恋愛初学者。シリーズ

雨音

 雨音が止まない。梅雨時期で三日降り続いている。
 蒼紫はゆるりと目を開けた。夏風邪で床についている。喉元に手をやればねっとりとした汗をかいていた。
 障子の開く音。入ってきたのは操だ。傍に座ると蒼紫は起き上がる。
「寝ていた方がいいよ」心配げな声には応えず操の顔に触れた。両手で顔を包み込み頬や鼻、唇を撫でまわす。物も言わず真剣な眼差しだ。
「ちょっと、くすぐったいよ」
 操は笑う。やめてよと促すが、ついには布団の中に引き入れ抱きこんだ。ぐっと強く抱きしめると深い息を吐き出す。
 見知らぬ様子に操は不安になる。
「どうしたの?」
「俺が、好きか」
 ようやく口を開いたかと思うと、意外なことを尋ねられた。
「好きだけど、」
「だけど、なんだ」
 蒼紫を見上げると鈍い色をした眼差しがある。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「……――嫌な、夢を見た」
「夢?」
 操を抱く腕の力が強まる。
 どのような夢を見たのか。東京の――観柳邸で非業の死を遂げた彼らの夢だろうか。今も、あのときのことが蒼紫の心に影を落としている。じめっとした季節と、体調の崩れと、心を弱らせるものが重なり思い出してしまったか。操は抱かれた腕に自らの手を重ねた。
「好いた男が出来たと」戸惑いがちに告げられたのは予想した内容とは違った。
 夢で、操は他に好きな男ができ、蒼紫の元を去ったと言う。
 蒼紫を好きだと思っていたのは錯覚で、本当は好きではなかったとまで告げて。
「……随分酷い夢を見たのね」
「ああ」
「それで、甘えたさん?」
 重ねた手を撫でる。ゆっくりと落ち着かせるよう。
 蒼紫は操の肩に顔をうずめた。
「私がいなくなって辛かった?」
「どうすればよいかわからなかった。そこで目が覚めて、お前が入ってきた。あれは夢であったかと安堵したが、」
 本当に夢だったのか、心細さに狩られた。
 蒼紫は強くない。日頃は見せぬように振舞っているが、一つ崩れれば心が揺れ動く。
「蒼紫さま」操は蒼紫の髪を撫で、耳元に口づける。「好き」
 囁きに蒼紫が動く。顔が近い。
「大好き」今度は唇に口づける。
「操。」離されると、蒼紫からもう一度。
 重なる唇が愛おしい。合わさっては離れ、離れては合わさる。
「こんなに好きなのに、そんな夢見るなんて酷いよ」
「すまない」
「いや。許さない」
 合間に交わされたが、次第に行為に夢中となり互いの熱っぽい息遣いのみとなる。
 やがて口づけだけでは足りず、すいと操の身を床へ横たえる――しかし、
「"すとっぷ"」蒼紫の唇に掌をくっつけて制する。
「なんだ」いささか不機嫌に返せば、
「これ以上は駄目だよ。風邪引いてるんだから大人しく寝てなきゃ」
 操の言い分は最もだったが、それでも蒼紫は顔を寄せて頬に唇を這わせる。
「……ここまできてやめろとは酷というものではないか」
 耳元に吐息とひんやりとした唇が触れて操はこそばゆく笑いながらも、
「酷じゃないよ。体のためでしょ? ……だいたい、朝は風邪がうつるから部屋にも入ってくるなって言ったのは蒼紫さまじゃない」
「朝とは事情が変わった」言いながら操の頬や首筋に小さな口ずけを落とす。その仕草に切羽詰まった焦燥はなかった。ただこうして戯れていたいのだろうなぁというのが伝わり、されば操は蒼紫を可愛く思う。普段甘える素振りを見せぬ男が体調を崩した気弱さからか、嫌な夢を見たと言ってじゃれてくる。その様は愛おしく可愛い。十も離れた年上の男であっても。
「風邪が移ったら俺が看病してやる」
「蒼紫様が?」
「ああ、つきっきりで」
 耳元で、低く甘く囁かれれば操はぞくりと身を震わす。
 一日中、傍にいて世話を焼いてくれる――それはとても魅力的な提案に思えて仕方ない。だが、
「それでも駄目だよ。お店の手伝いだってあるんだから。そこどいてよ」
「俺といるより他所の男に愛想振りまく方が大事というのか」
 内容とは裏腹に言葉に棘はなかったが、滅多な事を言わぬ蒼紫のわかりやすい悋気にたまらなくなって操はかすめるようにすっと口づけた。しかし操にも操の役割がある。いつまでも遊んでいられない。
「もう、子どもみたいなこと言わないでよ」起き上がるとすんなりと解放してくれたが、
「お前は酷い女だな」
「酷いのは変な夢を見た蒼紫さまでしょ?」
 言い返せば黙るかと思ったが、
「治ったら覚えていろ」
「覚えていろって……蒼紫さまは私に酷いことなんてしないでしょ?」
「ああ、俺からはしない。お前がしてくれとねだるのだろう」
 サラリと告げられたが操はいろいろ思い出してか途端に顔を赤らめる。
「今度は酔っぱらいオヤジみたいなこと言って!」
「そうか」蒼紫は乱れた操の着物を整えてやりながら答える。
「そんなことばっかり言うならもう様子見に来てあげないからね」
「つれないことを言うな」怒りの治まらぬ操の頭を撫でまわしながらも顔は嬉しげだ。何を言っても何をしても暖簾に腕押し。操から本気さを感じないためだろうが。
 操はついに怒ることを諦めて床から這い出し蒼紫を寝かしつける。意外と素直に横になったがそれでも操に触れようと腕を伸ばすので手をとると布団の中へ押し込む。
「じゃあ、私、行くからね。ちゃんと寝てないとダメだよ? 変な夢も見たらダメだからね」
 言い終えると操は部屋を後にする。
 パタパタと遠ざかる足音と降り注ぐ雨音が響く中、蒼紫はほんのりとした笑みを口元に浮かべた。