さんが大袈裟に言ってるだけで別に普通、だと思うけど」
「そうか」
 そうだよ。と答えると蒼紫さまはまた黙る。  
 私は少しやきもきした。単刀直入に物を言う蒼紫さまが遠まわしに話をする。それもいつにない態度だった。ついさっきまで"いつもと違う振舞い"に恐怖を感じていたのに、私の内にはもやもやとした感情が増幅される。恐怖が限界に達して、別の何かにすり替わってしまったような。嫌なことから逃げられないならば、早く言ってくれた方がいいと。ここまできたのだ。
「……それで、話って何?」
 言って、と腹を決めて私から促す。けれど
「お前は、どこへいっても誰とでも親しくなる」
 蒼紫さまは相変わらず茶菓子を見つめたまま、同じ言葉を繰り返した。
「蒼紫さま?」
 咎めるように問いかける。私の言葉を無視するような態度に、どんどん不快さと不信さが募る。もしかして、話したいことなどないのではないか。そんな疑いが。
 けれど。
「お前はどこにいても、やっていけるだろう。俺などいなくとも、」
 油断大敵とはこういうことなのだろうか。急すぎるほど核心を。
 それはつまり、だから一人でやっていけとの最後通牒なのだろう。
――やっぱり良くないことだったじゃない。
 八つ当たりめいたことが心を煽れば私の視界は瞬く間に滲んでぼやけた。


◇◆◇


 わけがわからぬ。
 気付けば操が泣いていた。
 視線を合わせることが出来ずにいたが、いい加減こちらも覚悟を決めて話そうと操を見れば、声もなく大きな目から涙を流していたのだ。その光景を目の当たりにして言葉が出ない。呼吸も出来ず見いる。とかくわけがわからなかった。
――何を泣いている?
 生まれたのは疑問。俺は操が泣くようなことを言ったろうか。考えてみるが思いつかない。まだ何も言っていないのだ。今から、という状態だった。それが。
 いや、しかし、意味もなく泣く、ということはないだろう。やはり俺は操の気に障ることを言ってしまったのだ。されば、何を言ったか。もう一度慎重に思い返してみる。
 宿へ着いて、部屋に入ると、落ち着く間もなく操は茶をもらってくると出て行った。
 一人になり、感情を鎮める時間を持てたのはよいが、しばらくしても操が戻ってこない。さすれば今度は何か問題でもあったのかと――どうも俺はここの仲居に睨まれているらしく、それ故に嫌な対応でもされているのではあるまいかと危惧した。
 どうしたものか。迎えに行くか。いやいや、茶をもらいに行ったぐらいで迎えに行くのはいささか大袈裟か。
 思案していればようやく聞きなれた足音が廊下から響き安堵する。
 戻ってきた姿に、遅かったなと尋ねれば、心配に反し懇意になり茶菓子までもらってきたという。まったくの杞憂であった。
 もらったという茶菓子を俺の前にも差し出してくれる。
 桜の花びらの形をした薄桃色の菓子は美しい。俺はそれに手を伸ばししげしげと見つめた。
 操は気立てのよい娘であるし、愛想もよいし、明るいし、人好きする。俺などより余程上手く立ち回れる。
「お前は誰とでも親しくなるのだな」
 俺はその言葉を繰り返した。操にというより俺自身に。
 それが、真実であると。操は俺を好いてくれていたが、俺がいなければ生きていけぬというわけではない。仮に俺がいなくなっても、悲しむことはあれ幸せになるだろう。自ら光を放つ太陽がごとく操の存在が人を照らす。そして、その光は操自身をも満たす。誰がいようがいまいが関係なく自ら幸せになる。操はそういう娘だ。
 ただ、俺が――俺は操がおらねばどうにもならない。
 罪を犯した俺が、生きて市井の者としての生活を送っている。それはすべて操あってことだ。操が俺を求めてくれたから、俺に光を注いでくれたから。それを後ろめたく感じ分不相応であると言い訳しながら、俺のような男が今更人並みの幸せを掴むなど叶うはずがないと言いながら、その実しかと操の与えてくれる温もりを甘受してきた。
 一方、俺は操にどうであったか。
 操に娘らしい楽しみを持たせてやれたろうか。
 答えは否。そんなことは出来ないと考えていた。罪深い自分が普通の男が娘に対する振る舞いなどしてはならぬと。そのようなことが許されるはずがないと。信じたが。しかし、それで辛い思いをしていたのは俺ではなく操だ。己は操から光明を注がれ続けていたというのに、操のために何がしかをしたいと思うよりも、自分の過去にばかり執心した。結局俺は己の負うべき苦しみを操に背負わせ、自分はぬくぬくとした幸せを味わっていたのだ。
――なんと、厚顔無恥な。
 それを操が俺の傍から離れてしまうかもしれぬというところまできてやっと気付いたのだ。
 だから俺は、伝えねばならないと東京まできた。
 もう手遅れかもしれぬがそれでも、操が、本来ならば味わえていたはずの幸せを、俺にさせてもらえまいかと。もう己の身ばかり考えるような愚かな振る舞いはせぬからと。"普通の男のすることなど俺には出来ない"など甘えぬからと。己の過去を操に背負わせることも。それを伝えねばと、
「お前はどこにいても、やっていけるだろう。俺などいなくとも、」
――だが俺はお前がおらねばならない。どうか傍にいてくれないか。
 そう告げようと、ゆっくりと視線を操に向けたが。されば操は泣いていた。
 どう考えてみても泣かせるような言葉はない。
 ならばこの涙の意味は――緊張が高まりすぎて泣きだしたか。或いは、俺と話をすることを厭う気持ちか。
