恋愛初学者。シリーズ
惚気話。
あれはいつだったっけ。十三、四ぐらいかなぁ。蒼紫さまたちを探して一人旅をしている途中に私は警察官に尋問された。夕刻過ぎの暗くなった時間に一人で歩いている姿を怪しまれたのだ。
マズイことになったなぁ。
どうにか誤魔化さなくてはと焦るけれど、ビリっとした雰囲気のその人はなかなかの強者であることが伺い知れた。立ち居振る舞いが武芸をたしなむ人のそれだった。逃げる隙がない。どうしよう。このまま警察に連行されて京都まで護送されるとか? 嫌だよそんなの。と泣きたい気持ちでいたら
「あら、あなたどうしたの? その子は?」
通りかかったのは警察官の奥さんらしい。たぶんきっとこの"堅そうな"警察官より、奥さんに訴える方が難を免れる。直感に従い、私は必死になって話をした。
思惑はうまくいった。
奥さんは私が一人で旅をしていると知ると驚いて、とにかく今日はうちに泊まっていきなさい。何かと不安もあるでしょう。さ、遠慮なくくつろいでいきなさい。と旦那さんを押し切って、警察署ではなく自宅に招き世話をしてくれた。
夫婦は二人暮らしで子どもはいない。奥さんはどうやら子どもが出来ない体のようで、だから余計に"子どもの私"に対して思うことがあったのかもしれない。
「でもね、こればっかりはどうにもならないからねぇ。それにあの人が子どもみたいなものだから」
奥さんは笑った。
あの人というのは旦那さんのことだ。だけど私は奥さんの言葉がピンとこなかった。あの堅物そうな警察官が子どもみたい? ありえなーい。と思った。
だけど。
しばらくして帰宅してきた旦那さんはさっきとはまるで別人のように柔らかな雰囲気で奥さんに接した。お酒が入るとますますそれは強まり、私の目から見ても"甘えている"のがわかった。
本当にこの人はあのおっかない警察官と同じ人?
奥さんの前では牙の抜かれた虎といった感じに私は唖然とした。
「ねぇ? 子どもみたいでしょ?」
酔いがまわった旦那さんを床に寝かせて戻ってきた奥さんがまた言う。だけどそれはけして嫌がっている風には見えなかった。奥さんはふわりと美しい笑みを浮かべていたから。
私はますます混乱した。
だって――男の人が子どもみたいに甘えてくる姿なんてみっともないじゃない? 男子たるものいかなときも冷静沈着で、颯爽としているべきじゃない? それなのに。
「外ではしっかりしてても家ではダメ男なんていやじゃないんですか?」
自分の前でこそ格好よくいてほしいものじゃないの? と私は言った。
後になって考えれば実に失礼極まりない発言だった。面倒を見てもらっているのに、よくもまぁそんなことが言えたと思う。だけど、当時の私はとにかくこの旦那さんの行動が受け付けず黙っていられなかった。だけど、奥さんは少しも怒ったりせず、それどころか
「ふふ、そう? そうかもね。でも、いいのよ。普段は人一倍頑張ってるんだもの。私の前でだけは力を抜いてくつろいでほしい。人にはけしてしない態度を私には見せてくれることが愛しいって思うの。他の人がしたら絶対受け付けられないだろうなぁってことも、好きな人だと可愛く思うの。操ちゃんもいつかわかるよ。そんな人が出てくるよ」
奥さんはあまりにも幸せそうに言うので、私は何も返せなかった。
ただ、言葉に納得していたわけではない。だって私はこの時、すでに蒼紫さまを好きでいた。そして、想像してみた。蒼紫さまが子どもみたいにする様を。
――ないよぉ。
想像さえ出来ない。そんなこと蒼紫さまは絶対しない! いつだって余裕があって、頼りがいがあって、冷静で、完璧に格好いい! それが蒼紫さまだ。間違えても甘えたりなんてしない。そんな蒼紫さま見たくない。
やっぱりこの奥さんが変わっているんだ。いい人だけどね、ちょっとばかり変なんだ。人それぞれだし、それでうまくいってるみたいだからいいけどね。私はそう解釈した。
そして翌日、私は京都に連れ戻されないように朝早くにその家を出た。奥さんは私の行動などお見通しのようで玄関には「おむすび」と「探し人に会えるといいね」と手紙があった。
「蒼紫さま、入るよ?」
声をかけて中へ進む。蒼紫さまは机に向かっていたけれど、私が傍に行き腰を下ろすと帳簿から顔をあげた。目頭を手でほぐすように揉む。根を詰め過ぎて疲れたのだろう。
「少し休んでね」
持ってきたお茶を差しだす。茶菓子と一緒に。
「ああ。少し休む」
言うや、蒼紫さまはお茶には目もくれず、ごろんと私の膝に頭を乗せて横になる。近頃、私がお茶を運んでくるとこうして膝枕をするようになった。一番初めにされた時はかなりビックリしたけれど、今は慣れた。
だけど。
「駄目だよ。起きて」
「何故だ」
長い前髪を撫でるようにかきあげれば切れ長の目が現れる。ただ、その眼差しに宿る感情は少しばかり不服そうだ。私の咎めに対して不満なのだろう。
「だってお店忙しいんだよ。ホントは、お茶を持ってくるのだって止められたんだから。私が運ぶとしばらく戻って来ないから人手不足で困るって」
それでも蒼紫さまの顔が見たくてやってきたのだ。毎日毎日飽きるほど見ているのに何をいうのか、と呆れられながら。だから早く戻らないといけない。
「それに今日は新島夫妻が来るし、いつもより忙しいの」
「新島――ああ、お前が旅の途中で世話になったという夫婦か」
そう。"あの時"の夫婦とは親交がある。結局蒼紫さまと会えずに京都に戻ってから、心配させているかもしれないと手紙を書いた。
夫婦二人暮らしというのは融通がきくようで、色々と旅行を楽しんでいて、たまに京都を訪れる。その時は私に会いに来てくれる。
「うん。そう。とっても素敵な夫婦なんだよ。蒼紫さまも会ってね。私の旦那様になる人って紹介するからね」
蒼紫さまは寝そべったまま私の頬に手を伸ばしてくる。
その表情からはもう不機嫌さは消えていた。
「ね? だから起きて」
「あと五分したらな」
「五分って……そんなの寝ても寝なくても同じじゃない?」
私は言ったけれど蒼紫さまは嬉しそうに笑って目を閉じたから、それ以上は反対できなくなる。
「じゃあ、五分だけね」
「ああ」
そして私は眠る蒼紫さまの髪を撫でる。さらさらと流れる黒髪を手で梳かしていると、ああ、本当だ、と思う。絶対ありえないと思っていたし、そんなことされたら嫌だと考えていたはずだった。ずっと昔――甘えてくる男なんて無理と豪語していたのに。
『操ちゃんもいつかわかるよ』
奥さんの言葉は真実だった。
今は、よくわかる。奥さんが幸せそうに笑っていた気持ちも、とてもよく理解できる。そしてあれがとてつもない"惚気"だったことも。だからお返しに今回はたっぷりと、私の旦那様になる人の子どもっぽさを聞いてもらおうと思う。
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