その名に込めて。シリーズ
蒼紫ver
恐怖を感じたことはなかった。
闇に身を置き、命のやりとりを繰り返した日々において、任務遂行の重圧に緊張することはあれ、一度も恐怖を感じたことはない。どこかで終わりを望んでいたのか。この生涯に、未練などなかった。それ故に、無縁の感情だったのだろう。しかし。
志々雄一派との死闘の末に、比叡山から葵屋へ。
足取りが重い。怪我のせいばかりではなく。心が。広がる掴みどころのない靄。これが憂鬱というものか。そして、その奥に流れる感情――逃げ出してしまいたいと。恐怖。まさしくそれは、初めて味わう恐怖心である。
己の行いが、誤りであったと。
抜刀斎の言葉通り、彼の四名を悪霊にしていた。
現実を直視できず、誤魔化し、精神の袋小路に自ら入り、道を踏み外した。突き付けられた真実は痛みを伴うものではあったが、やけに頭が冴え、見えずにいたものも見えはじめた。俺は、償わねばならない。だが、それをどのような形で行うか。今度こそ正面から受け止めねばと。それはもう。
そして、葵屋へ向かっている。
抜刀斎の情報を得るために、手にかけたかつての同胞の元へ。
己が忌み嫌った「裏切り」を、自身がやってのけるという醜態。彼らにとって自分は憎むべき相手であろう。誇りも信念も捨て、修羅のごとく目的遂行した。それでいいと。刹那に身を置いた結末が、自責の念を濃く滲ませる。何よりも。
『失せろ。二度と俺の前に姿を現すな』
誰よりも俺を慕っていた娘。
誰よりも幸せであれと俺が願った娘。
その娘の目の前で、俺は。
それでも俺の名を呼び、追いかけてこようとする。「蒼紫さま」と告げる声には、未だに親しみが含まれていた。血の海に沈む翁を目の当たりにしても、事実を理解できないのだろう。現状を否定する言葉を求めていた。その姿に、吐き捨てた言葉。そのまま、黙って去ることも出来たはずが。傷つけた。傷つけねばならなかった。金輪際、関わることはないと。その思慕ごと切り捨てた。彼女のために。否、俺自身のために。あの時、俺の行く末も完全に定まったのだ――未来などないと。必要ない。抜刀斎を倒し、何もかもを終わらせる。それが。
生きて、再び、葵屋へ。彼女のいる場所へと。
どの面下げて、向かうのか。その目に映る自分がいかようであるか。
会えぬ。操にだけは、会えない。
なれど、
『お前を必ず連れて帰ると約束した』
『あの真っ直ぐな涙に応えてやれるのはお前しかいない』
告げられた言葉が消えてくれない。
不安と恐怖に襲われながら、突き動かされているのもの。それが、いかようなものか。酷くいたたまれぬ気持ちに陥る。己の自惚れと、厚顔無恥さに。それでも、一歩と近づいていく。
月が、高く。
傷ついた身を包み込むように、光が降り注ぐ。
それを頼りに進めば、やがて、見え始める灯といくつかの息遣い。
最初に気付いた人物は、声を上げることはなく。ただ、灯りが地面に落ちるのが見えた。投げ捨て、こちらに駆け出してくる。言葉もないまま無心に、ひたすらに、迷いも、躊躇いも、何一つとしてないような。
続いて、「剣心」と声がする。反応して、意識のないはずの抜刀斎の体が一瞬揺れたように見えた。気のせいだったのか。否、間違いない。それは抜刀斎を抱きかかえる相良も感じたようで、「なんでぇ」と皮肉ったような、だが僅かに安堵した呟きを洩らし、声の方へ一層歩みを進めた。だが、俺は一歩も動けなかった。これ以上、ここから。
真っ先に駆け出してきた人物は、すぐそこまで近づいており、先に進む抜刀斎と相良の傍をすり抜ける。
いや、お前は、その二人にも何か言うべきではないのかと――のんきなことを思った自分がわからない。そのような余裕などないはずが。ただ、他は何一つとして目に入っていない一途さを、受けとめても良いものか迷うばかりで。伸ばされた腕が、掴める距離まで来ても、答えは導き出せず。しかし、己の意思とは無関係に、俺はその手を捕らえる。
飛び込んできた体は小柄なものであるが、その衝撃は、予想していたよりずっと重く大きく、態勢を崩し後ろへ倒れる。負傷しているとはいえ、情けなく、それでもかろうじて受け身をとり上半身を起こせば、更なる衝撃。首元に抱きつかれたのだとわかる。今度は態勢を崩すことはなかったが。
泣いている。の、だろう。肩に顔をうずめているので確認は取れないが、体が震えている。
この身を、どうすればいいのか。
幼き頃にしたように、抱きしめ返してやればいいのか。
迷いながらも、小さく揺れる背に手を回せば、抱きついてくる力が強まった。瞬間、知った匂いがした。忘れていた、柔らかで、懐かしき香りに体の力が抜け落ちる。
言わねばならぬことがあるはずだった。言葉にしたところで、過去を取り返せない。それでも告げねばならないはずの言葉が。それが、何も。一切出てこずに。ただ浮かぶのはその名のみ。一体、何年ぶりになるのだろうか。二度と呼びかけることはないと思っていた。これが許されるのか。しかし、感情を留め置く術を知らずに、込み上げる衝動のまま俺は、
「操。」
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