 考えついた答えに愕然とするがありえる。身勝手で独りよがりな行動を取り続け愛想をつかされていたのだ。それでもじっとしておれず東京まで追いかけてきたが、操は俺の姿に困惑していたし宿に来るのも躊躇っていた。浅草から戻ったその顔は泣き腫れていたのも知っている。俺の話など聞きたくないと神谷の娘に泣きついていたのかもしれぬ。それでも俺は気付かぬふりで操を連れ出してきたのだ。
 操は我慢の限界を迎え泣きだしたのか。
 そうであったとして、俺はどうすべきか。
 おそらくは操の意に沿うように黙って京都へ戻るのがよいのだろう。これ以上苦しめぬようにしてやるのが。そして俺は操を諦める。操にとってはそれが納まりよいに違いない。だが、
――俺はそれでよいのか。
 たちまちに衝動が。
 操がどのような結論を出そうとも、俺の気持ちだけは言っておきたかったのではないか。操が迷惑がるからと告げずにいるのは本当に操のためか。明瞭な拒絶の言葉を聞かされると逃げ腰になっているだけではないか。
 脳内には目まぐるしく自問が浮かぶが、どれにも応えられずにいる。
 その間も操は泣き続けていた。相変わらず声もないまま静かに涙を流す。
――可哀相に。
 自問を割り入るようして生まれた感情。いとけない姿が胸を締め付けてくる。可哀相にと――俺のせいで泣いているというのに慰めてやりたい涙を拭ってやりたいと、考えるよりも腕が伸びた。しかし、触れた瞬間、しくじったとの思いが。操は俺に触れられることを快くは感じないだろうと焦る。だが、操は避けることなく、それをよいことに俺そのまま頬を拭った。
 操は伏せ目がちだった視線をゆっくり上げて俺を見る。
 唇が僅かに動く。しかし、聞き取れない。
「操?」
 なんだ、と尋ね返せば、
「……いやだ」
 言葉に頬を撫でていた右手を止めた。やはり嫌かと。わかっていたが、避けられなかったことで大丈夫なのかと安易に思った自分を恥じる。何より、正面切って告げられると想像以上に心をえぐられる。厭われているのだから早く離してやらねばと思えど、手は硬直したように動かない。指先を伝う操の温もりを、手を引いてしまえば二度と感じることが出来ないと思えば尚更動かせない。だが、もたついていれば再び拒絶の言葉を聞かされる。それはそれで耐えられぬ。どちらも飲めぬ代物であったが、俺は右手に力を込めた。そうでもせねば震えてしまう。そして、息を飲み込み離そうとそっと動かしたが。
 しかし――俺の手を操のそれが捕えた。強く握りしめてくると、
「嫌だよ。蒼紫さまと別れるなんて、嫌だ。やだよ」
 そして少しばかり止まっていた涙がまた勢いよく流れ出す。
 されば、俺がいかな気持ちになったか。説明も出来ぬ。わけがらからなかった。物事には筋道というものがあり、脈略というものが存在するはずが。何故、操が突然俺と別れたくないなど言いだすのか理解できない。俺は操に別れたいなど言った覚えもないし、言おうはずがない。それが。
「操。落ち着け。泣いていてはわからぬ。何故俺と別れたくないなどと言いだすのだ」
 まず確認せねば話も出来ないと考えるより言葉が口を出る。
 俺は空いている左手で今一度操の頬に触れた。先程と違い、ほとんど号泣に近しい涙は拭っても拭っても拭いきれないが宥めるように撫で続ける。
「私が、東京に来た、の、は、蒼紫さ、まを嫌っ、てじゃない」
 泣きすぎて呼吸をうまく出来ない様子で、息絶え絶えで告げられる。聞きとりにくかったが言葉そのものはどうにか理解する。しかし言葉の意味が解さない。俺を嫌って東京へきたわけではないと言われれば、操は今も俺を好いてくれているのかと多少安堵するが、先刻の操の言葉に対しても、俺の問いかけに対する答えとしても、微妙に繋がらぬ。
「京都に、帰らなかった、の、も、蒼紫さまを、嫌がっ、て、じゃない……時間が、ほしかっただけ、なの、に」
「ああ、そうだな。お前は時間がほしいといっていたからな」
 黙っているのも返って不安にさせるかもしれぬと相槌を打ってみる。
 しかし、それが逆に操の気持ちを煽ったらしく、
「だったらどうして待っててくれないの!」
 それまでと一転勢いよく怒鳴る。操が俺に向けてかように強い言葉を言うことはほとんど記憶にない。泣いて感情的になっているといえ、それ以前から溜めこまれたものがあるのだろう。
「私は、ちゃん、と考えて、ちゃんと、気持ち、整理し、て、それ、で、蒼紫さまのとこ、ろへ、戻ろうって、思ってた、の、に、それ、な、のに、蒼紫さまは、」
――ああ、
 操は自分を信じて待っていてほしかったのか。俺に、京都で待っていてもらいたかった。それを俺が待ち切れず、不安に感じて追いかけてきたことを不満に思っている。
 言われてみれば、確かに操が怒るのも無理はないのかもしれぬと感じる。これまで操は俺の帰りを黙って待ってくれていたが。しかし己がその身となれば、待ち切れず追いかけてきたのだ。待つ身の辛さがかほどとはついぞ知らず。操が俺に与えてくれていたものがいかに難しいものであったか。やはり俺は甘え過ぎてきた。
「待って、くれ、な、かった」
 操は繰り返す。
 余程頭にきているのだろう。謝らねばなるまい。事態を把握して俺はようやく謝罪を口にしようとしたが、
「待ってくれ、ず、に、私と、別れ、るって、決め、た」
「全くそうだ。待ちもせずお前と別れ――は?」
 今、操は何と言った。
 俺が操と別れると決めたと。そう言ったか。
「……お前は何を言っている」
 自分でも驚くほど間の抜けた声であった。


◇◆◇


 涙が溢れて苦しい。息が上手く吸い込めずクラクラする。
 瞬きをすると視界は明瞭になるけれど、すぐにまた涙で曇る。その繰り返し。
