恋愛初学者。シリーズ
破れ鍋に綴蓋
女学校の門を出て少し先、何をするでもなく立っている人物がいる。背が高く洋装を上品に着こなした男だ。
男が門の近くで立っていることはそれほど珍しいことではなかった。"婚約"している娘の相手が授業が終わる頃に迎えに来て、そのまま芝居を見に行ったりする。所謂"でーと"である。
そのような場合――多少噂になることはあれ――見ぬふりをするのが礼儀であると暗黙の了解だった。しかし今は、授業を終えて帰る女学生たちは件の男を遠巻きに見つめ、ひそひそと耳打ちしている。その男がやけに"いい男"だったからである。
誰を待っているのかしら?
お相手はどんな人?
年若い娘の好奇心を刺激し、ちょっとした騒ぎになっている。
その雰囲気を敏感に察知して、"好奇心"には人一倍溢れる操は何事かと門を出てその方向を見て絶句する――立っているのは間違いなく自分の婚約者だったから。
――ど、ど、どどどど、どうして……!
声にならない悲鳴が。
好奇心は強いが、自分が好奇の対象となるのは敵わない。随分勝手な考えだが、素直な気持ちである。否、昔であれば"大好きな蒼紫さま"をみんなに見せたいという思いを抱いていた。幼さ故の無邪気さとでもいうか、恋に恋している状況というか、素敵な恋人がいることを自慢したいと感じる子どもっぽさが確かにあった。しかし今はもう――"一線"を越えてから急激にそのような気持ちは消え失せた。人の目に触れ、噂になれば、厄介事を招く場合もある。恋愛は二人だけでする方がよい。と理解する程度には大人になった。それが。
目立つことを嫌う性分であるし、だからこれまで一度も来たことはなかった蒼紫が、どういうわけか学校の傍で立っている。
何かあったのだろうか。
緊急事態でも起きたのか。
操は心配になるが、しかし、それならば女学校内へ入り教員に話し操を連れだすだろう。門の外でのんきに立ってなどいないはずだ。
とかく、これ以上騒ぎが大きくならないうちに、と操は覚悟を決めて近寄った。
小走りに寄れば、
「操。」
浮き目立ちしていることなど僅かも気にとめていないらしく、いつものように名を呼ばれる。
「どうしたの?」
不審げに問うが、当人はやはり動じている風もなく、
「近くで商談があってな。お前の帰りと合いそうだったから待っておった」
「……待っておったって、そんな平然と……」
操はいささか眩暈がした。
近頃――東京から戻って以降、蒼紫の態度は明らかに変わった。変わり過ぎなくらい変わった。それは喜ばしいことではあったが、少しばかり困ることでもあった。振る舞いが真っ直ぐすぎるのだ。操に関することではすっかりと自制をやめてしまったらしく、時間がある限り傍にいようとする。空いている時間は操に使うと決めてしまっている様子であった。
「なんだ。迷惑だったか」
「迷惑じゃないけど……」
操とて蒼紫と一緒にいられるのは嬉しい。自分を大事にしてくれているのも――少しばかり方向性が違っている気もするが――わかっている。
しかし、時と場所というものがあるだろう。
この世には自分たち以外にも人が存在する。さすれば色々問題が起きることも。そういうことを配慮出来ない人物ではないだろうに――事実、以前、操が"まだ子ども"だった頃、人前でも"好きだ"と言ったり、抱きついたりという振る舞いをしていた時期があったが、それをしっかり咎めていたぐらいである。わからないはずがない。そうであるのに今は全くそれらを無視している。されば操は蒼紫の態度にどうしていいかわからなくなる。
それ故、一度、これは流石にどうかと思うと操は翁に相談した。すると翁は、
「人間には時期というものがあるからのぅ。"恋愛初期"というのはこういうもんじゃ。まぁ、そう懸念せんでもそのうち落ち着いてくるじゃろ」
高笑いとともに返された。愉快そうな雰囲気に「他人事だと思って!」とむっとしたが。
そうなのだろうか。落ち着いてくるのだろうか。
操にはいまいちわからなかったが、しかし時を待つより他に手立てはないようで、諦めて翁の言葉を信じることにしたのだが。
――ホントに落ち着いてくるのかなぁ。
再び疑問が。
「操?」
黙ったままの操を不思議に思ったか、蒼紫の大きな手が頬に触れた。
「うわっ」
思わず声がでる。それから慌てて自分の頬に触れた手を握り降ろさせる。
「ひ、人が見てるよ」
「だが、お前の様子がおかしいから熱でもあるのかと」
「熱を測るなら額でしょ!」
「それもそうだな」
納得して今度は額に触れてこようとするのを操は慌てふためいて止めた。
「……って、そういうことじゃないでしょ! 私はどこもおかしくないよ!」
「何をそんなに怒っている」
一方で蒼紫はしれっとした顔で告げる。それ故、操はからかわれているのだろうかと思う。もしかしてこうして私が"ぱにっく"になるのを見て楽しんでいるの? と。しかし、
「俺は気に障ることをしたか。それならば謝るが」
至極真面目な顔で真剣に言われるとからかってるのではないのだろうと判断せざるをえない。それどころか、その様子はどこか不安げである。操に嫌われてしまうのではないかという恐れを感じている。ということがわかる。
されば、一体、いつからかように情けない男になったかと、昔の蒼紫を知るものであれば――というより今、昔に関係なく、女の機嫌に右往左往するなど男のすることかと揶揄られても仕方がないが。操もこれが"自分が"惚れている相手ではないならば、女々しい男だと言っていたかもしれない。しかしながら、あばたもえくぼ、惚れた欲目である。そんな姿が"可愛く"も"愛しく"も見えて、これ以上責めることも出来きなくなる。
「怒ってないよ。……ちょっとびっくりしただけ。ごめんね?」
「そうか。ならばよいが」
安堵の色を見せる蒼紫に、操は困りつつも笑顔を返した。
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