恋愛初学者。シリーズ
贈り物。
最近、わかったことがある。
蒼紫さまが私の頬に触れるのは、甘えているんだって。
長い指。少し骨ばってごつごつしているけど、とっても綺麗。私は蒼紫さまの指が好きだった。それを"まっさーじ"するの。店のお客様宛てにご挨拶文をしたためるのも蒼紫さまの仕事だ。それが結構な量だったり。だから疲れるだろうなぁと思って、なんとなく始めたら日課となった。女学校から帰り一日の話を蒼紫さまにしに行くのだけれど、その時、手をとって疲れが和らぐように揉みほぐすの。
蒼紫さまは右利きだから、筆を持つのは右。でも、片方だけというのもなんだかなぁーと思うので両方する。もし「こちらはいい」と断られたらしないでいただろうけど、蒼紫さまは何も言わない。「はい、反対」と私が言うと素直に左手を出してくれる。
向かい合って、おしゃべりをしながら、指先のまっさーじ。考えれば妙な光景だけど、私には心満たされる時間だった。
「おしまい」
あまり長くし過ぎると、逆に疲れさせてしまうので、ほどほどのところで切り上げる。私が告げると、蒼紫さまは「すまないな」と短く言って手を引いた。
さて、と私は立ち上がろうとする。私がいては仕事の邪魔になるだろうし、私も夕方からお店の手伝いがある。その前に薫さんに手紙を書こうと思っていたのだ。
けれど。
「ところで、操。その前髪はどうした」
「え、あっ」
問われて、まずいっと右手で前髪を押さえる。
――ちゃんと元に戻るように水で濡らしたはずなのに、どうしてバレるの!?
慌てる私に蒼紫さまはもう一度、
「どうして癖がついている。朝はなかったな」
「……授業中に寝ちゃったの」
先生の声というのはものすごーく睡魔を呼ぶ。寝てはいけないって頑張るのだけれど、今日は惨敗した。机に突っ伏して眠ってしまった。幸い――と言っていいかわからないけど、先生に見つかる前に隣の席の子が起こしてくれたから大事には至らなかったけど、起きたら寝癖が。
こんなことが知られたら絶対怒られる。だから水で濡らして元通りにしてきたはずなのに……どうして蒼紫さまってこんなに目ざといの!? と、恨めしく思う。
私は正座して、両手を膝に置いて佇まいをなおす。
これから"お説教たいむ"だ。
せっかく女学校に行かせてもらっているのに、授業中に眠る私が悪いのだけど、叱られるのはやはり嫌だ。気が重い。視線は自然と俯いてしまう。けれど、
「なるほど。それで癖がついたのか」
――あれ?
声音には怒りの色はなかった。
それどころか優しげだ。おかしい。私はゆっくりと顔をあげる。
「……怒らないの?」
「俺のせいでもあるからな」
「え?」
「ここのところ、まともに寝かせてやらなかった。女学校がある日は控えよう」
告げられた言葉に私の心臓は破裂しそうになる。どうして蒼紫さまは平気でこういうことを言っちゃうのだろう。それもしれっと真顔で。恥ずかしくないの? と思うけど、顔色一つ変えなていない。恥ずかしいと思う私が変なの? と疑うほど普段通りだ。
「詫びに、櫛を贈る」
そして、今から店に買いに行くと立ち上がる。
「え、ちょっと、」
私も立ち上がり蒼紫さまの腕を引っ張り止めた。
「いいよ。いらない」
「何故だ」
「何故って、こないだ買ってもらったばっかりじゃない」
そう。先日。三日前。細部にまで繊細な飾りを施した見るからに高級そうな櫛をもらった。私には分不相応に思えて気が引けたけれど、とても嬉しくて大事にしている。それなのに、また櫛を買うなんてどうかしている。もしかして買ってくれたこと忘れたの? と疑問に思う。そうだったら悲しい。だって私はあの櫛をもらってすごくすごく嬉しかったのだ。
「お前はあれを持ち歩いてはおらんだろう」
返ってきた言葉は、私が考えていたものとは違った。
「え、ああ、うん。だって蒼紫さまが買ってくれたんだもの、落としたら嫌だし。それに装飾も細かいから走ったりしたら壊れたりするかもって怖くて。でも、朝はちゃんと使ってるよ?」
「だが持ち歩いてはおらんのだろう」
蒼紫さまはそれを繰り返す。
「持ち歩いてはないけど……」
「ならば、持ち歩けるものを贈る」
「って、いいよ。もったいない」
「お前の持ち物を買うのに何がもったいないものか」
そう言うと、ぐっと力を込めて私ごと連れて歩き出そうとする。もう買うと決めているらしい。私が必要ないと言っているのに聞き入れる気はないのだ。蒼紫さまはたまにこういう頑固な面を見せる。私は困ってしまう。だってそんなに櫛をもらっても使いきれないよ。だから私も今回は負けてはいけないと後ろに体重をぐっとかけて引きとめた。
蒼紫さまは振りかえって私を見た。
それからしがみつかれていない左手で私の頬に触れる。
「操」
名を呼ばれ、撫でられる。繰り返し繰り返し。それはまるで"懇願"しているように感じられて、だから私の胸は苦しくなる。そんな風にされたら嫌って言えない。でも、これって変だなぁっとも思うの。だって、私が何かを買ってほしいってねだって甘えているならわかるけど、どうして買う側の蒼紫さまがこんな振る舞いをするのだろうって。けれど、
「俺の贈った物を持ち歩くのは嫌か」
――あっ。
ずっと肌身離さず持っていてほしいんだ。
聞かされては私はようやく蒼紫さまの気持ちを理解した。同時に、泣きたいような切なさが込み上げてくる。そして、それをわかってあげられなかった自分の鈍感さを恨む。
「そうじゃないよ。……じゃあ、買ってくれる?」
蒼紫さまは私の頬を撫でながら、かすかに目を細めた。
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