 体は悲鳴を上げて泣き崩れた。
 その、反面で思考は妙に冷静だった。
 私が距離を取っても、蒼紫さまはそれを埋めようとはしない。去り行くなら止めたりはしない。だから東京へ行くと決めた時も、追いかけて来てほしいなんて大それたことは思わなかった。ただ、それでも私のことを好いてくれているならば、待ってはいてくれるのではないか。私がもう一度、気持ちを整理して、蒼紫さまの元へ帰ったとき、受け入れてくれるのではないか。そう、思っていた。
 かすかな願いと希望を心の深くで抱いていたことがあぶり出される。同時に無数の針が胸を突き刺していく。
 叶わなかったから。
 私の望みは叶わず、結果――蒼紫さまは待っていてくれなかった。別れを言うために東京まで来たのだ。
 胸と喉の真ん中辺りから込み上げてくる熱に焼き尽くされてしまいそうだ。あまりに強い悲しみが私から気力を奪い、とめどなく涙だけが零れる。
 それでも私はやっとの思いで、別れたくないと言葉にした。蒼紫さまは熟考する人で発した言葉には重みがある。あらゆる選択を思案し最良と思えるものと述べているのだ。だから、考えを覆すことは難しいとこれまでの経験で知っていた。それでも言わずにいられない。東京に来てから思い悩み、このまま戻るわけにはいかないと感じていたのが嘘みたいに、離れたくない、別れたくない、傍にいたいと。
 そんな私の言葉に蒼紫さまは「何故俺と別れたくないなどと言いだすのだ」と告げた。
――何故?
 心底わからないという問いかけに眩暈は酷くなる。
 けれど、その疑問は当然なのかもしれない。
 蒼紫さまを拒絶し、逃げるように東京へ来て、なかなか京都に帰らずにいたのだ。蒼紫さまは"私が別れたがっている"と考えているのだろう。望み通り別れてやると言っていのに何故泣くのか不思議で仕方ないのだ。でも、
「私が、東京に来た、の、は、蒼紫さ、まを嫌っ、てじゃない。京都に、帰らなかった、の、も、蒼紫さまを、嫌がっ、て、じゃない……時間が、ほしかっただけ、なの、に」
 私の気持ちだけでも伝えねばと。うまく言葉が出なかったけれどそれでもどうにか口にする。
 すると、蒼紫さまは私の頬を撫でながら、
「ああ、そうだな。お前は時間がほしいといっていたからな」
「だったらどうして待っててくれないの! ……私は、ちゃん、と考えて、ちゃんと、気持ち、整理し、て、それ、で、蒼紫さまのとこ、ろへ、戻ろうって、思ってた、の、に、それ、な、のに、蒼紫さ、ま、待って、くれ、な、かった。……待ってくれ、ず、に、私と、別れ、るって、決め、た」 
 待ってくれなかった。
――ひどいよ。
 何年も、ずっと思い続けてきた恋心が、ただ一度の躊躇いで駄目になる。わずかな迷いも蒼紫さまは許してはくれなかった。やはりそれほど私のことなど好きではなかったのだ。心が揺れるならば別れて他の男と幸せになれとあっさり思ってしまえるのだ。ひどい――否、だけど私が悪いのか。蒼紫さまは私と夫婦になると約束し、傍にいると言ってくれたのに、物足りずに欲を出した私が悪いのかもしれない。
 だけど、でも。
――ひどい。
 その気持ちが押さえられない。
 蒼紫さまは何かをぶつぶつ言っていたけれど、そんなもの聞きたくない。もうこんなところにいたくない。
 私は触れていた蒼紫さまの手を離し、触れられていた蒼紫さまの手を払い、立ち去ることにして行動に移す。
 まだ話の途中であり、蒼紫さまは自分の言葉を無視して私が逃げ出すとは思っていなかったからなのか、或いはもう追いかけてくる気はないのか、行動はうまくいった。すんなりと部屋を出ることに成功した。
 このまま神谷道場まで帰ろう。後のことは今は考えない。
 私は走った。走って――階下へ続く階段が見え始める。一挙に駆け下りようとしたけれど、その直前にふわりと浮遊する感覚が。体の自由が奪われる。背後にはよく知る気配。ひょいっと腰に腕を回され抱き上げられている。
「どこへ行く気だ」
 低い声が聞こえた。
「どこだっていいでしょ。いやだ! 触らないで」
 けれど私の抵抗など造作もないという感じで今来たばかりの道を連れ戻される。
「いやだ。いやだってば! 離してよ」
 叫ぶけれど、他のお客さんの迷惑になると考えたのか蒼紫さまは声を荒げる私の口を塞いだ。うーうーと言葉にならない声が洩れる。
 こんな状況でも周囲のことを考える余裕に腹が立った。私がこんなに傷ついて悲しんでいるのに、蒼紫さまはちっとも平気なことがたまらなく辛くて、口を塞ぐその手を必死にはがそうとする。けれど、両手でもってしても敵わない。何も勝てないのかといたたまれなさは募る。悔しくてやるせなくて私は執拗に抗い続けた。
 そうしている間に、ついに部屋まで戻される。襖は開け放たれたままだ。追いかけてくるとき閉め忘れたのだろう。
 室内に入る。
 私を抱きかかえたままだから両手が塞がっていたけど肩で器用に襖を閉め、それから座敷のところまで進み座る。
 少しするとようやく私の口を押さえていた手が緩んだ。だけど私の興奮は収まってはいない。引き剥がして勢いにまかせて噛みつく。ちょうど親指と人差し指の付け根のところを容赦なく。これは痛いはずだ。なけなしの私の抵抗――けれど、どういうわけか蒼紫さまはやめさせようとはせず私に噛ませたままで、無事なもう片方の手で私の頭を撫で始めた。
「落ち着け」
 短く一言告げると次は頬と、背中と、癇癪を起した幼子をあやすみたいに丁寧に撫ではじめる。その行動は怒りを鎮めさすには十分だったけれど、代わりに私を惨めにさせた。
 何をしても受け流される。
