恋愛初学者。シリーズ
不粋
「蒼紫さま、あとで部屋に行ってもいい?」
夕餉の支度ができたと呼びに来たので共に部屋を出て廊下を歩いている途中、操が蒼紫の袖を引いた。
振り返ると操は庭を見ていた。猫が塀を飛び越えていく。気配がなくなってもしばらく動かなかったが、ふと大事なことを思い出したように蒼紫をの方を向いて、
「じゃあ、あとで行くね」そう言うと傍をすり抜けて先に行ってしまった。
断る気はなかったがまだ返事をしていないのに一人で決めてしまったことを妙に思う。
東京から戻ってきて二人の心の距離は随分と近づいた。時間があれば近所を散歩したり、買い物や甘味処へ行ったりもする。
女子が多い場所に男がいれば目立つ。それが美丈夫とあればなおのこと目を引く。素敵、格好いい、と騒ぐ声が聞こえると操は蒼紫の様子を窺ったが黄色い声音には無表情だ。ただ、操の視線には目だけを細める笑みを浮かべる。そのなんとも深みのある柔らかさに操の胸は高鳴るが、他の者の心もとらえてしまうようで"キャー"と騒ぎが増す。
「もう出よう」辛くなるのは操だった。
注目される蒼紫の同伴者として操にも視線が注がれる。
羨ましいと素直な眼差しだけならやりすごすこともできるが、あんたみたいな女がどうして――悪意に満ちた嫉妬もある。肌を突き刺す不快感に耐えきれなかった。楽しく"でーと"をしたいのにそれが叶わない不満がたまる。
「蒼紫さまの顔がいけないんだよ」無茶な八つ当たりをすれば、
「俺の顔は嫌いか」冗談なのか本気なのか尋ねられる。
「そういうことじゃないの!」と怒ってみせると蒼紫は操を撫でまわした。
そんな毎日が日常になりつつあったが、一方で夜を過ごすことはなくなった。
東京からの帰り路、横浜港と神戸港で一泊ずつしたが男女の睦み事を交わすことはなかった。操に月の物が降りたせいだが、それから葵屋に戻ってもなんとなくきっかけが掴めないまま今に至っている。一応婚儀前なのだからこれが本来の関係なのかもしれぬなと思う気持ちと反面でせんなくなる。そこへ操から部屋に行くと告げられ蒼紫は意味するところを考える。
操が見ていた庭先を眺めれば塀の傍に立っている木の枝から一葉がひらひらと舞い落ちていた。
夕餉が終わり部屋にいると風呂が沸いたと増髪が言いに来た。
風呂の順は蒼紫が最初と翁が決めたことだった。不在にしているうちに操が来るかもしれぬと思ったが後がつかえている。手短に済ませて戻ることにしてカラスの行水――若い頃から体に染み込んだ癖か普段より丸腰となる風呂に長居することはないのだが――のように出てきた。
操が来た様子はない。
落ち着かぬ心持ちを落ち着かせようと書物を読み待つことにする。
それから一刻。ようやく操がやってきた。髪が濡れている。
操が傍にきて座ったので、対峙するように体を向ける。
「よく乾かせ。風邪をひく」
前髪はすかりと乾いていたが、長い後ろ髪はまだ水気が多い。急いでここへ来たらしい。
操は蒼紫の忠告に「あ、うん。そうだね」と返したが上の空に見えた。ただ、両手で頭を擦るように掻く。頭皮を刺激すると脳が活性化されてよいと書物にあったことを思い出すが操はそのようなこと知らないだろう。
「あのね、」
手を動かすことをやめたが、両手をべたりと額を覆うように貼りつかせている。そのために表情は読みとれない。
「あのー」
「どうした」
「えっと、明日のことなんだけど、」
女学校の友人宅へ泊りに行く。なんでも婚儀前に親しい友人を集めて未婚の夜を祝うのが西洋流らしくそれに倣って"ぱーてぃ"を開くとか。賑やかなことが好きな操は誘われて二つ返事をした。
「……私がいなくて寂しい?」
操は相変わらず両手で頭を押さえていたが、その隙間からチラリと蒼紫を見ている。
何故そのようなことを突然聞きだすのか不可思議に思いながら「ああ」と告げると、
「ホントに? 私がいなくて寂しい? 一日でも?」
「ああ、一日でも。お前の顔が見れない、と思うだけで寂しい」
蒼紫の答えに操は両手を下ろした。目には安堵の色を浮かべ、頬は少しばかり赤くなっている。
近頃、操は蒼紫に対して「自分を好きか」という旨のことを聞くようになった。不安からではなく恋人から甘い言葉を聞きたいという意図だ。それはかつての操にはなかった行動だった。再会して以降、否、幼き頃から操は自分が蒼紫を好きであることを告げ続けてきたが、蒼紫が操を好いているかを知ろうとしたことはない。ずっと幼い頃は純粋に自分の好きという気持ちだけで満足できていたからであり、娘になってからは色好い返事がこないかもとの自信のなさからであったが、今は言うようになった。変化を蒼紫はよいものと感じている。だから、多少は恥ずかしさもあるが聞かれれば己の気持ちを伝えたが。
「私も。蒼紫さまと離れて過ごすの寂しいよ」
蒼紫の表情は自然と緩む。可愛いことを告げる唇を高揚し朱に染まっている頬を撫でたい。愛おしさに胸が熱い。それを行動に移さんと腕を上げようとしたが、
「じゃあ、今夜は一緒に眠ってもいい?」
告げられた言葉は一瞬の空白を産んだ。