 私は子どもなのだ。蒼紫さまにとって子どもでしかない。
 自分の行動を振り返っても、このような振る舞いをしていながら大人として扱って欲しいなど厚かましいけれど。でも蒼紫さまの動じなさに絶望的な気持ちになった。結局私は少しも相手にされていない。
 噛んでいた手を離す。くっきりと赤く歯型がついている。それを見ると悲しくて、悲しくて、
「ふぇぇ」
 これでは本当に子どもだと言わざるを得ないけれど洩れる声を留められない。二十歳を過ぎた娘のすることではない。こんな目に遭わされて泣きたいのは蒼紫さまの方だろうと思うけれど、私は声を上げて泣き続けた。


◇◆◇


 長いとは言わぬがそれなりの時間を生きてきた。人が行わぬ経験も積んできた。それ故、ある程度のことならば対処できると考えてきた。たが、今は、その思いが風の前の塵の如く吹き飛んでいる。
 操が何を考え、何を感じているか、さっぱりわからぬ。
 年頃の娘とは皆、かようなものなのか。
 泣きだしたかと思えば、俺の話を無視して部屋を走り去っていく。あまりのことに一瞬反応が遅れた。それをどうにか捕まえて後ろから抱え込むが声を荒げて暴れられる。騒動にでもなれば操と話す機会が先延ばしになるだろう――それは難儀であると口を塞いだ。されば、操は抵抗してきたが強引に連れ戻る。
 しかしながら、このような場を人に(あの仲居にでも)目撃されれば、娘を手籠めにしようとしているとまたあらぬ想像をされるかもしれぬ。俺はどう思われようが今更どうということはないが、操が。旅の恥はかき捨てといえど、勝手な誤解をされ噂話になるようなことは不愉快だ。それ故に、俺は先を急いだ。幸い部屋に戻るまで人と出くわすことなく安堵する。
 だが、状況は相変わらず俺の理解を超えている。
 操は部屋に戻ると俺の手を噛んできた。
 加減もなしに噛みつかれ痛みが駆け抜けるが、噛まれた俺より、噛んだ操の方が辛そうに見える。
 何が辛いのだと声をかけようかと思うが、下手な言葉を発すれば操を更に刺激するかもしれぬ。言うことなすことが裏目に出続けている今はより慎重にならねばならない。しばし思案して「落ち着け」とその身をさすってやる。されば操は俺の手を離した。かと思えば声をあげて泣き始める。
 何がそれほど悲しいのか。
 俺にはやはり理解できぬが。
「操、」
 思いつく言葉はそれしかなく告げる。
 操は一向に泣きやむ気配がない。呼吸は乱れ泣きじゃくっている。その姿は酷いものであった。うんざりし嫌になってもおかしくなかろうという癇癪だ。一層、そうなってくれればと思う。そして、操を諦めてやれたら状況は丸く納まるのかもしれぬと。だが俺は操の様子に胸を突き刺すような痛みと、やるせなさと、そしてその奥でどうしようもないほど愛おしさが。操のいかな振舞いも操であるならば俺はもう何でもいい。たとえ俺を疎んじていても構わぬから傍に置いておきたい。
 細い腰を抱え込みなおして僅かに開いている距離を詰めるように引っ張り寄せる。
 操は泣くことに忙しいのか厭われることはなかった。甘い香りが鼻先をつく。俺は操の髪に唇を落とした。
「何が気に食わぬ。どうすれば気が治まる」
 懇願するように問うが、
「……子ども扱い、しないでよ」
 震える声で返される。
「子ども扱いなどしていないだろう」
 そうであったならばいかほど楽であったか。昔のように――操を年若な者であると見られていた頃はこのようなことはなかった。操は喜怒哀楽の素直な娘であるから、全ての感情を俺にぶつけてきたが余裕を持って受けとめられていた。怒ったり拗ねたりする態度も、そのうち落ち着くだろうと。されば元に戻ると考えていられた。だが今は自信がない。下手な対応をすれば操が離れていくのではないかと恐怖に襲われる。己の心変わりに呆れながら、だが当時の自分には戻れぬし、戻りたいとも思わない。操をこの腕に抱けぬような日々は今や考えられなかった。
 触れてしまうと伝ってくる温もりに持ち続けた願望が押さえきれなくなる。瞼に頬に鼻頭にと唇を寄せる。ただ口元にだけはやはり躊躇いが。その他の場所とて許される状況ではないだろうとは思うが、止めることも出来ず繰り返した。さすれば案の定咎めの声が、
「どうしてこんなことするの?」
 そこに先程の荒々しさはなく頼りなげだった。
 操の細い腕が俺の胸元を押す。その力もまた弱々しい。俺は操の手を取った。掌と手首の際辺りに凝りもせずに唇をつける。
 己の吐息が確実に熱を帯びていくのがわかる。
「操、」
 視線が。涙で濡れた眼差しと合う。
「お前に、惚れている」
 するりと出た言葉に驚いたのは俺自身であった。よもやかような台詞を正面から言葉にする日がこようとは。だが己の内に留めておくことも出来ずに気付けばそう告げた。しかし、
「……どうして、そんなこと言うの? 私のことからかって楽しい? ひどいよ」
「からかってなどおらんだろう? お前こそ何故そんなことを……俺が惚れていると言うのがそれほど可笑しいか」
 生涯、初めての"告白"をかように言われては俺も流石にむっとするというもの。自然と声音は強張るが、さすれば操の目には再び涙が滲み始める。泣かれてしまえば分が悪い。惚れた女の涙には弱いと――情けないがそれは事実のようで感じていたはずの怒りはたちまちに消滅し、代わりに焦りが迫ってくる。冷徹であるとまで言われた過去は遠く、心臓が異様な早さで脈打つ。どうにかして泣きやませたいと、そうでなければ俺の身が持たぬと、零れる涙を拭うように今一度目元に唇を寄せるが。触れるか触れぬかのところですっと避けられた。