それはつまり――と考えるが操は大きな目でじっと蒼紫を見つめている。真っ直ぐ澄んだ眼差しには透明な清々しさしかないように思えて蒼紫の心を迷わせた。抱きたい、と己の気持ちと、操の真意とに差異はないのか。寝てもいいではなく眠ってもいいと言ったのは、純粋に添い寝するという意味合いであり"そういうこと"を誘っているわけではない。これまでのことを考えても操から抱いてくれと示したことはないし、おそらく今回も隠微さは含まないと考えるのが妥当である気がした。さればその通り同衾して眠ればよいのだが――傍にいるのに眠るだけなど蒼紫の方が承知できない。情けない話だが手を出さぬ自信がなかった。万一それで痕でも付けたら大変である。泊りにいくなら風呂にも入るだろうし、なんの拍子にそれがバレるとも限らず恥ずかしい思いをさせる。何より操にその気がないのにそういう誤解をして機嫌を損ねられ嫌われる可能性を考えれば
「……――いや、今宵は」最善の選択であると応えた。瞬間、操はさっと顔色を変える。青とも赤ともつかぬ雰囲気に蒼紫は己の出した結論は誤りであったと悟ったが、
「あ、あおしさまのバカ!」
捨て台詞を吐いて去っていく姿にしくじったと顔を歪めさせた。
操の部屋の前に立ち声をかけるが返事はない。部屋の明かりは点いている。
迷ったが勝手に入ることにして襖を開けた。操はこちらに背を向けて行儀よく床の上に座っている。小柄な身であるがより小さく見える。初めて自分から誘った――相当に勇気のいったことであろう――のに断られたのである。恥をかいたといたたまれなくなっているのだろう。今にして思えば先にあった「私がいなくなって寂しい?」という問いかけが誘惑しても応えてくれるかの前振りだったと気付くが。
傍まで近づき腰を下ろす。両手を膝の上で堅く握っているのが見えた。
「出て行って」絞り出すように告げられる。
「悪かった」謝るがそれは余計に操の羞恥を煽った。
「……別に、謝られることなんて何もないでしょ。どうして謝るの。何に謝るの。私は何もしてない」
全てをなかったことにしたい。俯いて拳をますます強く握りしめている。
蒼紫は小さく堅くなる身を無理やり膝に抱きあげた。操は何が起きたかわからなかったのか「うわっ」と声を上げて蒼紫を見た。
「よいか」顔を近づけて告げると、
「よくない」まだ状況がよく飲み込めない様子であったが腹立たしさで咄嗟に出るのは否定だった。
「よいな」しかし蒼紫はもう一度、有無を言わせぬ一言を被せると唇を重ねた。されば流石に何をされているか理解して抵抗する。蒼紫は構わずに長く深い口づけを落とす。操の開いた口から洩れる声の質が徐々に変化する。抵抗から、切なげな嬌声にと。そうして舌から力が抜ける頃ようやく蒼紫は顔を離した。目じりには涙が浮かんでいる。それを拭うように唇を寄せると放心していた操は気を取り戻したように、
「やめてよ! こんなことしたくないんでしょ」
「悪かった。俺は何もお前が嫌で断ったわけではない。痕でも着いたら明日恥ずかしい思いをすると」「いやだ、聞きたくない」
弁解も言い訳も聞きたくないと耳をふさいで目を閉ざし「出て行って」と繰り返す。無理もない話である。今更されても"同情"や"哀れみ"でされているような気がして悲しくなる。だが、操の頑なな態度に次第に蒼紫に火がついていく。
「そうか。お前がそういう態度なら、俺も好きなようにさせてもらう」
乱暴な理屈を言って、操を床の上に押し倒し耳をふさぐ両手を捕えて頭上に押さえこんだ。操は驚いて目を開けたが目の前に蒼紫の顔が見えてぎょっとしてまた閉ざした。その隙に唇を重ねられる。先程とは違いすぐに離されたが、代わりに頬から首筋と場所を変えて繰り返される。唇が触れるだけではなく舌先が肌を舐め上げて背筋に甘い痺れが駆け抜ける。操の手を押さえていた腕はいつのまにやら外されて長い指先が着物の衿にかかる。鎖骨が見えるとそこにも惜しみない口づけが。
「ん……や、いや。あ、痕がつくからってさっき言って……」
抗議の声などまるで聞き入れず宣言通り好きなように動く。やがて手は裾に到達し器用に裂いて細い足が露わになると膝から腿へ軽く触れるように撫であげた。それは堪えていた快楽の波を溢れさせ操の唇からしどけない声が。それでもまだ残っている理性が己の口を押さえさせ、もう一方の手が蒼紫の肩を掴んだ。
「あおしさま、やめて、こえが……」
その言葉には蒼紫も動きを止めた。屋敷の奥にある蒼紫の部屋は他の者と離れているが操の部屋はそうではない。周囲に声が聞こえると――否、それならば今までのやりとりも聞こえていたわけで何をしようとしているか知られているだろうが、やろうとしていることを知られるのと、実際にその声を聞かれるのとでは全く違う。明日からどのような顔をして会えばいいのかわからなくなると泣かれればやめるより仕方ない。
蒼紫は操から体を離し身を整えれば、操も鼻をしゅんとすすって起きあがり乱れた身を整える。終わると蒼紫は操を今一度膝に抱きあげた。
「戻ってきたら部屋に来い」
髪を撫で、頬を撫で、宥めながら言うが操は答えない。
「来ないなら俺がここへ来てもよいが。夜這いとは本来男が女の元へ行くものだ。次はやめんがそれでよいなら俺はかまわん」
「……そんなの脅しじゃない…」
恨みがましそうな眼差しで睨まれるが蒼紫は怯むどころか操の額に口づけて
「明後日が待ち遠しいな」
嬉しげに告げた。
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