「どうしてこんなことするの!」
「操……」
「別れるって言ったくせに、どうして口づけしたり惚れてるって言ったりするの。馬鹿しないでよ!」
 本日二度目の言葉に不可解さが。
「俺がいつお前と別れるなど言った」
 そんなこと何をどう間違っても言うはずがないだろう――という意味を込めて告げる。しかし操は泣き顔から真っ赤な怒り顔になり、
「言ったじゃない! さっき、ここについてすぐに、お前はどこにいても、やっていけるだろうって。俺などいなくとも平気だろうって。だから一人でやっていけって言った」
 幾度目かの理解の凌駕が起きた。
 確かに俺は「お前はどこでもやっていける」と口にした。だが、"一人でやっていけ"など言っていない。俺が続けたかった言葉は別にある。それを操が早合点して俺が別れたがっていると思い込んでいたなど。勝手な解釈で俺を責め立ていたのかと。
 だが、人は"何もない"のに思い込んだりはしない。俺が別れを切り出すに違いないと操が感じていたからこその誤解なのだろう。なれば、俺にも非がないわけではない。
「……蒼紫さまは私と夫婦になるって言ってくれたのに。せっかくそう言ってくれたのに。私がそれだけでは満足しなくて、蒼紫さまの過去に嫉妬して、欲張りになって、それで自分から蒼紫さまを締めだして、東京まで逃げてきて……そんな真似をした私が悪いけど。でも私は、ちゃんと気持ちを整理して、蒼紫さまのところへ帰ろうって思っていたのに、でも蒼紫さまは待ってくれず、別れようって言った」
 告げられた言葉と、一時前の操の言葉と、操の誤解を知り反芻さすれば数珠のように繋がっていく。その怒りも苛立ちも悲しみも、俺に対する不信感も。しかしながらそれはどれも勘違いであり曲解である。
 ようやく見え始めた真実が己のせねばならぬことを明瞭にしてはくれたが。
「東京に来てから、ずっと考えてきたの。どうして私は過去のことに執着してしまうんだろう。言っても仕方がないことなのに拘ってしまうんだろう。その理由がわからずにいたけど、私は羨ましかったんだって。蒼紫さまはその人たちには"恋人"として接していたのかもしれない、でも、私がそれを望むことは叶わない。蒼紫さまは辛い思いをして、そのことで自分を責めて、普通の振舞いをすることなんて許せないって思ってる。わかってる。わかっていたの。そもそも蒼紫さまも最初にそう言ってたもの。私に対しても"普通の男と普通の幸せを掴め"って。自分はそれを叶えてやることは出来ないって。それでも私は蒼紫さまと一緒にいたいって我儘を通した。それなのに今になって私は、普通の娘が恋人とするようなことをしたいって気持ちを捨てていなかったことに気付いた。私が本当に執心していたものに――だから蒼紫さまが嫌になるのも当り前で、愛想を尽かされても何も言えないけど、でも私は蒼紫さまが好きなの。蒼紫さまと離れたくないよ。もうそんな願い二度と思わないから一緒にいてほしい」
 話すうちに荒々しい感情は削ぎ落されたのか、次第に声音は弱々しくなるが、反して俺の心は打たれた。
 己のことに執心し、操の娘としての幸せを慮ることもなく。だが、操はそれでもじっと耐え、あまつそのような願いを持つ自分を責めていたと聞かされれば、溢れ出るのは情けなさである。俺のような男は、とうの昔に見捨てられていても仕方がない。それを――怒りながらも、泣きながらも、それでもまだ俺を好いてくれていると聞かされれば募る想いがある。
 掴んでいた手を離し両手で操の頬を包むように触れた。 
「別れる気などない。俺とてお前と離れるなど考えられぬ」
「でも、」
 反論してこようとする唇に己のそれを重ねる。
 しっとりとし、柔らかく。この半月の間、欲し続けた。
 言わねばならぬことがある。俺は操の気持ちを理解したが、操はまだ俺の思いをわかっていないのだ。操に伝えねばならないと――だが甘い感触が名残惜しく決断が少しばかり遅れる。それでもどうにか距離を取る。
 鼻先が触れ合う。操は真っ直ぐ俺を見つめていた。
「お前に愛想を尽かすなどあるわけがない。尽かされるならば俺の方だ。自分だけがお前から幸福を与えられ、お前には何一つしてこなかった。その事実に、お前が俺の傍を離れてやっと気付いたのだ。これまでのことを省みて恐ろしくてしかたなかった。もうお前は俺の元には戻ってはこないだろう。それは当然だと思うが、そんなこと到底受け入れられるものではない。それ故俺は東京へ来たのだ。どうか俺の傍にいてくれまいかと告げるためにここへ」
 そこまで言うと、目の奥から込み上げてくるものが。
 考えてきたことを言葉にするとその衝動は思っていたより凄まじく、己がどれほど操を渇望していたのか否応なく突き付けられるような気がした。
 傍にいて欲しい。
 感情は強靭で、もう俺の中にはそれしか残っていない。操が俺の傍にいてくれることが俺の全てであった。そうであるのに俺はこれまでこの思いを叶える為の行動を一つとしてとらなかった。ただ願うだけ――否、願うことも"おこがましい"との甘えで隠し、操がそうしてくれていることに胡坐をかいていた。失っても文句は言えまい。
 何故俺は素直にならなかったのか。
 目を閉じれば熱いものが頬を伝う。いい年をした男が、女子の前で泣くなど滑稽である。それでも狡さや卑怯さをあぶり出すように零れ落ちる。


◇◆◇


 蒼紫さまが泣いている。
 認識した瞬間、何もかもが吹っ飛んだ。
――どうして、こんなことになっているのだろう。
 何が、どこで、どうなったらこんなことに?
 さっぱりとわからない。これは夢なの? そうかもしれない。こんなこと現実に起きるとは考えづらいから。
 けれど。
 静けさの中に生まれる微かな空気の振動であるとか、座っている畳みのざらざらとした質感であるとか、蒼紫さまの向こうに見える貼り替えられたばかりらしい真白な襖の色が、夢であるにしては鮮明すぎて、間違いなく現実なのだろうと思い直す。それでも念のため、頬をつねってみたり。痛い。やはり夢ではない。
――じゃあ、ホントに泣いてるの?
 でも、どうして? こうなる前、何があったんだっけ? 
 確か最初は――そう初めは、私が、蒼紫さまと離れたくないと泣いていたはずだ。そして私が思っていたことを一気に吐き出したんだ。本音では何を願っていたか。何を望んでいたか。
 それを黙って聞いてくれ、話し終わると蒼紫さまも私と離れる気はないと言ってくれた。だけど私は信じられず反論しようとしたら口づけが――そうだ、口づけをされた。久しぶりに触れる蒼紫さまの唇はやけに熱くて、私はその辺から頭がぼーっとなったのだ。言葉で「離れる気はない」と言われても疑う気持ちは消えなかったのに、その唇を介して伝う熱さは不安を溶かしてしまう。
 目を閉じてじっと動かずにいる蒼紫さまの顔を見ているとたまらない気持ちがして自然と濡れた頬に手が伸びた。さっき蒼紫さまが私の涙を拭ってくれたのと同じように撫でる。
 少しだけ冷たい肌。ああ、蒼紫さまだ、と思った。
「蒼紫さま……」
 黙っていられず名を呼んだけれど何も言わずそっとしておくべきだったかもしれない。たぶんきっとこんな姿は蒼紫さま自身も予想外だったろうから。
 蒼紫さまは閉じていた目を開けた。
「情けないな」
 自嘲するような。
 私は黙ったまま首を左右に振った。
「触れてもよいか」
 躊躇いがちに問われて、この状態で否ということも出来ず今度は首を縦に振る。そのまま膝の上に横抱きにされたので、私は蒼紫さまの右肩に顎を乗せて抱きついた。すると、蒼紫さまの大きな手が私の後頭部を撫でる。何度も、何度も。
 蒼紫さまの腕に身を任せるようになってから、よくこうされた。私を抱き上げて頭や頬や背を撫でまわす。まるで小さな子どもか或いは猫にでもするような。だから私は面白くないと文句を言ったことがある。私は立派に成人した娘なんですからね、と。けれど本当はそれほど嫌いではなかった。
「お前に触れていると落ち着く」
「お母さんみたい?」
 私は尋ねた。もっと他に言うことがあるような気もしたけれど、ふと脳裏に薫さんが剣路くんを抱く姿が浮かんだから。少しやんちゃな剣路くんはよくこけて怪我をする。緋村や私が抱き上げても全く泣きやまないけれど、薫さんが抱くと嘘みたいに泣きやむ。母というのは子を落ち着かせる何かを有しているのだろうか。最も、今抱かれているのは私の方なのだけれど。
「……さぁな。物心ついた頃にはすでに親はいなかった」
「うん、私も。でも蒼紫さまがいてくれた」
「ならば俺は父親か?」
 私は肩に預けていた顎を引いて蒼紫さまを見た。その顔はなんだかふてくされているように感じられた。
「父親じゃないよ。兄でもない。……でもそうであったらよかったなって思ったことはあるの。葵屋に預けられて、しばらくした頃かなぁ。もし蒼紫さまと血が繋がっていたら、私は連れて行ってもらえたんじゃないかって考えたことはあるんだよ。他人だから余計に、巻き込めないって置いて行かれたけど、もし血が繋がった妹だったら違ってたんじゃないかって」
 けれど私の問いかけには蒼紫さまは答えてくれなかった。代わりに、
「だが、兄妹でなくてよかった。そうであったならばお前をこの手に抱くことは叶わなかった」
 でも、そしたら、こんな風に揉めたりすることもなかった。離れるかもしれないと不安を感じることもなかった。男女として結ばれなくとも、血という絶対的な繋がりがあるから。もしかしたらそちらの方が良かったのではないかと、少しだけ心を過る。でも、
「操」
 それまでと少しだけ違う凛とした声で名を。だから私は僅かに緊張する。
「お前に心底惚れている。身も心も何もかも欲しい。それが叶わなかもしれぬと思えば泣くほど辛い。こんな情けない男だが、傍にいてもらえないか」
 それは蒼紫さまから初めて聞く言葉だった。 
 婚約し、夫婦になると決めたけれど、私を好きだとかそういうハッキリとした言葉を言われたことはなかった。それでも"夫婦となる"と行動で示してくれたことが蒼紫さまの気持ちだと思うことにした。でも心の奥では、明瞭な言葉がないことは寂しいと思うし、それ故に不安を感じることもあった。それが。
 驚きで言葉が見つけられずにいると、
「もう二度と"望まぬ"などとも言わせないから」
「え?」
「お前がさっき言ったこと――普通の恋人のようになりたいなど願わぬと、そんなこと言わせないと誓う」
 気圧されるような強い言葉に私の体は固くなる。
 ただ、言われたことがどういう意味を持つか、混乱しているせいもあり私はよく飲み込めず、自然と眉間に皺が寄る。すると蒼紫さまは私の額に口づけて、
「これから先、お前が俺のことで何かを我慢する必要はない。元より我慢などさせてはならなかったのだ。それを俺が愚鈍なばかりに無理を強いた。俺はお前の……操の傍でしか生きられない。操を失って生きては行けぬ。それ故に、傍にいられるように、俺が出来ることはなんでもせねばならんかったのだ。それをせずにいたことを許してくれるなら、まだ傍にいさせてもらえるならば、もう何一つ我慢などさせない。願いは全部叶えてやる――いや、叶えさせてもらえないか」
 思ってもみなかったことばかりが起きる。こういうのを厄日っていうんだっけ? でも厄日って悪いことが起きることを言うんだっけ? 言葉を把握するのが難しくて、そんなとりとめのないことばかりが浮かんでくる。
「……操。何か言ってくれ。黙られると、辛い」
 それもまた、言われたことがない言葉だ。いつもやかましいくらいおしゃべりをして、少しは落ち着けとか、もう少ししおらしくならんのかと言われることはあっても、黙っていないでくれなんて。それも普段無口な蒼紫さまから言われているのが奇妙だった。
 それでも私は何も言えず、ただもう一度、蒼紫さまの首筋に抱きつく。蒼紫さまは私を引き剥がそうとはせず抱きしめ返してくれた。その手が私の背をさする。
「なんだ。その涙はどういう意味だ」
 声を出さないようにしているけれどバレている。
「操、」
 伺うように呼ばれる。
「……き」
「ん?」
「好き。……蒼紫さまが大好き。蒼紫さまだけ。他の誰でもダメなの。蒼紫さましか好きになれないの。普通の恋人がする"でーと"をして、いっぱい楽しい思い出を作りたいって気持ちも、それは蒼紫さまが相手じゃないとダメなの。だけど、蒼紫さまはきっとそんなことはしてくれないって思ってた。言っても聞いてもらえない……ううん、それどころかそれなら他の男を探せって言うと思った。そんな悲しいこと聞きたくない。だから自分の気持ちを誤魔化してきたの。でも、もう誤魔化せなくなって、でもやっぱり蒼紫さまには言えなかった。私の一番の願いは蒼紫さまの傍にいることだから、他の望みはね、それが叶っているから生まれてくる贅沢な願いなの。そのせいで、一番の願いを失うことになるのなら言わずにいた方がいいって思ってた」
「ああ、そうだな。お前にそんな風に思わせて、我慢させていることに気付くこともなかった。本当にすまない」
「違う。蒼紫さまは悪くないでしょ。あれだけのことがあったんだから、そんなの当たり前だよ。それでも私が傍にいたいって我儘言って。蒼紫さまを幸せにするのは私だって大見栄きって、それなのに、私は――」「操。」
 全部言い終わる前に蒼紫さまが強い口調で言葉を重ねた。それは珍しいことだった。蒼紫さまは人が話をしているところへ割って入るようなことはほとんどしない。とにかく全部を聞きだしてから、その後でよく熟考して物を言うのが常だったのに。
「それは違う。俺の過去にいかようなことがあろうと、それでお前が遠慮せねばならんことなどないのだ。そうさせていたのは俺に器量がなかっただけだ。お前が自分を責めることなど一つもない。それよりも、これまでよく我慢してくれていたと――俺はお前がいてくれてずっと幸せだった。だから、今度は俺がお前を幸せにしたい。お前がしたいことを全部叶えたい。過去よりもお前が大事だ。やっとそれがわかった。随分待たせてすまなかった」
 何と言えばいいかわからない。本当に今日は、そんなことばかりが押し寄せてくる。ことごとく私の思いを裏切るようなことばかりが。
「もう何も我慢するな。お前はもっと欲を出していい。これまでも分も含めて俺にしてほしいことは遠慮なく言え。もう一人で抱え込むな。わかったな」
 耳元で告げられる言葉に、私はやはり思いつく言葉はなく、ただ抱きつく腕の力を強めた。


◇◆◇


 吐息が洩れる。それはここしばらく繰り返された憂鬱から来るため息ではなく安堵からだ。
 誤解とは、それが誤解とわかっても解けるとは限らぬ。互いに同時に理解できればどうにかなるが、一方でも思い込みを捨てられずにいたら、いくら説明し弁解したところで聞く耳をもってもらえない。それどころか返って憎まれ嫌われ修復不可能な関係に陥ることも。それ故に、距離と時間を置いて熱が冷めるのを待つのが本来ならば賢い手段なのだろう。だが今回に限っては――距離をとることも、時間を空けることも恐ろしくて出来なかった。たとえそれが最善であれ、己の気持ちが我慢ならぬと。そしてどうにか話をしたが。
――どうにかうまくいった。
 操は俺の膝に抱かれて、首に抱きついて、肩に顔をうずめている。
 その髪や首筋、背に触れて撫でながらも、宥められているのは俺自身だった。よかったと。本当に、この腕にもう一度操が戻ってきてくれたことに体中の緊張が解けていく。
 だが、次第に、落ち着きを取り戻せば顔が見たいと思う。俺はゆっくりとその細い腰に手を置いて体を起こさせようとするが、操は抗った。ぐずるように、埋めた顔を俺の首筋に擦り寄せる。
「操」
 声をかけるが効果はなく。されば今度は顔を傾けて耳元に口をつけてみるがそれにはぎゅっと強く抱きついてくるという態度を示した。
 どうもこれは操なりの甘え方らしいと解釈する。考えてみれば、操がこのようにべったりと長い時間密着してくることはなかった。抱き上げてもすぐに降りようとする。こういうことには奥手な性分で照れてしまうらしい。恥じらう姿はそれはそれで可愛かったが、もう少し抱いていたいと思ったものだ。しかし今は、なんの遠慮もなく自分から身を任せてくれている。顔が見られないなど不満に思わず喜ぶべきかもしれぬ。
 だから俺は己の願望を満たすことはやめて、操のするがままに可愛がろうと思った。のだが――その次の瞬間だった。
「あっ! 今何時?」
 それまでの様子とは一転して、ぱっと顔を上げると大きな目で俺を見上げて言った。しかし、その目には俺に対するわだかまりはなかったが、同時につい今しがた、ほんの一、二秒前まであったはずのしっとりとした雰囲気も消滅しており、"普段"の操の眼差しがあった。
「ねぇ、蒼紫さま、今何時?」
「なんだ突然」
「なんだじゃないよ。帰らなきゃ」
「は?」
 帰るとはなんなのか。お前の帰る場所は俺の元だと、そういうことで話はついたのではなかったのか。
「は? じゃなくて、神谷道場に帰らなきゃ! 今日中に帰るって薫さんと約束したじゃない」
 なるほど。確かに神谷の娘には"今日中に連れて帰ってこい"と釘を打たれたが。あれは俺に合意なく無体な真似はするなという忠告であり、円満解決した今となれば守らねばならない約束ではない。それぐらい神谷の娘とてわかっているだろう。その上で、尚且つわざと口にしたものだ。それを操は額面通りに解釈しているらしい。この辺はまだ子どもというか。だがこの素直さが操のよさでもあるので難しい。
 いや、しかし、この状況でその約束を優先させようとするのはいささかむごいというものではないか。せっかく誤解も解けて、思いも通じ合って、一安心して、されば傍にいたいと感じる。とかく一時も離れたくはないと俺は思っていたし、当然操もそうだと信じていた。だが操は、神谷の娘の言葉を思い出して帰ると言い出した。あまりではないか。
「何も無理に帰らずとも、俺と共にいるとわかっているのだから構わないだろう」
「駄目だよ! きっと心配して待ってるよ。帰る」
 操は俺の言うことを一切聞き入れず、それどころかいともたやすく俺の腕を抜けだして立ち上がった。
「操」
「なーに? 蒼紫さま」
 乱れた身なりを整えながら、のんきな声で聞き返される。なーに? ではない、と俺は思うが。
「こんな時間だ。すでに寝ているかもしれぬ。されば迷惑になる。ここにいろ」
「え、でもそれじゃ、困るじゃない」
「何が困るのだ」
「だって私、帰り支度まだしてないもの」
「帰り支度?」
「そう。蒼紫さま明日の朝の汽車で帰るんでしょ? 私も一緒に帰るよ。その支度、まだしてないの。帰れなくなっちゃうよ。困るじゃない? それとも蒼紫さまは私と帰りたくないの?」
 そこまでは考えていなかった。
 言うように俺は明日の朝一の汽車で京都へ帰る予定にしていた。切符もすでに購入している。俺の気持ちを伝えて、操にはもう少しじっくり考えて戻って来いと、そう言うつもりだったのだ。今になってみれば愚かな計画だった。"なんとしても連れて帰る"と強気にでることも出来ず、しかしそれで操が"俺と別れる"と結論を出してもそれを受け入れる度量もなかった。そうであるのに言うだけ言って逃げ帰ろうと――我ながらつくづくと情けない。
「明日の汽車に一緒に乗れないと、また何日か一緒にいられなくなる。そんなの嫌だよ。もう離れたくない」
 操の言うことは最もだ。今晩数時間離れることを惜しみ、京都までの道のりを一人で過ごすより、今宵一晩我慢して、京都まで二人で戻る方がよい。操が神谷道場に戻ると言い出したのも、全ては俺と居るためかと思えば、感じていた寂しさは現金なほど消え失せて残るのは喜びである。何より、
「ね? だから戻りたいの」
 久しぶりに真正面から何のてらいもない操の笑顔を見せられて、俺に勝てるはずがない。とはいえ、仕方がない。今宵一晩ぐらいは涙を飲んで耐えよう――とはやはりどうしても思えず、
「わかった。ならば俺もそちらへ泊まらせてもらう」
「へ?」
 俺は言葉の通り宿を出て、神谷道場へ向かった。
 こんな夜分に宿を出るなど迷惑な客だと宿屋の者には嫌な顔をされたし、神谷の娘にも"一日ぐらい離れてたって死にはしませんよ"と呆れられた。それに関しては元より双方に快くは思われていなかったこともあり、別にどうということはなかったが、ただ操が俺の強行に関して不機嫌になったことはまいった。それでも今宵はどうしても傍にいたかったと繰り返し、ようやく機嫌が治してくれたが、
「もう二度と、こんな迷惑かけたら駄目だよ」
 と念を押すように、まるで小さな子どもを叱りつけるごとく窘められる。否、そう言われても仕方のない振る舞いであったが。だから俺は誓ったのだ。
「ああ、お前が二度と俺の傍を離れないならしない」
「もう! 私は冗談で言ってるんじゃないんですからね」
 俺とて冗談で言ったわけではないが、何故そこでそのような言葉になるのか、最初は不思議だったが、そう言った操の顔がほんのり赤いので照れているのだろうと納得する。さればその姿が可愛く思えたが、言葉にすればせっかく治りかけた機嫌が悪化するかもしれぬと飲み込んだ。
 そして、その夜、久々に操の傍で眠った。
 無論、他家の内で"そのようなこと"に及ぶわけにもいかなかったが――俺はよいがそんな真似をすればそれこそ操が絶対許してくれないだろうから――それでも操の寝息が聞こえることが心地よく、満ち足りた気持ちで眠りに落ちた。